22 / 53
第六章 熱風もまた、冷のうちなり
其の二:熱風もまた、冷のうちなり
しおりを挟むがちゃり。
ごとん。
「先生? 起きていらっしゃいますよね?」
窺うかのような小声とともに、廊下を軋ませながら歩く足音が聞こえてきた。
すぅ、と雪見障子が開き、そこには詰め襟シャツを着た高梨が、片手に何かを持って立っている。
いつも着ている背広ではないんだな、と寝転がっているために逆さに見える高梨をぼんやりと見つめた。
そして、こんな姿を見せるわけにはいかないとでもいうように、慌てて身体を起こす。少し乱れた胸元の袷をしっかりと直してから、荻窪は改めて高梨に向き合った。
「こんばんは、高梨くん。」
その後の言葉が続かない。よく来てくれたね、久しぶりだね、そのどれもが違う気がした。
言葉を探して立とうと身体を動かせば、衣桁に掛かっていた紺色の着物にぶつかってしまう。
「ああ、すまなかった。」
着物に手を当てて思わず謝り、荻窪はひとつ、深く息を吐き出した。
まるで、正妻と愛人の間に立つ夫のようだ、とふと思う。
高梨にそっと視線をやれば、目があった途端ににこりと微笑まれてしまった。
「先生、熱くて参っていらっしゃると思って。編集長からこれを譲っていただいたので、よかったらと思って持ってきましたよ。」
ことり、小さな音を立てて床に置かれたそれは、近代的なものだった。
「扇風機です。初めて見るでしょう?」
僕も初めて見ました、と付け加える。全体的に見てもそんなに大きくはなかった。高梨が片手で持てるほどの大きさだから、一尺と少しくらいだろうか。
「ほう、扇風機か。初めて見るな……。これはどうやって使うものなんだい?」
荻窪は会話の糸口を見つけたように、食い付いた。高梨もここしばらくどこかぎこちなかった荻窪との距離が、扇風機を通じて少し緩和された気がしたのだろう。肩の力が抜けているようだった。
「ああ、これはね、電源を差して……、」
そう言って電源コードを天井のソケットへと伸ばそうとする。
だが如何せん、手があと少しのところで届かない。ジタバタしている高梨を横目に、荻窪はゆらゆらと立ち上がり仕方なしとでもいうように、彼の手からそのソケットをそっと受け取った。
「これをここに挿せばいいのかい?」
高梨がやろうとしていたことを荻窪が、代わりにやろうとにょっきりと手を伸ばす。思わず態勢を崩しそうになり、ちょうど傍にいた高梨にがしりと掴まってしまった。
高梨を背後から鷲掴みにするように、がっしりと。抱きしめた、なんて表現は生ぬるい。
ビクリと体を震わせた高梨は、背後の荻窪の湿度を感じながら、ただ首を縦に振るしかなかった。
「すまなかった、わざとではないんだ。」
ぐ、と伸ばされた手から伝わる体の動き。暑いからと背広を脱いでくるんじゃなかったと、白いシャツ一枚の高梨はゴクリと喉を震わせた。
かちり。
ソケットに挿入されたコードから電気が供給されると同時に動きだす「扇風機」。
当然冷たい風ではないのだけれど、パタリパタリと扇子を仰ぐよりもずっと涼しさが増した。
汗を伝う首に当たる風。
すぅ、とそれが冷気に変わる。人ではないものが起こす風は思いの外広く波紋し、部屋の中に風を送り込んだ。
荻窪がゆっくりと高梨の身体から手を離し、身体を離す。そして、文机に向かって座ると、何事もなかったかのように扇風機の感想を述べた。
「ほう。これはなかなかすごいな。高梨くん、いいものを持ってきてくれたね。」
流れる汗が扇風機の風によって、冷やされていく。
先ほど感じた熱も汗も、何もかもを冷静にさせてくれるような、そんな風に荻窪は心から安堵した。
扇風機が巻き起こす風の通り道をなぞりながら、ほう、と息を吐く。
風は衣桁に掛かっている紺色の着物もばたばたと仰ぎ、まるで着物が暴れているかのように見せていた。
「ぼ、僕も座りますよ、先生。」
コホン、と小さな咳払いをして、高梨はいつもの場所にいつものように座る。
それはまるで、文机を背に座った荻窪と真っ向から向き合うような形になり、高梨は背中に先程感じた湿度を思い出して、じわりと首が熱くなった。高梨は所在なさげに熱くなった首に手を当てる。
ほんの僅かな時間、荻窪と高梨は向き合った。が、先にその視線を切ったのは荻窪だった。文机に向かって座り直す。
しかしその目は、先程の暑さでうだるような、凡庸とした目をしていなかった。
なにかを思いついた、そんな瞳の種類をしていた。そうなったら、荻窪は一段落終えるまで文机から離れることはなくなる。
いつも高梨が見つめる、物書きとしての荻窪の背中を見せるのだ。
そのたびに、高梨は「また始まったな」という期待と、話しかけてくれるという期待ができなくなることに、淋しさと嬉しさの両方を噛みしめることになる。
執筆中の荻窪の背中は、思いの外丸まってはおらずす、と伸びている。正した姿勢の先にある、いま高梨からは完全に死角になっている瞳にはなにが写っているんだろうか。
***(荻窪の怪談)
闇夜、月明かりも刺さぬ、指先すらも見えぬほどの闇夜。
明かりはどこにも灯らず、静かに闇だけが満ちていた。
その満ちた闇に包まれた部屋でこの家の主である男が一人、寝苦しそうに寝返りを打つ。
もそり、ごろり。
寝苦しい。
何度目か分からない寝返りを打ってから、彼はゆっくりと体を起こした。
枕元の上にある床の間に、何日か前に知人から譲り受けた掛け軸をかけてからだ。
つい、とそちらに目を送る。
闇夜だ。見えるはずがない、と思いながら視線を送ると、掛け軸に描かれていた後ろ姿の女の首がゆらりと傾いたように見えた。
そんなはずはない。
男は座り直した。改めて掛け軸を見ようと足を踏み出そうとしたとき、静かだったはずの部屋の中から奇妙な音がする。
きりきりきりきり、こりこりこりこり。
なんの音だ? と耳を澄ませてみても、そんな音を立てるものなどあるはずがない。
この掛け軸以外はいつもの部屋だ。
男は辺りを見回して、もう一度掛け軸に目を戻した、その時。
後ろ姿だったはずの女の首が、奇妙に歪んだ状態でこちらを見ていたのだ。
無表情で。
0
あなたにおすすめの小説
BL 男達の性事情
蔵屋
BL
漁師の仕事は、海や川で魚介類を獲ることである。
漁獲だけでなく、養殖業に携わる漁師もいる。
漁師の仕事は多岐にわたる。
例えば漁船の操縦や漁具の準備や漁獲物の処理等。
陸上での魚の選別や船や漁具の手入れなど、
多彩だ。
漁師の日常は毎日漁に出て魚介類を獲るのが主な業務だ。
漁獲とは海や川で魚介類を獲ること。
養殖の場合は魚介類を育ててから出荷する養殖業もある。
陸上作業の場合は獲った魚の選別、船や漁具の手入れを行うことだ。
漁業の種類と言われる仕事がある。
漁師の仕事だ。
仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。
沿岸漁業と言われる比較的に浜から近い漁場で行われ、日帰りが基本。
日本の漁師の多くがこの形態なのだ。
沖合(近海)漁業という仕事もある。
沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。
遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。
内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。
漁師の働き方は、さまざま。
漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。
出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。
休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。
個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。
漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。
専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。
資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。
漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。
食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。
地域との連携も必要である。
沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。
この物語の主人公は極楽翔太。18歳。
翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。
もう一人の主人公は木下英二。28歳。
地元で料理旅館を経営するオーナー。
翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。
この物語の始まりである。
この物語はフィクションです。
この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。
【完結】 男達の性宴
蔵屋
BL
僕が通う高校の学校医望月先生に
今夜8時に来るよう、青山のホテルに
誘われた。
ホテルに来れば会場に案内すると
言われ、会場案内図を渡された。
高三最後の夏休み。家業を継ぐ僕を
早くも社会人扱いする両親。
僕は嬉しくて夕食後、バイクに乗り、
東京へ飛ばして行った。
俺は夜、社長の猫になる
衣草 薫
BL
冤罪で職を追われた葵は、若き社長・鷹宮に拾われる。
ただし条件は――夜は“猫”として過ごすこと。
言葉を話さず、ただ撫でられるだけの奇妙な同居生活。
タワマン高層階の部屋で、葵は距離を崩さない鷹宮に少しずつ惹かれていく。
けれど葵はまだ知らない。自分が拾われた本当の理由を。
鬼上司と秘密の同居
なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳
幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ…
そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた…
いったい?…どうして?…こうなった?
「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」
スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか…
性描写には※を付けております。
久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…
しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。
高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。
数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。
そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…
借金のカタに同居したら、毎日甘く溺愛されてます
なの
BL
父親の残した借金を背負い、掛け持ちバイトで食いつなぐ毎日。
そんな俺の前に現れたのは──御曹司の男。
「借金は俺が肩代わりする。その代わり、今日からお前は俺のものだ」
脅すように言ってきたくせに、実際はやたらと優しいし、甘すぎる……!
高級スイーツを買ってきたり、風邪をひけば看病してくれたり、これって本当に借金返済のはずだったよな!?
借金から始まる強制同居は、いつしか恋へと変わっていく──。
冷酷な御曹司 × 借金持ち庶民の同居生活は、溺愛だらけで逃げ場なし!?
短編小説です。サクッと読んでいただけると嬉しいです。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
【BL】ビジネスカップルなのに溺愛だなんて聞いてない
深爪夏目
BL
男性アイドルユニット「Vinbeat」(ヴィンビート)に所属 している四人組。
イケメンでダンスも上手いが刺激が欲しいとの提案で【真剣交際BLユニット】として活動するよう言われ、ビジネ スカップルを演じることとなる。
最初は恋愛対象でもないメンバーとの恋愛に嫌気が刺していたが次第にお互いの意外な一面や優しさに触れ、溺愛が止まらない…!
・BL兼コメディ小説です。
暴言などの表現がありますので苦手な方はご注意を。
話は続いておりますが、短編形式で進めていきます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる