オスクーロの死神姫(ラ・モルテ)

夏野海

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眠りから覚めた邸

招かれざる客

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 ――邸が、呼吸をしている。

 まだ夜明けの余韻が残る薄暗い自室で、私はその不吉な気配に目を覚ました。重厚な石造りの壁を隔てた向こう側で、何かが蠢いている。それは、この邸が久しく忘れていたという名の雑音だった。
 
 普段、このオスクーロ邸は死んだように静まり返っている。使用人たちは、この家の主である私を恐れるあまり、影のように気配を殺して歩く。代官は、私の存在そのものを忘却したかのように、ただ事務的な沈黙を貫く。それが、この家の正しい姿だったはずなのに。
 
 ――オスクーロ。
 
 かつてその家名は、北方の凍てつく大地を照らす、夜明けの光を意味していた。けれど今、その名が意味するものは、光などではない。原罪を背負いし、死の番人。あるいは、誰もが目を背ける毒を飲み干すための、使い捨ての器。
 
 かつて栄華を極めたオスクーロ家は、およそ100年前のある夜を境に、すべてを剥奪された。貴族としての輝かしい称号も、歴史ある広大な領地も、そして女神の加護さえも。私たちに残されたのは、決して終わることのない贖罪の務めと、世界から隔絶されたこの極寒の地だけ。
 
 聖都の評議会は、それらを慈悲という名の欺瞞に満ちた包帯でぐるぐる巻きにし、私たちに『辺境伯』という、体裁のいい首輪を嵌めたのだ。
 
 ――ここは、世界でいちばん豪華で、そして緩やかな死に向かう処刑台。
 
 私はその処刑台の女主人、オスクーロ辺境伯四代目当主。
 
 階下から、忙しない足音が響いてくる。数年ぶりに窓が磨かれ、凍てついた空気が無理やり入れ替えられる気配がする。彼らが動くたびに、埃と共に長年沈殿していた静寂が舞い上がり、私の肺をざらつかせた。
 
 窓の隙間から差し込む朝日は、今朝に限って暴力的なまでに眩しい。その光は、部屋の隅に潜む影を、そして私が隠し続けてきた、人ならざる証を、容赦なく暴き立てようとしている。
 
 私はたまらず、重いベルベットのカーテンをさらに強く引き絞った。光は、闇を消すために降るのではない。ただ、そこに在るはずのない影を、残酷に浮き彫りにするだけ。
 
 そうして私は今朝も、逃げるようにデュベに包まり、私だけの小さな世界に籠るのだ。

 いつまでそうしていたのだろう。不意に、鼻腔を突く異質な匂いに、私は眉をひそめた。磨き上げられた床から立ち上る、むせ返るような蜜蝋のワックス。煮え立つ湯の、無遠慮な湿った熱気。そして、遠い聖都から運ばれてきたであろう、華やかな香油の残り香。
 
 それら生に満ちた生活の証が、死を待つだけのこの邸には場違いな、腐臭にも似た生臭さを持って私を責め立てる。
 
「父様が身まかってから、初めての査察だものね……」
 
 デュベの中で、誰に聞かせるでもなく呟いた。およそ十五、六年ぶりの来客だ。父がこの役目の果てに、ボロボロの石塊のようになって死んでから、聖都はずっと私たちを放置してきた。それは、私がオスクーロ当主として問題なく機能していた証拠でもある。
 
 だから、邸の者たちが浮き足立つのも無理はない。逃げ出しもせず、この呪われた邸で働いてくれている彼らには、彼らなりの生活があり、未来への渇望がある。長い沈黙を破って訪れる聖都の使者が、彼らにとって凍てついた日常に灯る一筋の希望の光に見えることを、私は責める気にはなれなかった。
 
 ――シャン、シャン、シャン。
 
 その時、霧を切り裂くような、軽やかな鈴の音が鳴り響いた。華やかな馬具の音。聖都の使いが、ついに到着したのだ。世界から忘れられることを望むこの場所に、これ以上ないほど強烈な生という名の毒を持ち込むために。
 
 カチャン、と。
 枕元に置いた古いカンテラの硝子が、共鳴して鳴った気がした。昨夜、霙の中で出会った、あの男。アルヴィエロ。彼が新たな査察官であることは、胸元で鈍く光っていた評議会の徽章で分かっていた。
 
 ――あなたは、危険を知ったうえで歩いている。
 
 あの時、彼が耳元で投げてよこした、温度のある言葉。それがまだ、私の指先に微かな痺れとして残っている。あれも、査察官としての計算された熱だったのだろうか。それとも、もっと質の悪い、獲物を狙う捕食者の――。
 
「そんなはずないわ。あってはならない」
 
 まとわりつくような思考を振り払うように、私は窓辺へ歩み寄った。わずかに開いたカーテンの隙間から、外を覗く。雪に覆われた灰色の世界に、一点の曇りもない純白が入り込んでくるのが見えた。
 
 聖都評議院の紋章、雄獅子を刻んだ白銀の馬具。そして、朝の光を味方につけたかのような、眩いばかりの白い外套。
 
 馬の背からしなやかに降り立ったアルヴィエロは、出迎えた代官たちに、完璧な、あまりにも綻びのない微笑みを向けていた。
 
 その姿は、絵画から抜け出てきた聖騎士そのものだ。けれど、私には見える。その完璧な仮面の下に、昨夜、闇の中で私を射抜いた、あの琥珀色の瞳が隠されていることを。
 
 一瞬だけ、彼が二階の窓――私がいるこの場所を見上げたような気がして、私は慌ててカーテンを合わせた。
 
 心臓が、不快な音を立てて早鐘を打つ。
 
「……もっと、目が悪かったら良かったのに」
 
 見えすぎることは、時として呪いになる。彼の本質が光ではないことを、私の本能が悟ってしまっている。

 階下では、代官の卑屈な笑い声と、彼を歓迎する熱気に満ちた拍手が鳴り響いている。その喧騒は、私の平穏な夜が終わりを告げた弔鐘のように聞こえた。
 
 私は窓を背にし、部屋の奥の暗がりに鎮座する鏡台へと向き直った。彼が聖騎士としての完璧な仮面を被ってこの敷居を跨ぐというのなら、私もまた、完璧な死神姫として彼を迎えねばならない。
 
 それは見栄や虚勢ではない。オスクーロの人間として課せられた、逃れられない礼儀なのだ。

 私はゆっくりと、けれど決然とデュベを剥ぎ取った。裸足のまま、凍てついた石床に降り立つ。足裏から伝わる刺すような冷たさこそが、浮き足立ちそうになる私の心を現実に繋ぎ止めてくれる、唯一の拠り所だった。
 
 父様がそうであったように、私もまた、気高く、正しく、この身に絶望を纏わねばならない。
 
「それが、私の務めだから」
 
 自分の生まれも、死神姫という忌むべき呼称も、その役割も、すべて恨んだことはない。ただ――胸の奥に、少しの諦観と、降り積もる雪のような淋しさがあるだけ。

 私は震える指先を伸ばし、鏡を覆っている黒い布に手をかけた。
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