片月の怪

村井 彰

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第三章 寂しさの在処

3話 猫の町

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  彩人と二人、黙ったままで夕暮れの町を歩いていく。人通りの少ない緩やかな坂を登っていくと、道の向こうから帰宅途中らしい女子高生達が、二人で仲良く話しながらやってきた。休み明けのテストの結果がどうだとかいう会話を聞くともなしに聞きながら、俺はふと美優ちゃんの事を思い出していた。落ち着いたら連絡すると言ったのに、結局まだ何も伝えられていない。今日の仕事が終わったら、何か一言メッセージでも送ってみようか。
  楽しげな笑い声が遠ざかって行くのを背中に聞いて、俺はそんな事を考えた。社長やソウさんが父親のような存在であるのと同じに、俺は美優ちゃんの事も妹のように思っている。仕事を辞めたからと言って、あんなふうに気まずいまま関係を終わらせたくはなかった。
「猛さん、あそこの公園に行ってみましょう」
  彩人にTシャツの袖を引っ張られ、俺は取り留めもない思考を打ち切って、その指がさす方に視線を向けた。
  そこは、さっき車の中からも見えた公園だった。民家と民家の間にある空きスペースをフェンスで囲い、そこに小さな遊具をいくつかおざなりに置いただけの場所で、さっきと変わらず黒猫が昼寝をしているのが見える。
  この公園に何かあるのか、と身構える俺を置いて、彩人は駆け足で敷地の中に入り、迷いなく黒猫が寝ているベンチへと向かう。
「わあ、見てください猛さん。この猫全然逃げないですよ! 人に慣れてるのかなあ……キミ、どこかで飼われてるの?」
  ベンチにいそいそと腰掛けて、彩人が馴れ馴れしく猫に話しかける。こいつ、まさか……
「彩人……お前まさか、猫を近くで見たかっただけじゃねえだろうな」
「この猫ちゃん大きくてかわいいですねえ。猛さんは猫派ですか? それとも犬派?」
「おい」
  真面目に仕事をする気があるのか、と俺が怒ろうとした時、
「ちょっと、そこのお兄さんたち! 猫に餌とかやらないでね!」
  今の俺以上に刺々しい声が飛んできて、俺と彩人は同時に顔を上げた。見ると、五十代半ばくらいの大柄なオバサンが、肩をいからせてこっちへ向かってくるところだった。
「ええと……」
  戸惑った声を出す彩人の横で、黒猫は少しだけ顔を上げて、オバサンの方をちらりと見た。この猫は人に慣れているというより、単に肝が据わっているだけなのかもしれない。
「可愛がるのは結構だけど、餌はあげちゃダメよ! 前もそうやって中途半端に面倒みる人がいたせいで、一時この辺り猫だらけで酷かったんだから」
  目の前でオバサンが仁王立ちになったのを見て、彩人は慌てて立ち上がり、ホールドアップの姿勢を取った。
「大丈夫です! あげられるものは何も持ってないので」
「……なら良いけど。ほんと困るのよ。ゴミは漁るし、糞はするし、あんなに増えちゃ可愛いなんて言ってられないわ」
  そう言って、オバサンは鼻息荒く黒猫を睨んだ。しかし当の猫は知らんぷりで、また昼寝を始めてしまった。
「えっと……なんだか大変だったんですね。でも今は、他の町と比べて特に猫が多いようには感じませんけど……」
  初対面の、しかもこんな険のあるオバサン相手にも、彩人はまったく臆せず話しかける。コミュニケーション能力が高いのか、それとも単に空気が読めないのか。たぶんその両方だ。
  オバサンの方も多少ムスッとしてはいるが、彩人の呑気な調子に毒気を抜かれたのか、先ほどまでの険しさは減ったような気がする。
「まあ、以前に比べたらかなり少なくなったわね。……こう言っちゃなんだけど、今年の春に箕田村さんのおばあちゃんが亡くなってからよ」
  その名前を聞いた瞬間、俺と彩人は思わず顔を見合わせていた。
「箕田村さんが、何か猫と関係あるんですか?」
「あら何? お兄さん達、箕田村さんの知り合いなの?」
「箕田村さんのというか……僕達、大学で建築の勉強をしてて、知り合いの工務店さんに取材してるところなんです。ほら、今あのお家工事してるでしょう?」
  よくもまあ、そんなにスラスラと口から出任せを言えるものだ。呆れる俺の前で、オバサンは納得したように頷いている。
「そういえば、お葬式のしばらく後から、業者の人が出入りしてたわね。けど、臭いとか大変なんじゃない? あそこ、長いこと猫屋敷になってたから」
「猫屋敷……箕田村さんが、たくさん猫を飼ってたってことですか?」
「飼ってたって言えるのかしらね。あの人が毎日餌をやるもんだから、庭にたくさん猫が集まってきて、住み着いて……一番多い時は、本当に何十匹もいたんじゃないかしら。だから、さすがに近所の人達が苦情を入れたんだけど『かわいそうだから』の一点張りでね。けど、おばあちゃんが亡くなって餌をあげる人がいなくなったら、それだけの猫が食べるものなんてあるはず無いでしょう? かえって可哀想だわ、そんなの」
  そう言って、オバサンは頬に手を当ててため息を吐いた。案外この人も猫好きなのかもしれない。
「それで、箕田村さんが亡くなってから、町の猫も減っていったんですね……」
「そういうことよ。地域猫にするって言っても限度があるし、とにかくようやく落ち着いてきたところなの」
「そうだったんですね。貴重なお話、ありがとうございました」
  彩人はオバサンにペコリと頭を下げると、頭を上げて俺の方に目配せをした。彩人の言いたいことは大体わかる。あの庭で感じた強烈な騒音と異臭、そして家主が生前面倒をみていたという何十匹もの猫。それらを結びつけるのは、あまりにも容易な事だった。
  それから俺達は、オバサンと猫に軽く挨拶をして公園を飛び出した。足早に向かう先は、箕田村家だ。
「なあ彩人。あの庭にいた黒い塊は……」
「たぶん、猛さんの思ってる通りです。あの庭にはかつてたくさんの猫が住み着いていた。そしてたぶん、あの庭で死んだ猫も、たくさんいた」
「……つうことは」
  脳裡に浮かんだ嫌なイメージに口を噤んだ俺を、彩人が横目に見上げる。
「あそこの玄関の前に、使い古した園芸用スコップがあったでしょう。だけど植木鉢の方は全然土が付いてなくて、何かが植えられていた形跡は無かった。つまり」
「あのスコップは、死んだ猫を埋めるのに使ってたってことか……」
「それにしても数が多すぎるので、おばあさんが亡くなった後に、散り散りになって死んでしまった猫たちが戻って来ているという可能性もありますけど」
  何でもなさそうな調子で彩人が注釈を入れるが、俺からすれば同じ事だ。
  あの庭には、無数の死んだ猫達がいる。
  それは、想像するだけでゾッとするような光景だった。
「……まあ、あれだ。あの幽霊? の正体が分かったんなら、もう解決できるんだよな」
  無理やり明るめの声を作って、俺は彩人にそう訊ねた。彩人の事だから、きっと今までのように自信満々に笑って答えるだろう。そう思ったのに。
「問題はそこなんですよね……」
  そう呟いて、彩人はまた難しい顔をしてしまった。
「なんだよ、無理なのか?」
「猫に人間の言葉が通じると思いますか?」
  開き直ったように問い返され、俺は思わず眉を寄せた。
「……お前の力、案外万能じゃねえな」
「万能な人間なんていませんよ。だからこうして地道に調べてるんです。捜査の基本は足ですから」
「霊媒師が刑事きどってんなよ」
「気取るくらい良いじゃないですか。刑事ドラマ好きなんですもん」
  彩人と言い合っているうちに、箕田村家にはすぐに戻って来た。辺りは既に夕焼けの色に染まり出し、道には濃く長い影が落ちている。実際に怪現象を目の当たりにした事もあってか、今はかなり不気味な雰囲気に感じられた。
「で? 力が使えねえなら何のためにここまで戻って来たんだ」
「ここのおばあさんにお願いして、猫たちに直接呼びかけて貰おうと思うんです。ほら、人間の言葉は通じないとしても、長年世話をしてきた人の言うことなら、猫にもなんとなく伝わるんじゃないかなって」
「おばあさんにって……さっきお前が自分で確認したんじゃねえか。もう家の中には居ないんだろ」 
  俺が疑問を口にすると、彩人は小さく頷いて、箕田村家をまっすぐに見上げた。
「これは勘……というか、経験からくるアレなんですけど、やっぱりおばあさんは、まだこの辺りにいると思うんです。少しでも気がかりな事があると、人は綺麗に死ねません。自宅の庭があんなことになっているのに、知らんふりして成仏しちゃえる人って、そう多くはないはずです」
「つっても、それこそ、こんな状態の家を放ってどこに行ったってんだ」
「きっとそう遠くにはいないと思います。高齢だった箕田村さんの行動範囲なんてたかが知れてますし……とにかくそこに、箕田村さんにとってこの家以上に気がかりだった何かがあるはずなんです」
  この家の状態以上に、気がかりな何か? 言葉で言うのは簡単だが、それが何なのか想像もつかない。
  考え込む俺を気にするふうもなく、彩人はいつもの気楽な調子で、またろくでもないことを言い出した。
「猛さん。ここからは別行動にしましょう」
「……は?」
「そろそろ日も暮れて来ましたし、一緒に行動してたら時間がもったいないじゃないですか。せっかく僕たち二人とも“視える”んですから」
「いや、だからってな、別行動なんかしたらボディガードの意味ねえだろうが」
「それじゃ、僕は家の西側に行くので、猛さんは反対方面をお願いします。何か少しでもおかしな物を見つけたら、僕のスマホに連絡いれてください」
  俺の意見など端から聞く気はないようで、彩人は言いたい事だけ言って背を向けると、さっさとT字路の左の方へ歩いて行ってしまう。
「おい彩人! …………足速すぎるだろアイツ、競歩かよ」
  みるみるうちに遠ざかっていく彩人の背中を呆然と見送り、俺は何度目か分からないため息を吐き出した。今さら彩人の後を追いかける気にはならないので、あいつが消えていった方に背を向け、T字路の右側へと歩き始める。
  静かな住宅街に人気は少なく、視界に映る範囲には誰もいない。俺は西陽に背中を炙られながら、足元に長く伸びる己の影に視線を落として少し考えた。
  あの中堂という男に絡まれた時、彩人は『守ってくれる人が必要だと思った』と言った。けれど今になって、そんなものは建前でしかなかったのだと分かった。
  なにしろ彩人には、守られようという気が全くないのだ。こうして平気で単独行動を繰り返し、俺には妙なちょっかいばかりかけてくる。それはつまり。
『好きです。猛さん』
  あの晩に聞いた彩人の言葉が蘇って、俺は思わず歩みを止めた。
「…………まいったな」
  独り言を零して、汗ばんだ首筋をカリカリと掻く。
  あいつはきっと、最初から俺に近づくためだけに、社長にボディガードの話を持ちかけたのだろう。一体俺の何をそんなに気に入ったのか、その理由は俺にはよく分からない。分からないけれど、それでもあいつが本気だというのなら、俺はどうすればいいのだろう。
  立ち尽くす俺の耳に、どこか切なさを孕んだひぐらしの声が届いた。夕陽は容赦なく照りつけて暑いくらいだが、それでも確かに、夏は終わりを迎えようとしている。
  いつまでもここでこうしていても仕方ない。俺が再び歩き出そうとした時、
「……ん?」
  その時、目の前を横切った姿に驚いて、俺は思わず声を上げていた。
「彩人……?」
  短い黒髪に、幽霊のように白い肌、服装までもが全く同じだ。間違いない。たった今俺の前を通って行ったのは、ついさっき別れたはずの彩人だった。
  だが、そんなのはおかしい。だって彩人は、間違いなく俺と反対の方に向かって行ったじゃないか。それなのになぜ、今ここで俺の前に現れる事が出来るんだ。
  唖然とする俺の前で、彩人に似た何者かは、民家の合間にある路地へと消えて行く。その直前、そいつは一瞬こちらを振り向いて、かすかに微笑んだ。
  その顔立ちは確かに彩人と瓜二つなのに、それは俺が今までに見たことの無いほど妖しげな笑みで……気づけば俺は、誘われるように一歩踏み出していた。
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