片月の怪

村井 彰

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第三章 寂しさの在処

4話 出会いの意味

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  ブロック塀と民家の屋根に切り取られた、細長い夕焼け空の下を、彩人に似た誰かは、迷いのない足取りで路地の奥へと進んで行く。その頃には、俺もとっくに気がついていた。
  目の前を歩くこいつの耳には、ピアスの跡がひとつも無い事に。
  彩人と全く同じ容姿、唯一の違いは右耳に開いたピアスだけ……そんな人物に、俺はひとりだけ心当たりがあった。だが、彩人の言葉を信じるなら、その人物はずいぶん昔に死んだはずで……
「なあ、お前……」
  黙っていられなくなった俺が思わず呼びかけると、そいつはピタリと足を止めた。俺の声に反応したのかと思ったが、どうやらそうではなかったらしい。そいつは俺の事など見えていない様子で、路地の横に伸びる、さらに細い脇道へと足を向けた。
「あ、おい! ちょっと待てって!」
  こんなところで見失ってたまるか。
  俺は慌ててそいつの後ろ姿を追って、脇道へと飛び込んだ。
  急いで駆け込んだそこは、建物と建物の隙間のような細い空間で、足元は舗装すらされていなかった。左右は大人がギリギリ通れる程度の幅しかなく、彩人と同じく細身のあいつは良いが、人より肩幅のデカい俺はまっすぐ走る事すらままならない。俺がどれだけ焦っても、彼我の距離は広がる一方だ。
「おい……! 頼む、待ってくれ! 聞こえてないのか? なあ…………拓人!」
  俺がその名を口にした瞬間、そこに居たはずの小さな背中は、幻のように掻き消えてしまった。
  必死に追いかけていた相手を唐突に見失い、咄嗟に伸ばした手は空を掴んだ。
  なぜだろう。理由の分からない喪失感に襲われて、俺はその場に立ちすくんだ。そしてその時ふと、足元に転がっている何かに気がついた。
「……なんだ?」
  剥き出しの砂利道の真ん中に、薄汚れた毛皮の塊がぽつんと横たわっている。どうやらそれは、三毛模様をした猫のようだった。
  だが、その猫がもう生きてはいない事は、夕闇の中にもハッキリと分かった。ぴくりとも動かないその体からは、間違えようもない死臭が漂っていたからだ。
  手の甲で口元を覆って、そっと猫のそばに膝をつく。よく見ると、三毛猫の周りには、似たような模様をした小さな何かが、いくつも寄り添うようにして倒れていた。きっと、この猫の子供達だ。
  公園で会ったオバサンが言っていた通りだ。箕田村の婆さんが亡くなってから、食べる物の無くなった猫達は、どんどんその姿を減らしていったのだと。だからおそらく、この母子も……
「こいつらが心配だったから、アンタはずっとここに居たのか」
  路地のさらに奥、行き止まりになったその場所で佇むヒトに、俺はそう呼びかけた。
  俺は、このヒトが生前どんな姿をしていたのか、このヒトがどんな人間だったのか、何ひとつ知らない。それでも直感的に分かった。
「俺の雇い主が、アンタに頼みたい事があるって言ってんだ。会ってくれるか? ……箕田村さん」
  腰の曲がった小さな老婆は、何も言わずにただ俯いていた。

  *

  それから十数分後。連絡を受けた彩人が急ぎ足にやって来るのを、俺は脇道のそばに立って待っていた。
「猛さん!」
  息を弾ませながら俺の前で立ち止まり、彩人は興味深けに脇道の先を覗き込んだ。辺りはもうすっかり日が暮れて、街灯の明かりすら届かない細い道の奥は、完全な真っ暗闇に沈んでいる。
「すごい。こんなところに道があったなんて……猛さん、よく見つけましたね」
「ああ……」
  お前の兄貴が教えてくれたんだよ、とはなぜか言えなかった。
  ためらう事なく脇道に入り込んでいく彩人の後ろに続き、俺はスマホのライトを掲げて道の先を照らした。ぼんやりと広がる明かりの中に、先ほど俺が見たのと同じ光景がある。
「箕田村さん?」
  猫の死体の前で足を止め、彩人はその向こうにいる老婆へと呼びかけた。だが婆さんは何も答えない。
「「箕田村さん、聞いて」」
  老婆の反応がないのを見た彩人が、例の“声”を使った。その途端、婆さんが着ている花柄のブラウスの肩が、ほんのわずかに震えたのが見えた。
「箕田村さん、僕たちね、ずっとあなたの事を探していたんですよ。あなたのお家で、たくさんの猫たちが、今もさまよっているんです。だからどうか、あの子たちを連れて行ってくれませんか。それが出来るのは、あなただけだと思うので」
  老婆の頭が、逡巡するようにフラフラと揺れる。しかしその視線は、彩人と婆さんの間に横たわる猫達から離れようとしない。
「この親子のことが心配だったんですよね? 間に合わなくて本当にごめんなさい。この子たちは、僕たちがきちんと供養するって約束しますから……だから、お願いします」
  彩人が婆さんの方をまっすぐに見据えながら伝えても、婆さんの様子は変わらない。なんだ? この猫にまだ何かあるのか。もしかして、俺は何かを見落として……
「……! おい、彩人! その猫よく見てみろ」
「えっ」
   その事に気づいた俺が慌てて彩人の肩を叩くと、彩人は驚いた様子で視線を下げた。
  母親に寄り添う小さな影をライトで照らしながら、俺は反対の手でそれを指さした。
「そいつ……一匹だけ、まだ生きてるんじゃないか?」
  冷たくなった猫たちの体の下で、もぞもぞと動いている何かがいる。彩人もそれに気づいたようで、すぐにその場にしゃがみこんで、まだ動いているそいつに手を差し伸べた。
「本当だ……見てください、猛さん。こんなに小さいのに、ちゃんと生きてます」
  小さな灰色の毛むくじゃらは、弱々しい動作で彩人の手のひらに乗って、匂いを嗅いで……それから小さくくしゃみをした。
「そうか……この子がいたから、箕田村さんは家に帰れなかったんだ」
  小さな生き物をそっと胸に抱いて、彩人はもう一度婆さんに向き直った。
「この子は僕が連れて帰って面倒をみます。それでいいですか?」
  彩人がそう訊ねると、婆さんの影が少し揺らめいた気がした。そして、
「消えた……」
  ほんの瞬きの間に、その姿は消えていた。
「きっとあのお家に戻ったんですよ。僕たちも追いかけましょう……と、その前に」
  彩人はおもむろにズボンのポケットに手を入れると、そこから取り出したハンカチに子猫を包み、俺の前に差し出した。
「猛さん、少しの間この子を預かっていてください。僕はお母さんたちを連れて行きます」
「連れて行ってどうすんだよ」
  俺が慎重な手つきで子猫を受け取ると、彩人は躊躇なく地面に膝をついて、胸に抱くような形で親子をまとめて抱え上げた。
「おばあさんと約束したので、庭の猫たちと一緒に供養して貰います。……供養のためのお金って、工事の依頼人さんに出して貰えると思いますか?」
「あー……庭がやべえのは向こうも分かってたみてえだし、その辺は社長が上手いこと交渉するだろ」
「なら良かった。あれだけの数だと結構な額になりそうですもんね。団体割引とかないのかなあ」
  微妙に不謹慎な事を言う彩人と共に、来た道を引き返して行く。
  脇道の外へ出ると、空に星が瞬き始めている事に気がついた。
  家々の窓には明かりが灯され、街には夜の空気が満ちていく。そんな穏やかな日常の中、ひとり死臭を纏って歩く彩人の姿が不意に、先ほど見た拓人の背中に重なって見えた。
「彩人……っ」
  言いようのない不安に襲われて、俺は猫を抱いていない方の手で彩人の腕を掴んだ。俺自身ですら予想していなかった行動に、彩人が心底びっくりしたような表情で振り返る。
「猛さん……? 突然どうしたんですか」
「ああ……いや……」
  お前が消えてしまうような気がして不安になったんだ、なんて言えるはずもない。
「あー……その、ほら、両手がふさがってると危ないだろ? 暗いし」
  しどろもどろの言い訳を、きょとんとした顔で聞いていた彩人が、ふと破顔した。
「なんですか、それ。さすがにそこまで鈍臭くないですよ」
「……だよな」
  気まずくなって手を離した俺のそばに、今度は彩人の方から寄り添ってきた。俺の腕に彩人の肩がぶつかって、そこからじわりと温かさが滲みだしてくるようだった。
「心配してくれて、ありがとうございます。……このまま、腕とか組んで行きますか」
「……バカか」
  言い返した俺の声に、いつものような勢いがなかった事に、彩人も気づいていただろう。
  彩人と触れ合った箇所から伝わってくる体温に、俺は少し安心して息を吐いた。
  こんなにもマトモじゃない状況なのに、俺の心はなぜか、とても穏やかだった。

  *

  その後、箕田村家に戻った俺は、彩人が猫の親子を庭に横たえるのを見ながら、ソウさんに電話をかけていた。庭の怪異が既に姿を消した事は、現在進行形で俺がこの身を持って証明している。だからソウさんからの依頼はこれで達成なのだが、彩人も言っていた通り、猫達をこのままにはしておけない。供養云々を抜きにしても、埋められているであろう死体を掘り出さなくては、工事を進められないからだ。
  事の顛末を説明し終えて通話を切ると、いつの間にか俺のそばに近づいて来ていた彩人が、俺の左手でもそもそと動いている猫に手を伸ばし、小さなその頭をそっと撫でた。
「ソウさん、今から社長に伝えて、明日の朝イチで施主のおっさんにも連絡してくれるってよ。上手く行きゃ、明日中には何かしら対処してくれるだろ」
「そうですか、良かった。おばあさんも猫たちも行っちゃったみたいですし、もう僕たちに出来ることは無さそうですね」
  俺の手からハンカチごと猫を受け取って、彩人が目を細める。
「結局、あの猫はみんな、婆さんが連れてったのか? デカい騒ぎだったわりに、なんか呆気ない終わりだったな」
「そうですね……きっと、よっぽどおばあさんに懐いてたんだと思いますよ。ああやって庭に誰か来るたびに大騒ぎしてたのも、おばあさんがいない間の家を守ってるつもりだったんじゃないのかな。……なんて、ただの憶測ですけど」
  そう言った彩人の笑顔は、さっきまでの優しげなそれとは違う、どこか皮肉げなものに変わっていた。
「こんな終わり方だと、なんだか良い話みたいですけど……これって元々は、おばあさんの自己満足で始まったことなんですよね。一時の感情で可哀想な猫をたくさん集めて、その結果どんどん猫が増えていって、結局ほとんどが死んでしまった。……この子の家族も」
  彩人の手の中できょろきょろと辺りを見回していた子猫は、今は彩人の胸に小さな手を置いて、夢中で何かを探しているようだった。
「目の前で家族をみんな喪って、それでもたったひとりで生きていかなきゃいけないなんて、そんな生は残酷です。それなら……そんな思いをするくらいなら、初めから産まれてこなかった方が……っ」
「彩人」
  震える言葉に気づかないふりをして、俺は静かに彩人の名前を呼んだ。俯いている彩人の表情は見えない。けれど、次々に零れるその言葉が、本当は何を指しているのか。俺には何となく分かるような気がした。
「確かに、婆さんがやった事は褒められたモンじゃないと俺も思う。そのせいで人も猫も、大勢が迷惑被ったわけだしな。……けどな、それでも、こいつが産まれた事まで丸ごと否定しちまうのは、ちょっと乱暴なんじゃないか」
  俯いたまま、彩人は何も答えない。俺は構わず言葉を続けた。
「辛い思いをしながら生きるくらいなら、初めから産まれない方が幸せだなんて、俺はそんなふうには思わない。先のことなんて誰にも分かんねえんだ。生きていった先に、今よりずっと良い何かがあるかも知れねえだろ。……お前には、綺麗事に聞こえるかも知れねえけど」
  今に満足しきって未来を捨てた母さんと、今に絶望して過去まで否定しようとする彩人。真逆のような二人が、なぜか重なって見えて、俺は黙っていられなかった。
「少なくとも、こいつは生き延びて、お前に拾われた。そういう出会いまで否定するのは……なんか、寂しいだろ」
  母さんが死んで、父親との関係も悪くなる一方で、完全に腐りきっていた時に俺が出会ったのが、朱田社長だった。俺自身も、俺の人生も、クソみたいな事ばかりだったが、それでも否定したくない出会いがいくつもある。
  そしてそんな出会いの中に、目の前にいるこいつの事も……
「出会い……」
  まだ顔を上げないままで、彩人がぽつりと呟く。その声を聞いた途端、俺は我に返った。
  俺は今、何を考えてた?
  自分の中に浮かんだ思いに戸惑う俺の手に、彩人の細い指先がそっと触れた。
「……猛さん、そろそろ帰りませんか? あんまり遅くなると、あとが大変ですし」
「あ、ああ……」
  勢いに押されて俺が頷くと、ようやくわずかに顔を上げて、彩人が少し微笑んだ。
「猫連れて電車には乗れないから、タクシー呼んだ方がいいですよね。でもこの臭いだと嫌がられちゃうかなあ」
  片手で自分の服を摘んで、彩人がおどけたように言う。その様子があまりにもいつも通りで……俺は少し苦しくなった。
「行きましょう、猛さん」
「……ああ」
  星空の下を歩き出した彩人の後ろに続く。
  俺にとってのこいつが何なのか、俺にはまだ分からない。それでも、この出会いにも意味があるのなら。
  この道の先は、どこへ続くのだろうか。
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