片月の怪

村井 彰

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第二章 戻れない日常

2話 呪い

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  十四年前の八月十七日。よく晴れた夏の日の午後。あの日の事は、今でも鮮明に覚えている。
  やり残した宿題を片付けながら、自室でつい眠ってしまった俺は、寝ぼけた目を擦りながら部屋の扉を開けて、その足でリビングへと向かっていた。ひどく喉が渇いていたから、何か飲もうと思ったのだ。
  その日はちょうど盆休みが終わった頃で、父さんは仕事に出かけていたけれど、母さんはパートが休みの日だったから家にいた。
「お母さん」
  廊下とリビングを隔てる扉を開けた俺は、母さんを呼びながら部屋の中を見回した。台所には洗ったばかりのまな板が立てかけてあって、コンロに置かれた鍋からはカレーの匂いがしている。その横の冷蔵庫に掛けられたカレンダーには、今週末の日曜日に大きく丸がしてあった。父さんと母さんと俺の三人で、その日は遊園地に行こうと約束していたのだ。カレンダーの横には、三人分のチケットがマグネットで貼り付けてある。
「お母さん?」
  リビングの中に母さんの姿が見当たらなくて、俺はもう一度声を上げた。買い物にでも行っているのかと思ったが、そのわりにはエアコンも電気も付けっぱなしだ。
  きょろきょろと辺りを見回しながら、リビングの中へ足を踏み入れる。すると、
「猛」
  蒸し暑い風と共に、聞き慣れた母さんの声に名前を呼ばれた。声のする方に視線を向けると、なぜかリビングの掃き出し窓を開けて、その向こうのベランダに立っている母さんの姿があった。
「お母さん、何してるの」
  少しサイズの小さくなったサンダルをつっかけてベランダに出た俺は、母さんの元に駆け寄ってそう訊ねた。けれど母さんはその問いには答えず、静かに微笑んで俺の頭を撫でただけだった。
「お母さん……?」
  その笑顔になぜか不安になった俺は、手を伸ばして母さんの手を掴もうとした。けれど、
「猛。お母さんね、あなたが居てくれてとても幸せだわ。毎日がとても満たされていて、今が人生で一番最高の時だって、そう思えるの。……私はね、この時をずっと探していたのよ」
  俺の手が触れる直前、母さんは俺から手を離して背中を向けた。
「お母さん、待って! お母さん!」
  必死に呼びかける。けれど、俺の声はまるで届かない。
「ありがとう、猛。大好きよ」
  伸ばした手の先で、少しずつ母さんの体が傾いていく。その先には、ただ馬鹿みたいに青い空だけが──

「…………っ!」
  何かを叫ぼうとして、けれど喉から溢れ出したのは、声にならない悲鳴のような吐息だけだった。
「あ…………?」
  自分の息遣いで目覚めた俺は、今の状況が掴めず、何度か瞬きを繰り返して視線をめぐらせた。真っ先に視界に飛び込んできたのは、白っぽい天井と、その真ん中に貼り付いた潰れた饅頭のような形の照明。それから……
「猛さん、気がついた?」
  心配そうに俺の顔を覗き込んでいる、彩人の黒い瞳だった。
「いきなり倒れちゃったからびっくりしました。頭とか打たなかった?」
「ああ……たぶん、大丈夫」
  彩人にそう答えながら、俺は仰向けになっていた体を慎重に起こした。頭は割れそうなくらいに痛んだが、これはどこかにぶつけたせいではない。今の夢を見た直後は、いつもこうだった。
「お兄さん! もしかして霊障のせいで倒れたんですか? 取り憑かれたとか、何らかの攻撃を受けたとか!!」
  俺が頭痛を堪えながら起き上がるなり、鼻息荒く捲し立てながら顔を近づけてきたやつがいる。言うまでもなく例の依頼人だ。もはや分かりきっていた事だが、やっぱりろくでもないなコイツ。
「あー……普通にただの貧血っすね。昨日ろくに寝てないし、朝飯も食ってなかったんで、たぶんそのせいです。ご迷惑おかけしました」
  もちろんそんな事が理由で倒れた訳では無いのは自分自身が一番分かっていたが、本当の理由をわざわざ説明する気にはならなかった。
  素っ気なく返して口を噤んだ俺に、依頼人は少し不満そうな顔を向けたが、それ以上は何も言ってこなかった。
「ええと、猛さんが寝てる間にお話してたんですけど、今回は除霊しないってことでまとまりました。だから、猛さんが大丈夫なら、そろそろお暇しようと思うんですが」
  俺達の様子を窺いながらそう言った彩人の方に視線を向けると、その斜め後ろ、初めに見たのと全く同じ位置に、またあの女が座っていた。確かにベランダから落下するところを見たのに、いつの間に戻ってきたんだろう。あの女は何事もなかったかのようにそこに居座り、飽きもせずにまた俺の方を睨みつけている。ぐちゃぐちゃに潰れていたはずの額の傷も、すっかり癒えて……いや、無かった事になっているようだった。
「猛さん? もう少し休ませてもらいますか?」
「……いや、大丈夫だ。帰ろう」
  これ以上、一秒たりともこの場所には居たくなかった。この女が死の瞬間を模倣しているというのなら、いつまたあの光景を見せられるか分かったものではない。あんなもの、二度と見たくはなかった。
  休ませてもらった事に礼を言って、慌ただしく依頼人の部屋を後にする。ドアが閉まる直前、見送ってくれた依頼人の肩越しに見えた部屋の中には、変わらずあの女の姿が見えた。
「……あいつ、本当に大丈夫なのか」
  マンションの廊下を進みながら、依頼人の部屋から少し離れたのを見計らって、俺は隣を歩く彩人に問いかけた。彩人はそんな俺の方をちらりと見上げて、何でもなさそうに答える。
「霊に直接人を害する力なんて無いので平気ですよ。五頭田さんの時もそうでしたけど、霊の存在を感じてしまった人が、勝手に気に病んで自滅するんです。人間同士でも同じ。どれだけ酷い悪口をぶつけたって、それを悪口だと認識できない人には効果がない。呪いや祟りなんてその程度のものです」
「ようするに、あの依頼人みたいに“怖がらない”やつには何も起きないって事か」
「そういうことです」
  エレベーターの前で立ち止まり、下向きのボタンを押しながら、彩人はそう言って頷いた。
  呪いにも、祟りにも、大した力は無い。ただ、勝手に気に病んだ人間が自滅するだけ。それなら、俺が繰り返し見るあの夢もきっと同じなのだろう。
  母さんはもうこの世のどこにもいないのに、俺は彼女の死の瞬間を、何度も繰り返し夢に見る。まるで呪いのように。
  だけどその呪いは、俺の中にしか存在しないのだ。たぶん、俺が忘れてしまえば、こんな呪いは消えて無くなる。……それが分かったところで、簡単に忘れられるはずも無いのだが。
「……このあとの予定は?」
  乗り込んだエレベーターの扉が閉まるのを待って、俺は彩人に訊ねた。
「今日のお仕事はもう終わりです。なんだか中途半端になっちゃいましたけど、相談料と交通費はいただいたので、一応黒字ですね」
「そうか、そりゃ良かった。じゃあこのままお前んちに一番近いスーパーまで案内しろ」
「スーパー? 何でですか」
「決まってるだろ。飯の材料を買い込むんだよ」
  俺が無愛想に答えると、彩人はこちらへ顔を向けて薄い眉を寄せた。
「僕、料理なんてしたことないですけど」
「お前には初めから期待してない。俺が自分で作る」
  俺の言葉がよほど予想外だったのか、眉間のシワを一瞬で解いて、驚いたように彩人が目を丸くする。そういう表情をすると、こいつも年相応に幼く見えた。
「猛さん、料理できるんですか?」
「一人で生活するのに困らない程度には。……逆にお前は今までどうしてたんだよ」
「いちいち作るより、外食の方が楽じゃないですか?」
  そう言って彩人が首を傾げる。嫌味でも何でもなく本気で言っているのだろう。このボンボンめ。
「もしかして、僕の分も作ってくれたりします?」
「お前の財布から食費が出るならな」
「それはもちろん」
  彩人が素直に頷くのと同時にエレベーターが止まって、蛇腹状の扉がゆっくりと開いた。
「嬉しい。誰かの手料理なんて、もうずいぶん食べてないです」
  無邪気に笑って扉の外へ歩いて行く彩人も、きっと何かしら事情を抱えている。けれど、訳ありなのはお互い様だ。
「一応聞いとくが、お前アレルギーとか好き嫌いはあるか」
「生のトマトが嫌いです」
「そうか。じゃあサラダに死ぬほど入れてやる」
「あ、ひどい! ほんとに食べられないのに!」
「アレルギーじゃねえなら食っても死なないから大丈夫だ」
「死ぬほど嫌いなんですっ」
  俺の二の腕をぺちぺちと叩いて抗議する彩人を無視して、真夏の太陽の下を歩き出す。
  俺にとっての呪いは消えないし、あの夢を忘れる事も出来やしない。
  それでも、今この時に一人じゃない事に、ほんの少しだけ救われた気がした。

  *

「カレーに厚揚げなんて入れるんですか?」
  買い込んだ食材の山を台所に広げる俺を見て、彩人が怪訝な顔をする。これらは全部、つい先ほど駅前のスーパーで買ったきた物だ。ちなみに朝も昼も抜いた状態ではさすがに限界だったので、買い物の前に彩人と二人でラーメンを食って来た。空腹の状態でスーパーに行ってはいけない。節約の鉄則である。
「うちの母親はいつもコイツを肉に混ぜて嵩増ししてたんだよ。……まあ、全然肉の代わりにはなってなかったけどな」
  材料費は全部彩人が払っているので、別に高い肉をしこたまぶち込んでやっても良かったのだが……なんとなく俺は、この貧乏くさいカレーが食べたい気分だったのだ。
「つうか見てないでお前も手伝えよ。ほら、米を洗え。そして炊け」
  ぼんやり突っ立っている彩人に米袋を押し付けて、横にある炊飯器を指さす。呆れた事に、こいつの家には炊飯器も包丁も鍋も釜も何ひとつ無かったので、今ここにある調理道具は全て俺の私物だ。断捨離ついでにうっかり捨てなくて良かったと思う。
  そうして俺に言われるまま、おぼつかない手つきで米袋を開ける彩人の様子を見て、俺の中に一抹の不安が過ぎった。
「……洗剤で洗ったりするなよ」
「そこまで物知らずじゃないですっ!」
  キッと俺を睨んで、彩人はそのままザルに米を入れようとする。
「おい、ちゃんと量って入れろよ。とりあえず三合分。余ったら冷凍すりゃいいから」
  俺が計量カップを差し出すと、それを見た彩人は唇を引き結んだまま固まってしまった。
「あー……量り方、分かるか?」
「…………それくらい、調べたら分かりますし」
  ぼそぼそと小声で言い訳しつつ、彩人は尻ポケットのスマホを取り出し、『三合 計量カップ』と打ち込んだ。わざわざ検索しなくとも、すり切り一杯分入れれば一合になるのだが、まあ自分で調べた方が身になるだろう。
  彩人の事はそのままスマホ先生に任せておくとして、俺の方も作業に取り掛かろう。この家の台所は、男二人で並んでいても調理に全く差し支えないほど広い。これを今まで一切使ってこなかったというのだから、宝の持ち腐れもいいところだ。
  そうして、しばらくは脇に置いたスマホとにらめっこをしながら米を研いでいた彩人だが、俺がシンクに置いたデカめのボウルの中で野菜を洗っているのを見て、不意にぽつりと呟いた。
「猛さんのお母さん、料理が得意なんですか?」
「あ? なんでそう思う」
「猛さん、慣れてるみたいだし、お母さんに教わったのかなって」
「……あー、なるほどな」
  洗い終えた人参やジャガイモをボウルの中から引き上げ、皮を剥くためにまな板の上へ並べながら、俺はもうずいぶん遠くなってしまった記憶を思い起こした。
「別に、これは必要だったから覚えただけで直接教わった訳じゃないし、そもそもあの人はそんなに料理上手じゃなかった。手料理なんてカレーとチャーハン以外に作って貰った覚えも無いしな。共働きだったから、忙しかったのもあるんだろうが」
  俺が過去形で母親の事を語るのに、彩人もなんとなく気づいていたと思う。けれど、そこについては何も聞いてこなかった。
「お母さんとのそういう思い出、なんかいいですね」
  ただ、静かな口調でそう言っただけだった。
「……まあ、そんな良い思い出ばっかでも無いけどな」
  むしろ、確かにあったはずの温かい記憶は、今ではそのほとんどが遥か遠くに霞んでしまった。そして鮮明に思い出せるのは、最期のあの瞬間だけ。
  母さんは、今が一番幸せだと言って死んでいった。最高の時で人生を終わらせたと言えば聞こえは良いが、ようするにあの人は、家族を見限ったのだ。
  これから先に今以上の幸せは存在しないと、そう見切りをつけたから死を選んだ。残された者たちがどんな人生を送るか想像もせずに、自分勝手に終わらせた。
  俺にはそれが、どうしても許せなかった。
「……とにかく、わざわざ話して聞かせるような事は何もねえよ」
  それきり俺が黙ったのを見て、彩人もまた何も言わなくなった。
  二人、無言で手を動かしていく。聞こえるのは俺が野菜を切る音と、彩人がスマホ片手に炊飯器を設定する音だけ。そういえば、こいつはあれだけCDを集めているのだから、音楽が好きなんじゃないか。こういう時に何か聴いたりしないのか。
  作業の手を止めないまま、横目でちらりと彩人の様子を窺う。志条彩人という人間について、俺には分からない事だらけだ。俺がここに来てから、こいつと過ごしたのはたったの二日。それだけの間に、あまりにも色々な事が起きすぎた。
  志条彩人には、様々な顔がある。そのひとつひとつを見極めるには、まだまだ時間が必要なのだろう。



  そうして、黙々と調理を続けることしばし。出来上がった夕飯をダイニングテーブルに並べ、俺と彩人は向かい合って食卓に着いた。メニューはたった今作ったカレーとサラダ。ちなみに彩人が本気で嫌がったので、サラダにトマトは入れないでおいてやった。
「それじゃあ、いただきます」
  席に着くなりそわそわと手を合わせ、彩人がスプーンを手にする。そんなに待ちかねるような食事でもないだろうと思ったが、そういえばこいつは、誰かの手料理を食べるのは久しぶりだと言っていた。そして俺自身も、職場の……いや、元職場の仲間達以外と飯を食うのは、いつぶりだったろうと思い起こす。まして、こうやって誰かと料理を作って、それを一緒に食べるなんて……
「あ、美味しい」
  カレーをひと匙頬張って、もぐもぐと口を動かしていた彩人がぽつりと呟いた。
「カレーなんて、どう作っても大抵美味くなるからな」
「そうかもしれないけど、それだけじゃなくて……これは特別美味しい気がします」
「なんだそりゃ」
  肩をすくめる俺の前で、彩人は俺の作ったカレーを着々と平らげていく。こんなろくに肉も入っていない庶民カレーの何をそんなに気に入ったのか知らないが、まあ口に合ったのならそれでいい。
「細いくせによく食うよな、お前」
「成長期なので」
「嘘つけそれ以上伸びねえだろ」
「そんなことないですよ! そのうち猛さんより大きくなりますから!」
「は、そりゃ楽しみだな」
  俺が思い切り鼻で笑ってやると、彩人は子供のようにむくれてみせた。それでもどこか楽しそうに見えたのは、おそらく俺の気のせいではないだろう。
  そうやって他愛もないやり取りを重ねるごとに、少しずつ夜が深けていく。こんな穏やかな時間を過ごすのは、きっと子供の頃以来だ。

  この時の俺は、そんなふうに柄にも無く浮かれていたのかもしれない。
  既に『普通』の枠から大きく逸脱してしまった自分に、気づかないふりをしながら。
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