片月の怪

村井 彰

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第四章 半分の月

1話 再会の雨

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  九月も半ばを過ぎた日の昼。自室の掃除を終えてリビングに出た俺は、ソファに横たわって安らかな寝息を立てる彩人の姿を見た瞬間、思わず舌打ちを洩らしそうになった。
  寝息に合わせてゆるやかに上下する彩人の腹の上では、子猫のサブローが丸くなって眠っている。ここだけ切り取って見れば、とても穏やかで平和な光景だ。

  箕田村家の怪異を解決したあの日、家に連れて帰った子猫は、飯を食わせて体を拭いてやると、見違えるように元気になった。薄暗かったのと汚れていたので灰色に見えていたが、実は黒と白のぶち模様をしていたらしく、この半月で若干太ったのもあって、こうして寝ているとミニチュアサイズの牛のようだ。
  ちなみにサブローというのは、動物病院で名前を聞かれた際に彩人がその場で考えた名前である。タローとジローを飛ばした理由は、『猫っぽくないから』らしいが、俺はあまりピンと来ていない。
  そんなサブローと彩人の寝顔を数秒ほど黙って見つめた俺は、起こさないよう慎重にサブローを抱き上げて猫用ベッドに寝かせると、そのまま彩人の元へ近づき、両肩を掴んで思い切り揺さぶった。
「お前今日の午後から授業だっつってたろ! 今すぐ起きろこのバカ!!」
  俺が耳元で怒鳴ると、彩人は鬱陶しそうに顔を顰めて身動ぎをした。
「うぅ……雨降りそうだし行きたくないです……めんどくさい……」
「ふざけんなてめえ、俺に送り迎えさせんだから雨でも関係ねえだろうが。いいからとっとと起きろ」
  苛立ち混じりに頬っぺたをつねってやると、嫌々といった感じで、彩人はようやく体を起こした。しかしその目はまだ半分眠っている。
「あー……ったく……とにかく今すぐに顔洗って来い。寝癖直しと昼飯食うのは車ん中でやれ」
「ふぁい……」
  寝ぼけた返事をする彩人をソファから引きずり下ろし、洗面所の方に押しやる。先日彩人が中古車を購入したので、俺の仕事はボディーガードから兼任運転手へと変わっていた。どちらかと言うと、家政夫兼運転手の方が正しい気もするが。
「はあ……」
  ため息と共に頭をガリガリと掻いて、俺はソファの横に置いた猫用のベッドに視線を移した。
  巨大な食パンの形をしたクッションの上では、サブローが腹を見せてぐうたらと眠っている。横であれだけ騒いだのに起きる気配も無いとは、飼い主に似て呑気な事だ。
  サブローを起こさないよう静かにその場を離れ、俺はキッチンに向かった。呑気な雇い主のために、握り飯を作るのだ。
  ちらりと見えた窓の外は、今にも泣き出しそうな曇り空。念の為、二人分の傘も忘れないように用意しておかなくては。

  *

「じゃーな。終わる頃に迎えに来るから、真面目に勉強しろよ」
「はあい……」
  覇気のない返事をして、彩人が車を降りる。灰色の空の下、小さな背中が大学の正門へ入って行くのを運転席から見届けて、俺はようやく一息ついた。
「ったく……面倒ばっかかけやがって」
  ミラー越しに見た後部座席には、空の弁当箱と寝癖なおしのボトルが転がっている。あいつ、こんな生活能力の低さで俺が来る前はどうやって生きてたんだ。それとも俺がいるから甘えているのか。だとすると、俺がいちいち世話を焼いてしまう事にも問題があるのかもしれない。
  そこまで考えて、思わず運転席に突っ伏した。
  なぜあいつのために、俺がここまで気を揉んでやらなくてはいけないのだろう。そう内心で頭を抱えた時、
──コンコン
  運転席の窓を叩く音がして、俺は反射的に顔を上げていた。音の聞こえた方に視線をやると、そこには予想もしていなかった人物の姿があった。
「美優ちゃん?!」
  車の中を覗き込みながら、にこにこと手を振っている女の子。それは見間違えるはずもない、朱田社長の娘である、美優ちゃんだった。

  *

  それから十数分後、俺は美優ちゃんと二人で、国道沿いにあるファミレスを訪れていた。
「それにしてもびっくりしたな……まさかあんなとこで会うと思ってなかった」
  ウェイターに案内されるまま窓際のボックス席に座った俺は、美優ちゃんにメニューを差し出しながらそう言った。
「志条さんがあの大学に通ってるのは前にお父さんから聞いてたし、たけるくん、最近は運転手もしてるって言ってたから、もしかしたら会えたりするかなーって。そんなに期待してたわけじゃないけど」
  俺の向かいに腰かけて笑う美優ちゃんは、いつも下ろしっぱなしの長い髪をゆるく巻いて、よく見ればうっすらと化粧もしている。見慣れた制服姿はいつもと同じはずなのに、今日の彼女はずいぶん大人びて見えた。
「一言連絡くれりゃ、こっちから会いに行ったのに。……つうか、今さらだけど今日って平日だよな? こんなとこでウロついてていいのか?」
  今の時刻はまだ午後二時前だ。学校が終わるには少々早い時間だし、制服を着ているという事は臨時休校というわけでもなさそうだが。
  そんな俺の疑問に、美優ちゃんはメニューをパラパラと捲りながら、何でもなさそうに答えた。
「今は文化祭の準備期間だから、午前中までで学校終わりなの。私は運動部だからあんまりやることもないし……ほんとはクラスの出し物の準備もあるんだけど、今日はサボっちゃった」
  そう言って、胸元の赤いリボンを弄る美優ちゃんは、少しだけ後ろめたそうに見えた。彼女が真面目な性格だということはよく知っているので、こういうのは少し珍しい。
「ね、このチョコパフェ頼んでもいい?」
「いいよ、何でも好きなモン食いなって。俺もちょうど昼飯にしようと思ってたとこだしさ」
  美優ちゃんに遠慮させないように、俺はさっさと呼び出しベルを押して、ランチメニューのハンバーグステーキセットを注文した。彩人の昼飯を優先したせいで、朝以降何も食べていないのだ。
  そうして二人分の注文を聞き終えたウエイトレスが去って行くと、俺達の間に少しの沈黙が流れる。それを先に破ったのは、美優ちゃんの方だった。
「……ねえ、もしかしてたけるくん、会わないうちに彼女できた?」
「………………はあ?!」
  一瞬何を聞かれているのか分からず、俺は数秒遅れてマヌケな声を上げた。
「全っっっ然できてねえよ、何でそうなるんだよ」
「あれ、違うの? たけるくん、なんか前より優しい顔するようになったから、好きな子とかできたのかなーって」
  動揺する俺がよほど面白かったのか、美優ちゃんが口元に手を当ててくすくすと笑う。俺は何となくむず痒くなって、自分の首筋を軽く掻いた。
「んだよ……美優ちゃん、そんな恋愛脳なこと言うタイプだっけ?」
「んー普通だったら言わないけど、今はちょっと普通じゃないの。……私ね、彼氏できたんだ」
「…………まじか」
  美優ちゃんに彼氏だって? 確かにもう高二なんだから、そのくらい居ても全然おかしくないけど。けれど、初めて会った時の美優ちゃんが小学生だった事を思い出すと、少し寂しいような気持ちにもなる。
「あー……あれだ。もし付き合ってみて変なやつだと思ったら、すぐ言えよ。俺がぶっ飛ばしてやるからな」
「やだ、たけるくん。お父さんと同じこと言ってる」
  美優ちゃんが可笑しそうに言うので、俺は思わず口を噤んだ。お父さん……確かに俺のこの感情は、父親目線のそれなのかもしれない。
  黙ってしまった俺を上目遣いに見上げて、美優ちゃんは少し微笑んだ。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。……男子バレー部のキャプテンなんだけどね、すごく優しい人だから」
「……そっか」
  美優ちゃんがそういうのなら、きっと本当に良い奴なんだろう。
「優しい人……なんだけど、やっぱりお父さんは気に入らないみたい」
「そりゃそうだろ。一人娘の彼氏なんて、どんなやつでも気に入らないモンだって」
「そうかもしれないけど、そういうのだけじゃなくて……お父さん、残念なんだと思う。ほんとは、私とたけるくんが結婚して、たけるくんに会社継いで欲しかったみたいだから」
「…………」
  もはや驚く気力も失せた俺は、咄嗟に何も言う事が出来なかった。
「あー……いや……いくら何でもそれは無理があるだろ。美優ちゃんのことランドセル背負ってた頃から知ってんのにさ」
「うん。たけるくんはそうだよね。でも私は、ずっとたけるくんのお嫁さんになりたいって思ってたよ」
「え」
  固まる俺を面白そうに見つめて、美優ちゃんは明るい色のマスカラに縁取られた目を細める。
「お父さんも私の気持ち、たぶん知ってたし……もしお父さんが『美優を嫁に貰ってくれ』って言ってきたら、たけるくんきっとオッケーしちゃったでしょ? 自分の気持ちより、私たちのこと優先しちゃってさ」
「それは……」
  そう、なのだろうか。家庭を持つなんて考えた事もなかったが、もしそれが、社長や美優ちゃんのためになるんだと言われたら。そうしたら、俺は……
「お父さんもそういうの分かってたから、たけるくんに別の仕事紹介したんじゃないかな。……お父さん、たけるくんが辞めちゃった後に言ってたの。『ウチにいたら、あいつは自由に生きられない』って」
「社長が、そんなこと……?」
  俺が邪魔になったわけじゃ、なかったのか。
「そんなの、たけるくんと直接話し合えば良かったのにね。お父さんひとりで勝手にいろんな話進めちゃうんだから。たけるくんの方だって何にも聞かずに辞めちゃうし……男の人って、たまにすごくめんどくさくなるよね」
  いよいよ返す言葉も無くなって、俺は本当に黙り込むしかなくなった。とはいえ、頭の中はいろんな事が渦巻いて、今にもパンクしそうだ。
「……今日ね、もしたけるくんに会えて、それでたけるくんが辛そうにしてたら、めんどくさい男の人たちの代わりに私が言うつもりだった。『たけるくん、今すぐうちに帰ってきて』って」
  少し俯いて、水の入ったコップの縁をなぞりながら、美優ちゃんは言う。
「けど、そんなの全然必要なかった。たけるくん、すごく楽しそうなんだもん」
「楽しそう……俺が……?」
「そうだよ。自分じゃ分からない? たけるくん、お父さんのところで働いてた時は、いつも一生懸命で頑張ってて……そういうところもカッコよかったけど、なんだかずっと張り詰めてるみたいにも見えた。けど今は、そういうの全然感じないから……だから、たけるくん自身が楽しいと思えることを、ちゃんとやれてるのかなって」
「楽しいと思える事……つっても、毎日彩人……志条サンにこき使われてるだけだよ。メシ作ったり、掃除したり、こうして送り迎えしたり」
「じゃあそれが、たけるくんの“楽しいこと”なんじゃない?」
  美優ちゃんがなんでもない調子で放った言葉が、俺の中で火花のように弾けた。
  俺にはずっと、自分という物の中身が欠けているんだと思っていた。前の仕事は好きだったけど、その代わりいつも必死で、楽しいなんて言う余裕はなくて……なのに、今の俺は、傍目にも分かるほど、今の生活を楽しんでいるらしい。
  それは、どうしてなのだろう。金の心配をしなくていいから? 単純に家事労働が性に合ってるから? それとも……
「お待たせいたしましたぁ。ハンバーグステーキのセットと、チョコレートサンデーでございます」
  間延びした喋り方のウェイターがテーブルの上に次々と食器を並べていくのを見ていたら、心に浮かびかけた答えは、形になる前に消えてしまった。
  その後は、二人で向かい合って食事をしながら、ただただ他愛もないお互いの近況を報告し合って時間が過ぎていった。
  そうして、時刻が午後三時半を回る頃、
「送ってくれてありがとね、たけるくん」
  俺は最寄り駅のロータリーに車を停めて、助手席の美優ちゃんと話していた。
「いや、むしろ悪いな、家まで送ってやれなくて。そろそろ志条サンを迎えに行かないとだからさ」
「全然大丈夫だよ。ここからなら定期も使えるし、助かっちゃった」
  そう言いながら美優ちゃんは車を降りると、跳ねるような足取りで歩道に上がった。
「それじゃ、気ぃつけてな」
  ドアを閉める前に俺がそう声をかけると、美優ちゃんはもう一度「ありがとう」と言って、少しこちらへ身を乗り出してきた。
「ねえ、たけるくん」
「ん?」
  首を傾げる俺の方に顔を近づけて、美優ちゃんは囁くように、それでも確かにこう言った。
「あのね、たけるくんが大切にしたいものとか、好きだと思う人とか、そういうのがあるなら、簡単に諦めたりしないでね」
  少しだけ大人びた表情で笑って、美優ちゃんはパッと俺から離れた。
「たけるくん、ずっと大好きだよ。だから、絶対幸せでいてね」
  そう言ってドアを閉めると、美優ちゃんは今度こそ俺に背を向けて、駅の方へと歩いて行った。その背中が改札の向こうに消えていった直後、灰色の空から雨の雫がパラパラと降り始めた。あの子は傘を持ってるだろうか。……いや、彼女には迎えに来てくれる家族がいる。だから俺も、あいつを迎えに行ってやらないと。
  窓を閉めて前を向く。そこから見える街並みはいつもと同じはずなのに、どこか遠くに霞んで現実味がない。
  それもこれも、全て降りしきる雨のせいなのだろう。

  ロータリーを抜けて、大通りを駅とは反対方向に進んで行く。彩人が通っている大学は、駅前から少し離れた、静かな住宅地の辺りにある。元々人通りが少ない上に、雨足が強くなってきたせいか、すれ違う車もほとんどない。雨の日の運転はいろいろと気を遣うが、こんな雰囲気のドライブなら悪くないな。
  そんな呑気な事を考えながら俺が車を走らせていると、足元の鞄に突っ込んだままにしていたスマホが、不意に初期設定の電子音を鳴らして着信を告げてきた。運転中だし、放っておいて目的地まで行ってしまおうかと思ったが、もしかしたら彩人からの連絡かもしれないと思い直し、俺は車を路肩に寄せて停車した。授業が長引いたとか、友達と飯を食いに行くことにしたとか、そういう事情なら無駄足になってしまう。あいつに友達がいるのかは知らないが。
  鞄のポケットから引っ張り出したスマホは、やはり彩人からの着信を知らせていた。
「よお彩人。なんかあったか──」
『猛さん! 助けて!』
  驚いて一瞬言葉を失った俺の耳に届いたのは、悲鳴のような彩人の息遣いと、叩きつけるような雨の音だけだった。
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