オスクーロの死神姫(ラ・モルテ)

夏野海

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眠りから覚めた邸

鏡の中の死神

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 鏡を覆っていた黒いベルベットを剥がすと、淀んでいた空気が微かに震えた。現れた銀色の鏡面は、冷徹な真実を映し出す水面のようだ。そこに立っているのは、まだ何者でもない、ただの青白い肌をした一人の娘。

 私に侍女はいない。それは幼い頃から変わらぬことで、私は最低限の身の回りのことは自分でできる。否、できなければならなかった。

 鏡の中の私を、私は、私だと思えなかった。それが何故かは分からない。ただ、死神姫が居るな、としか思えないのだ。鏡を直視することなく、傍らに用意された漆黒の布地へと手を伸ばした。

 デコルテは一切見せない、首元まであるレースの下着。そして、絹のコルセット。私は紐を掴んだ。

「……ふっ、」

 ギュッ、と。
 乾いた音を立てて紐が擦れ、硬い骨組みが私の肉体を容赦なく押し潰していく。肋骨が悲鳴を上げ、肺が薄く引き伸ばされる。呼吸のたびに、鋭い火花が散るような痛みが脳を突き刺す。けれど、その苦しみこそが、浮き足立ちそうになる私の心を現実に繋ぎ止めてくれた。

 かつて母は言っていた。オスクーロの者に深く息を吸う権利などない、と。

 私はさらに力を込め、限界まで紐を引き絞った。視界がわずかに狭まり、意識が研ぎ澄らされていく。鏡の中に、ようやく理想の輪郭が現れ始めた。生身の柔らかさを失い、人間のものとは思えぬ胴。

 これで、ひとつ。私は私を、美しい檻の中に閉じ込めることに成功した。

 次に、重い黒いドレスを纏う。ハイネックの襟元は顎に届くほど高く、首筋の自由を奪う。黒いシルクの重みが、かつて剥奪されたはずの一族の名誉のように肩にのしかかる。流行りのたっぷりとしたものではない、ストン、と布の思いのままに落ちるシルエット。

 装飾を削ぎ落とした黒一色の輪郭が、鏡の中に完成していく。パニエで膨らませた裾も、胸元を飾る贅沢なレースもない。ただ、上質なシルクが持つ特有の重みだけが、私の身体を地面へと繋ぎ止めていた。

 適当に血色を無くすための化粧を済ませ、の時を迎える。

 オスクーロの女の髪は、一族の罪の歴史と同じだけ長く、そして重い。指の間をすり抜ける黒い糸を、私は一本の乱れもなく編み込んでいく。

 一本、また一本。

 纏まった編み込みを、側頭部に円を描くように固定していく。そして、銀のトレイに置かれた黒曜石の飾りを手に取る。指先に伝わる石の冷たさは、氷に閉ざされた北方の湖底によく似ている。これを側頭部の編み目に差し込み、銀の糸できつく結い上げる。
 
 ――羊の角。
 
 百年前、聖都から原罪を背負いし黒羊として刻印された、不吉な象徴。鏡の中の私は、その鋭利な弧を描く角を戴き、ついに死神となるのだ。
 
「……重い」
 
 首を少し傾けるだけで、石の重みが頚椎を圧迫し、逃れられない宿命を私に突きつける。
 
 けれど、私はこの重みを愛していた。これがある限り、私は自分が何者であるかを忘れることがないからだ。
 
 仕上げに、黒いレースの手袋をはめる。指先から伝わる自分の微かな体温さえも、このレースの網目の中に封じ込める。外へ出る時はボンネットを被るが、今日は要らないだろう。代わりに、顔を覆うヴェールをつけた――こちらと、あちらを隔てるために。

 網目の向こう側の世界は、途端に色を失い、影のようにぼやけて見える。階下から響くアルヴィエロを迎える喧騒も、磨き上げられた蜜蝋の匂いも、この薄い一枚の幕によって、遠い異国の出来事のように隔絶された。

 私は、今、正しくオスクーロの娘として絶望を纏えているだろうか。
 
 誰に言われる訳でもなく廊下に出ると、邸の空気が一変した。浮き足立っていた代官も、聖都の光に当てられていたメイドたちも、私が通るだけで氷をぶつけられたかのように静まり返る。
 
 影のように、私が通り過ぎるのを待つ彼らの視線。ああ、これが私の望んでいた正しい静寂だ。私は大階段の上で足を止め、階下の侵入者を見つめる。

 アルヴィエロ。
 
 彼は代官と談笑していた手を止め、ゆっくりと顔を上げた。黒いヴェールの向こう側で彼は、完璧な騎士の礼を執りながら、唇の端を微かに釣り上げた。
 
「……おはようございます。オスクーロ辺境伯当主。わたくしは聖都評議院付騎士、巡察卿――アルヴィエロ・ディ・セルヴァ、査察官として参りました」
 
 その声が、私の張り詰めた静寂を、無情にも切り裂いていった。

「巡察卿殿、ようこそお越しくださいました」

 笑みは浮かべない。必要最低限の歓迎の言葉だけでいい。ただ広いだけの空間に、私の声が吸い込まれていく。

 彼は礼を解くと、ゆっくりと顔を上げた。代官たちが固唾を呑んで見守る中、その琥珀色の瞳は、昨夜と同じ熱を持って真っ直ぐに私を射抜いた。

「……オスクーロ辺境伯当主。その装い、実に見事だ。伝統というものは、これほどまでに厳格で、そして……痛ましいほどに美しいものとは」
 
 アルヴィエロはそう言うと、事もあろうに、一段、また一段と階段を登り始めた。
 カツン、カツン、と。
 磨き上げられた大理石を叩く硬い靴音が、私の心臓の鼓動を追い越していく。代官が慌てて何かを制そうとしたが、アルヴィエロは片手を軽く挙げてそれを黙らせた。彼は、私が何重にも張り巡らせた拒絶の結界を、まるで存在しないかのように軽々と踏み越えてくる。

 あと三段。
 そこで彼は足を止めた。
 
 見上げる形にはなるが、その距離は、昨夜の闇の中よりもずっと近い。ヴェールを隔てたこちらまで届く、彼が纏う光の熱。そしてわずかに香る、清廉な石鹸の匂い。それが、蜜蝋の匂いにようやく慣れた私の嗅覚を無遠慮にかき乱す。
 
「昨日ぶりですね、――『死神姫』殿」
 
 彼は、周囲には聞こえないほどの低い声で囁いた。

「また、お会いできると申し上げたでしょう、貴女もきっと理解していたはずだ」

 その声が、ひどく親密に私を暴こうとしているように思えてコルセットで締め上げられた胸の奥が、不快に、けれど強く脈打つ。
 
「……巡察卿殿。査察の開始は、正午からと伺っております。それまでは、旅の疲れを癒されるのがよろしいかと」
「疲れ? ――ああ、残念ながらその必要はない。君という『謎』を前にして、眠れるはずがないだろう?」
 
 アルヴィエロは、わずかに首を傾け、私の顔を覗き込むようにした。黒いレースの隙間から、私の視線を、私の呼吸を探っている。

 ……嫌な男だ。
 
 彼は、私の側頭部に戴いた黒曜石の角を、まるで貴重な美術品を鑑定するような、熱を帯びた眼差しで見つめていた。
 
「見事な角だ。……そして、その息苦しそうな首元も。君は、そうやって自分を縛り上げることで、ようやくオスクーロの主として立っていられるのか」
 
 その言葉は、私の喉元に突きつけられた刃のようだった。母様の教え。深く息を吸う権利などないという、一族の戒め。それを、彼は出会って数刻で、いとも容易く暴いてみせた。
 
「……私は、役目を果たしているに過ぎません」
「役目、か。いい言葉だ。俺も役目には忠実でね。……今回の査察、俺は徹底的にやらせてもらうよ。当主殿がその黒いドレスの下に何を隠しているのか。そのすべてを、俺のこの手で確かめるまで」
 
 アルヴィエロは、ふっと満足げに目を細めた。その笑顔は、代官たちに向けた聖者のようなそれとは違う、飢えた獣のそれに似ていた。
 
 彼は最後の一段を登りきると、私のすぐ隣に並び、私と同じ方向――誰もいない、寒々とした邸の奥――を見据えた。差し出された白手袋の掌が、視界の端で白々と浮き上がっている。エスコートを申し出るその所作はあまりにも完璧で、疑いようのない敬意に満ちていた。けれど、私にはそれが、獲物の首にリボンをかけようとする捕食者の手つきに見えて仕方がなかった。

 私は彼から視線を外し、階下で固まっていた代官へと声を投げかけた。ヴェールの下で紡がれる声は、自分でも驚くほど冷たく、平坦だった。
 
「代官。監察官殿を食堂へ案内しなさい。聖都からのお客様に相応しい、最高級の朝食をもてなすように。……煮え立つ湯も、磨き上げられた銀食器も、すべては今日という日のために用意させたのでしょう?」
 
 代官が弾かれたように平伏した。彼の卑屈なほどに熱烈な歓迎ぶりを皮肉るつもりはなかったが、今の私には、その賑やかささえも遠い世界の出来事のように感じられた。
 
「私は、少し失礼いたします」
 
 私はアルヴィエロの返事を待たなかった。本来、邸の主人が彼をもてなすべきなのだろうが、そんな余裕などない。今更どう思われようと関係もない。私は踵を返し、重い黒いドレスの裾を捌いて回廊の奥へと歩み出す。
 
 一歩歩くごとにコルセットが肋骨を締め上げ、浅い呼吸が火花を散らす。けれど、その不自由さこそが今の私には心地よい鎧だった――背後から注がれる琥珀色の視線から、自分を必死に守り抜くための。
 
「おや……手厳しいな。朝食を独りで摂れ、というわけですか。死神姫殿?」
 
 背後から届いたその声は、驚くほど愉悦に満ちていた。拒絶されたことへの憤りなど微塵も感じられない。むしろ、逃げようとする私を、背後からじっくりと観察することを楽しんでいるかのような響き。
 
「残念ながら、私は一人で食事をするのが苦手で……その席に当主殿も座ってくれる、と期待しておりますね」
 
 私は立ち止まらない。彼の言葉が、ヴェールを突き抜けて私の項をじりじりと焼く。光の届かない回廊の角を曲がるまで、私は一度も振り返らなかった。
 
 ようやく一人になった暗闇の中で、私は壁に手をつき、肺に残ったわずかな空気を吐き出した。
 
 ――呼吸が、苦しい。
 
 それがコルセットのせいなのか、それとも、あの琥珀色の瞳のせいなのか。鏡の中の死神は、今、どんな顔をしているだろうか。
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