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第1話 しがみつ鬼
(1)月夜の長屋
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ふたり連れの男が、堀川に沿って歩いている。
ひとりは、藍色の着流し姿。
手には、一本の扇子が握られている。
時折り、トントンと扇子で肩を叩きながら歩く。
地味なようにも見えて、質の良い生地で仕立てられた着物。
男が遊び慣れた粋人であることをうかがわせる。
カラン、コロン。
足元からは、下駄の鳴らす音が響く。
ひとりは、白地の着物に紫色の袴を身につけている。
腰には、一本の篠笛が指してある。
神職のようにも見える出で立ちで、町にいるには違和感がある。
けれど、おかしなことに、そのことを誰も気にしない。
紫色の鼻緒のついた草履で、浮かんでいるようにスイスイと歩く。
不思議なことに、その足元からは音がしない。
袴にも一切の乱れが無い。
満月の夜。
ひと気の無い道を、月明かりを頼りに進むふたり。
お江戸の町は、いつも通りに眠りについたようにも見える。
「桔梗よぉ、本当に、こんなところに不幸が落っこちてんのかい?」
「はい。笛が呼んでいますから」
「なんだかなぁ……。お月様はまんまるでよぉ。
ほら、見てみねぇ。お星様だって、キラキラ光ってやがるしよぉ。
こんな日は、一杯引っかけて、それから蕎麦でも食って……」
「あ、あそこの家のようです。巳之吉様、お覚悟を」
「そんなに、ひでぇのかい?」
「ええ。ひとりふたりの話じゃあ、ございませんので」
「……おぅ。そりゃあ、大層なこった。気合いを入れてくぜ」
巳之吉と呼ばれた、藍色の着流し姿の男の顔に緊張が走る。
腕まくりをするように、着物の袖をちょいと引っ張り上げる。
桔梗と呼ばれた紫色の袴姿の男の表情は、変わらない。
スンとした顔からは、何を思っているのかは、うかがえない。
「あぁ、いけねぇ。さっそく、黒になりかかってらぁ」
「仕方ないでしょう。取り憑かれて、かなりの年月になるようですから」
ふたりが辿り着いたのは、どこにでもあるような長屋。
そのひとつから、黒ずんだ紫色の糸のようなものが出ている。
人の目には見えないはずの、その糸。
その糸の元を辿るように、巳之吉の視線が動く。
糸が出ている長屋の中からは、なんの音も聞こえない。
多くの人でひしめく長屋が、静まり返っている。
起こっている不幸に、誰も気づきはしないのか。
いや、むしろ、
この静けさは、起こってしまった不幸を目にしないための、
気持ちの戸を立てているように思える。
「見なきゃ、無ぇのと同じってぇわけかい」
「それも人のさがというものでしょう。責めるのは、酷かと」
「はっ! 違ぇねぇ! そのために俺たちゃいるってわけだしな」
「はい。参りましょう。手遅れになる前に」
「はははっ。これも、手遅れっちゃあ、手遅れなんだがなぁ!」
巳之吉が、長屋の戸を力を込めて開く。
むせかえるような血の匂いが、外へと一気にあふれ出してくる。
雨が降っているわけでもないのに、土間がじとりと湿り気を帯びている。
月明かりが差し込んだ長屋の板の間。
へたり込むような格好の、若い男がひとり。
月明かりと物音に気づいたのだろうか。
ゆっくりと顔を上げる。
その顔も、乱れた着物も。
かぶったかのような大量の血に塗れている。
「おや、こんな時分に、どちら様でしょう……」
意外なことに、ハッキリとした口調で男が問う。
そこにいたのは、町を行けば、娘たちが見惚れてしまうような造作の男。
整った顔だちで、ふわりと笑う男の姿。
それは、舞台の上の役者のように。
いっそ、凄絶な美しささえ感じさせる光景だった。
ひとりは、藍色の着流し姿。
手には、一本の扇子が握られている。
時折り、トントンと扇子で肩を叩きながら歩く。
地味なようにも見えて、質の良い生地で仕立てられた着物。
男が遊び慣れた粋人であることをうかがわせる。
カラン、コロン。
足元からは、下駄の鳴らす音が響く。
ひとりは、白地の着物に紫色の袴を身につけている。
腰には、一本の篠笛が指してある。
神職のようにも見える出で立ちで、町にいるには違和感がある。
けれど、おかしなことに、そのことを誰も気にしない。
紫色の鼻緒のついた草履で、浮かんでいるようにスイスイと歩く。
不思議なことに、その足元からは音がしない。
袴にも一切の乱れが無い。
満月の夜。
ひと気の無い道を、月明かりを頼りに進むふたり。
お江戸の町は、いつも通りに眠りについたようにも見える。
「桔梗よぉ、本当に、こんなところに不幸が落っこちてんのかい?」
「はい。笛が呼んでいますから」
「なんだかなぁ……。お月様はまんまるでよぉ。
ほら、見てみねぇ。お星様だって、キラキラ光ってやがるしよぉ。
こんな日は、一杯引っかけて、それから蕎麦でも食って……」
「あ、あそこの家のようです。巳之吉様、お覚悟を」
「そんなに、ひでぇのかい?」
「ええ。ひとりふたりの話じゃあ、ございませんので」
「……おぅ。そりゃあ、大層なこった。気合いを入れてくぜ」
巳之吉と呼ばれた、藍色の着流し姿の男の顔に緊張が走る。
腕まくりをするように、着物の袖をちょいと引っ張り上げる。
桔梗と呼ばれた紫色の袴姿の男の表情は、変わらない。
スンとした顔からは、何を思っているのかは、うかがえない。
「あぁ、いけねぇ。さっそく、黒になりかかってらぁ」
「仕方ないでしょう。取り憑かれて、かなりの年月になるようですから」
ふたりが辿り着いたのは、どこにでもあるような長屋。
そのひとつから、黒ずんだ紫色の糸のようなものが出ている。
人の目には見えないはずの、その糸。
その糸の元を辿るように、巳之吉の視線が動く。
糸が出ている長屋の中からは、なんの音も聞こえない。
多くの人でひしめく長屋が、静まり返っている。
起こっている不幸に、誰も気づきはしないのか。
いや、むしろ、
この静けさは、起こってしまった不幸を目にしないための、
気持ちの戸を立てているように思える。
「見なきゃ、無ぇのと同じってぇわけかい」
「それも人のさがというものでしょう。責めるのは、酷かと」
「はっ! 違ぇねぇ! そのために俺たちゃいるってわけだしな」
「はい。参りましょう。手遅れになる前に」
「はははっ。これも、手遅れっちゃあ、手遅れなんだがなぁ!」
巳之吉が、長屋の戸を力を込めて開く。
むせかえるような血の匂いが、外へと一気にあふれ出してくる。
雨が降っているわけでもないのに、土間がじとりと湿り気を帯びている。
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月明かりと物音に気づいたのだろうか。
ゆっくりと顔を上げる。
その顔も、乱れた着物も。
かぶったかのような大量の血に塗れている。
「おや、こんな時分に、どちら様でしょう……」
意外なことに、ハッキリとした口調で男が問う。
そこにいたのは、町を行けば、娘たちが見惚れてしまうような造作の男。
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