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最終章 輝く花にくちづけを

3話 路地裏の女

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  夕暮れの街は燃えているように赤く染まって、それなのにどこか寒々しい空気をまとっている。きっと夜の訪れが近いからだろう。
  石畳の上に濃い影を落としながら、アランはグレストの北区を足早に歩いていた。トムとの一つ目の約束を果たすため、贔屓の仕立て屋に話をつけに行った帰り道だ。
  表通りに並ぶ商家は徐々に店じまいを始め、整備された道を行き交う者はほとんどいない。今はこうして物寂しい夕方の街並みも、一週間後の夜光祭の日には、光で満たされ華やぐのだろう。
  そんな事を考えて、アランは足元に視線を落とした。
  彼女に……ユリナさんに、また悲しい顔をさせてしまった。
  あの場での約束くらいすれば良かっただろうか。だが、当日まで何が起こるか分からない以上、軽率な約束はするべきじゃない。その方がきっと傷つけてしまう。……そう思ったのに。
「…………」
  いつも、何をしても裏目に出ている気がする。あの時どうするのが正解だったのだろう。今さら考えても仕方がないのに、気を緩めると同じ事ばかりが頭の中を巡る。
  小さく息を吐いて、アランは足元に落としていた視線を上げた。目の前にあるのは、トムが言っていた“北区のデカい靴屋”である。郊外には未だ文字の読めない住民も多いため、店の看板に文字が書かれることは少ないが、ここは扉の上に吊られた木の看板に、店主の名前を冠した店名が彫られている。当たり前に読み書きの教育を受けてきたような身分の客しか来ないという事だ。
  しかし、そんな店も今は扉を硬く閉ざし、店内の灯りも全て落とされている。トムは確か、ここの裏手で例の魔導石を見つけたと言っていた。
  靴屋の角を曲がると、すぐそこに短い石段があった。たかだか三段程度の段差を下って、その先へと歩みを進める。靴屋の真裏はまだ少し開けていたが、奥へ向かう毎に少しずつ道幅は狭くなり、地面に落ちる影の割合が増していく。
  そのまま更に先へと進み、石造りの細長い建物が密集した路地へと足を踏み入れた瞬間、はっきりと空気の匂いが変わった気がした。
  土っぽく乾いた大通りの空気とはまるで違う。酒と、煙草と、汗の臭い。姿は見えないが、大勢の人間の気配が、ここには満ちていた。
  ふと視線を感じて顔を上げると、頭上にある窓が慌てて閉められるところだった。
  明らかに警戒されている。身なりのせいか、容姿のせいか、それとも見慣れない顔を避けているのか。
  足元に転がっている空の酒瓶に視線を落とす。瓶の口はまだ濡れていて、そこで羽虫が溺れて死んでいた。トムは慣れていると言っていたが、よく子供ひとりでこんな場所を行き来するものだ。パウエルはこの事を知っているのだろうか。
  ひとまずトムが通って来たであろう道筋をなぞってみようと、目線を下げたままで路地の奥へ進む。だがその直前、こちらへ近づいてくる人影があった。
「ねえ、お兄さん。どこに行くの?」
  足元にばかり気を取られていたせいで反応が遅れた。やけに艶っぽい女性の声に思わず足を止めたと同時に、何者かに袖を掴まれてしまう。
「あらお兄さん、良い服着てるのね。……ね、アタシとちょっと遊んでかない? すぐそこにお店があるの」
  突然現れた女性は、そう言ってアランの袖を引きながら、建物と建物の隙間にある、道とも言えないような細い道を尖った顎で示した。どうやら彼女自身も、そこから姿を現したようだった。
  先の見えない薄暗がりから、目の前の女性に視線を戻す。肩にかかるくらいのパサついた茶髪と、骨の形がはっきり分かるほど白く細い首。ざっくりと大きく胸元の開いた服を着た彼女の言うが何を指すのか。さすがにその意味が分からないほど、アランは世間知らずではなかった。
「……すまないが、他を当たってくれないか」
「他の人なんてどこにいるのよ。いいじゃない少しくらい」
「悪いが、そういう訳にはいかないんだ……離してくれ」
「イヤよ」
  断りの言葉を重ねても、女性が引く様子は全く無い。困ったことになってしまった。無理矢理振りほどいたら怪我をさせてしまうかもしれないが、かと言って、いつまでもここでこうしている訳には……
「ラナ、断られてんだからやめな! ムリな客引きはすんなっていつも言ってんだろ!」
  その時、突如路地に響いた別の女性の声に、ラナと呼ばれた彼女とアランは、同時に同じ方へ顔を向けた。
「げ。ミランダ……」
  露骨に顔を顰めるラナに、金色の髪をひとつに結んだ大柄な女性が、つかつかと歩み寄ってくる。
「げ。じゃないっての。見られてマズいと思ってんなら最初からやめときな。ほら、さっさと店に戻りなって」
  金髪の女性……ミランダに追い払われる形で、ラナは店とやらがあるらしい方へ、渋々引き上げて行った。その背中を見送った後、ミランダはこちらに視線を移して口を開いた。
「悪かったね、しつこくしちまって。けど多目に見てやってよ。あんたみたいな身なりのいい男が来るのは珍しいからさ。あの子もきっと、夢を見たくなったんだ」
「……夢?」
  その単語が少し場違いに思えて、つい聞き返した。そんなアランの方を見上げて、ミランダは大きな口をニッと吊り上げて笑う。
「もうだいぶ前の話だけどね、この辺で働いてたあたしらみたいな商売女がさ、ふらっとやって来た金持ちの色男に見初められて、店を辞めて行った事があったんだよ。めったにある事じゃないって分かってるけど、実際にそんな話聞いちゃ、憧れるのも仕方ないだろ? あたしらだって、女なんだからさ」
  そう言って、ミランダが軽く肩をすくめる。アランの立場からすると、何とも言い難い話だった。
「……その金持ちの男というのは、どういう人物だったんだ?」
  話を逸らすように、そう訊ねてみる。とはいえ、ただ適当に話を振ってみた訳でもなかった。
  この辺りでは珍しいという身なりのいい男。そして、トムが見つけた魔導石の事。
  この場には少々不釣り合いな二つの出来事に、なにか関わりがあるのではないかと思ったのだ。
  だがしかし、そんな微かな期待も虚しく、やや気だるげに腕を組んだまま、ミランダはこう言った。
「どうって言われてもね……もう十年以上も前の話だし、そんなの自分の客だったとしても覚えちゃいないよ。あたしも当時は下働きの小娘だったし、噂に聞いた程度だったからね」
「十年……? そうか……それはまた、ずいぶん昔の話だな」
「まあね。こんなとこじゃ娯楽も無いからさ、ちょっと変わったことがあると、いつまでも話題にしちまうんだよ」
  薄い眉を片方跳ね上げて、ミランダはそう言った。
  さすがに十年も前の事なら、その『金持ちの男』が魔導石の持ち主だという線は無さそうだ。やはり、そう簡単に全てが結びつく訳も無いか。
「なに? 兄さん、もしかして人探し中? だったら、王都の娼館にでも行った方が良いと思うけどねえ……表通りの商人連中だって、わざわざそっちに繰り出して行くんだから、金持ってる男は普通こんな安い店になんて来やしないよ。だから噂になるんだ」
「……そういうものか」
「そうだよ。こんなとこじゃ、どんな病気移されるか分かったもんじゃないからね。まあ、そんなのお互い様だけど」
  フン、と鼻を鳴らして、それからミランダは、上目遣いにこちらを見上げてきた。
「兄さん、こういう店来たことないの? 女遊びとかしないんだ?」
「…………」
  自慢ではないが、これまでの人生で、妻以外の女性と関わりを持った事など一度もない。
  本当になんの自慢にもならないので黙っていると、アランのそんな態度の裏も見透かしたように、ミランダは微笑んだ。
「今どき珍しいね。心に決めた人がいるとか?」
「…………まあ、そんな所だ」
「へえ、いいじゃないか。そんなに一途に想ってもらえて、あんたのお相手は幸せだね」
  なぜか嬉しそうに言い放たれた言葉に、思わず目を逸らす。
「そうだろうか」
「なにさ、自信ないの? 大丈夫だよ。大事に想われて嫌がる女なんていないから」
  陽気に笑いながら、アランの二の腕辺りを軽く叩いて、ミランダはそう言った。
  大事に……確かに、そう思っている事は間違いない。けれど、その気持ちをきちんと伝えられているとは思えない。
  誰よりも、何よりも、大切にしたいと思う。
  それなのに、そう強く思うたびに、彼女を傷つけて、悲しませて……こんな想いは、ただの独りよがりでしか無いのではないか。
「さて。それじゃ、あたしもそろそろ行くよ。探してる人が見つかるといいね」
  ミランダの明るい声に、沈みそうになった気持ちを引き戻される。
「……ああ、ありがとう」
  慌てて顔を上げてそう言った時には、白い指をひらひらと振りながら、ミランダは薄暗い小路の先へと向かっていた。いつの間にか、狭い道にはぼんやりと明かりが落ちている。彼女の『店』は今からが稼ぎ時なのだろう。さっそく小路の向こうから、こちらへ向かってくる人影も見えた。
  あまりまじまじと客の顔を見るのも失礼だろうと、アランは目を逸らしてその場を離れた。
  そのまま路地裏を更に奥へと進む。こんな大男を襲う物盗りはいないだろうが、また客引きにあったら、今度はちゃんと自力で断らなくては……
  あれこれと考えを巡らせながらも、周囲には油断なく気を配る。胸元に隠し持った例の魔導石を、無意識に服の上から手で押さえていた。
  ミランダの話を聞いて、少し考えた事がある。
  初めはその『金持ちの男』が魔導具職人か何かで、持ち歩いていた加工前の石を盗まれたのかとも思った。だが、男がここを訪れたのが十年以上も前の事なら、そこから別の仮説が立てられる。
  粗雑な作りとはいえ、一応はペンダントの形をしている以上、やはりこれは魔導具として使われていたのだろう。そして、まだ魔力の色に染まっていない新しい物を身に付けているのは、十中八九子供だ。それも十歳前後の。
  魔術の素質を持って産まれた子供は、十歳を越えた辺りから、その身に抱える魔力が飛躍的に増す。そうなれば、以前のエマのように力が暴走しやすくなり、周囲に隠す事も難しくなる。
  しかし、ミランダの口から魔力持ちの子供の話などは出なかった。魔導石の補助を受けているから、上手く身を隠す事が出来ているのだとすれば辻褄が合う。
  そして、問題なのはここからだ。
  『金持ちの男』がここを訪れたのが、今からちょうど十年ほど前。そして彼が、この路地裏で商売をしていた女性と恋仲だったというのなら、その二人の間に産まれたのが、その魔力持ちの子供である可能性はないだろうか。
  父親が権力者なら、加工前の魔導石を手に入れる事も普通よりは難しくないはずだ。
  ただ、そうだとすれば、なぜ我が子を学園に入れず周囲から隠すような真似をするのか。世間に知られてはいけない子供、という事か。
「…………はあ」
  星が瞬き始めた空を見上げて、思わずため息を吐く。なんだか嫌な話の流れになってきた。
  こんな仮説は、全部考え過ぎの思い違いであればいい。
  そうでなくては、誰かが必死に隠している秘密を、この手で暴く事になるかもしれないのだから。

  懐にしまった小さな石が、やけに重く肩にのしかかってくるようだった。
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