4 / 7
死神姫
弔鐘
しおりを挟む
遠くで、夜明けを知らせる鐘が鳴っている。いつもは町中に響くその音も、今日ばかりは随分と控えめだった。
死神姫が町の奥の家を去る頃、すでに空は白み始めていた。一晩をかけて降り積もった雪が、ゆうべの出来事をその下に隠してしまっている。それでも、全てが消えたわけではない。霙のうちに踏みしめられた地面は、完全には元に戻らない。そこだけ、わずかに沈み、朝の光を受けると、足跡の名残のような影を落としていた。
誰も、それを足跡とは思わない。ただ、雪の癖だと思うだけだ。
人々は窓を、扉を開け、いつもより眩しい朝を迎える。あちらこちらから母親の忙しない声が通りにこぼれ、まだ寝ぼけた子どもを起こしている。パンを焼く匂いが、冷たい空気に溶け、誰かが雪を踏みしめる音が続いた。
「ほら、早く。遅れますよ」
その声は、昨日の夜には確かに存在しなかったものだ。生の営みは、こうして何事もなかったかのように再開される。雪は、足音を柔らかく受け止めながら、白い表面を少しずつ踏み荒らされていく。
霙のうちについた窪みも、やがて曖昧になる。新しい足跡が重なり、子どもが滑り、誰かが笑い声を上げる。その下に残る影を、気に留める者はいない。
市場へ向かう男が、ふと足元を見て首を傾げた。
「……妙な雪だな」
それだけ言って、すぐに忘れる。彼にとってそれは、ただの雪の癖だ。昨夜、誰がこの道を歩いたのかなど、考える必要もない。
「ゆうべ、俺は確かに聖女に会ったんだよ。真っ白でさ、まつ毛にまで雪が積もってたさ……あれは只人じゃあない、間違いなく聖女さ」
市場の片隅で、男はそう言って胸を張った。酒場帰りの戯言だと笑う者もいたが、誰も強くは否定しない。こんな朝は、人の記憶を少しだけ甘くする。
「また始まった」
「でもさ、今朝は妙に静かじゃないか」
別の男が、通りの奥を振り返る。そこには、いつもと変わらぬ石畳と、踏み荒らされた雪があるだけだ。わずかな時間に降っていた霙を覚えている人などいない。
「……そういえば、ほら、通りの突き当たりの奥さん、ゆうべ亡くなったらしいわよ」
ひそめた声が、澄んだ朝にはよく通る。言われた側は一瞬だけ言葉を失い、それから小さく息を吐いた。
「ああ……やっぱりね」
「長く患ってたって聞いたわ」
「静かな最期だったそうよ。苦しまなかったって」
誰かが胸の前で、無意識に指を組む。祈りとも、安堵ともつかない仕草だ。そこに、恐怖はない。死は、すでに昨夜の出来事として片づけられている。
「それなら良かったわね、雪の夜なら死神姫は来なかったでしょうし」
そう言って、女は肩をすくめた。冗談めかした口調だったが、周囲の誰も笑わなかった。代わりに、ほっとしたような沈黙が落ちる。
「やぁね、縁起でもない」
そう言って笑った女の声に、ようやく市場の空気が動き出す。誰かが肩をすくめ、誰かが話題を変え、果物の籠が置かれる音がした。死神姫の名は、冗談として追い払われ、口にした者の胸からも押し出されていく。
「ほら、今日は寒いんだから」
「雪もそのうち溶けるわよ」
人々はそう言い合い、朝の支度へと戻っていく。生きている者の時間は忙しく、立ち止まってはいられない。
通りの奥、誰も振り返らない場所で、雪の表面に残ったわずかな歪みが、朝の光を受けて淡く影を落とす。やがてそこにも、新しい跡が重なる。荷車の轍(わだち)が通り、子どもが走り、白は完全に均されていく。
「なるほど……」
この朝に劣らぬ――純白の衣装に身を包んだその男だけが、小さな家の前でひとり佇んでいた。その男は、誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。吐いた息が、細く白くほどけて消える。朝の冷え込みは厳しいが、彼の表情は穏やかだった。
家の前には、もう何も残っていない。扉は閉ざされ、窓も静まり返っている。弔いの印も、黒布もない。ただ、雪に覆われた石畳と、昨夜まで確かに人の暮らしがあった気配だけが、微かに滲んでいる。
男は視線を落とす。誰も気に留めなかった、あの歪み――霙の中で踏みしめられ、完全には戻らなかった地面。その影が、今はほとんど朝の光に溶けかけている。
指先で、そっと手袋を押さえた。
「……仕事は、きちんと果たされたようだ」
それは確認だった。敬意とも、別れともつかない、短い言葉。彼には分かる。ここに立ち寄った誰かの足取りも、躊躇も、そして静かな決断も。
町の人々は言うだろう。雪の夜だったから、彼女は来なかったのだと。来なかったことにしておいた方が、この町は今日も、滞りなく回る。男はそれを否定しない。ただ、白い外套の裾を整え、家に向かって一礼した。
「忘れられるのも、また救いだ」
そうして彼は踵を返す。背後で、鐘の音がもう一度だけ、かすかに鳴った気がした。それは弔いのためではなく、朝が完全に始まったことを告げる音だった。
「貴女は、何のために――いいや、それを聞くのは野暮か。まあいい、貴女とはまた出会うことになるだろうから」」
死神姫が町の奥の家を去る頃、すでに空は白み始めていた。一晩をかけて降り積もった雪が、ゆうべの出来事をその下に隠してしまっている。それでも、全てが消えたわけではない。霙のうちに踏みしめられた地面は、完全には元に戻らない。そこだけ、わずかに沈み、朝の光を受けると、足跡の名残のような影を落としていた。
誰も、それを足跡とは思わない。ただ、雪の癖だと思うだけだ。
人々は窓を、扉を開け、いつもより眩しい朝を迎える。あちらこちらから母親の忙しない声が通りにこぼれ、まだ寝ぼけた子どもを起こしている。パンを焼く匂いが、冷たい空気に溶け、誰かが雪を踏みしめる音が続いた。
「ほら、早く。遅れますよ」
その声は、昨日の夜には確かに存在しなかったものだ。生の営みは、こうして何事もなかったかのように再開される。雪は、足音を柔らかく受け止めながら、白い表面を少しずつ踏み荒らされていく。
霙のうちについた窪みも、やがて曖昧になる。新しい足跡が重なり、子どもが滑り、誰かが笑い声を上げる。その下に残る影を、気に留める者はいない。
市場へ向かう男が、ふと足元を見て首を傾げた。
「……妙な雪だな」
それだけ言って、すぐに忘れる。彼にとってそれは、ただの雪の癖だ。昨夜、誰がこの道を歩いたのかなど、考える必要もない。
「ゆうべ、俺は確かに聖女に会ったんだよ。真っ白でさ、まつ毛にまで雪が積もってたさ……あれは只人じゃあない、間違いなく聖女さ」
市場の片隅で、男はそう言って胸を張った。酒場帰りの戯言だと笑う者もいたが、誰も強くは否定しない。こんな朝は、人の記憶を少しだけ甘くする。
「また始まった」
「でもさ、今朝は妙に静かじゃないか」
別の男が、通りの奥を振り返る。そこには、いつもと変わらぬ石畳と、踏み荒らされた雪があるだけだ。わずかな時間に降っていた霙を覚えている人などいない。
「……そういえば、ほら、通りの突き当たりの奥さん、ゆうべ亡くなったらしいわよ」
ひそめた声が、澄んだ朝にはよく通る。言われた側は一瞬だけ言葉を失い、それから小さく息を吐いた。
「ああ……やっぱりね」
「長く患ってたって聞いたわ」
「静かな最期だったそうよ。苦しまなかったって」
誰かが胸の前で、無意識に指を組む。祈りとも、安堵ともつかない仕草だ。そこに、恐怖はない。死は、すでに昨夜の出来事として片づけられている。
「それなら良かったわね、雪の夜なら死神姫は来なかったでしょうし」
そう言って、女は肩をすくめた。冗談めかした口調だったが、周囲の誰も笑わなかった。代わりに、ほっとしたような沈黙が落ちる。
「やぁね、縁起でもない」
そう言って笑った女の声に、ようやく市場の空気が動き出す。誰かが肩をすくめ、誰かが話題を変え、果物の籠が置かれる音がした。死神姫の名は、冗談として追い払われ、口にした者の胸からも押し出されていく。
「ほら、今日は寒いんだから」
「雪もそのうち溶けるわよ」
人々はそう言い合い、朝の支度へと戻っていく。生きている者の時間は忙しく、立ち止まってはいられない。
通りの奥、誰も振り返らない場所で、雪の表面に残ったわずかな歪みが、朝の光を受けて淡く影を落とす。やがてそこにも、新しい跡が重なる。荷車の轍(わだち)が通り、子どもが走り、白は完全に均されていく。
「なるほど……」
この朝に劣らぬ――純白の衣装に身を包んだその男だけが、小さな家の前でひとり佇んでいた。その男は、誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。吐いた息が、細く白くほどけて消える。朝の冷え込みは厳しいが、彼の表情は穏やかだった。
家の前には、もう何も残っていない。扉は閉ざされ、窓も静まり返っている。弔いの印も、黒布もない。ただ、雪に覆われた石畳と、昨夜まで確かに人の暮らしがあった気配だけが、微かに滲んでいる。
男は視線を落とす。誰も気に留めなかった、あの歪み――霙の中で踏みしめられ、完全には戻らなかった地面。その影が、今はほとんど朝の光に溶けかけている。
指先で、そっと手袋を押さえた。
「……仕事は、きちんと果たされたようだ」
それは確認だった。敬意とも、別れともつかない、短い言葉。彼には分かる。ここに立ち寄った誰かの足取りも、躊躇も、そして静かな決断も。
町の人々は言うだろう。雪の夜だったから、彼女は来なかったのだと。来なかったことにしておいた方が、この町は今日も、滞りなく回る。男はそれを否定しない。ただ、白い外套の裾を整え、家に向かって一礼した。
「忘れられるのも、また救いだ」
そうして彼は踵を返す。背後で、鐘の音がもう一度だけ、かすかに鳴った気がした。それは弔いのためではなく、朝が完全に始まったことを告げる音だった。
「貴女は、何のために――いいや、それを聞くのは野暮か。まあいい、貴女とはまた出会うことになるだろうから」」
0
あなたにおすすめの小説
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話
登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。
転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました
桜あずみ
恋愛
異世界に転移して2年。
言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。
しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。
──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。
その一行が、彼の目に留まった。
「この文字を書いたのは、あなたですか?」
美しく、完璧で、どこか現実離れした男。
日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。
最初はただの好奇心だと思っていた。
けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。
彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
人狼な幼妻は夫が変態で困り果てている
井中かわず
恋愛
古い魔法契約によって強制的に結ばれたマリアとシュヤンの14歳年の離れた夫婦。それでも、シュヤンはマリアを愛していた。
それはもう深く愛していた。
変質的、偏執的、なんとも形容しがたいほどの狂気の愛情を注ぐシュヤン。異常さを感じながらも、なんだかんだでシュヤンが好きなマリア。
これもひとつの夫婦愛の形…なのかもしれない。
全3章、1日1章更新、完結済
※特に物語と言う物語はありません
※オチもありません
※ただひたすら時系列に沿って変態したりイチャイチャしたりする話が続きます。
※主人公の1人(夫)が気持ち悪いです。
ざまぁに失敗したけど辺境伯に溺愛されています
木漏れ日
恋愛
天才魔術師セディが自分の番である『異界渡りの姫』を召喚したとき、16歳の少女奈緒はそれに巻き込まれて、壁外という身分を持たない人々が住む場所に落ちました。
少女は自分を異世界トリップに巻き込んだ『異界渡り姫』に復讐しようとして失敗。なぜかロビン辺境伯は少女も『異界渡りの姫』だと言って溺愛するのですが……
陰陽の姫シリーズ『図書館の幽霊って私のことですか?』と連動しています。
どちらからお読み頂いても話は通じます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる