秒で諦める、その前に。

六十月菖菊

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アロー=ガンシア

【1】夜に出会った、薄汚れた花。

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 初めて会った夜のことを、忘れたことはない。

「なんだお前? かくれんぼか?」

 茂みの中から現れた彼女は、今まで見た女の中で一番にみすぼらしかった。
 グシャグシャに乱れた髪。化粧すら施されていない顔。ボロボロのドレス。
 人が居ると思わなかったのか少し目を見開いていた。
 しかしすぐに気を取り直して茂みから這い出て来る。薄汚いドレスに付いた葉を払い落としてから、俺と目を合わせた。

「お見苦しいところをお見せして申し訳ありません。失礼致しました」

 乏しい表情で謝罪をして、踵を返して立ち去ろうとする。

「俺はアロー=ガンシア。お前は?」

 呼び止めるように名乗ると、首を傾げられた。聞こえなかったのだろうか。

「シオン=レシグナと申します」

 聞こえていたらしい。
 その名に聞き覚えがあった俺は、思ったことをそのまま口にした。

「ふうん。お前、レシグナ子爵のところの妾腹か」
「はい。ガンシア様は公爵家の御方ですよね」
「そうだ。特別に俺のこと、アローって呼んでいいぞ!」

 さすが俺。言わずとも名が知れている。
 公爵家の跡取りだということを瞬時に理解したらしいシオンは、恭しく礼をした。

「身に余る光栄ですアロー様」
「そうだろう、そうだろう!」

 上機嫌になって笑っていると、シオンが不思議そうに尋ねてくる。

「アロー様はどうしてこちらに?」
「俺は美しいだろう? 誰もが俺の美しさを前にして霞んでしまうものだから、空気を読んで独りになってやったのだ」

 今夜開かれているのは、国王陛下主催の夜会。
 末席とは言え親族に当たるガンシア公爵家もその招待を受けて、父と共にやって来たのだが。
 嫉妬と羨望の渦巻く貴族たちの視線が、痛いこと痛いこと!
 話していても分かる。美しく優秀な俺を疎んじる馬鹿どもの考えていることなど、手に取るように。
 貶めたい。辱めたい。自分がより高みに居る為に、他人を蹴落とそうとする愚かな人間たち。

 ────だから、こちらから離れてやった。

 そうすることで、自分も他者も、余計な諍いに巻き込まれずに済むと知っていたから。

「アロー様はお優しいのですね」

 夜に静かに響いたシオンの声は心地が良かった。

「そうとも! だからお前も遠慮なく俺を敬うといい!」
「かしこまりました」

 すんなりと了承の意を示してくる。
 そこには、裏も表も無く。ただ俺の言葉を受け容れる姿勢だけがあった。
 そして、シオンは笑ったのだ。

 ────ふわりと、花が綻ぶように。

「なんだお前、そんな風に笑えるのか」

 ずっと無表情だったから、不意を突かれた。
 綺麗だった。何の思惑も無く微笑んだ彼女は、とても綺麗だった。

 ────欲しいな。

 欲しい。俺を受け容れてくれる、この心地の良い存在が。

「気に入った! お前、俺の側仕えになれ!」
「かしこまりました」





 夜会が終わり、父と合流して直ぐに欲しい女が居ることを報告した。

「どこの令嬢だ。それとも、夜会に紛れこんだ娼婦か?」
「令嬢だよ、たぶん」
「たぶんって何だ」
「シオン=レシグナ」
「ああ、妾腹の」
「駄目か?」
「いいよ。しかしお前が欲しいと言うのは珍しい。気に入った女が出来ても、遊ぶだけ遊んで放置するくせに」

 父はどこか遠い目をしつつも承諾してくれた。

「ただし条件がある。側仕えでは駄目だ。嫁として迎え入れなさい」
「嫁! その発想は無かった!」
「お前は本当に馬鹿息子だな……」
「馬鹿? 何を言ってるんだ父上、俺は優秀だよ?」
「それなら阿呆だ。精々、シオン嬢に捨てられないようにすることだな」

 大きな溜息を吐いた父の心境など微塵も分からない。
 俺の頭の中は、シオン=レシグナを妻にすることで一杯だった。



 それから、俺と父の行動は早かった。
 夜会の翌日、国王陛下を通して結婚成立に必要な下準備を行った。
 結婚に反対するような煩い貴族連中などといった邪魔なものは、公爵家の力を以てして黙らせた。
 全ての工程を終えた数日後、最後にレシグナ子爵家を訪問し、シオンを娶るという決定事項を伝えた。
 レシグナ子爵及び子爵夫人は大いに渋ったが、持参金は要らないことと、逆にこちらから多大な支援金を渡すことを条件に出すとあっさりと了承し、後日シオンを公爵家へと引き渡した。

「いいか、アロー。シオン嬢は貴族社会はおろか、子爵家でもあまり良い扱いを受けていない。……大切にしてあげなさい」

 レシグナ子爵家からシオンを連れて帰って来た父が俺に言ったその言葉に、妾腹の子なんてそんなものだろうと特に深く考えていなかった。
 結婚を受け容れたということは、俺のことが好きなはずだ。
 夫婦とは愛し合うもの。つまり、シオンはこれから夫である俺を愛してくれる。
 そう思うと、何だか嬉しくて堪らなくなった。

「シオン=レシグナ! 俺の妻! お前はこの世で一番幸運だぞ!」

 やっと来た花嫁にそう言えば、あの夜の時のように首を傾げた。

 ────本当に?

 そう問われているような気がして、自信を持てと鼓舞するつもりで理由を言ってやった。

「なんたって美しく優秀な次期公爵である俺の伴侶となれるのだから!」

 俺の言葉に、シオンは眩しそうに目を細めた。
 それが笑っているように見えて、また嬉しくなる。

「そうですね」
「そうだろう!」

 裏表のない肯定の言葉。
 シオンの言葉は、やはり心地が良い。
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