オスクーロの死神姫(ラ・モルテ)

夏野海

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死神姫

白の世界

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 気づけば、霙はとうに音を立てなくなっていた。
 黒い外套に落ちるそれは、もうびちゃりとは弾けない。ただ、ふわり、と乗るだけだ。溶けるまでに、ほんのわずかな猶予がある。

 空から落ちてくるものは、もう腐臭を孕んでいない。白い粒が、ためらうように宙を舞い、やがて地に触れる前に溶けることもなく、そっと積もり始めていた。

「雪に、変わったのね……」

 独り言は、誰に聞かせるでもなく零れ落ちる。返事はない。あるのは、雪が音を殺して世界を覆っていく、かすかな気配だけ。

 息を吐くと、白くにじむ。境界は、いつの間にかこちら側へ寄っていたらしい。生と死のあいだに降る霙が、静かに形を変え、名を持つものになる。カンテラの蒼白い灯が、雪片を照らす。光を受けたそれらは、一瞬だけ淡く輝き、すぐに闇へ溶けた。まるで、存在を許された時間が、最初から決まっているかのように。

 石畳の上に残っていた泥濘は、白に縁取られて形を失っていく。さきほどまで重かった足取りが、わずかに軽くなった。霙は境界の天気だが、雪は違う。雪は、終わりを隠す。

 街は、相変わらず眠ったふりをしている。窓は閉ざされ、雨戸の向こうから、微かな生活の匂いだけが滲んでくる。霙の夜よりも、雪の夜のほうが、人は少しだけ安心する。白は、音も、死の色をも隠してくれるから。

 先ほどの男――アルヴィエロ――の言葉が、まだ耳の奥に残っている。

 名を名乗られたことではない。
 別れ際の、あの声の温度だ。

 人は、温度を持った言葉を投げることができる。知らず知らずのうちに。善意でも、悪意でもなく。ただ、生きているがゆえに。

 私は一度だけ、振り返りかけて――やめた。

 夜は前にある。私が進むべき場所も。

 通りの先、雪に霞む路地の向こうで、誰かが息を潜めている気配がした。恐怖とも、敵意とも違う。もっと軽いものだ。好奇心か、あるいは、期待。

「……あら」

 カチャン、とカンテラが鳴った。

 私はそちらへと歩みを進める。今度は、霙のように足を取られない。
 雪の夜は、まだ――少しだけ、優しい気がする。

 雪は、思っていたよりも早く街を変えてしまった。  
 屋根の稜線は柔らかく丸まり、閉ざされた窓の縁には白が溜まっていく。先ほどまで人の気配を拒絶していた家々が、まるで眠りに落ちたように静かだ。霙のときにあった、ぴりついた緊張が、嘘のように薄れている。

 雪は優しいふりをするだけだ。その下にあるものを、忘れさせるだけ。

 路地を曲がったところで、足音が聞こえた。今夜はよく、人と出会う。

「……あ」

 間の抜けた声が、雪の夜に落ちる。ふらふらと歩く若い男だった。二十歳を超えたかどうか。厚手の外套は着ているが、どこか着慣れていない。街の人間だろう。酒を飲み、霙が雪に変わったのを見て、少しだけ気が大きくなった――そんなところだ。

 彼は、私とカンテラを交互に見た。

 蒼白い灯。黒い衣装。夜を歩く女。

 理解の追いつかない顔をしている。

「あ、えっと……」

 言葉を探している間に、私は歩みを緩めただけで、止まりはしなかった。立ち止まれば、それは対話になる。一晩でふたりの生者と話している暇はない。
 
「……なんだ」

 男は、ほっと息を吐いたように笑った。

「聖女様かと思った」

 その言葉は、刃にならなかった。むしろ、拍子抜けするほど無邪気だった。私は、ほんの一瞬だけ彼を見る。雪のせいで、目元がよく見えない。けれど、その声には悪意がなかった。

「残念だけど、違うわ」
「……ですよね」

 あっさりした肯定だった。彼は肩をすくめる。

「真っ白で、あんまりにも美しいから……そりゃそうだよな、聖女様がこんな時間に出歩くわけないや」
「……夜道は、あまり出歩かない方がいいと思う」

 自分でも意外なほど、穏やかな声が出た。忠告というより、事実の提示に近い。

「雪だったら、平気かなって」

 彼は照れたように笑う。生きている人間の、単純な楽観。

「……そう」

 それ以上、否定はしなかった。雪は、人を油断させる。それは、責めることではない。

「じゃあ……気をつけて」

 彼は軽く頭を下げて、私の横を通り過ぎる。すれ違う瞬間、ほんのわずかに身を引いた。無意識の距離。恐れてはいないが、踏み込みもしない。

 それでいい。
 カンテラが、カチャン、と鳴る。

 背後で、男の足音が遠ざかっていく。振り返らない。呼び止めもしない。彼は今夜、ただの酔っぱらいだ。朝になれば、私と出会ったことすら忘れているだろう。

 雪は、誰の上にも平等に降る。死神の上にも、聖女と間違われた女の上にも。

 私は再び、夜の奥へと歩き出す。

 次に向かう家の気配は、もうはっきりと感じ取れていた。弱く、細く、けれど確かに――終わりを待つ死の匂い。

 仕事の時間だ。

 白くなった世界の中で、カンテラの灯だけが、相変わらず場違いに揺れている。

 
 家は、すぐに見つかった。雪に埋もれかけた石段の先。門扉は閉じられているが、鍵はかかっていない。そういう家だ。迎えを拒まないかわりに、助けも呼ばない。

 私はノックをしない。カンテラの光が、玄関の取手を淡く照らす。触れた瞬間、確信した。――もう、時間は残されていない。

 扉の内側は、驚くほど暖かかった。暖炉の火は落とされていない。だが、その熱は、もうこの家の主を引き留める力を持たない。

「……お待ちしておりましたよ」

 寝台の上で、ひとりの女が微笑んだ。年若いとは言えないが、老いてもいない。人生の途中で、静かに立ち止まってしまった顔だ。

「ええ」

 それ以上の挨拶は要らない。雪の夜に私が来ることを、彼女は知っていた。いや、知っていたというより――どこかで、ずっと待っていた。

「外……白くなってるでしょう」

 虚ろなその視線は、閉ざされた窓に向いている。その声には、恐怖がなかった。

「……ええ。」
「よかった」

 それだけ言って、彼女は目を閉じる。喜びでも、諦めでもない。ただの安堵。私は寝台の傍らに立ち、カンテラを床に置く。光が、二人分の影を壁に映した。揺れるのは、私の影だけだ。

「……」

 雪の夜は、不思議と人を優しくする。外の世界が白く覆われているあいだ、ここで起きていることは、誰にも見えない。裁かれもしない。邪魔もされない。私は、女の額にそっと手を伸ばす。冷たい指先。けれど、拒まれない。

「貴女の……お名前は?」

 また、だ。
 何故だろう――今夜はよく名前を問われる。

 私はすぐには答えない。暖炉の火が小さく弾け、影が壁の上で揺れる。蒼白い灯と橙の火が交わる場所は、どこか不安定で、境界そのもののようだった。

「名は……」

 一度、言葉を切る。名は、役割を越える。だから、軽々しく渡すものではない。彼女は急かさない。ただ、穏やかに待っている。待つことに慣れた人の顔だ。長い時間、痛みと共に過ごしてきた者だけが持つ、静かな忍耐。

「皆からは、そう呼ばれています」
 
 私は、少しだけ視線を落とした。

死神姫ラ・モルテと」

 彼女は、納得したように小さく笑う。

「……そう」

 その声には、恐怖も嫌悪もない。ただの理解があった。理解しようとする姿勢ですらなく、最初から受け入れている声音。

「きれいな名前ですね」

 思いがけない言葉だった。私は、ほんのわずかに目を瞬かせる。

「……そうかしら」
「ええ。死は、醜いものだと思っていました。でも」

 女は、ゆっくりと息を吐く。

「こうして迎えに来てくれるなら……ほんの少し、美しいものに思える」

 雪の夜は、人を正直にする。私は、彼女の額に置いた手に、ほんのわずか力を込めた。――先祖の過ち。我々に課せられた贖罪。

 せめて、安らかに眠れるように、と祈りながら。

 まぶたが閉じられる。
 呼吸が、少しずつ浅くなる。火の音が遠のき、部屋の空気が、目に見えないほど静まっていく。

 私は、その瞬間を見逃さない。

 死は、劇的ではない。
 多くの場合、こうして、静かに訪れる。

 最後の息が、白く零れた。

 それきり、女は動かなくなった。私は、しばらくそのまま立っていた。仕事は終わったが、すぐに立ち去る理由もない。雪の夜は、ほんの少しだけ、時間に余裕をくれる。

「……良い旅を」

 誰に聞かせるでもない言葉を置いて、私はカンテラを手に取る。この蒼白い光が、せめてもの導となるように。
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