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第六章 熱風もまた、冷のうちなり
其の四:熱風もまた、冷のうちなり
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***(荻窪の怪談)
人間の首なんて、こんな真後ろに回るはずがない。それに相手は掛け軸の中の女だ。男は息を飲み込んだ。もしかしたら動かなければ、声を出さなければ女にはばれないのではないだろうか。そう思って。
だけど、それは無駄でしかなかった。
こきこきこきこき。
奇妙な音が鳴り響く。
掛け軸の中の女の首がさらに、こちらに回ってきたのだ。もう、明らかに、男の気配を感じ取って顔を見ようとしているかのようだった。
こきん。
首が回り切った音が響いた。
辺りは闇なのに、なぜか掛け軸の女だけははっきりと見える。
だめかもしれない。
「……。」
視線だけが異様に強い。
刺されるかのような痛さで、しっかりと足の先から髪の毛の一本までを眺められたような気分だった。がたがたと震える体は動かすこともできないまま、ただ、ひ、ひ、ひ、と声にならない息を吐き出していた。
「お前……だれだい?」
じっくりと嘗めまわすように男を見た後、女はぼそりと、しかしあの世のものであろうとんでもなく澄んだ声で、そう、一言つぶやいた。
男はその瞬間が限界だった。
ことりと意識を失って倒れてしまい、朝になってから見た掛け軸には、昨晩の女は描かれておらず、そこには赤い目をしたウサギが一羽、描かれているのみ。
***(荻窪の日常)
ぶうううん。
扇風機の音だけが響く夜。
荻窪は一気に書き終えたことで、大きく息を吐き出した。安堵と、あの掛け軸の物の怪はどこに行ったんだろうとその先を考えてみる。そうでもしないと、高梨にあの汗を掬い取られた熱を忘れられないからだ。
からかうつもりが逆にからかわれることになるとは。
そんな高梨の行為にすら鼓動が高鳴ってしまう。
自分のすることが彼にも移るほどに、一緒にいただろうか、とふと思う。
「高梨くん?」
──もう帰ってしまっただろうか。
執筆しているとき、高梨はそぅっと物音を立てずに姿を消すことがある。気づかれないように、執筆の手を止めないように、静かに荻窪家から帰っていくのだ。
一言あってもいいものを、といつも思うのだが、そのひと言が思考の妨げになると言い張って聞かない頑固さもまた高梨だ。
荻窪が振り返って見たその先には、いつの間にかお盆で持ってきてある冷たいお茶と、すっかり冷たさを失った水滴がたくさんついたグラスだ。
そしてもう一つは、空っぽになったグラスが無造作に置かれていた。
その先には、先程汗を拭き取った指先、夏なのに日焼けしないんだとこぼしていた白い腕、まくりあげた袖、白いシャツのボタンは胸元をいつもよりも少し大目にあけて、スヤスヤと眠る高梨の姿があった。
ぶううううん。
扇風機の音がする。
荻窪は、そんな高梨の姿をただ、ただ、呆然と見るしかできなかった。
──眠っている。
彼は静かに息を吸い吐いて、ゆっくりと眠っていた。
これではなにも出来やしない。
荻窪は自嘲気味に笑いを洩らす。安心の枠に収まった小動物のように、高梨は小さな寝息を立てているのだ。
こんな無防備な姿を自分の前にさらけ出せること自体が、荻窪にとって苦笑であり、それと同時に安堵の象徴でもある。
まだ、高梨には気づかれていないと思いたい己の中にある欲望を。
──熱風もまた、冷のうちなり。
人間の首なんて、こんな真後ろに回るはずがない。それに相手は掛け軸の中の女だ。男は息を飲み込んだ。もしかしたら動かなければ、声を出さなければ女にはばれないのではないだろうか。そう思って。
だけど、それは無駄でしかなかった。
こきこきこきこき。
奇妙な音が鳴り響く。
掛け軸の中の女の首がさらに、こちらに回ってきたのだ。もう、明らかに、男の気配を感じ取って顔を見ようとしているかのようだった。
こきん。
首が回り切った音が響いた。
辺りは闇なのに、なぜか掛け軸の女だけははっきりと見える。
だめかもしれない。
「……。」
視線だけが異様に強い。
刺されるかのような痛さで、しっかりと足の先から髪の毛の一本までを眺められたような気分だった。がたがたと震える体は動かすこともできないまま、ただ、ひ、ひ、ひ、と声にならない息を吐き出していた。
「お前……だれだい?」
じっくりと嘗めまわすように男を見た後、女はぼそりと、しかしあの世のものであろうとんでもなく澄んだ声で、そう、一言つぶやいた。
男はその瞬間が限界だった。
ことりと意識を失って倒れてしまい、朝になってから見た掛け軸には、昨晩の女は描かれておらず、そこには赤い目をしたウサギが一羽、描かれているのみ。
***(荻窪の日常)
ぶうううん。
扇風機の音だけが響く夜。
荻窪は一気に書き終えたことで、大きく息を吐き出した。安堵と、あの掛け軸の物の怪はどこに行ったんだろうとその先を考えてみる。そうでもしないと、高梨にあの汗を掬い取られた熱を忘れられないからだ。
からかうつもりが逆にからかわれることになるとは。
そんな高梨の行為にすら鼓動が高鳴ってしまう。
自分のすることが彼にも移るほどに、一緒にいただろうか、とふと思う。
「高梨くん?」
──もう帰ってしまっただろうか。
執筆しているとき、高梨はそぅっと物音を立てずに姿を消すことがある。気づかれないように、執筆の手を止めないように、静かに荻窪家から帰っていくのだ。
一言あってもいいものを、といつも思うのだが、そのひと言が思考の妨げになると言い張って聞かない頑固さもまた高梨だ。
荻窪が振り返って見たその先には、いつの間にかお盆で持ってきてある冷たいお茶と、すっかり冷たさを失った水滴がたくさんついたグラスだ。
そしてもう一つは、空っぽになったグラスが無造作に置かれていた。
その先には、先程汗を拭き取った指先、夏なのに日焼けしないんだとこぼしていた白い腕、まくりあげた袖、白いシャツのボタンは胸元をいつもよりも少し大目にあけて、スヤスヤと眠る高梨の姿があった。
ぶううううん。
扇風機の音がする。
荻窪は、そんな高梨の姿をただ、ただ、呆然と見るしかできなかった。
──眠っている。
彼は静かに息を吸い吐いて、ゆっくりと眠っていた。
これではなにも出来やしない。
荻窪は自嘲気味に笑いを洩らす。安心の枠に収まった小動物のように、高梨は小さな寝息を立てているのだ。
こんな無防備な姿を自分の前にさらけ出せること自体が、荻窪にとって苦笑であり、それと同時に安堵の象徴でもある。
まだ、高梨には気づかれていないと思いたい己の中にある欲望を。
──熱風もまた、冷のうちなり。
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