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第一幕 黄昏のエイレンヌ
第1話 奴隷令嬢と女将
しおりを挟むララ
イラスト: 夏祭コト様
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
『我が真名を呼べ』
白い――白一色に染められた世界の中で無機質な声が問う。それは男のものか女のものかも判別がつかない、冷たく低調な音。
「誰……ですの?」
少女は訳がわからず逆に問い返す。
『我が真名を呼べ』
しかし、返ってきたのはさっきとまったく同じ文言。
「一体何なんですの!? まずはアナタが姿を現して名乗るのが礼儀ではありませんことッ!!」
イライラをぶつけるように少女は憤然と叫んだ。
『……どうやら不完全のようだ』
まるで吐き捨てるように、あるいはこれ以上は無意味と諦めたかのように謎の声がそう告げると、そこにあった白い世界はぐにゃりと歪みだし、やがて辺りは暗黒に包まれていった。
「だから、一体何のこと――」
その刹那、少女はハッと目を覚ました。
視界に真っ先に映るのは、古ぼけて白茶けてしまった木の天井。
「また、あの夢ですのね……」
ゆったりとした所作で上半身を起こすと、気怠いため息と共にそうもらす。
ふと窓の方に目を向ける。
まばゆいばかりの陽光と共に潮の香りが流れこむ。
ここはアルセイシア王国の北西部にあるエイレンヌ――
北側が海に面したこの小さな港町は漁業が盛んであると同時に、海を挟んだ隣国・大ブリタニア王国から輸入した羊毛を利用した毛織物工業も主要な産業であった。
今現在アルセイシア王国では各地で大規模な農民叛乱が勃発しており、この町ではまだそのような怪しい気運は発露していないが、数年前から散発している大ブリタニア王国との戦争の最前線にあたるこの町は、いつ戦火に巻き込まれるかわからず人々は不安な日々を過ごしていた。
エイレンヌの主要な通りから少し外れた一画に、小さな毛織物工場がある。
工場と言っても織物機が二台あるだけの個人事業であるが、そこの年若い女将であるミレーヌが織りなすドレスはデザイン性に優れていると評判を博していた。
少女がそのミレーヌの工場で目覚めてから一週間が過ぎていた。
その間、彼女は毎日同じ夢を見続けていた。
誰のものかもわからない、謎の言葉――
それは、あの死の馨りが漂う地獄のような状況から生還したという現実を忘れさせるくらい、少女を陰鬱とさせるものだった。
「ララ、起きてるのかい!?」
その時、薄い戸を挟んだ向こうから気っ風の良い声がかけられる。声の主は女将のミレーヌだ。
ララと呼ばれた少女は再びため息をつき、ベッドから起き上がるのだった。
「だから、何度言ったらわかるんだい!」
薄暗い小さな作業場で、エプロン姿の女性が――この工場の女将であるミレーヌがララに向けてイラ立ちとも呆れとも取れる感情を含んだ口調でとがめる。
「そんなこと言われましてもわたくし、一度にたくさんのことを同時に進行するなんてできませんわッ!」
負けじとララも不満を爆発させるが、その口調はとても上品だった。
「もう何度も説明して手本も見せただろう? コレをこう。次にこうきて、そしてこうだよ!!」
ミレーヌが鮮やかな手つきで織り機に張り渡した縦糸に横糸を交差させ、みるみる内に織り上げてゆく。
「ですから、コレをこうして……」
対してララはぎこちない所作で違う箇所に糸を絡ませ、すぐにつっかえてしまう。
「ああ、もうッ! 何て不器用なんだい!!」
ミレーヌが頭を抱えて悶えると、少女は不貞腐れたように頬を膨らませ、ぷいっと明後日の方を向くのだった。
はぁ、とひとつ大きなため息をついてミレーヌが言った。
「これまで何人か奴隷の女の子に教えてきたけど、アンタほど不器用なコはいなかったよ」
「だってわたくし、織物なんてしたことありませんし、身の回りのことはすべて女中がやってくれてましたもの」
「まあ、お嬢様なんだろうとは思ってたけど、まさか着替えすらひとりでできないと聞いた時にはホントに驚いたもんだよ」
「それほどでもありませんわ」
「別に褒めちゃいないよッ!!」
バンッ、と作業台を叩き、きびしい口調でミレーヌは続けた。
「いいかい、ララ! お嬢様だろうが王女様だろうが、今のアンタはアタシんトコに売られてきた奴隷だ。そりゃあツライこともあっただろうよ。現実を受け入れたくない気持ちもわからなくもない。だからアタシは一週間アンタに猶予を与えた。だけどこれからはちゃんと働いて役に立ってもらうからね!」
「ですから、わたくしはララなんて名前じゃなくて――」
「ンなこたぁどうでもイイんだよッ!!」
反論を遮ってミレーヌが再び作業台を叩くと、ララはビクッと体を震わせた。
「働かざる者食うべからず! 今日からはキチンとノルマを果たすまで食事は出さないからね!」
「そんなの横暴ですわ!」
「横暴なもんかい。こっちはタダ飯食わせる余裕なんてありゃしないんだから!」
「……そんなガミガミ怒鳴ってばかりだから嫁の貰い手がなくて行き遅れてしまうんですわ」
ララは膨れっツラでポツリと毒づいた。
「……何か言ったかい?」
「別に何も……」
ララはそっぽを向いてごまかすのだった。
そしてミレーヌはもう何度目かもわからないため息と共に言う。
「相当甘やかされて育ったんだろうけどさ。まったく、親の顔が見てみたいよ」
何気ないその言葉に、少女はハッと思い出してしまう。
「お父様……」
優しく、少女をいつも守ってくれていた父のこと。
「お母……様……」
美しく、少女をいつも慈しんでくれていた母のことを。
しかし、暴徒が押し寄せてきたあの日、すべてが崩壊した。
そして――
犯され泣き叫ぶ女たち――
コレクションのように積み上げられてゆく生首――
「ッ!!」
今まで忘れていた、いや、あえて思い出さないでいた陰惨な光景が彼女の脳裏にフラッシュバックすると、
「オエェェェェェェェェェッッッ!!!」
こらえ切れずに先程食べた朝食をすべてその場に嘔吐してしまった。
「ちょ,ちょっとアンタ、大丈夫かい!?」
ミレーヌは慌てて駆け寄りララの背中をさすった。
「う……え"え"え"え"え"え"え"え"え"え"え"え"え"んッッッ!!!」
滝のようにあふれ出す涙と鼻水で顔をくしゃくしゃにしながら、ララは幼な子のように嗚咽した。
「……ゴメン、アタシも少し言い過ぎたよ」
ミレーヌは少し柔らかな口調で謝って豊かなブロンドの髪を備えた少女の頭をそっとなでると、
「アンタのペースでいい。少しずつ出来るようになっていこう。ね?」
幼な子をあやすように言った。
だんだんと落ち着きを取り戻したララはコクリとうなずいて言う。
「吐き出してしまったからお腹が空いてしまいましたわ。もう一度お食事をいただけないかしら?」
「……現金なコだねぇ、まったく」
ミレーヌはやれやれ、といった体で苦笑するのだった。
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