オスクーロの死神姫(ラ・モルテ)

夏野海

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死神姫

弔鐘

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 遠くで、夜明けを知らせる鐘が鳴っている。いつもは町中に響くその音も、今日ばかりは随分と控えめだった。

  死神姫が町の奥の家を去る頃、すでに空は白み始めていた。一晩をかけて降り積もった雪が、ゆうべの出来事をその下に隠してしまっている。それでも、全てが消えたわけではない。霙のうちに踏みしめられた地面は、完全には元に戻らない。そこだけ、わずかに沈み、朝の光を受けると、足跡の名残のような影を落としていた。

 誰も、それを足跡とは思わない。ただ、雪の癖だと思うだけだ。

 人々は窓を、扉を開け、いつもより眩しい朝を迎える。あちらこちらから母親の忙しない声が通りにこぼれ、まだ寝ぼけた子どもを起こしている。パンを焼く匂いが、冷たい空気に溶け、誰かが雪を踏みしめる音が続いた。

「ほら、早く。遅れますよ」

 その声は、昨日の夜には確かに存在しなかったものだ。生の営みは、こうして何事もなかったかのように再開される。雪は、足音を柔らかく受け止めながら、白い表面を少しずつ踏み荒らされていく。

 霙のうちについた窪みも、やがて曖昧になる。新しい足跡が重なり、子どもが滑り、誰かが笑い声を上げる。その下に残る影を、気に留める者はいない。

 市場へ向かう男が、ふと足元を見て首を傾げた。

「……妙な雪だな」

 それだけ言って、すぐに忘れる。彼にとってそれは、ただの雪の癖だ。昨夜、誰がこの道を歩いたのかなど、考える必要もない。

「ゆうべ、俺は確かに聖女に会ったんだよ。真っ白でさ、まつ毛にまで雪が積もってたさ……あれは只人じゃあない、間違いなく聖女さ」

 市場の片隅で、男はそう言って胸を張った。酒場帰りの戯言だと笑う者もいたが、誰も強くは否定しない。こんな朝は、人の記憶を少しだけ甘くする。

「また始まった」
「でもさ、今朝は妙に静かじゃないか」

 別の男が、通りの奥を振り返る。そこには、いつもと変わらぬ石畳と、踏み荒らされた雪があるだけだ。わずかな時間に降っていた霙を覚えている人などいない。

「……そういえば、ほら、通りの突き当たりの奥さん、ゆうべ亡くなったらしいわよ」

 ひそめた声が、澄んだ朝にはよく通る。言われた側は一瞬だけ言葉を失い、それから小さく息を吐いた。

「ああ……やっぱりね」
「長く患ってたって聞いたわ」
「静かな最期だったそうよ。苦しまなかったって」

 誰かが胸の前で、無意識に指を組む。祈りとも、安堵ともつかない仕草だ。そこに、恐怖はない。死は、すでに昨夜の出来事として片づけられている。

「それなら良かったわね、雪の夜なら死神姫は来なかったでしょうし」

 そう言って、女は肩をすくめた。冗談めかした口調だったが、周囲の誰も笑わなかった。代わりに、ほっとしたような沈黙が落ちる。
 
「やぁね、縁起でもない」

 そう言って笑った女の声に、ようやく市場の空気が動き出す。誰かが肩をすくめ、誰かが話題を変え、果物の籠が置かれる音がした。死神姫の名は、冗談として追い払われ、口にした者の胸からも押し出されていく。

「ほら、今日は寒いんだから」
「雪もそのうち溶けるわよ」

 人々はそう言い合い、朝の支度へと戻っていく。生きている者の時間は忙しく、立ち止まってはいられない。

 通りの奥、誰も振り返らない場所で、雪の表面に残ったわずかな歪みが、朝の光を受けて淡く影を落とす。やがてそこにも、新しい跡が重なる。荷車の轍(わだち)が通り、子どもが走り、白は完全に均されていく。

「なるほど……」

 この朝に劣らぬ――純白の衣装に身を包んだその男だけが、小さな家の前でひとり佇んでいた。その男は、誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。吐いた息が、細く白くほどけて消える。朝の冷え込みは厳しいが、彼の表情は穏やかだった。

 家の前には、もう何も残っていない。扉は閉ざされ、窓も静まり返っている。弔いの印も、黒布もない。ただ、雪に覆われた石畳と、昨夜まで確かに人の暮らしがあった気配だけが、微かに滲んでいる。

 男は視線を落とす。誰も気に留めなかった、あの歪み――霙の中で踏みしめられ、完全には戻らなかった地面。その影が、今はほとんど朝の光に溶けかけている。

 指先で、そっと手袋を押さえた。

「……仕事は、きちんと果たされたようだ」

 それは確認だった。敬意とも、別れともつかない、短い言葉。彼には分かる。ここに立ち寄ったの足取りも、躊躇も、そして静かな決断も。

 町の人々は言うだろう。雪の夜だったから、彼女は来なかったのだと。来なかったことにしておいた方が、この町は今日も、滞りなく回る。男はそれを否定しない。ただ、白い外套の裾を整え、家に向かって一礼した。

「忘れられるのも、また救いだ」

 そうして彼は踵を返す。背後で、鐘の音がもう一度だけ、かすかに鳴った気がした。それは弔いのためではなく、朝が完全に始まったことを告げる音だった。

「貴女は、のために――いいや、それを聞くのは野暮か。まあいい、貴女とはまた出会うことになるだろうから」」
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