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2話 違和感
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病院の受付を通って足早に階段を上る。響の病室は二階の端の方。もう先日のように走ったりはしないが、それでも気持ちは急いてしまう。
廊下の窓から見えるのは梅雨らしい曇り空で、分厚い雲がせっかくの夕焼けを覆い隠してしまっている。院内は冷房が効いているが、蒸し暑い屋外を小走りに来たせいでワイシャツには汗が染みていた。
「……汗臭くないかな」
病室の引き戸にかけようとしていた手を止めて、ふと己の体を見下ろす。夏場は特に気をつけているつもりだが、万一にでも響に「臭い」などと思われたら死んでしまう。
やっぱり先にトイレに寄って汗を拭ってからにするか。そう思って踵を返そうとした瞬間、大柄な女性に行く手を阻まれた。
「あら佐々岡さん。今日もお見舞いですか?菅野さんなら中に居ますよ」
そう言って明るく笑うのは、響を担当している看護師の女性だった。彼女の名前は確か関。四十代後半くらいで陽気なイメージの彼女は、つい「お母さん」などと呼んでしまいたくなる雰囲気がある。
「あ、ええと……」
「毎日お見舞いに来てくれるなんて、本当に良い彼氏さんね。羨ましいくらいだわ。菅野さーん。佐々岡さんが来てくれましたよー!」
有無を言わさぬ強さで春弥の腕を鷲掴みにした関は、春弥の返事を待たず病室の扉を豪快に開け放つ。彼女は女性とは思えないほど力が強かった。こうでなくては看護師など勤まらないのかも知れないが、小柄な春弥はほとんど引き摺られるようにして病室に連れ込まれてしまう。
「あ、関さん。……ハルも、来てくれてありがとう」
ベッドに横になって窓の外を見ていた響は、部屋に入って来た二人を見てはにかむように笑って言った。その笑顔を目にした途端、胸が高鳴って頬が熱くなるのを自覚する。
響と付き合い始めてもう二年以上経つのに、未だにこんな些細な事でときめきを覚えてしまう。それはきっと、とても幸せな事なのだろう。
「菅野さん、今日は顔色が良いですねえ。生きてるのが不思議なくらいだ、なんて言われてたのが嘘みたい。きっと愛の力ね」
おどけたように言って、関が笑う。男性患者の恋人が同じ男性でも偏見の目で見ないでいてくれるのはありがたいが、こうして揶揄われるのはどうにも座りが悪い。
「さて、それじゃ後はお二人でごゆっくり。何かあったらすぐ呼んでくださいね」
そう言いながら、関はキビキビとした足取りでさっさと病室を出て行った。まるで嵐のような人だ。
いきなり二人きりにされてしまった春弥は、少し気まずい思いで視線を彷徨わせた。
「え、ええと……響、体調どう?」
「悪くないよ。リハビリも順調だし、この調子なら予定より早く退院出来るかもって」
「ほんとか!?良かった……」
折り畳みの椅子に腰かけて、春弥はホッと息を吐いた。
「ハルが毎日様子見に来てくれるからだな。仕事も忙しいのに、ありがとう」
「そんなの、響が頑張ったからに決まってるだろ。オレはほんとに見てただけだし……」
照れ臭さを誤魔化すように語尾を濁す。最近の響は妙に大人びた話し方をするので、どうにもむず痒い。
「……記憶の方は、どうだ?何か思い出せそうか」
「いや……この前両親が来てくれて、子供の頃のアルバムとかも見せて貰ったけど、あんまりピンと来なくて」
「そうか……」
体を起こそうとする響を手伝いながら、春弥の胸の奥に苦いモノが広がった。響はこうして笑っているけれど、二十四年という歳月で積み上げてきた物を突然ほとんど失ってしまうというのは、どれほど不安で恐ろしい事だろう。
「……けどさ、オレと付き合ってる事は、忘れないでいてくれたんだよな」
「そうだな。……愛の力、かもな?」
そう言って、響が悪戯っぽく笑う。
「な、なに言ってんだよ」
いつものおふざけとは違う、どこか甘さを含んだ口調に、つい動揺してしまう。
「ったく……」
呟いて響の広い胸に触れると、穏やかな鼓動が伝わってくる。ああ、生きてるんだな。
「響」
名前を呼ぶと、触れた鼓動が一瞬跳ねるのが分かった。たったそれだけの事で、愛おしさが次から次へと溢れてくる。春弥よりずっと大きな背中に手を回して、その胸に頭を預けた。本当は強く抱き締めたいけれど、それは響の傷が完全に癒えるまでおあずけだ。
「ハル……」
どこかぎこちない動きで、響が春弥の背に手を回す。こうして触れ合うのはずいぶん久しぶりだから、まるで響の手のひらから温かさが溶け出してくるように、少しずつ体温が上がっていくのを感じる。
絆創膏が貼られていない方の響の頬に手を添えて、さらに体を近づけた。もう少し。もう少しだけ近くで触れ合いたい。
「響……」
お互いの吐息が混ざり合うほど近くで名前を呼ぶ。そうして唇が触れ合う寸前、
「……え」
強い力で、体を押し戻された。
「響……?」
「あ、ご、ごめん」
慌てた様子で響が詫びる。その表情に、先程とは違う種類の痛みが胸を走った。
「……いや、オレの方こそごめんな。まだ怪我も治ってないのに」
言いながらも、胸の内には少しずつ不安が募っていた。
いつもの響なら、あんなふうに自分を拒絶する事は無いのに。
いつもの。……そう、今の響は、いつもの響では無い。酷い怪我を負って、記憶も曖昧で、不安定で当然だ。だから、春弥の方が気遣うべきなのだ。
頭では分かっているのに、何故だろう。
心の奥底で、違和感を覚えてしまうのは。
廊下の窓から見えるのは梅雨らしい曇り空で、分厚い雲がせっかくの夕焼けを覆い隠してしまっている。院内は冷房が効いているが、蒸し暑い屋外を小走りに来たせいでワイシャツには汗が染みていた。
「……汗臭くないかな」
病室の引き戸にかけようとしていた手を止めて、ふと己の体を見下ろす。夏場は特に気をつけているつもりだが、万一にでも響に「臭い」などと思われたら死んでしまう。
やっぱり先にトイレに寄って汗を拭ってからにするか。そう思って踵を返そうとした瞬間、大柄な女性に行く手を阻まれた。
「あら佐々岡さん。今日もお見舞いですか?菅野さんなら中に居ますよ」
そう言って明るく笑うのは、響を担当している看護師の女性だった。彼女の名前は確か関。四十代後半くらいで陽気なイメージの彼女は、つい「お母さん」などと呼んでしまいたくなる雰囲気がある。
「あ、ええと……」
「毎日お見舞いに来てくれるなんて、本当に良い彼氏さんね。羨ましいくらいだわ。菅野さーん。佐々岡さんが来てくれましたよー!」
有無を言わさぬ強さで春弥の腕を鷲掴みにした関は、春弥の返事を待たず病室の扉を豪快に開け放つ。彼女は女性とは思えないほど力が強かった。こうでなくては看護師など勤まらないのかも知れないが、小柄な春弥はほとんど引き摺られるようにして病室に連れ込まれてしまう。
「あ、関さん。……ハルも、来てくれてありがとう」
ベッドに横になって窓の外を見ていた響は、部屋に入って来た二人を見てはにかむように笑って言った。その笑顔を目にした途端、胸が高鳴って頬が熱くなるのを自覚する。
響と付き合い始めてもう二年以上経つのに、未だにこんな些細な事でときめきを覚えてしまう。それはきっと、とても幸せな事なのだろう。
「菅野さん、今日は顔色が良いですねえ。生きてるのが不思議なくらいだ、なんて言われてたのが嘘みたい。きっと愛の力ね」
おどけたように言って、関が笑う。男性患者の恋人が同じ男性でも偏見の目で見ないでいてくれるのはありがたいが、こうして揶揄われるのはどうにも座りが悪い。
「さて、それじゃ後はお二人でごゆっくり。何かあったらすぐ呼んでくださいね」
そう言いながら、関はキビキビとした足取りでさっさと病室を出て行った。まるで嵐のような人だ。
いきなり二人きりにされてしまった春弥は、少し気まずい思いで視線を彷徨わせた。
「え、ええと……響、体調どう?」
「悪くないよ。リハビリも順調だし、この調子なら予定より早く退院出来るかもって」
「ほんとか!?良かった……」
折り畳みの椅子に腰かけて、春弥はホッと息を吐いた。
「ハルが毎日様子見に来てくれるからだな。仕事も忙しいのに、ありがとう」
「そんなの、響が頑張ったからに決まってるだろ。オレはほんとに見てただけだし……」
照れ臭さを誤魔化すように語尾を濁す。最近の響は妙に大人びた話し方をするので、どうにもむず痒い。
「……記憶の方は、どうだ?何か思い出せそうか」
「いや……この前両親が来てくれて、子供の頃のアルバムとかも見せて貰ったけど、あんまりピンと来なくて」
「そうか……」
体を起こそうとする響を手伝いながら、春弥の胸の奥に苦いモノが広がった。響はこうして笑っているけれど、二十四年という歳月で積み上げてきた物を突然ほとんど失ってしまうというのは、どれほど不安で恐ろしい事だろう。
「……けどさ、オレと付き合ってる事は、忘れないでいてくれたんだよな」
「そうだな。……愛の力、かもな?」
そう言って、響が悪戯っぽく笑う。
「な、なに言ってんだよ」
いつものおふざけとは違う、どこか甘さを含んだ口調に、つい動揺してしまう。
「ったく……」
呟いて響の広い胸に触れると、穏やかな鼓動が伝わってくる。ああ、生きてるんだな。
「響」
名前を呼ぶと、触れた鼓動が一瞬跳ねるのが分かった。たったそれだけの事で、愛おしさが次から次へと溢れてくる。春弥よりずっと大きな背中に手を回して、その胸に頭を預けた。本当は強く抱き締めたいけれど、それは響の傷が完全に癒えるまでおあずけだ。
「ハル……」
どこかぎこちない動きで、響が春弥の背に手を回す。こうして触れ合うのはずいぶん久しぶりだから、まるで響の手のひらから温かさが溶け出してくるように、少しずつ体温が上がっていくのを感じる。
絆創膏が貼られていない方の響の頬に手を添えて、さらに体を近づけた。もう少し。もう少しだけ近くで触れ合いたい。
「響……」
お互いの吐息が混ざり合うほど近くで名前を呼ぶ。そうして唇が触れ合う寸前、
「……え」
強い力で、体を押し戻された。
「響……?」
「あ、ご、ごめん」
慌てた様子で響が詫びる。その表情に、先程とは違う種類の痛みが胸を走った。
「……いや、オレの方こそごめんな。まだ怪我も治ってないのに」
言いながらも、胸の内には少しずつ不安が募っていた。
いつもの響なら、あんなふうに自分を拒絶する事は無いのに。
いつもの。……そう、今の響は、いつもの響では無い。酷い怪我を負って、記憶も曖昧で、不安定で当然だ。だから、春弥の方が気遣うべきなのだ。
頭では分かっているのに、何故だろう。
心の奥底で、違和感を覚えてしまうのは。
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