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最終章 輝く花にくちづけを

8話 夜の始まり

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  どこか浮ついてしまう気持ちを抑えながら、ユリナは姿見に自分の姿を写して見た。先程から、もう何度もそうしている。娘時代に初めて夜会に出席した時だって、こんなに浮かれた事は無かったのに。きっと昔の自分なら、こんなことで浮かれるなんてと笑い飛ばしていたことだろう。
  だけど今なら分かる。傍から見たら些細なことでも、当人にとってはどれだけ大切なことか。大事な人と過ごす時間に、どれほど心躍るのか。
「そうだわ」
  ふと思い立って、窓の近くに置かれた花瓶に歩み寄る。そこには昨日アランがくれた花束が活けてあった。
  良く手入れされた花達は、花びらの一枚一枚が艶やかな色をまとって、自信ありげに咲き誇っている。ユリナはその中から、小輪の白いダリアを選びとって再び姿見の前に戻った。
「……よし」
  ダリアをブラウスの胸元に飾って、満足気に微笑む。今日は特別な日なのだから、めいっぱいおしゃれをしなくちゃ。
「ユリナさん、支度は出来ましたか」
  ノックの音と共に、くぐもった声が扉の向こうから聞こえてくる。
「今行きます!」
  答えるのと同時に、待ちきれない気持ちで部屋を飛び出すと、少し驚いたように目を丸くしたアランがその向こうに立っていた。
「早く行きましょう、アラン様」
「そんなに急がなくても十分間に合いますよ」
  ユリナがそわそわと袖を掴むと、アランは苦笑しながらも手を繋いでくれた。そしてそのまま、隣に並んで歩き出す。
「ねえ、アラン様。私、夜光祭に行くのは初めてなんです」
「では今日は楽しみましょう。貴女のやりたい事も、見たい物も、全部叶えると約束します」
「ふふ、それならもう十分です」
  首を傾げるアランに微笑み返して、繋いだ手を強く握り返す。
「あなたと一緒に行くことが、私の一番やりたかったことですから」
  胸を張って、彼の隣を歩くこと。ずいぶん長くかかってしまったけれど、ようやく当たり前のものにできた。
  窓の外には眩しい程の光が差している。夕暮れに近いこの時間、このままなら祭りの本番である夜も、きっと晴れるに違いない。
  誰にとっても、今日という日が最後まで良き日であればいい。そんなふうに思えるのは、自分自身の心が満たされているからなのだろう。

  二人で寄り添いあって向かう先は、今日まで何度も訪れてきた、南区の市場がある通りだ。道の至る所に商人たちが店を並べているのはいつも通りだけれど、今日は少し様子が違う。
  すっかり通い慣れたはずの街を、興味深く見回す。目に入る露店や建物内の多くが、その軒先に花を飾っていた。赤、白、桃色、橙色……いつもの街を色とりどりの絵具でなぞったように、全てが華やかな色で染められている。
  そして、そんな光景を一目見ようと、様々な身なりの人達が、そこかしこに集まっているのだ。
「すごい人出ですね……こんなに賑やかなのは初めてです」
  人々の活気に押されて、思わず隣を歩くアランに身を寄せる。いつも部屋にこもってばかりいるから、こうしてたまに人混みの中に出ると、うっかり押し流されてしまいそうになる。
  人波の中を不器用に歩くユリナに苦笑しながら、アランが庇うように手を引いてくれる。
「今日は一年で最もグレストに人が集まる日ですから。夜になればもっと多くの人で賑わいますよ」
「まあ……なんだか想像もつきませんわ」
  夜間でも明るい街に人々が行き交う光景は、王都の特権なのだと思っていたし、そもそもグレストの街を夜に歩くのは初めてだ。たったそれだけのことでも、少しいけないことをしているような気分で、なんだかドキドキしてしまう。
  非日常の空気に少しの緊張を覚えながら、ユリナは孤児院の近くを通りかかった。その時、
「ユリナせんせい!」
  聞き慣れた子供達の声に名前を呼ばれて、ユリナは思わず足を止めた。
「エイミー! それにミリアも」
  大人たちの波に埋もれそうになりながら、器用に人の合間を縫ってこちらへやって来たのは、なんと孤児院の少女たちだった。
「せんせい! せんせいもお祭りにきてたのね!」
  嬉しそうに言いながら抱き着いてくるエイミーと、その少し後ろから追いついて来たミリアは、二人とも右手に大きな花籠を提げていた。しかし、その中に入っている花は、もう残り数本しかないようだ。
「その花籠……もしかして、お祭りのお手伝いをしているの?」
「そうよ! お祭りに来た人たちにお花を配ってるの。先生にもあげたいと思ってたんだけど、もう残り少なくなっちゃったから、間に合ってよかったわ」
  そう言って、ミリアが籠の中から小さな花を一輪手渡してくれた。それは子供の拳ほどの大きさで、薄桃色の綿毛のような見た目をしている不思議な花だった。
「変わった形のお花ね。初めて見たわ」
「そうでしょ? お祭りの頃にしか咲かない珍しいお花なのよ」
  ミリアがどこか得意気な様子で、花を指さして説明してくれる。
「このお花はね、よく見ると小さなお花がたくさん集まって出来てるの。それがとっても仲良しに見えるから、お祭りの日に夫婦でこれを持ってると、いつまでも一緒にいられるのよ」
「だからね、せんせいにもゼッタイあげたいねって、ミリアおねえちゃんとお話してたのよ!」
  ユリナに抱き着いたまま、エイミーも自分の花籠に手を入れた。そしてミリアがくれたのと同じそれを、今度はアランに手渡した。
「はい、どーぞ。これは騎士さまの分よ」
  子供に怖がられると思ったのか、横でひっそりと気配を消していたアランは、エイミーの言葉に驚いたように目を瞬かせた。
「え、ああ……貰ってもいいのか?」
「もらってくれなきゃダメなの! せんせいとずっと仲良しじゃなくてもいいの?」
「それは……すごく困るな」
  頬を膨らませるエイミーの様子に微笑みながら、アランは小さな花を手に取った。彼がその花を大事そうに胸元に挿したのを見て、エイミーが満足そうに笑う。
「さて、無事にお花も渡せたし、私たちは一度孤児院に帰りましょエイミー」
「えっ、やだ! もっとせんせいと遊ぶ!」
「ダメよ、もうすぐ暗くなるんだから。夜は院長先生と一緒じゃなきゃ出かけちゃダメって言われたでしょ。それに……」
  ユリナたちの方へチラリと視線をやって、ミリアは少し大人びた笑みを浮かべた。
「せっかくのお祭りなのに、おジャマしちゃ悪いものね?」
  少女のませた言い回しに、思わずアランと顔を見合わせる。そんな二人に、ミリアは意味ありげな笑顔を向けた。
「それじゃ、私とエイミーはもう帰るから、先生たちは楽しんでね」
  右手は空になった花籠を、左手はまだ不満そうな顔のエイミーの手を引いて、ミリアは来た時と同じ素早さで人混みの中を帰って行った。残された二人が呆気に取られている間に、小さな背中はあっという間に見えなくなってしまう。
「……随分しっかりした子ですね」
「女の子の成長は早いものですから」
  幼い少女に圧倒されるアランがおかしくて、つい笑みが溢れてしまう。
「それにしても、孤児院の近くとはいえ、こんな人混みの中で会えるなんて、すごい偶然ですね。別の知り合いの方にも会えたりするかしら」
  それはほんの軽口のつもりだった。けれど時に、言葉というのは不思議な力を持つものだ。
「ねえ、ちょっとそこの兄さん! あんたあの時の兄さんじゃないかい?!」
  突如響いた呼び声に、アランが少し驚いた様子で振り向く。ユリナも釣られて同じ方に視線を向けた。先ほど子供たちが去って行ったのとは反対の方向から、誰かがこちらに手を振っているようだ。人々の頭の隙間から、白く華奢な手の先だけが見えている。
「ああやっぱり、そうだった。あんた大きいから、人混みの中でもすぐ分かったよ」
  そう言ってアランの元へ駆け寄って来たのは、金色の髪をした、二十代半ばくらいの年頃とみえる女性だった。
「貴女は……確かミランダだったか」
「そうだよ! 覚えててくれたんだね」
  嬉しそうに笑う女性は、アランと親しげに会話を交わしている。この人は一体誰なんだろう。
  モヤモヤしてしまいそうになる気持ちを跳ね除けて、ユリナが顔を上げた直後、その視界に入ってきたのは、予想もしていなかった人物だった。
「あなた……エディさん?」
  人混みの合間を縫ってミランダを追いかけて来た青年の姿には、確かに見覚えがあった。彼は先日屋敷を訪れた、仕立て屋見習いの青年ではないか。
「は、伯爵夫人……」
  エディ青年はユリナの顔を見た途端、明らかに狼狽えながら足を止めた。人混みの中で立ち止まったユリナたちを、すれ違う人が邪魔そうにしながら避けていく。はしゃぐ子供にぶつかられたエディが少しふらついて、ユリナの目の前に押し出されてきた。見上げたエディの額に汗が浮いているのは、どうやら暑さのせいだけではなさそうだ。
「……エディさん。あの、先日のことなのですけど」
  ちょうどいい機会だから訊いてみようとユリナが話を向けると、エディはギクリと体を強ばらせた。そして、
「そ、その節は……大変、申し訳ございませんでした!!」
  そう言って、風圧でユリナの前髪が浮くほどの勢いで頭を下げた。
「え、ええと……」
  その勢いに、こちらの方が戸惑ってしまう。確かに彼に言われたことに驚かされはしたが、なぜここまで全力で謝罪されなくてはいけないのか。
  ユリナが返事に困っていると、突然アランに強く手を引かれ、そのまま背中の方へ庇われた。
「あの、アラン様……?」
「何か彼女に謝罪しなくてはならないような事をしたのか?!」
  こちらからは背中しか見えないが、どうやらアランにしては珍しく怒っているらしい。どうしよう、なんだかまた余計な誤解が生まれているような気がする。
「あ、アラン様。エディさんとは何も……」
「そ、その、伯爵夫人には大層なご迷惑をおかけしてしまい、本当にお詫びの言葉もございません……」
  アランの背中越しに、エディの情けない声が聞こえてくる。こちらが必死に誤解を解こうとしているのだから、余計なことを言わないで欲しい。
  アランの背中から険悪な気配が漂っているのを感じ取って、ユリナが一人で狼狽えていると、エディでもアランでもない、別の声が聞こえてきた。
「まあ聞いてよ兄さん。この人ったらね、あたしと兄さんが浮気してるってカン違いして一人で焦ってたんだよ。バカでしょ」
「何だそれは。ほんの一時立ち話をしただけなのに、なぜそんな事になるんだ」
  呆れた声をあげるアランの背中から顔を出して様子を窺ってみると、同じく呆れた表情を浮かべて、エディの肩に手をかけるミランダの姿があった。二人がかりで責められて、エディの方はすっかり萎縮しているようだ。
「ほ、本当にすみません……遠目にはすごく親しげに見えて、その、すっかり動揺してしまいまして……」
  俯きながらぼそぼそと言い訳をするエディの様子に、なんとなくだが事情が見えてきた。
  ようするに、何かの理由でアランとミランダが二人でいるところを目撃したエディが、先走ってユリナの元へ報告に来たのだろう。なんとも人騒がせな話だ。
「ほんとにもう……まずあたしに聞いてくれりゃよかったのに、いきなり奥さんのとこに行っちまうんだからさ。いい迷惑だよ」
「だ、だって、伯爵はマドリーンさんのお得意様だし、お金持ちだし、ミランダの方もその気になっちゃったら、僕みたいな下っ端で見習いの職人なんて、相手にならないと……思って……」
  エディの言葉尻がどんどん小さくなっていく。そんな彼の肩をバシッと叩いて、ミランダはため息を吐いた。
「ほんっとバカなんだから」
「うぅ……」
情けなく項垂れるエディの様子に、ミランダは肩をすくめて……それから、彼の背中にそっと触れた。
「ほんと……バカなんだから。あんたはこれから一人前の職人になって、自分の店を持って、それからあたしのこと迎えに来てくれるんだろ? だったらあたしは、たとえ王様に求婚されたって断るに決まってる」
「ミ、ミランダ……」
  感極まったエディが抱きつこうとするのを器用に躱して、ミランダはユリナの方に向き直った。
「とまあ、そういうわけだからさ。あんたの旦那とあたしは何でもないから心配しないでよ。悪かったね、迷惑かけて」
  そう言って、ミランダは快活に笑った。大きな口でめいっぱい笑う彼女の表情はとても明るくて、なんだか気持ちがいい。出会ったばかりだけど、ユリナは少し、ミランダのことを好きになったようだった。
「ミランダさん……でよろしいのかしら。どうかお気になさらないでください。今はもう、何とも思っていませんから」
  アランの背中に隠れるのをやめて、ミランダの前に歩み出る。
「エディさんの話を聞いてすぐは、もちろん驚きましたけれど……でも、そのおかげで大切なものに気づけたんです」
  大切な、お互いの想いに。
  ユリナがそっとアランに寄り添ったのを見て、ミランダがなにやら意味ありげにアランの方を見上げた。
「やっぱり大丈夫そうじゃない。よかったね、兄さん」
「……まあな」
  どこか照れ臭そうな調子で言って、アランは少し目を逸らした。何のことかは分からないけれど、彼のこういう表情は嫌いじゃない。
「そんじゃ、お邪魔しちゃ悪いから、あたしとエディはそろそろ行くよ。お二人さんも楽しんでね」
  エディの腕を取って、ミランダが目を細めて笑う。
「ミランダさんとエディさんも、良い一日を」
  ユリナが小さく頭を下げた先で、ミランダたちはこちらに手を振りながら、親しげに肩を寄せ合って歩いて行く。その後ろ姿は、すっかり恋人同士のそれだ。
「素敵ですね。お二人とも、とても仲良しで」
「そうですね……本当に」
  小さく頷いたアランの横顔を見上げながら、小さく微笑む。私たちも、他の人からそんなふうに見えていたらいいのに、なんて。
「どうかしましたか、ユリナさん」
「……なんでもありませんわ」
  ごまかすように言って、そっと彼の手を取る。
  焦る必要なんてない。私たちの時間は、まだこれからなのだから。

  人混みの遥か彼方に広がる空の端が、いつの間にか柔らかな橙色に染まり始めていることに気がついた。ミランダたちと話し込んでいる間に、夕暮れが近づいていたようだ。
  黄昏時の街は少しずつ紅に塗り替えられ、辺りには黒く濃い影が落ちる。いつもなら、訳もない寂しさや不安に襲われるこんな時間も、今日は恐れることもない。
  祭りの夜が、始まる。
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