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最終章 輝く花にくちづけを

4話 妻であるために

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  客室の窓をポツポツと濡らす雨音に気がついて、ユリナはふと顔を上げた。今日は朝から生憎の曇り空だったが、ついに降り始めたようだ。
  空を見上げて、小さくため息を吐く。の事は最高の笑顔で出迎えたいと思っていたのに、この心も、空模様も、今はどんよりと濁って覇気がない。暗く曇った表情も、嘘で取り繕った笑顔も、あの子には見せたくないのに。あの子は賢い子だから、きっと全部見抜かれてしまう。
  けれど、そうやって抱え込んだ不安は、全て余計な心配だったのだとすぐに気がついた。
「おねえさん!」
  その声を聞いた瞬間、心が一瞬で晴れの色に染まっていくのが分かる。一緒に過ごした時間はそんなに長くはなかったけれど、いつの間にかユリナの中で、彼女はずいぶん大きな存在になっていた。
「エマ! おかえりなさい!」
  おかえりという言葉が自然と口をついて出た。そんなユリナの言葉に、エマが少し恥ずかしそうな表情ではにかむ。
「……ただいま」
  彼女もそう返してくれた事が、何よりも嬉しい。
「雨の中大変だったわね。濡れなかった?」
「大丈夫、おにいさんが呼んでくれた馬車でここまで来たから! ねえ、トム」
  以前よりも少し髪が伸びて、小綺麗な学校の制服を着たエマが、そう言って振り返る。
  エマに声をかけられ、彼女から少し離れて客室の入り口辺りに立っていたトムが、ユリナ達の方にちらりと目をやって肩をすくめた。
「そーだな。ありがとう、おっさん」
「感謝をする気があるのか無いのかどっちなんだ、お前は」
  窓際の椅子に腰掛けて、ユリナ達のやり取りを見守っていたアランが呆れた声を上げる。
  そんなアランの方を振り向けないまま、ユリナはそっと視線を落とした。
  アランに誘いを断られた日から、彼とはずっと気まずいままだった。最近のアランは帰りが遅い事もあって、顔を合わせる機会も以前より減ってしまったし、このままでは良くないと分かっているけれど、それならどうすれば良いのか。自分の気持ちに聞いてみても、答えは出ない。
  アランの方はどう思っているのだろう。なんだかまた、彼のことが分からなくなってしまった。
  そうやって言葉にしない思いが伝わるはずもなく、アランはこちらを気にする様子もないまま席を立った。
「まったく……そもそも今日は、お前のために集まったようなものだろう」
「おれじゃなくてエマのためだよ」
  フン、と鼻を鳴らして、トムがアランを見上げる。そんな二人を見比べて、エマが首を傾げた。
「わたしのため、ってなに?」
  エマには今日、久しぶりに顔を見せに来て欲しいとだけ伝えている。けれど本当は、エマのためのドレスを仕立てて欲しいとトムに頼まれて、馴染みの仕立て屋とエマをここへ呼んだのだ。いつの間にか、そんな相談をできるくらい、トムとアランも仲良くなっていたらしい。
「今日はね、エマ。トムとアラン様から、あなたに贈り物があるんですって」
「わたしに……?」
  きょろきょろと三人の顔を見回すエマに微笑みかけた、ちょうどその時、部屋の中にノックの音が響いた。その音に答えたすぐ後に扉が開き、凛として涼し気な女性の声が聞こえてくる。
「こんにちは、伯爵。本日はこのマドリーン・クローサーにご依頼頂き、誠にありがとうございます」
  ラスタに案内されて部屋に入って来たのは、豊かな白髪を美しく結い上げた、老齢の貴婦人だった。


「マドリーンさん、今日はよろしくお願いします」
  そう言って、ユリナは仕立て屋であるマドリーンに軽く頭を下げた。この家に嫁いだばかりの頃、彼女にドレスを仕立てて貰った事がある。マドリーンとはその時に知り合ったのだ。
  ユリナとマドリーンでは孫と祖母ほども年が離れているはずだが、彼女の物腰はとても上品で、仕事ぶりも丁寧で誠実だという印象を受けた。良い職人との伝手が多いのは、アランやグランツの人柄によるものなのだろう。
「ミス・クローサー、そちらは?」
  マドリーンの後ろで荷物を抱えて立っている青年に視線をやって、アランがそう訊ねた。二十代半ばくらいと見られる彼は、中肉中背といった体格で、黒に近い茶色の癖毛がところどころ外側に跳ねている。その目鼻立ちにはあまり特徴がなく、言ってしまえば印象に残りづらい容姿だ。
  そんな彼の方を振り向いて、マドリーンが優雅に微笑む。
「伯爵には、まだご紹介していませんでしたね。……エディ」
  マドリーンに名前を呼ばれ、青年が慌てた様子で姿勢を正した。
「は、はじめまして。見習い職人のエディと申します」
  やや上擦った声でそう名乗って、エディという青年はぺこりと頭を下げた。なぜか彼は、アランとだけ目を合わせようとしない。また見た目のせいで怖がられているのだろうか、この人は。
「彼はまだ若いですがとても優秀で……いずれは暖簾分けをと考えているんです。今はこうして付き人として、私の仕事を見せているところですわ」
  そう言って、マドリーンはエマの方へ視線を向けた。
「今日はこちらのお嬢さんがお客様……ということで間違いはありませんか?」
  マドリーンに問われ、エマが困ったように、自らの隣に立つアランを見上げた。
「おにいさん……?」
「先日、トムに仕事を手伝って貰ってな。これはその報酬代わりだ」
「トムが? ……だったら、トムの服を作って貰ってください。わたしは何にもしてないし……」
「もちろん、それもそのつもりだ。ただ、エマのドレスは今すぐ必要だろう。トムの礼服はその後だ」
  そのアランの言葉を聞いた途端、今度はトムがぎょっとして顔を上げた。
「待てよ、おれの服まで作ってくれなんて頼んでないぞ。そんな金ねえし……」
「お前から金を取るつもりはない。だが、仕事で良家を出入りするなら、お前だってまともな服の一着や二着、持っておいても損はないだろう。ついでに受け取っておけ」
  そう言われても返事をしないトムを見て、アランが眉を寄せた。
「……質に入れるなよ」
「しねーよ、そんなこと」
「だったら目を見て言え! まったくお前は……」
  ため息を吐いて、アランはマドリーンの方へ向き直った。トムと言い合っている時のアランは、なんだか子供のようだ。
「すまない、そういう事情だ。先日も伝えた通り、この子の服を急ぎで仕上げて欲しい。もちろんその分の代金は払う」
「ええ、かしこまりました。では、お嬢さんの採寸から始めましょうか」
「ああ、隣の部屋を使ってくれ」
「ありがとうございます。エディ、貴方はその間に、このお部屋でお坊ちゃんの採寸を済ませておいてちょうだいね」
「あ、は、はい!」
  アラン達のやり取りを上の空で見守っていたエディは、慌ただしく鞄の中に手を入れて、採寸の道具をマドリーンに手渡した。マドリーンは優秀だと言っていたけれど、なんだか頼りない印象の人だ。
「ではお嬢さん、こちらへ」
「はいっ」
  緊張しているのか、まっすぐに背筋を伸ばして、エマが元気よく返事をした。彼女ひとりでは不安だろうと、ユリナもエマの後ろに続く。その直前で、アランに呼び止められた。
「少し後になるでしょうが、ユリナさんも何か仕立てて貰ってはどうですか」
「えっ……ですが、つい先日も一着作っていただいたばかりですし」
「何着あっても困らないでしょう」
  当然のように言われ、一瞬返す言葉を失った。近くに立っていたトムが「これだから金持ちは……」と呟いたのが聞こえたが、正直なところ同感だ。
「い、一度にお願いしてはマドリーンさんも大変でしょうし、私は結構です」
「そうですか?」
「ええ。ですからお気遣いなく」
  まだ何か言いたげなアランを遮って、慌てて隣の部屋へ移動する。こうして話してみれば、アランはいつも通りに優しいままで、なんだか調子が狂ってしまう。もしかしたら、私は少し考え過ぎているのかもしれない。夜光祭のことだって、ただ忙しいから断られただけなのだろう、きっと深い意味はないはずだ。
  そう自分に言い聞かせると、少しだけ気持ちが軽くなった。そのまま隣の部屋へ続く扉を開けると、マドリーンは既に採寸の準備を始めていた。
「わたし、お洋服を作ってもらうなんて初めてです」
  頬を少し紅潮させて、エマが言う。なんだかんだ言いながらも、その瞳が輝いている事に気がついて、微笑ましい気持ちになる。当然の事だが、この子も年頃の女の子なのだ。
「よかったわね、エマ。マドリーンさんなら、きっと素敵なものを作ってくださるわ」
「うん!」
  嬉しそうに答えるエマに穏やかな笑顔を向けて、マドリーンが巻尺を手にエマの近くへ膝をついた。
「さあ、お嬢さん。少しの間失礼しますよ」
「はい!」
  ピンと背筋を伸ばしたエマの腕に巻尺を当てて、マドリーンは優しげに目を細めた。その視線は、肩にかかるくらいに伸びたエマの髪に向けられている。
「とても珍しい色の御髪おぐしですね。国王陛下の御髪には青が混じっていますけれど、お嬢さんと、あちらのお坊ちゃんの御髪は純粋な黒……こんなお色は初めて見ましたわ。異国の方の血を引いておられるのかしら」
  マドリーンの問いに、エマは少し困ったように首を傾げた。
「ええと……よく分からないんです。お父さんは初めからいなかったし、お母さんもわたし達が小さい頃に死んじゃったから……」
  エマの答えに、マドリーンは「そうだったのですね」とだけ返して、顔色ひとつ変えない。
「せっかくですから、この綺麗な御髪が映えるものをお作りしましょうね」
「あっ、ありがとうございます! ……あの、でも、わたし、お洋服の事とか詳しくなくて」
  助けを求めるようにユリナの方を見上げるエマが可愛くて、つい笑みが零れてしまう。
「大丈夫よ。マドリーンさんなら、どんなものだって素敵に仕上げてくださるわ。だからあなたは、自分が好きだって思うものを、そのまま伝えていいのよ」
「好きなもの……?」
  大きな目を瞬かせるエマに頷き返す。
  彼女ならきっと、どんなドレスだって似合うだろう。エマが何を選ぶのか、どんなドレスが出来上がるのか、今からとても楽しみだ。
  こうして自分に懐いてくれるエマが、ユリナは可愛くて仕方なかった。彼女は年の離れた妹のようでもあるし、これから先、アランとの間に娘が産まれたら、きっとこんなふうに……なんて考えてしまうのは、少し気が早すぎるだろうか。

  その後、採寸を終えたエマ達が、元の部屋で生地を選ぶのを見守っていると、後ろに控えていたエディにそっと声をかけられた。
「あの、伯爵夫人……少しよろしいですか」
  小声でそう言って、エディが隣の部屋を示す。一体ユリナになんの用があるというのだろう。
  困惑しながらアランの方を見やったが、彼は相変わらずトムと何かを言い争っていて、こちらの事には気がついていないようだ。仕方がない。
  他の皆に気づかれないように、そっと輪を離れて、エディと共に再び隣の部屋へ移動した。
  あちらの客室にはそれなりの広さがあるけれど、こちらの部屋はそれと比べれば狭く、小さなテーブルと、二人分の椅子しかない。
  二人きりで話すのには向いた部屋だが、エディは椅子に座ろうとするでもなく、立ったまま真剣な面持ちでユリナの方へ向き直った。
「エディさん……でしたわね。わたくしに何のご用ですか」
  少し警戒しながら促してみるが、エディは何かを探すように視線をさまよわせて、なかなか言葉を発さない。不審に思ったユリナがもう一度訊ねようとすると、エディはようやく意を決した様子で口を開いた。
「そ、率直にお伝えします。クロムウェル伯爵が……貴女の旦那様が、貴女以外の女性と関わりを持たれている事を、ご存知ですか」
  隣に聞こえてしまわないよう抑えた声で、それでもはっきりと告げられた言葉に、一瞬何も考えられなくなった。
  関わり……って、どういうこと? それはつまり……あの人に、恋人がいるってこと?
「……なんの根拠があって、そんな事をおっしゃるんですか」
  平静を装ったつもりだったが、どうしようもなく言葉尻が震えてしまう。そんなユリナに対するエディの表情は、とても冗談を言っているようには見えなかった。
「その、僕の勤め先でもある、マドリーンさんのお店がある辺りには、貧民街のような場所がありまして……そこにある娼館の近くで、娼婦のひとりと伯爵が、親しげに話している様子を見てしまったんです」
  娼館……? 最近帰りが遅いのは、そこに通っているからなのだろうか。私にほとんど会いに来てくれないのは、その人のところで……
  突然、足元が崩れ去ったような錯覚に襲われ、慌てて椅子の背もたれに手をかけた。
  あの人が、他の女性と? ……嫌だ、そんなこと。想像したくない。
  嫌だ、なんて、どうしてそんなふうに思うのだろう。いつかこんな日が来ると、分かっていたはずなのに。
「す、すみません、突然こんなお話をしてしまって。……ですが、どうしても貴女にお伝えしなくてはいけないと思ったんです。その、貴女から伯爵を説得していただけたらと……」
  青年の声がどこか遠くに聞こえる。説得なんて簡単に言うけれど、私からあの人に何を言えるって言うの。
「……お気遣い、ありがとうございます。けれど、私から彼に言えることなんて、何もありませんわ」
「え?」
「あの人が何をしていても、誰と会っていても、私にそれを咎める権利はありませんから」
  ユリナのその答えが、想定外のものだったのだろう。エディが動揺した様子で息を呑んだ。
「権利がないなんて……そんなことは無いでしょう! 困るんですよ、貴女にそんなことを言われたら、ミランダが……」
「ごめんなさい。もうこの話は終わりにしてください」
  これ以上は、何も聞きたくなかった。強引にやり取りを打ち切って、エディの顔を見ずに扉へと手をかけた。
「ユリナさん? そんなところで何をしていたんですか」
  部屋を飛び出した途端にかけられた、聞き慣れた優しい声。だけど今は、どんな刃物よりも鋭利に尖って、胸が抉られそうだった。
「……やっぱり私も新しいドレスを仕立てていただきたいと思って、エディさんにお願いしていたんです。そうですよね、エディさん」
「えっ? あ、は、はい、そうなんです」
  ユリナの意図を汲み取って、エディが慌てて頷く。そんな弟子の姿を見て、マドリーンが少し嬉しそうに微笑んだ。
「良かったわね、エディ。お得意様に直接仕事をいただけるなんて」
「マドリーンさん……」
  師匠から素直に褒められて、エディは若干気まずそうだ。
「ではエディさん、詳しい話はまた後日させていただきますわ。……今日は少し疲れてしまったので、部屋に戻ります」
  一方的に告げて、アランの横をすり抜けて廊下へと飛び出す。子供達が心配そうにこちらを見上げているのが分かったが、それに答える余裕はなかった。
  何も考えたくなくて、足早に薄暗い廊下を進む。けれどすぐに息苦しくなって、壁に手をついて蹲った。
  誠実なあの人のことだから、相手がどんな立場の女性でも、きっと真剣に想い合っているんだろう。夜光祭にも、その人と行くのかもしれない。そうだ、だから私とは行けないと言ったんだ。
「やだ……どうして……」
  俯いた瞳から、涙が次々に溢れ出して止まらなかった。
  愛なんて必要ない。結婚なんてただの契約だから、役目を果たせればそれでいい。何度も何度も、自分にそう言い聞かせてきた。
  だけど、そんなのは全部、自分をごまかしていただけだったのだと、思い知る。
  本当は、愛されたかった。絵本で見たお姫様みたいに、私一人だけを想い続けてくれる誰かに愛を告げられたいと、心のどこかで、そう願っていた。
  最近では、アランならユリナのたった一人になってくれるのではないかと思うようになっていた。だけど、そんな夢はもう終わりだ。
  あの人が向けてくれる優しさは、もう私だけのものじゃない。
「…………っ」
  嗚咽が洩れないように、唇を強く噛み締める。
  支えになると決めたはずだ。アランがどんな道でも選べるように。
  だったら、こんな感情は誰にも知られてはいけない。悲しさも、寂しさも、涙も。全部全部、一人で呑み込めるくらい、強い女でいなくてはダメだ。
  お姫様でも、恋人でもない。私は、あの人の“妻”なのだから。
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