片月の怪

村井 彰

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第三章 寂しさの在処

1話 とある家

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  それから意外にも平穏に時は過ぎ、気づけば九月も三日になっていた。彩人にも毎日仕事の予定がある訳ではないようで、何も無い日は一日中家に引きこもっていたりする。こいつの本業は確か大学生のはずだが、遊びに誘ってくれる友達はいないのだろうか。おかげで俺は、日がな一日彩人と顔を突き合わせて過ごすハメになっている。
「俺は何のために雇われてんだったかな……」
  鏡のようにピカピカに磨き上げたシンクに映る己の顔と見つめ合い、俺は一人ため息を吐き出した。
  彩人が家にいる間は俺に出来る仕事もなく、それ以外特にやる事もないため、仕方なくこうして家中を磨き続けている。ここ数日の間に俺がした事と言えば、朝起きて二人分の飯の支度をし、起きてきた彩人が脱ぎ散らかした服を洗濯し、それからひたすらに家の掃除をするというくらいのものである。これではまるで家政夫じゃないか。
  もはやモデルルームのように整った台所に突っ立って、俺が自らの境遇に思いを馳せていると、リビングに隣接する部屋のドアが開き、そこからのそのそと彩人が顔を出した。
「おはようございます、猛さん」
「……おはよう」
  ダボダボのスウェットの裾をたくしあげつつ呑気な声を上げる彩人に、俺も形ばかりの朝の挨拶を返す。ちなみに今は「こんにちは」でも差し支えない時間である。
  俺の呆れ顔に気づいているのかいないのか、彩人はスリッパをパタパタ言わせて、こちらの方へ近づいてきた。よく見たら頭の後ろに派手な寝癖が付いている。
「わ、すごい。台所ピカピカですね」
「誰かさんが引きこもってるから、俺もやる事がなくてな」
  俺が嫌味で返すと、彩人は何も言わずにじっと俺の顔を見上げてきた。なんだ怒ったのかと睨み返してみたが、
「猛さんって、ほんと良いお嫁さんて感じですよね」
「ぶん殴られたいか」
  やっぱりこいつはいつもと同じ調子だった。
「ねえ、猛さん。このままほんとに僕のお嫁さんになってくれませんか。ていうか、正直今でもだいぶ新婚生活っぽいなって思ってて」
「まだ寝てんのかお前は。寝言ほざいてないでさっさと顔洗え」
  どさくさに紛れて抱きついてこようとする彩人の頭を掴み、無理やりシンクの方へ向けさせる。
「僕は本気で言ってるのにな……」
「だったらなお悪いわ」
  ぶつぶつと文句を言いながら顔を洗う彩人の尻を、スリッパの先で軽く蹴飛ばす。相手がこいつで、俺がお嫁さんだという時点でだいぶ正気ではないが、そうでなくても結婚なんてお断りだ。誰かの人生に深く関わって生きるなんて、俺には荷が重すぎる。
「あ、そうだ」
  手探りで掴んだタオルでぽふぽふと顔を拭きながら、彩人がこちらを振り向いた。
「猛さん。今日はこのあと夕方からお仕事の予定です」
「はあ?! お前……」
  しれっと言い放たれた言葉に、苛立ちのゲージが振り切れるのを感じる。俺は衝動のまま彩人のほっぺたを両手で摘み、餅のようなそれを思い切りつねり上げた。
いひゃいいたい! ひゃめてくらはいやめてください!」
「うるせえ、仕事ん時は前もって教えろって言っただろうがこのアホ! こっちはもう夕飯の仕込みもしてあんだよ!!」
「む……っ今日は仕方ないんですよ! お得意様からなるべく早く来てくれって連絡があったんですから! ついさっき!」
「あぁ?! どこのどいつがんな面倒くせえ事言ってんだよ!」
「猛さんもよく知ってる人達ですよ!」
  なかば叫ぶように言いながら、彩人は俺の手を掴んで振りほどく……かと思いきや、何を思ったかそのまま指を絡めて恋人繋ぎにした。
「おいこら」
「聞いてください、猛さん。今回の依頼人はね」
  俺の苦情を遮って、彩人が言葉を重ねる。俺よりも細く小さな手を跳ね除ける暇もなく紡がれた言葉は、
「今回の依頼人は……朱田工務店さんですよ」
  今の俺にとっては、あまり聞きたいものではなかった。


  *


  そもそも俺は、何のために志条彩人に雇われているのか。霊媒師を名乗る胡散臭い輩を成敗してやるためだったはずだ。
  それなのに、今の俺ときたらどうだろう。
「こんにちは! ご依頼ありがとうございます!」
  霊媒師らしからぬ元気いっぱいの挨拶をする彩人の横で突っ立っている俺は、完全に『こちら側』の人間じゃないか。
「志条さん! すんませんね、いきなりお呼び立てして」
  朱田工務店の事務所の前で、そう言って頭を下げる作業着姿の男は朱田惣二そうじ。俺に仕事を教えてくれた大先輩であり、朱田社長の弟でもある人だ。
  惣二……ソウさんは、微妙に目を逸らす俺の方をちらりと見て、どこかホッとしたように笑った。
「猛お前、志条さんのとこで働いてるってのは本当だったんだな。突然辞めちまったから心配してたんだぞ。社長もなんも言わねえし……まあいろいろ聞きたい事はあるが、元気そうで良かったわ」
「……すんません」
「謝ることねえだろ」
  ソウさんは俺の肩を軽く小突いて、快活に笑った。辞めてからそんなに時間は経っていないはずなのに、この感じもずいぶん懐かしい。
「社長も中にいるぞ。会って行くだろ」
「ああ、いや……仕事の邪魔になると悪いんで……」
  社長にも会いたい気持ちはもちろんあるが、それ以上に、どんな顔で会えばいいのか分からなかった。辞めるよう促された事については恨んじゃいないが、それでもあんなやり取りをしてから半月ほどしか経っていないのに、のこのこと顔を出すのは流石に気まずい。
「……あの! 今日は施工中のお家の除霊だって聞いてるんですけど! 現場はどこですか?」
  俺が返事に困っていると、ソウさんを押し退けるようにして、彩人が会話に割り込んできた。物理的に。
「ああ、こりゃすみません。すぐに車回して来ますから、細かい事は現地に向かいながらお話しましょう」
  そう言って、ソウさんが事務所の裏にある駐車場へ向かって行くのを、彩人が鼻息荒く見送る。なんだかよく分からないが助かった。
「惣二さんは良い人ですけど、ちょっと距離感が良くないと思います!」
「お前が言うんじゃねえよ」
  すかさず額にデコピンを食らわせてやるも、彩人にめげる様子は無い。その後ソウさんが回してきた車に乗り込む時も、彩人はしっかり俺の隣をキープしてきた。
「それじゃあ、今日はよろしくお願いします!」
  俺と並んで後部座席に座り、急に機嫌の良くなった彩人がソウさんに声をかける。
「こちらこそ、よろしく頼んます」
  ルームミラー越しに、ソウさんが彩人に視線を合わせて応える。えびす顔の社長と違ってソウさんは結構な強面だが、中身は社長以上のお人好しだ。彩人のような頼りなさげな若造でも、決してぞんざいには扱わない。
「えっと、いただいたメールには、施工中の民家でおかしなことが起きていると書かれていましたけど……」
  両手をきっちり膝に乗せて、彩人がソウさんに訊ねる。朱田工務店は昔ながらの小さな会社で、社員は社長を含めても両手で足りる程度。それゆえに、受ける仕事も戸建ての増改築など比較的小規模なものばかりだ。
「その家、もしかして先月社長が言ってたやつですか。一人暮らしの婆さんが亡くなって、その家を相続したっていう一人息子が依頼してきた……」
  古い家にも相応の魅力はあるが、現代人がそのまま暮らすとなれば、なにかと不便が多いものだ。だから、そういった古民家を改築したいという依頼は少なくない。朱田工務店がある下町では、まだまだ古い家が多いから尚更なのだろう。
  少し懐かしい気持ちになった俺が口を挟むと、ソウさんがミラー越しにちらりと俺の方を見た。
「猛の言う通り、まさにその家の話だ。見積もりの段階じゃ、よくある仕事としか思っちゃいなかったんだが、現地調査を始めた辺りから、ちょっとばかり様子がおかしくてな」
「と、言いますと?」
  彩人が首を傾げる。
「施主さんの態度がね……どうも変なんですよ。家を見て回る間、なぜか絶対に庭に立ち入ろうとせんのです。それでいて『庭は絶対に全部潰してくれ』つって。内装の事もそっちのけでそればっかりなんですよ」
「庭に何かがあったとかですか? 祟り神の祠とか、人が死んだ涸れ井戸とか」
  彩人が真顔で嫌な例をあげる。そんなものがそうそうあってたまるかと思ったが、案の定ソウさんは小さく首を横に振った。
「少なくとも、オレが見た限りじゃ何の変哲もない普通の庭でした。もちろん多少荒れちゃいましたが、手入れすりゃ十分綺麗になるでしょうし、オレなんかは残した方が良いんじゃねえかって言ったんですけどね。とにかく『庭は一切見えないようにしてくれ』の一点張りでね……まあ施主さんの言うことだからってんで、オレらもそのまま工事に取り掛かったんですが、そこからがまた問題でして」
  そう言って、ソウさんは軽くため息を吐いた。
「その庭に入った作業員がね、皆そろって体調を崩すんですわ。頭が痛え、耳鳴りがするっつって座り込んじまうんで、こりゃ熱中症かと慌てて家の中に引っ張り上げると、すぐにケロッと良くなる。そんじゃあまた作業に戻るかと庭に出ると、また具合が悪くなったと言い出す……それの繰り返しなんですよ。しかも、オレ以外の作業員はみんな同じような反応をするときたもんだ。施主さんが妙に庭を嫌がってたなんて話は一切伝えちゃいねえのに、示し合わせたみてえに全員そうなるんです」
  ソウさんが話して聞かせてくれた内容は、まるで安っぽい怪談話のようで、それでいて語り口が淡々としているために、かえって不気味に感じられた。
「……まあ、そういった事情でね。ウチの社長とも相談して、一遍いっぺん志条さんに見てもらおうっつう話になったんですよ」
「なるほど、だからなるべく早く来て欲しいっておっしゃってたんですね。そんな調子じゃ全然仕事にならないから」
「そういうこってす……とはいえ、まさかさっきの今で来て貰えるとは思っちゃいませんでしたよ」
「まだ夏休みでヒマしてましたから。それに、他ならぬ朱田工務店さんのご依頼なら、いつだって飛んで行きますよ」
  そう言って、彩人が自信ありげに胸を張る。少し前の俺がこのやり取りを聞いていたら、「こんなインチキ野郎に金払う必要ねえ」とか何とか言って、全力でソウさんを説得しにかかっていた事だろう。だが、今は……
  俺の隣で行儀良く座っている彩人を横目で窺いながら、俺は辞める直前に社長から言われた言葉を思い出していた。
『長くこの仕事続けてると何回も目にすんだよ。“迷信”を信じざるを得なくなるような現場をな』
  その言葉の意味を実感したのが、建築の仕事を辞めてからというのは何とも皮肉な話だが、確かに社長の言った通り、俺はこの身をもって思い知った。
  俺が否定し続けていた、迷信じみた世界が本当に存在している事を。
「……それにしても、猛と志条さんがそうやって並んでんのは何か妙な気分だなあ……志条さん、猛は上手いことやれてますかね? こいつはどうも喧嘩っ早いとこがありましてね」
  さっきまでとは打って変わった呑気な口調で、ソウさんが不意にそう言った。思ってもいなかった事を突っ込まれ、俺は慌てて言い返すために顔を上げる。
「ちょ、ソウさん、いきなりなんすか。ガキ扱いしないでくださいよ」
「大丈夫ですよ惣二さん。猛さんはすごく良くしてくれてます。なんだかんだ優しいし、お料理上手だし、可愛いし」
「お前ちょっと黙れ」
  調子に乗る彩人の脳天を引っぱたいてやろうとしたが、ギリギリのところで躱された。こいつ、だんだんと生意気になっている気がする。
「なんだ、仲良くやってんじゃねえか。良かったな、猛」
「いや、どこがだよ……」
  きっとソウさんの目には、子供が二人でじゃれ合っているようにしか見えないのだろう。なんであれ、彩人と同列に扱われるのは癪だ。
「さて、そろそろ着きますよ」
  俺が不満を零す暇もなく、ソウさんが運転する車は、いつの間にかひなびた街並みに差し掛かっていた。そこに広がっていたのは、畑の合間に寄り添うようにして古い瓦屋根がいくつも並んでいる、平和な田舎町の光景だった。
  褪せた看板を掲げている美容室の角を曲がり、緩やかな坂を下っていくと、そこは静かな住宅街に繋がっていた。
「良い感じのところですね。落ち着いた雰囲気で」
  窓の外を見ながら彩人が呟く。その視線の先には公園があって、フェンスの向こうに置かれたベンチの上で、黒い猫が昼寝をしていた。
  道を挟んだ隣には小規模な町工場があり、さらにその先には工場の敷地よりデカそうな田んぼが見える。そうやって目に映る光景全てが、一昔前の映画でも観ているような気分にさせる、そんな町だった。
  俺が景色を眺めている間に、車はそのまま田んぼの横を抜けて脇道に入り、突き当りのT字路にある家の前で停車した。
「ここがその家ですよ、志条さん」
  そう言って、ソウさんがシートベルトを外しながらこちらを振り返る。
「ありがとうございます、惣二さん!」
  ソウさんに礼を言って、彩人がいそいそと車を降りる。その後に続いた俺が目にしたのは、
「……見るからに普通の家っすね」
  ごく普通の、いや、普通よりも大分寂れた様子の、ありふれた一軒家だった。
「そりゃまあ、明らかにヤバそうな家だったらさすがに引き受けねえよ」
  車を降りてきたソウさんが、キーを片手にそう言って肩をすくめる。俺は改めて、眼前の家に視線を戻した。
  俺の胸くらいの高さのブロック塀と、申し訳程度に備え付けられた格子状の門。錆の浮いた郵便受けの横には、掠れた文字で『箕田村みたむら』と書かれた表札が掛けられていた。
「鍵はオレが預かってますんで、どうぞ」
  鍵束を手に門を開けたソウさんに促され、彩人と俺は敷地の中へ足を踏み入れた。
  門から玄関までは数歩で足りる程度の狭いスペースしかなく、新品同然の植木鉢と先の曲がった園芸用スコップが無造作に転がっている。
「引き戸の玄関なんて初めて見たかも。ほんとに古いお家なんですねー」
  物珍しそうに玄関口を見上げて彩人が言う。よく見ると引き戸の磨りガラスは下の方がひび割れていて、ここが家主のいない廃墟なのだということを改めて思い起こさせた。
「志条さん、庭にはここから入れますから。さっそくお願いしますよ」
  玄関脇で好き放題に枝葉を伸ばす植え込みの影から顔を出し、ソウさんが彩人を呼ぶ。
「はいはーい。今行きますー」
  軽い調子で答えた彩人が、パタパタとソウさんの元へ駆け寄る。どうやらあの植え込みの奥から、家の脇にある庭へ出られるらしい。
  ソウさんと共に家屋の影に消えて行った彩人を追いかけようと、俺が一歩踏み出したその時、
「うわっ」
  彩人の短い悲鳴が聞こえてきて、俺は慌てて駆け出した。
「彩人?! 大丈夫か!」
「猛さん? あ、待って! 猛さんは来ない方が良いです!」
  彩人のその声を聞いた時には、もう遅かった。
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