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第一章
第13話 見なくていい
しおりを挟む──久しぶりに、昔の夢を見た。
白い廊下を走る小さな背中。
緊張で声が裏返って、「お嬢」なんて言って、
次の瞬間、平手を食らって目を丸くしている少年。
「……ふふ」
思わず笑って、目を開けた。
「懐かしいなぁ」
そう呟いた直後、違和感に気づく。
……近い。
というか、動けない。
視線を下げると、太い腕。
そのまま辿ると、上裸の龍斗の胸板。
「……また腕枕」
ぼそっと言うと、腕の主が僅かに動いた。
「……若?」
「おはよう。起きてた?」
「今起きました……っていうか、すんません」
「謝るの早いね」
「条件反射なんで」
龍斗は半分寝ぼけたまま、目を擦る。
「夢、見たんすか?」
「うん。君と初めて会った日の」
「うわ」
「“お嬢”って言われた」
「やめてください!!」
即座に声を上げる龍斗に、思わず笑ってしまう。
「そんなに黒歴史?」
「一生モンっすよ……」
「でも、あの時からだよ?」
「……?」
「君が、ずっと隣にいるの」
龍斗が一瞬黙る。
「……それ、朝から言うことじゃないっす」
「何で?」
「心臓に悪い」
「ふ。大げさ」
そう言いながらも、腕はまだ解かれない。
「起きるよ」
「はい……あ、ちょ、もう少しだけ」
「何?」
「若、今日頭から課された宿題あるでしょ」
「あるけど」
「その前に、ちゃんと起き切りたいんで」
「……理屈がよく分からない」
結局、腕枕されながら数分そのまま。
***
身支度。
椅子に座ると、後ろから櫛の感触。
「龍斗、優しくね」
「毎回言わなくても」
「この前引っ張った」
「あれは寝癖が悪いんです」
「人のせいにしないの」
櫛がすっと通り、長い髪が揺れる。
「……綺麗だな」
「今さら?」
「今さらでも言います」
龍斗は慣れた手つきで髪をまとめていく。
「今日はどう結います?」
「君の好きなので」
「……そういうの、ズルい」
「選択権を与えてるだけ」
「はいはい」
結い終わって、軽く整える。
「よし。完璧」
「ありがとう」
「どういたしまして。若」
鏡越しに目が合って、自然と笑ってしまう。
「今回の宿題、長くなりそうだね」
「ですね。でも俺は若の後ろに立ってるだけなんで」
「それが一番大事」
「……はい」
短い返事。でも、揺るがない。
あの夢の続きみたいに、
今日もまた、同じ場所へ向かう。
「行こっか、龍斗」
「はい。若」
朝は、穏やかで、少し騒がしくて、
いつも通りだった。
***
頭の部屋は、いつ来ても空気が重い。
畳の匂いも、香の残り香も、すべてが静かすぎて、逆に息苦しい。
「次だ」
現頭は、書類から目を離さずに言った。
その声に感情はない。まるで他人の様。
期待も、躊躇も、ましてや慈悲など含まれていない。
「簪組が金を出している先がある。
額は……一千万を超えているな」
紙をめくる音だけが、やけに大きく響いた。
「返済の意思は見られない。
連絡も途絶えがちだ」
ここまでで、もう分かる。
これは“話をつけに行け”という類のものじゃない。
「逃げる、誤魔化す、逆ギレする。
そのどれかを選んだら……」
「…そうだな、殺せ」
胸の奥が、ひゅっと冷える。
余りにも軽く言い放たれた。
これが、宿題。
頭になるための、避けて通れない試験。
「……分かりました」
自分の声が、思ったよりも落ち着いて聞こえたのが怖かった。
本当は、手のひらがじっとりと汗ばんでいるのに。
「龍斗を連れていけ」
「はい」
それ以上、話はなかった。
***
目的地へ向かう車内。
エンジン音だけが続く。
窓の外の景色が流れていくのを見ながら、
一結は何度も、自分に言い聞かせていた。
これは“仕事”だ。
感情を挟むな。
そう教えられてきた。
それでも。
「……龍斗」
「はい、若」
「もし……」
言葉が、そこで止まる。
何を聞きたいのか、自分でも分からなかった。
「いや、なんでもない」
「……」
龍斗は何も言わなかった。
けれど、ちらりとこちらを見たその目は、いつもより少しだけ鋭かった。
***
其処は、想像以上に荒れていた。
剥がれた壁。
埃の積もった床。
人の気配はあるのに、生活の匂いがしない。
「……来たかよ」
男は、最初から不機嫌そうだった。
こちらを見る目に、怯えよりも苛立ちが勝っている。
「金の話なら、今は無理だって言っただろ」
「聞いています」
一結は、できるだけ冷静に答えた。
「だから、今日はその“今”を聞きに来ました」
「……は?」
男は舌打ちをして、視線を逸らす。
「逃げるつもりは?」
その一言で、空気が変わった。
「……チッ」
男が一歩下がった瞬間、
一結の背後で、龍斗が動いた。
「待て」
低い声。
床に押さえつけられた男は、最初は悪態をついていた。
けれど、縄がきつく締められ、逃げ場がないと悟った瞬間──声が変わった。
「や、やめてくれ……!」
喉が裏返る。
「頼む……! 〇にたくない……!」
さっきまでの強気さは、跡形もない。
震える声。掠れる呼吸。涙で歪む顔。
「金なら……返すから……!時間をくれ……! なぁ……!」
必死に首を振る。
「うぁぁ……やだ……!死にたくない……! こわい……!」
その声が、耳に突き刺さる。
胸が、どくん、と強く脈打った。
心臓が早鐘を打つ。
(……やめろ)
自分に言い聞かせる。
同情するな
分かっている。
この男は、誠実な人間じゃない。
借りた金を返さず、逃げようとした。
それでも。
「お願いだ……!まだ……まだ生きたいんだ……!」
泣き声が、崩れる。
「俺には…!鬼は息子がいるんだ!そうだ!あんたと同じくらいの…!!なぁ、子供もいるんだ!ゆ、許してくれよ…!」
嘘だ。調べ尽くしてるのだから、
分かっている。
指先が、震え始めた。
銃は、何度も撃ってきた。
訓練も、実戦想定も、嫌というほど。
でも──
それは全部、「的」だった。
倒れても、血は流れない。
声もしない。目も合わない。
(……違う)
これは、生身だ。
生きている。
怖がっている。死にたくないと、叫んでいる。
ぎゅっと、目を閉じる。
早く……
頭の中で声がする。
早く引け
躊躇するな
同情するな
相手は……
(……屑だ)
そう思おうとする。
何度も、何度も。
けれど。
手に、変な力が入る。
引き金にかけた指が、固まる。
引けない。
引けない。
(なんで……)
(どうして……)
呼吸が浅くなる。
視界が、滲む。
(早く、早く……)
時間が伸びる。
この一秒が、永遠みたいに長い。
男の泣き声が、止まらない。
「嫌だ……!!お願いだ……!」
その瞬間。
背後から、気配がした。
龍斗の体温。
近すぎる距離。
「……若」
低く、落ち着いた声。
視界が、ふっと暗くなる。片手で、目を覆われたのだ。
「見なくていい」
もう片方の手が、銃を持っている両手と重なる。
震える指を、逃がさないように包み込む。
「……力、抜いて」
導きへの囁き。
「俺が……一緒にやる」
一結の呼吸に、龍斗の呼吸が重なる。
引き金にかかった指が、
ゆっくり、導かれる。
抵抗する暇もなく。
世界が、遠くなった。
音が、消えたあと。
一結の膝が、がくりと崩れた。
「……っ」
喉が、うまく鳴らない。
「……できなかった……」
震える声。
「……僕一人じゃ……」
「分かってます」
龍斗は、即座に答えた。
「だから、俺がいる」
一結は、何も言えなかった。
怖さも、罪悪感も、
胸の奥で、ぐちゃぐちゃに絡まっている。
それでも──
背後に立つ存在だけが、現実だった。
***
――任務後
車のドアが閉まる音が、やけに遠く聞こえた。
一結は、ほとんど無意識のまま自室へ戻された。
靴を脱いだ記憶もない。
ただ、床に敷かれた絨毯の柔らかさだけが、妙に生々しかった。
視界の端で、扉が静かに閉まる。
龍斗は、いない。
(……そうだ)
龍斗は、僕の代わりに頭のもとへ報告に行くのだ。
居ないって、分かっているのに。
胸の奥が、ひどく空いた。
──手。
一結は、じっと自分の手を見下ろした。
何度も洗ったはずなのに、
まだ、感覚が残っている。
引き金の、あの重さ。
指に伝わった、わずかな反動。
「……っ」
胃の奥が、ひくりと痙攣する。
喉の奥まで込み上げてくるものを、必死で飲み込んだ。
吐き気が、波のように何度も押し寄せる。
(僕が……)
(僕が、やった)
龍斗が手を添えていた。
導いてくれた。
それでも。
(引いたのは……)
(僕の、指だ)
膝が、崩れる。
ベッドの縁に腰を下ろした瞬間、
視界がぐらりと揺れた。
「……気持ち悪い……」
声が、かすれる。
自分が、自分じゃないみたいだった。
一方、龍斗は頭の前に立っていた。
背筋は真っ直ぐ。
呼吸も、表情も、乱れ一つない。
「任務は完了しました」
低く、はっきりと告げる。
「……処理は?」
「一結様が、直接」
一瞬、空気が張り詰めた。
頭の視線が、鋭く突き刺さる。
「……ほう」
疑念。
探るような沈黙。
「あの甘ったれた奴が殺れるとは思わなんだが…お前が手を出したのではないのか」
「いいえ」
龍斗は、即答した。
「引き金を引いたのは、若です」
嘘は、ついていない。
言葉の選び方も、間の取り方も、完璧だった。
「……随分、覚悟が早いな」
「訓練の成果でしょう」
淡々と。
「若は、必要な時に躊躇しません」
それは、事実を反転させた“真実”だった。
頭は、しばらく龍斗を見つめていたが、やがて鼻で小さく笑った。
「……そうか、なら問題ない」
その一言で、終わった。
龍斗は深く一礼し、部屋を後にする。
扉が閉まった瞬間、
張り詰めていたものを、ようやく一つ吐き出した。
(……よし)
誤魔化しは、完璧だった。
***
一結の部屋に入った瞬間、空気が違った。
静かすぎる。
息が、詰まる。
「若」
返事はない。
視線を下げると、ベッドの縁に座ったまま、
一結は両手を見つめていた。
まるで、知らないものを見るように。
「……触らないで」
龍斗が近づいた、その気配だけで、声が飛んだ。
震えている。
「……この手……」
一結の声は、掠れていた。
「気持ち悪い……」
「……」
龍斗は、何も言わず、ゆっくり膝をついた。
視線の高さを合わせる。
「……まだあるのか?」
「……ある」
即答だった。
「……ずっと……」
喉が鳴る。
「……取れない……」
龍斗は、一結の手首をそっと掴んだ。
力は、極限まで弱く。
「……洗おう」
「……洗った……」
「もう一回」
否定しない。
説得もしない。
「俺がやる」
それだけ
洗面台の前。
龍斗は、一結の手を包み、ぬるい水を流した。
石鹸を泡立て、指一本一本を、丁寧に。
「……力、抜いて」
「……抜けない……」
「わかった」
低い声。
「今は、抜かなくていい」
泡が流れていく。
何度も、何度も。
「……若」
龍斗は、そっと呼んだ。
「出来なかったこと、恥じゃない」
「……」
「怖かったなら、それでいい」
一結の肩が、びくりと揺れた。
「……でも……」
「それでも、引いた」
「……」
「逃げなかった」
「それが、若の選択だ」
水を止め、タオルで手を拭く。
包むように。
「……今、吐きそうか?」
一結は、首を小さく横に振った。
「……気持ち悪いだけ……」
「分かった」
龍斗は、躊躇なく一結を軽々と抱えた。
「……なに……」
「運ぶ」
「……自分で……」
「今は駄目。」
即答。
ベッドに下ろし、毛布を掛ける。
龍斗は、横に座り、背中を撫で始めた。
一定のリズムで。
「……龍斗……」
「ん」
「……僕……」
言葉が、続かない。
「言わなくていい」
龍斗は、即座に遮った。
「今日は、考えなくていい」
「……」
「後悔も、嫌悪も」
手が、止まらない。
「全部、俺が横で受け止める」
一結の呼吸が、少しずつ整っていく。
「……離れない?」
「離れない」
迷いなく。
「……僕のこと……」
「選ぶ」
一瞬も間を置かず。
「今日も、明日も」
しばらくして。
一結の指が、龍斗の服を、弱く掴んだ。
「……そばに……」
「いる」
短く、確かに。
部屋には、静かな呼吸だけが残った。
***
執務室の空気は、朝だというのに重たかった。香の残り香が、湿った木の匂いと混じって鼻に刺さる。
一結は正座したまま、視線を畳の縁に落としていた。姿勢は崩れていない。
だが、背中の奥がひどく冷たい。
「……一結」
呼ばれた声が、やけに遠く聞こえた。
「最近のお前は、鈍い」
現頭はそう切り出した。
責める調子でも、怒鳴るわけでもない。
だからこそ、逃げ場がない。
「判断に時間がかかる。視線が泳ぐ。声が落ちる」
一つひとつの言葉が、的確に突き刺さる。
一結は返事をしようとして、息を吸い——少しだけ詰まった。
「……申し訳ありません」
声が、思ったより低く震えた。
現頭はそれを聞き、何も言わずに扇子を指先で鳴らした。
カツ、という乾いた音が、部屋に響く。
「お前は今、前に立てる状態ではない」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がひやりとした。
「……」
「頭になる者が、迷いを抱えたまま刃を振るうな」
正論だ。
反論の余地などない。
それでも、一結の指先は、知らず畳を強く掴んでいた。
「……しばらくは、お前を外す」
一結の視界が、わずかに揺れた。
「代わりは——」
そこまで言われた時点で、嫌な予感が胸を締めつける。
現頭の視線が、障子の向こうへ向いた。
「龍斗を使う」
一瞬、音が消えた。
香の匂いも、扇子の音も、すべて遠のく。
「……っ」
思わず顔を上げていた。
「待ってください」
分でも驚くほど、早い声だった。
現頭が視線を戻す。
「何だ」
「龍斗は……」
言葉が、喉で詰まる。
“護衛だ”
“代わりが利かない”
どれも正しくて、どれも弱い。
「龍斗は、僕の——」
そこで、脳裏にあの光景がよぎった。
暗い部屋。手に残る重さ。
耳鳴りの中で、自分の鼓動だけがやけに大きく響いていた、あの瞬間。
一結の肩が、ほんのわずかに跳ねる。
「……僕が、経験したことを」
声が、掠れた。
「……あれを、これ以上……」
現頭の扇子が、止まった。
「今更何だ。龍斗は、何度もやっている」
淡々とした声。
「今さら一人や二人増えたところで、変わらん」
分かっている。
頭では、分かっている。
龍斗は、もう何度も現場に立っている。
迷いなく、手を汚してきた。
それでも。
一結の胸の奥が、きつく締め付けられる。
(……それでも、嫌だ)
(僕の代わりに、行かせたくない)
「……それでもです」
一結は、珍しく言葉を重ねた。
「龍斗は、護衛で……」
「だからこそ、だ」
現頭は、静かに遮った。
「お前の傍にいるための男だろう」
その言い方が、胸に刺さる。
“傍にいるため”
”使えるから使う”
龍斗が、一瞬で“役割”に変換された感覚。
一結の喉が、ひくりと鳴る。
「……僕が、立てないせいで」
声が、小さくなる。
「龍斗に、背負わせることに……」
「はぁ、情だな」
現頭は即座に言った。
「それがお前の弱さだ」
否定できない。
だからこそ、何も言えなくなる。
「龍斗は刃だ」
「迷いのない刃は、使う価値がある」
一結の視線が、畳に落ちる。
そこに映る自分の影が、ひどく頼りなく見えた。
(……僕は)
(あの恐怖を、あの感覚を)
(龍斗に、これ以上……)
だが、口に出せば“頭候補”として失格になる。分かっているからこそ、歯を食いしばる。
「……了解、しました」
それでも、その言葉を言うのに、数秒かかった。
現頭はそれを見逃さなかったが、何も言わず頷いた。
「賢明だ」
一結の胸の中には、
自分の手で、龍斗を暗い場所へ押し出した
という感覚だけが、重く残っていた。
あの時の震え。
引き金の重さ。
戻らない感触。
(……ごめん、龍斗)
その言葉だけが、声にならずに胸に沈んだ。
「もう下がって良い。その代わり龍斗を中に呼べ」
「…はい。」
廊下の角で、一結は足を止めた。
障子一枚向こう。
低く、落ち着いた声が聞こえる。
盗み聞きが悪い事なのは分かっているがどうしても気になる。
「破魔矢龍斗」
先に聞こえてきたのは現頭の声だった。
一結の喉が、きゅっと鳴る。
「今回の件だが……お前に任せる」
一瞬の沈黙。それから、聞き慣れた声。
「了解です」
迷いのない、はっきりした返事。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
「だが、一結は外す。アレが終わってからどうも目に余るからな。失敗されたらたまったもんじゃない」
現頭の言葉に、一結の肩が小さく揺れた。
「そこでだ。代わりにお前が前に出ろ」
「……はい」
龍斗の声は、変わらない。
淡々として、いつも通りで。
一結は障子に手を伸ばしかけて、止めた。
今、出ていったら。
「行かないで」と言ってしまったら。
それは、頭候補としての自分を壊す行為だ。
「今回の任務……」
現頭が言葉を区切る。
「大層面倒臭い案件だがお前が行くなら、問題ないな」
“問題ない”。
その言葉が、やけに冷たく響いた。
障子の向こうで、龍斗が一礼する気配がした。
「……行ってきます」
足音が、こちらへ向かってくる。
一結は反射的に、柱の影へ身を引いた。
龍斗が廊下を通り過ぎる。
すぐ隣なのに、声をかけられない。
(待って)
(今なら……)
喉まで出かかった言葉を、無理やり飲み込む。龍斗の背中は、大きくて、迷いがない。
あの時と同じだ。
自分が震えていた時、背後に立っていた、あの背中。
足音が遠ざかる。
一結は、しばらく動けなかった。
***
数刻後。
一結は、再び現頭の前に呼ばれていた。
「……龍斗の任務を見てこい」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「お前自身の目で、確認しろ」
現頭は、扇子を閉じて言った。
「お前が立てない理由と、あれが“立てる理由”をな」
一結の指先が、かすかに震える。
「……お忍びで、だ」
断れない。断る理由が、ない。
「……分かりました」
そう答えた声は、自分のものなのに遠く聞こえた。
夜の街は、冷たかった。
建物の影。
湿った空気。
遠くの車の音。
一結は、物陰からその場を見ていた。
龍斗は、そこにいた。
いつもの装い。
いつもの立ち姿。
だが、纏う空気が違う。
仕事の顔だ。
相手が何かを叫んでいた。
言葉は風に紛れて、はっきりとは聞こえない。
泣いている。
取り乱している。
それでも、龍斗の動きは止まらない。
近づく。
距離を詰める。
無駄のない動作。
そこに、怒りも、躊躇もない。
あるのは――
終わらせるための手順だけ。
一結の胸が、どくん、と大きく鳴った。
(……待って)
(やめて)
声は出ない。
龍斗は、淡々と“処理”を進める。
どこか楽しそうに見えた。
それが一番、怖かった。
笑っているわけじゃない。
でも、仕事として完璧にこなす、その姿が。
――慣れている。
その事実が、突き刺さる。
音が、一つ。
それで、すべてが終わった。
静寂。
一結は、息の仕方を忘れていた。
龍斗は、何事もなかったように周囲を確認し、去っていく。
その背中は、
さっき見送った時と、何も変わらない。
一結の足が、すくんだ。
怖い。
初めて
自分の一番近くにいる存在を、怖いと思ってしまった。
胸の奥が、じわじわと冷えていく。
(……違う)
(龍斗は、悪くない)
(悪いのは……)
龍斗を怖いと感じてしまった僕だ
心が追いつかない。
一結は、その場にしゃがみ込んだ。
手が、また、あの感覚を思い出そうとしている気がして。
ぎゅっと、握りしめる。
夜風が、静かに吹き抜けた。
***
任務が終わり、現頭への報告を終え、
若の居る元へ向かう
龍斗は、わざと音を立てずに近づく。
「若」
一結の肩が、びくっと跳ねた。
「……おかえり、龍斗」
声が、固い。
視線が合わない。
龍斗は、少し間を置いてから、静かに言った。
「……見てましたよね」
一結の指先が、きゅっと握られる。
「……」
「俺が行った任務」
返事はない。
でも、それが答えだった。
龍斗は、ため息をつくでもなく、怒るでもなく
ただ、少し困ったように眉を下げた。
「……怖かったですか?」
ぽつり、と落ちた言葉。
一結は、はっきりと頷けなかった。
否定もできない。
「……わからない」
絞り出すような声。
「怖い、って言葉が合ってるのかも……」
龍斗は、畳に腰を下ろした。
一結より、少し低い位置。
威圧しない距離。
「……俺、ああいうの、慣れすぎてるんです」
一結が、顔を上げる。
「若と会った頃くらいには、もう……やってましたから」
淡々とした口調。
事実を述べるだけの声。
「正直、今は……楽しむ方が、楽なんですよ」
一結の胸が、ちくりと痛む。
「……楽しい、の?」
「ええ」
否定しない。
「考えなくていい。迷わなくていい。
やることが決まってて、終わらせればいい」
それは、一結が一番苦しんでいる部分だった。
「……若が見た俺は、きっと冷たかったでしょう」
「……」
「でも、若に向ける顔と、仕事の顔は、別です」
龍斗は、少しだけ笑った。
「学生の頃も……まあ、色々ありましたし」
一結は、それ以上を聞かなかった。
聞かなくても、分かる。
自分に向けられた好意を、龍斗が“静かに処理”していたことくらい。
「……龍斗」
名前を呼ぶ声が、弱い。
「僕、あれを見て……」
言葉に詰まる。
「君が……遠くに行った気がして」
龍斗の表情が、わずかに変わった。
「それは、違います」
即答だった。
龍斗は立ち上がり、一結の前に立つ。
「俺は、若のところから動いてません」
ゆっくりと、一結の視界に入る位置にしゃがむ。
「若が震えてた時も、若が銃を持てなかった時も、今も」
一結の視線を、逃がさせない。
「俺は、ここです」
龍斗が真っ直ぐ一結の目を見つめる。
「……怖かった」
ようやく、言えた。
「君が、あまりにも平気そうで……」
「……」
「それが……」
龍斗は、何も言わずに、一結の額に自分の額を軽く当てた。
子供を宥めるみたいな距離。
「若」
「……なに」
「俺が平気そうなのは、若を守るためですよ」
一結の瞳が、揺れる。
「若が、全部背負わなくていいように」
沈黙。
それから、一結は、ふっと力を抜いた。
「……ずるい。龍斗のくせに偉そう」
「そうですか?」
「そんな顔で言われたら……怒れないじゃないか」
龍斗が、少しだけ笑う。
「戻ってきましたね」
「……なにが」
「若の、その口の悪さ」
一結は、鼻で小さく笑った。
「……勘違いするな。まだ完全じゃない」
「はい」
「でも……」
一結は、龍斗を見上げる。
「君がそばにいるなら、もう少し、足掻いてみようかなって」
龍斗は、深く頷いた。
「それでいいです」
いつの間にか一結の両手の違和感と中心のわだかまりが無くなった気がした。
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