魔術師が最強と謳われる国で、魔力ゼロの騎士団長の妻になりました。

村井 彰

文字の大きさ
22 / 22
最終章 輝く花にくちづけを

9話 これから先も、二人で

しおりを挟む
  気づけば辺りはすっかり陽が落ちて、街は夜の気配に覆われていた。しかしここ、グレストの南区と北区を繋ぐ位置にある広場は、そこかしこに花の灯りが飾られて、暖かな光の色に染めらられていた。こうして円形の広場の隅から眺めていると、まるでここだけ夕暮れのまま時が止まってしまったかのようだ。
「本日は良き日和ですね、アラン団長」
  隣に立って、同じように景色を眺めていたウォルターが、そう言って微笑んだ。灯りに満ちた夜はどこか幻想的で美しく、隣合っているのがウォルターでなければ、そう悪くない光景だと言える。
「本当に。なぜこんな日にまでお前と顔を突き合わせているのだろうな」
「それはこちらの台詞ですけどね。まったく、美しいご婦人方の誘いを断ってまで貴方の相手をしなくてはならない私の身にもなっていただきたいものです」
「人のせいにするな。お前はどうせ用がなくても断るんだろう」
  ウォルターが特定の女性を相手しているところなど、未だかつて見た事が無い。男色なのだと噂されているのを聞いた事もあるが、おそらくそんな問題ですらなく、そもそもこの男は色恋の類いに興味が無いのだろう。
「貴方の方は、奥さんと仲直り出来たようで良かったですねえ。雨降って地固まるというやつでしょうか。私としたことが、うっかり良い事をしてしまいましたね」
  ぺらぺらと流暢に捲し立てながら、ウォルターがおどけた仕草で肩をすくめる。
「それは煽っているつもりか?」
「おや、これは心外ですね。私は心の底から貴方の幸せを喜んでいるというのに」
「どの口が言っているんだ。お前先日、僕の事が嫌いだと言っただろう」
「はて、そんなことを言いましたかねえ……なにぶん貴方と違ってもう年なものですから、記憶が曖昧でね」
「…………」
  これ以上この男と話していても腹が立つだけだと判断して、アランは口を噤んだ。
  不愉快な男から視線を外して辺りを見回す。周囲には既に多くの人が集まっており、広場の中心に設置された石造りの舞台の上では、美しい花冠を身につけた少女達が、手を取り合って可愛らしいダンスを披露している。観客の中には時折アラン達の方を振り返って囁き交わす者達もいるが、広場の中心から少し遠いこの場所では、人々の顔にも深い影が差して、その表情は窺えない。この群衆のどこかにユリナもいるはずだが、ここからその姿を探すのは難しそうだ。夜の人混みに彼女を一人残すのは心配だったので、見回りをしていたダドリーに付き添いを任せているものの、やはり気がかりではある。
「気もそぞろ、と言った様子ですねえ。口数が少ないわりに集中力に欠けるのは、貴方の悪いところですよ。余計な事ばかり考え込み過ぎなのです」
「……いちいち煩いな、お前は」
  図星を指されたアランは、前を向いたまま顔を顰めた。子供の頃からの付き合いであるウォルターには、短所も悪癖も全てバレている。厄介極まりない事だ。
「そうやって、いちいち言い返してくるところも子供ですね。貴方の父親とはまるで似ていない」
「当然だろう、そんな事。父上と同じ人間になどなれるものか」
  どうせまた何倍もの嫌味で返されるだろうと思いながらも、律儀に言い返してウォルターの方を軽く睨む。だが、
「……ウォルター?」
  遠くの夕焼けのように仄かな光に照らされた横顔には、いつもの皮肉げな笑顔とは違う、どこか穏やかな表情が浮かんでいた。
「本当に……見た目は少しばかり似ていても、中身は正反対だ。……それが、私とっては、少しばかりの救いでもあったのでしょう」
「……それは、どういう」
  訊ねようとした言葉を遮って、ウォルターは一歩前に踏み出した。
「そろそろ我々の出番ですよ。皆さんを待たせてはいけません」
  そう言ったきりアランの方を振り向く事無く、ウォルターは広場の中心へと歩いて行く。それ以上言葉を交わすつもりは無いらしい。
「……勝手なやつだな」
  そう呟いたアランの独り言も、もう届いてはいないのだろう。
  ただ何となく、この男とも分かり合える部分があるのかもしれないなどと……ほんの一瞬浮かんできたそんな思いも、この特別な夜が見せた幻に違いない。

  *

「やっぱりすごい人出ですのね」
  広場に集まった人混みの後ろの方で、ユリナはため息のような声を洩らした。今は広場の中心を取り囲むように人が集まり、さざめきのような話し声が辺り一帯に広がっている。こんな中にいると、いつかの夜会の日を思い出す。とはいえ、王宮の招待客しか居なかったあの晩に比べると、ここに集まっているのは年齢も服装も様々な人達だ。
「足元に気をつけてくださいね、奥さん。人混みで転ぶと危険ですから」
  南区の市場へ続く道との境い目辺りに立って、ユリナがきょろきょろと視線を巡らせていると、隣に立つダドリーが心配そうに声をかけてきた。
「すみません、ダドリーさん。なんだか落ち着かなくて」
  背の高いダドリーの顔を見上げて詫びる。彼は見回りの途中だったのに、アランに声をかけられて付き添ってくれているのだ。あまり迷惑をかけてはいけない。
「心配な気持ちは分かりますが、あなたが無事でなくては団長が悲しまれますからね」
  ダドリーが気遣うように言って、人混みからユリナを庇うように寄り添ってくれる。なんて紳士的な人なんだろう。煽ってばかりだったウォルターとはずいぶんな違いだ。
「あ、ダドリーさんが女の人連れてる! ……と思ったら団長の奥さんだ。浮気ですか?」
  その時不意に、通りの方からどこかで聞いたような声が聞こえてきた。驚いてそちらに目を向けると、いつの間にそばに来ていたのか、見覚えのある青年が立っていた。
「ネストお前、冗談でもやめろ。怒られるのは俺なんだぞ」
  顔を顰めながらダドリーが振り返る。そこにいたのは、以前屋敷を訪れた騎士団の青年、ネスト・アルベイルだった。
「ネストさん、お久しぶりです」
「どーもこんばんは。奥さんも祭り見物ですか」
  へらりと笑って、ネストがゆるく敬礼する。
「ええ、アラン様に連れて来ていただいたんです。ネストさんは見回りですか?」
「そうなんですよー。人が多いとやっぱり問題も増えちゃって、オレらも大忙しですよ。さっきも酔っ払いの喧嘩の仲裁してきました」
  そう言いながらも疲れひとつ見せず、陽気な調子でネストが言う。そして当たり前のような調子で、ユリナを挟んでダドリーの隣に立った。
「おい、お前見回りの途中なんだろう」
「ダドリーさんばっか美人と祭り見物とかズルいんで、オレも一緒に休憩します。どうせみんなここに集まってるし、ちょっとくらい目ェ離しても大丈夫でしょ」
「またそんないい加減な……あとでウォルターさんに絞られても知らんぞ」
「ダドリーさんが内緒にしててくれたらバレませんし」
  けろりと言って、ネストは少し背伸びをした。彼とユリナはあまり背丈が変わらないので、そうしないと広場の中心が見えないのはよく分かる。
「あーあ、かわい子ちゃん達のダンス見逃したー。……てことは、そろそろ団長達の出番ですかね。いやあ今年はどうなるんだろう。団長がボコボコにされるところはあんま見たくないんですけどねえ」
「おい、奥さんの前だぞ」
  ネストの遠慮のない物言いに、ダドリーがすかさず注意をする。
「ダドリーさん、私のことはお気になさらないでください」
  ネストのこの軽口も、ユリナは案外嫌いではない。実際はウォルターと彼が言っていることに大した差はないのだが、ユリナは年下の男性に甘かった。
「ほら、奥さんもこう言ってくれてることですし」
「調子に乗るな、このバカ」
  頭の上で言い合う二人を脇目に、広場の中心がもう少し見えないかとユリナは軽く背伸びをした。すると、ちょうどその時。
「ああ、ついに始まるみたいですね」
  観衆のざわめきを受けて、ダドリーがそう呟いた。人々の頭の向こう、ユリナから見れば遥か彼方に、それでも見間違えるはずもない、アランの姿が見えた。
「アラン様……」
  小さく呟いて、胸の前で両手を握る。その手の中には、先ほどエイミー達がくれた二輪の花があった。散らせてしまってはいけないからと、アランが自らの分も預けてくれたのだ。
  そうだ。今はもう、あの日のように不安になったりはしない。彼のことを信じられる証が、ここにあるのだから。

  *

  群衆の合間に置かれた柵で無理やりに作られた、簡易的な通路を通って広場の中心へ向かう。この時点で既に、周囲からの視線は痛いほどだ。
「では、お先に」
  そんな好奇の視線になど慣れた様子で、ウォルターは舞台の端に足をかけ、軽やかな足取りで上にあがった。その途端、周囲から黄色い悲鳴が上がる。危険なので観客達には出来るだけ距離を取らせているが、ウォルターの金色の髪は、淡い灯りの下でもよく目立つ。
  調子良く手を振って歓声に応えるウォルターの後ろ姿に、アランは小さくため息を吐いて、その隣りに駆け上がった。こんな衆人環視の中に立つというだけでも、アランにとっては気の重い事だ。
「おい、さっさと終わらせるぞ」
  ウォルターの背中に小声で呼びかける。どうせ観客達にこちらの声はほとんど聞こえない。ウォルターもそれを分かっているからか、愛想の良い笑顔を貼り付けたままで、わずかに声のトーンを下げた。
「いちいち無粋ですね貴方は。もう少し愛想を振りまいても損はありませんよ」
「そういうのはお前に任せる」
  無愛想に返して、剣の柄に手をかける。そもそもこういった場に立つこと自体、自分には向いていないのに、なぜこう何度も引きずり出される羽目になっているのか。まるで納得がいかない。
  変わらず無表情を貫くアランに少し肩をすくめてみせて、ウォルターも仕方なさそうに柄に手をかけ、そのまま剣を抜き放った。彼が普段使っているものと似た、細身の片手剣だ。もちろん練習用に刃を潰した模造刀だが、全力で振り抜けば骨くらいは折れる。これとて、れっきとした武器だ。
「さて、どうなっても恨まないでくださいね」
「お前……これはあくまで余興だと分かって……っ?!」
  言い切る直前に剣の切っ先が眼前を掠めて、咄嗟に背中を仰け反らせた。
「お前……っ」
「余興だからと言って手を抜いてはつまらないでしょう?」
  爽やかな笑顔を浮かべたまま、容赦なく踏み込んでくるウォルターの剣先をギリギリで躱しながら、柄にもない舌打ちが洩れそうになる。もっともらしい事を言ってはいるが、ようするにこちらに恥をかかせたいだけじゃないのか。
「ちっ……」
  剣戟の合間を縫って、アランは己の剣を抜き放ち、そのままの勢いで迫り来る剣先を払い除けた。
「相変わらず、貴方にお似合いの無骨な剣ですね」
「うるさい」
  ムスッとした表情で言い返して、剣を構えなおす。アランが好んで扱うのは、飾り気の欠片もない両手剣だった。斬るというより、叩きつける事に特化した武器。今この状況には適しているとも言えるが……
  目の前で余裕の笑みを浮かべる男を軽く睨む。力と攻撃範囲ではこちらの方が勝っているが、その分あちらの方が小回りは利く。一概にどちらが有利とは言えない状況だ。実際、日頃の訓練でこの男に勝てた事など一度もない。
「……フレイモア卿を相手取った時の方が、まだ幾分か気楽だったな。あの方の方が、お前より人間味があった」
「人間味? 詰めが甘いの間違いでしょう」
  微笑んだまま吐き捨てるように言って、ウォルターが突然斬りかかってきた。胸を貫く勢いで突き出された切っ先をすんでのところで弾き返し、慌ててウォルターから距離を取る。ウォルターは変わらず笑っているが、その背後からは露骨に苛立ちの気配がたちのぼっていた。
「……お前、案外分かりやすいな」
「今日はずいぶんとお喋りですね貴方。それは挑発のつもりですか?」
  そう言ってこちらに剣を向けたウォルターの目は、全くと言っていいほど笑っていなかった。元同期と比べられるのは、彼にとってよほど腹の立つ事らしい。
「前言撤回だ。お前にも意外と人間らしいところがあるんだな」
「は。それはどうも」
  アランの言葉を白けたように笑い飛ばし、ウォルターは再びこちらへ踏み込んで来た。彼が手にした剣は、迷いなくこちらの喉元を狙っている。模造刀とはいえ当たったらただでは済まない。
「…………っ」
  金属が激しくぶつかり合う音が響いて、目の前に火花が散った。その向こうに見えるウォルターの表情からは、もはや笑みすら消えている。
「再起不能にならない程度には加減してあげますから、安心して倒れてください。貴方ここ最近働き詰めでしたし、少しくらいの休みは必要でしょう?」
「よく、回る、口だな……!」
  視界より微妙に低い位置から、次々に鋭い突きが繰り出される。それらをギリギリのところで受け流しながら、アランは必死で考えを巡らせていた。
  このまま受け身でいてもジリ貧になるだけだ。実際、少しずつ舞台の端に追い詰められているのが分かる。何か打開策を考えなくては、いずれ押し切られてしまう。
「おや、もう逃げ場が無いようですね?」
  ウォルターが薄く笑う。くそ、だから嫌だったんだ。この男と真っ向から戦って勝てるわけがない。そもそもの経験が違い過ぎる上に、細かな癖だって全て知られて……
  その時、一瞬のひらめきが脳裏を過ぎって、アランはわずかに息を呑んだ。
  そうだ。そもそも馬鹿正直に真っ向からやり合う必要があるのか? 別にこれは神聖な御前試合でも何でもない、祭りの余興なのだ。このまま何も出来ずに終わるつまらない試合なんて、誰も望んじゃいない。
  右足の踵が舞台上を踏み外して、欠けた小石が地面に落下する微かな音が聞こえた気がした。
  ウォルターとはもう十年近い付き合いになる。アランの性格も、些細な癖も、大抵の事は知られてしまっている。だが、それなら、
「そろそろ、本当に終わらせましょうか」
  どこか面白がるような声と共に、ウォルターが視界から消えた。姿勢を低くしたウォルターが思い切り剣を振り抜いたのだと気づいた時には、その刃は既に避けられない位置にまで迫っていた。
「く……っ」
  咄嗟に急所を庇って剣を受けたた右腕に、鋭い痺れが走る。二の腕に直撃した刃に肉を断つ力は無いが、それでも骨が軋むような衝撃に、思わず剣を取り落とす。
「また貴方の悪い癖ですね。そうやって捨て身で初太刀を防いだところで、剣がなくてはもう戦えないでしょう」
  そう言ってウォルターが再び剣を構え直す。だが、
「本当にそう思うか?」
  わずかに体を引いて、足元の小石を思い切り蹴り上げる。
「な……っ」
  目の前に飛んできた石つぶてを避けるために、ウォルターが構えを解いた。それはほんの一瞬、まさに瞬きの間に起きた事だったが、それだけの隙があれば十分だ。
  先ほど取り落とした剣を左手で拾い上げ、屈んだ姿勢のままウォルターの喉元を目掛けて振り抜く。ウォルターが剣を構え直すよりも、こちらの方がわずかに早い。
  その瞬間、その場から全ての音が消えたようだった。ほんの一呼吸のうちに、勝負は決した。
「……ずいぶんと小癪なマネを覚えたものですね」
  喉元に剣を突きつけられたウォルターが、苛立たしげに言う。本来なら、ウォルターがこんな子供騙しのような手にかかる事は無いだろう。そしてそれ以上に、これまでならアランがこんな騙し討ちをする事なんて絶対に無かった。それを知り尽くしているウォルターにだからこそ、通用したのだと言える。
「昔の貴方は、愚直で真面目で融通が利かなくて可愛げがあったのに、いつの間にこんな卑怯な手を使うようになったんでしょうね……」
「さあな。お前の影響じゃないか」
  わざとらしく嘆いてみせるウォルターに、素っ気なく言い返して剣を収める。その瞬間、先ほどまでの静寂を破るように、周囲から大きな歓声が上がった。
  しかしアランは、観客達の声にも、目の前で両手を上げておどけたように降参の姿勢を取るウォルターにも背を向けて、振り向かずに舞台から降りた。もうこれ以上、注目を浴び続けるのはごめんだ。さっきウォルターの剣を受け止めた右腕もまだ痺れている。骨は折れていないようだが、しばらくはペンを持つのにも苦労しそうだ。
  声をかけてくる観客達に、目線だけで応えながら、足早に北区の方へ続く路地へと抜ける。ようやく視線から少し解放されて、アランは道の脇で小さく息を吐いた。
  心も体もすっかり疲れきって、もう当分こんなのはごめんだと思う。けれど、こんな目の回るような人波の中でも、どこかで彼女が見ていてくれたのだと思えば……それだけで、少しだけ悪くない気分になれるような気がした。

  *

  人の波がゆっくりと捌けるのも待ちきれない気持ちで、ユリナはその場を駆け出していた。
「あ、ちょっと奥さん! こんなところで走ったら危ないですよ!」
  後ろからダドリーの焦った声が追ってきたけれど、それに立ち止まる余裕もない。早々に帰ろうとする人、未だ立ち止まって見物を続けている人、それぞれの波の合間を器用に縫って、ユリナは忙しなく辺りを見回した。この辺りの路地に入って行ったと思ったけれど……
「ユリナさん」
  聞きなれた声が聞こえた気がして、慌てて振り向く。
「アラン様!」
  その姿を見つけると同時に、ユリナは再び駆け出していた。
  人がまばらになった広場の淡い灯りの下で、二人そっと寄り添い合う。
「アラン様! お怪我はありませんか……? さっき腕を……」
  慌てるユリナに、アランはいつものように笑って「大丈夫です」と答えようとしたように見えた。けれど、開きかけた口を一度噤んで、わずかに視線をさまよわせた後、少しだけ困ったような表情を浮かべて言った。
「……正直、あまり大丈夫ではないです。酷く痛めた訳ではないんですが、どうにも痺れて……」
  そう言って、アランはぎこちない動作で右腕を少し持ち上げた。その様子に思わず苦いため息が洩れてしまいそうになる。やっぱりこの人は、少し目を離すと無茶ばかりするんだから。
  先ほどまでの勇敢ぶりが嘘のような頼りない笑顔を浮かべるアランを見上げて、少し考える。それでも、こうして隠さず教えてくれるようになっただけ、進歩と言えるのかしら。
  人がまばらになり始めた広場からは、ざわめきと柔らかな灯りが、どこか遠くの出来事のように届いてくる。とても幻想的で穏やかな時間だ。
「はあ……奥さん意外と足速い……」
  アランと二人、黙ったまま見つめあっていると、人混みに紛れてしまったユリナを追ってきてくれたらしいダドリーの疲れきった声が聞こえてきた。そちらの方に視線を向ければ、ダドリーと、その大きな背中を風避けにして、楽々と人混みを掻き分けて来たネストがこちらに向かってくるところだった。
「ネストも一緒だったんですか。いつの間に……」
  少し驚いた様子で、アランがそちらに向かおうとする。二人きりの時間はもう終わりだ。そう思ったら、今この瞬間が惜しくなった。
「アラン様」
  短く呼びかけて、振り向いたアランの横顔に、そっと手のひらで触れた。戸惑ったように揺れる瞳に微笑みかけて、軽く背伸びをする。そして……
「え」
  驚いた声を上げるアランの頬に、そっとキスをした。
「な、なっ……」
  動揺して言葉を失うアランの胸に顔を埋めるように、その体を抱き締める。こちらに近づいて来ようとしていたダドリーとネストが、目を丸くして顔を見合わせているのが、ちらりと見えた。そんなふうに些細なことさえも、今この時の全てが愛おしく思える。

  幼い頃に憧れた、おとぎ話のような恋。思い描いていたように、甘いばかりじゃない。これから先、きっと何度もすれ違って傷つくこともあるだろう。それでもこの人と二人、並んで歩いていくと決めた。
  だって私は、彼の妻なのだから。


  おしまい
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

【完結】使えない令嬢として一家から追放されたけど、あまりにも領民からの信頼が厚かったので逆転してざまぁしちゃいます

腕押のれん
ファンタジー
アメリスはマハス公国の八大領主の一つであるロナデシア家の三姉妹の次女として生まれるが、頭脳明晰な長女と愛想の上手い三女と比較されて母親から疎まれており、ついに追放されてしまう。しかしアメリスは取り柄のない自分にもできることをしなければならないという一心で領民たちに対し援助を熱心に行っていたので、領民からは非常に好かれていた。そのため追放された後に他国に置き去りにされてしまうものの、偶然以前助けたマハス公国出身のヨーデルと出会い助けられる。ここから彼女の逆転人生が始まっていくのであった! 私が死ぬまでには完結させます。 追記:最後まで書き終わったので、ここからはペース上げて投稿します。 追記2:ひとまず完結しました!

神様の忘れ物

mizuno sei
ファンタジー
 仕事中に急死した三十二歳の独身OLが、前世の記憶を持ったまま異世界に転生した。  わりとお気楽で、ポジティブな主人公が、異世界で懸命に生きる中で巻き起こされる、笑いあり、涙あり(?)の珍騒動記。

敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています

藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。 結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。 聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。 侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。 ※全11話 2万字程度の話です。

【完結】小さな元大賢者の幸せ騎士団大作戦〜ひとりは寂しいからみんなで幸せ目指します〜

るあか
ファンタジー
 僕はフィル・ガーネット5歳。田舎のガーネット領の領主の息子だ。  でも、ただの5歳児ではない。前世は別の世界で“大賢者”という称号を持つ大魔道士。そのまた前世は日本という島国で“独身貴族”の称号を持つ者だった。  どちらも決して不自由な生活ではなかったのだが、特に大賢者はその力が強すぎたために側に寄る者は誰もおらず、寂しく孤独死をした。  そんな僕はメイドのレベッカと近所の森を散歩中に“根無し草の鬼族のおじさん”を拾う。彼との出会いをきっかけに、ガーネット領にはなかった“騎士団”の結成を目指す事に。  家族や領民のみんなで幸せになる事を夢見て、元大賢者の5歳の僕の幸せ騎士団大作戦が幕を開ける。

【㊗️受賞!】神のミスで転生したけど、幼児化しちゃった!〜もふもふと一緒に、異世界ライフを楽しもう!〜

一ノ蔵(いちのくら)
ファンタジー
※第18回ファンタジー小説大賞にて、奨励賞を受賞しました!投票して頂いた皆様には、感謝申し上げますm(_ _)m ✩物語は、ゆっくり進みます。冒険より、日常に重きありの異世界ライフです。 【あらすじ】 神のミスにより、異世界転生が決まったミオ。調子に乗って、スキルを欲張り過ぎた結果、幼児化してしまった!   そんなハプニングがありつつも、ミオは、大好きな異世界で送る第二の人生に、希望いっぱい!  事故のお詫びに遣わされた、守護獣神のジョウとともに、ミオは異世界ライフを楽しみます! カクヨム(吉野 ひな)にて、先行投稿しています。

〈完結〉【書籍化・取り下げ予定】「他に愛するひとがいる」と言った旦那様が溺愛してくるのですが、そういうのは不要です

ごろごろみかん。
恋愛
「私には、他に愛するひとがいます」 「では、契約結婚といたしましょう」 そうして今の夫と結婚したシドローネ。 夫は、シドローネより四つも年下の若き騎士だ。 彼には愛するひとがいる。 それを理解した上で政略結婚を結んだはずだったのだが、だんだん夫の様子が変わり始めて……?

幼女はリペア(修復魔法)で無双……しない

しろこねこ
ファンタジー
田舎の小さな村・セデル村に生まれた貧乏貴族のリナ5歳はある日魔法にめざめる。それは貧乏村にとって最強の魔法、リペア、修復の魔法だった。ちょっと説明がつかないでたらめチートな魔法でリナは覇王を目指……さない。だって平凡が1番だもん。騙され上手な父ヘンリーと脳筋な兄カイル、スーパー執事のゴフじいさんと乙女なおかんマール婆さんとの平和で凹凸な日々の話。

【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く

ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。 5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。 夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…

処理中です...