7 / 7
眠りから覚めた邸
鏡の中の死神
しおりを挟む
鏡を覆っていた黒いベルベットを剥がすと、淀んでいた空気が微かに震えた。現れた銀色の鏡面は、冷徹な真実を映し出す水面のようだ。そこに立っているのは、まだ何者でもない、ただの青白い肌をした一人の娘。
私に侍女はいない。それは幼い頃から変わらぬことで、私は最低限の身の回りのことは自分でできる。否、できなければならなかった。
鏡の中の私を、私は、私だと思えなかった。それが何故かは分からない。ただ、死神姫が居るな、としか思えないのだ。鏡を直視することなく、傍らに用意された漆黒の布地へと手を伸ばした。
デコルテは一切見せない、首元まであるレースの下着。そして、絹のコルセット。私は紐を掴んだ。
「……ふっ、」
ギュッ、と。
乾いた音を立てて紐が擦れ、硬い骨組みが私の肉体を容赦なく押し潰していく。肋骨が悲鳴を上げ、肺が薄く引き伸ばされる。呼吸のたびに、鋭い火花が散るような痛みが脳を突き刺す。けれど、その苦しみこそが、浮き足立ちそうになる私の心を現実に繋ぎ止めてくれた。
かつて母は言っていた。オスクーロの者に深く息を吸う権利などない、と。
私はさらに力を込め、限界まで紐を引き絞った。視界がわずかに狭まり、意識が研ぎ澄らされていく。鏡の中に、ようやく理想の輪郭が現れ始めた。生身の柔らかさを失い、人間のものとは思えぬ胴。
これで、ひとつ。私は私を、美しい檻の中に閉じ込めることに成功した。
次に、重い黒いドレスを纏う。ハイネックの襟元は顎に届くほど高く、首筋の自由を奪う。黒いシルクの重みが、かつて剥奪されたはずの一族の名誉のように肩にのしかかる。流行りのたっぷりとしたものではない、ストン、と布の思いのままに落ちるシルエット。
装飾を削ぎ落とした黒一色の輪郭が、鏡の中に完成していく。パニエで膨らませた裾も、胸元を飾る贅沢なレースもない。ただ、上質なシルクが持つ特有の重みだけが、私の身体を地面へと繋ぎ止めていた。
適当に血色を無くすための化粧を済ませ、戴冠の時を迎える。
オスクーロの女の髪は、一族の罪の歴史と同じだけ長く、そして重い。指の間をすり抜ける黒い糸を、私は一本の乱れもなく編み込んでいく。
一本、また一本。
纏まった編み込みを、側頭部に円を描くように固定していく。そして、銀のトレイに置かれた黒曜石の飾りを手に取る。指先に伝わる石の冷たさは、氷に閉ざされた北方の湖底によく似ている。これを側頭部の編み目に差し込み、銀の糸できつく結い上げる。
――羊の角。
百年前、聖都から原罪を背負いし黒羊として刻印された、不吉な象徴。鏡の中の私は、その鋭利な弧を描く角を戴き、ついに死神となるのだ。
「……重い」
首を少し傾けるだけで、石の重みが頚椎を圧迫し、逃れられない宿命を私に突きつける。
けれど、私はこの重みを愛していた。これがある限り、私は自分が何者であるかを忘れることがないからだ。
仕上げに、黒いレースの手袋をはめる。指先から伝わる自分の微かな体温さえも、このレースの網目の中に封じ込める。外へ出る時はボンネットを被るが、今日は要らないだろう。代わりに、顔を覆うヴェールをつけた――こちらと、あちらを隔てるために。
網目の向こう側の世界は、途端に色を失い、影のようにぼやけて見える。階下から響くアルヴィエロを迎える喧騒も、磨き上げられた蜜蝋の匂いも、この薄い一枚の幕によって、遠い異国の出来事のように隔絶された。
私は、今、正しくオスクーロの娘として絶望を纏えているだろうか。
誰に言われる訳でもなく廊下に出ると、邸の空気が一変した。浮き足立っていた代官も、聖都の光に当てられていたメイドたちも、私が通るだけで氷をぶつけられたかのように静まり返る。
影のように、私が通り過ぎるのを待つ彼らの視線。ああ、これが私の望んでいた正しい静寂だ。私は大階段の上で足を止め、階下の侵入者を見つめる。
アルヴィエロ。
彼は代官と談笑していた手を止め、ゆっくりと顔を上げた。黒いヴェールの向こう側で彼は、完璧な騎士の礼を執りながら、唇の端を微かに釣り上げた。
「……おはようございます。オスクーロ辺境伯当主。私は聖都評議院付騎士、巡察卿――アルヴィエロ・ディ・セルヴァ、査察官として参りました」
その声が、私の張り詰めた静寂を、無情にも切り裂いていった。
「巡察卿殿、ようこそお越しくださいました」
笑みは浮かべない。必要最低限の歓迎の言葉だけでいい。ただ広いだけの空間に、私の声が吸い込まれていく。
彼は礼を解くと、ゆっくりと顔を上げた。代官たちが固唾を呑んで見守る中、その琥珀色の瞳は、昨夜と同じ熱を持って真っ直ぐに私を射抜いた。
「……オスクーロ辺境伯当主。その装い、実に見事だ。伝統というものは、これほどまでに厳格で、そして……痛ましいほどに美しいものとは」
アルヴィエロはそう言うと、事もあろうに、一段、また一段と階段を登り始めた。
カツン、カツン、と。
磨き上げられた大理石を叩く硬い靴音が、私の心臓の鼓動を追い越していく。代官が慌てて何かを制そうとしたが、アルヴィエロは片手を軽く挙げてそれを黙らせた。彼は、私が何重にも張り巡らせた拒絶の結界を、まるで存在しないかのように軽々と踏み越えてくる。
あと三段。
そこで彼は足を止めた。
見上げる形にはなるが、その距離は、昨夜の闇の中よりもずっと近い。ヴェールを隔てたこちらまで届く、彼が纏う光の熱。そしてわずかに香る、清廉な石鹸の匂い。それが、蜜蝋の匂いにようやく慣れた私の嗅覚を無遠慮にかき乱す。
「昨日ぶりですね、――『死神姫』殿」
彼は、周囲には聞こえないほどの低い声で囁いた。
「また、お会いできると申し上げたでしょう、貴女もきっと理解していたはずだ」
その声が、ひどく親密に私を暴こうとしているように思えてコルセットで締め上げられた胸の奥が、不快に、けれど強く脈打つ。
「……巡察卿殿。査察の開始は、正午からと伺っております。それまでは、旅の疲れを癒されるのがよろしいかと」
「疲れ? ――ああ、残念ながらその必要はない。君という『謎』を前にして、眠れるはずがないだろう?」
アルヴィエロは、わずかに首を傾け、私の顔を覗き込むようにした。黒いレースの隙間から、私の視線を、私の呼吸を探っている。
……嫌な男だ。
彼は、私の側頭部に戴いた黒曜石の角を、まるで貴重な美術品を鑑定するような、熱を帯びた眼差しで見つめていた。
「見事な角だ。……そして、その息苦しそうな首元も。君は、そうやって自分を縛り上げることで、ようやくオスクーロの主として立っていられるのか」
その言葉は、私の喉元に突きつけられた刃のようだった。母様の教え。深く息を吸う権利などないという、一族の戒め。それを、彼は出会って数刻で、いとも容易く暴いてみせた。
「……私は、役目を果たしているに過ぎません」
「役目、か。いい言葉だ。俺も役目には忠実でね。……今回の査察、俺は徹底的にやらせてもらうよ。当主殿がその黒いドレスの下に何を隠しているのか。そのすべてを、俺のこの手で確かめるまで」
アルヴィエロは、ふっと満足げに目を細めた。その笑顔は、代官たちに向けた聖者のようなそれとは違う、飢えた獣のそれに似ていた。
彼は最後の一段を登りきると、私のすぐ隣に並び、私と同じ方向――誰もいない、寒々とした邸の奥――を見据えた。差し出された白手袋の掌が、視界の端で白々と浮き上がっている。エスコートを申し出るその所作はあまりにも完璧で、疑いようのない敬意に満ちていた。けれど、私にはそれが、獲物の首にリボンをかけようとする捕食者の手つきに見えて仕方がなかった。
私は彼から視線を外し、階下で固まっていた代官へと声を投げかけた。ヴェールの下で紡がれる声は、自分でも驚くほど冷たく、平坦だった。
「代官。監察官殿を食堂へ案内しなさい。聖都からのお客様に相応しい、最高級の朝食をもてなすように。……煮え立つ湯も、磨き上げられた銀食器も、すべては今日という日のために用意させたのでしょう?」
代官が弾かれたように平伏した。彼の卑屈なほどに熱烈な歓迎ぶりを皮肉るつもりはなかったが、今の私には、その賑やかささえも遠い世界の出来事のように感じられた。
「私は、少し失礼いたします」
私はアルヴィエロの返事を待たなかった。本来、邸の主人が彼をもてなすべきなのだろうが、そんな余裕などない。今更どう思われようと関係もない。私は踵を返し、重い黒いドレスの裾を捌いて回廊の奥へと歩み出す。
一歩歩くごとにコルセットが肋骨を締め上げ、浅い呼吸が火花を散らす。けれど、その不自由さこそが今の私には心地よい鎧だった――背後から注がれる琥珀色の視線から、自分を必死に守り抜くための。
「おや……手厳しいな。朝食を独りで摂れ、というわけですか。死神姫殿?」
背後から届いたその声は、驚くほど愉悦に満ちていた。拒絶されたことへの憤りなど微塵も感じられない。むしろ、逃げようとする私を、背後からじっくりと観察することを楽しんでいるかのような響き。
「残念ながら、私は一人で食事をするのが苦手で……その席に当主殿も座ってくれる、と期待しておりますね」
私は立ち止まらない。彼の言葉が、ヴェールを突き抜けて私の項をじりじりと焼く。光の届かない回廊の角を曲がるまで、私は一度も振り返らなかった。
ようやく一人になった暗闇の中で、私は壁に手をつき、肺に残ったわずかな空気を吐き出した。
――呼吸が、苦しい。
それがコルセットのせいなのか、それとも、あの琥珀色の瞳のせいなのか。鏡の中の死神は、今、どんな顔をしているだろうか。
私に侍女はいない。それは幼い頃から変わらぬことで、私は最低限の身の回りのことは自分でできる。否、できなければならなかった。
鏡の中の私を、私は、私だと思えなかった。それが何故かは分からない。ただ、死神姫が居るな、としか思えないのだ。鏡を直視することなく、傍らに用意された漆黒の布地へと手を伸ばした。
デコルテは一切見せない、首元まであるレースの下着。そして、絹のコルセット。私は紐を掴んだ。
「……ふっ、」
ギュッ、と。
乾いた音を立てて紐が擦れ、硬い骨組みが私の肉体を容赦なく押し潰していく。肋骨が悲鳴を上げ、肺が薄く引き伸ばされる。呼吸のたびに、鋭い火花が散るような痛みが脳を突き刺す。けれど、その苦しみこそが、浮き足立ちそうになる私の心を現実に繋ぎ止めてくれた。
かつて母は言っていた。オスクーロの者に深く息を吸う権利などない、と。
私はさらに力を込め、限界まで紐を引き絞った。視界がわずかに狭まり、意識が研ぎ澄らされていく。鏡の中に、ようやく理想の輪郭が現れ始めた。生身の柔らかさを失い、人間のものとは思えぬ胴。
これで、ひとつ。私は私を、美しい檻の中に閉じ込めることに成功した。
次に、重い黒いドレスを纏う。ハイネックの襟元は顎に届くほど高く、首筋の自由を奪う。黒いシルクの重みが、かつて剥奪されたはずの一族の名誉のように肩にのしかかる。流行りのたっぷりとしたものではない、ストン、と布の思いのままに落ちるシルエット。
装飾を削ぎ落とした黒一色の輪郭が、鏡の中に完成していく。パニエで膨らませた裾も、胸元を飾る贅沢なレースもない。ただ、上質なシルクが持つ特有の重みだけが、私の身体を地面へと繋ぎ止めていた。
適当に血色を無くすための化粧を済ませ、戴冠の時を迎える。
オスクーロの女の髪は、一族の罪の歴史と同じだけ長く、そして重い。指の間をすり抜ける黒い糸を、私は一本の乱れもなく編み込んでいく。
一本、また一本。
纏まった編み込みを、側頭部に円を描くように固定していく。そして、銀のトレイに置かれた黒曜石の飾りを手に取る。指先に伝わる石の冷たさは、氷に閉ざされた北方の湖底によく似ている。これを側頭部の編み目に差し込み、銀の糸できつく結い上げる。
――羊の角。
百年前、聖都から原罪を背負いし黒羊として刻印された、不吉な象徴。鏡の中の私は、その鋭利な弧を描く角を戴き、ついに死神となるのだ。
「……重い」
首を少し傾けるだけで、石の重みが頚椎を圧迫し、逃れられない宿命を私に突きつける。
けれど、私はこの重みを愛していた。これがある限り、私は自分が何者であるかを忘れることがないからだ。
仕上げに、黒いレースの手袋をはめる。指先から伝わる自分の微かな体温さえも、このレースの網目の中に封じ込める。外へ出る時はボンネットを被るが、今日は要らないだろう。代わりに、顔を覆うヴェールをつけた――こちらと、あちらを隔てるために。
網目の向こう側の世界は、途端に色を失い、影のようにぼやけて見える。階下から響くアルヴィエロを迎える喧騒も、磨き上げられた蜜蝋の匂いも、この薄い一枚の幕によって、遠い異国の出来事のように隔絶された。
私は、今、正しくオスクーロの娘として絶望を纏えているだろうか。
誰に言われる訳でもなく廊下に出ると、邸の空気が一変した。浮き足立っていた代官も、聖都の光に当てられていたメイドたちも、私が通るだけで氷をぶつけられたかのように静まり返る。
影のように、私が通り過ぎるのを待つ彼らの視線。ああ、これが私の望んでいた正しい静寂だ。私は大階段の上で足を止め、階下の侵入者を見つめる。
アルヴィエロ。
彼は代官と談笑していた手を止め、ゆっくりと顔を上げた。黒いヴェールの向こう側で彼は、完璧な騎士の礼を執りながら、唇の端を微かに釣り上げた。
「……おはようございます。オスクーロ辺境伯当主。私は聖都評議院付騎士、巡察卿――アルヴィエロ・ディ・セルヴァ、査察官として参りました」
その声が、私の張り詰めた静寂を、無情にも切り裂いていった。
「巡察卿殿、ようこそお越しくださいました」
笑みは浮かべない。必要最低限の歓迎の言葉だけでいい。ただ広いだけの空間に、私の声が吸い込まれていく。
彼は礼を解くと、ゆっくりと顔を上げた。代官たちが固唾を呑んで見守る中、その琥珀色の瞳は、昨夜と同じ熱を持って真っ直ぐに私を射抜いた。
「……オスクーロ辺境伯当主。その装い、実に見事だ。伝統というものは、これほどまでに厳格で、そして……痛ましいほどに美しいものとは」
アルヴィエロはそう言うと、事もあろうに、一段、また一段と階段を登り始めた。
カツン、カツン、と。
磨き上げられた大理石を叩く硬い靴音が、私の心臓の鼓動を追い越していく。代官が慌てて何かを制そうとしたが、アルヴィエロは片手を軽く挙げてそれを黙らせた。彼は、私が何重にも張り巡らせた拒絶の結界を、まるで存在しないかのように軽々と踏み越えてくる。
あと三段。
そこで彼は足を止めた。
見上げる形にはなるが、その距離は、昨夜の闇の中よりもずっと近い。ヴェールを隔てたこちらまで届く、彼が纏う光の熱。そしてわずかに香る、清廉な石鹸の匂い。それが、蜜蝋の匂いにようやく慣れた私の嗅覚を無遠慮にかき乱す。
「昨日ぶりですね、――『死神姫』殿」
彼は、周囲には聞こえないほどの低い声で囁いた。
「また、お会いできると申し上げたでしょう、貴女もきっと理解していたはずだ」
その声が、ひどく親密に私を暴こうとしているように思えてコルセットで締め上げられた胸の奥が、不快に、けれど強く脈打つ。
「……巡察卿殿。査察の開始は、正午からと伺っております。それまでは、旅の疲れを癒されるのがよろしいかと」
「疲れ? ――ああ、残念ながらその必要はない。君という『謎』を前にして、眠れるはずがないだろう?」
アルヴィエロは、わずかに首を傾け、私の顔を覗き込むようにした。黒いレースの隙間から、私の視線を、私の呼吸を探っている。
……嫌な男だ。
彼は、私の側頭部に戴いた黒曜石の角を、まるで貴重な美術品を鑑定するような、熱を帯びた眼差しで見つめていた。
「見事な角だ。……そして、その息苦しそうな首元も。君は、そうやって自分を縛り上げることで、ようやくオスクーロの主として立っていられるのか」
その言葉は、私の喉元に突きつけられた刃のようだった。母様の教え。深く息を吸う権利などないという、一族の戒め。それを、彼は出会って数刻で、いとも容易く暴いてみせた。
「……私は、役目を果たしているに過ぎません」
「役目、か。いい言葉だ。俺も役目には忠実でね。……今回の査察、俺は徹底的にやらせてもらうよ。当主殿がその黒いドレスの下に何を隠しているのか。そのすべてを、俺のこの手で確かめるまで」
アルヴィエロは、ふっと満足げに目を細めた。その笑顔は、代官たちに向けた聖者のようなそれとは違う、飢えた獣のそれに似ていた。
彼は最後の一段を登りきると、私のすぐ隣に並び、私と同じ方向――誰もいない、寒々とした邸の奥――を見据えた。差し出された白手袋の掌が、視界の端で白々と浮き上がっている。エスコートを申し出るその所作はあまりにも完璧で、疑いようのない敬意に満ちていた。けれど、私にはそれが、獲物の首にリボンをかけようとする捕食者の手つきに見えて仕方がなかった。
私は彼から視線を外し、階下で固まっていた代官へと声を投げかけた。ヴェールの下で紡がれる声は、自分でも驚くほど冷たく、平坦だった。
「代官。監察官殿を食堂へ案内しなさい。聖都からのお客様に相応しい、最高級の朝食をもてなすように。……煮え立つ湯も、磨き上げられた銀食器も、すべては今日という日のために用意させたのでしょう?」
代官が弾かれたように平伏した。彼の卑屈なほどに熱烈な歓迎ぶりを皮肉るつもりはなかったが、今の私には、その賑やかささえも遠い世界の出来事のように感じられた。
「私は、少し失礼いたします」
私はアルヴィエロの返事を待たなかった。本来、邸の主人が彼をもてなすべきなのだろうが、そんな余裕などない。今更どう思われようと関係もない。私は踵を返し、重い黒いドレスの裾を捌いて回廊の奥へと歩み出す。
一歩歩くごとにコルセットが肋骨を締め上げ、浅い呼吸が火花を散らす。けれど、その不自由さこそが今の私には心地よい鎧だった――背後から注がれる琥珀色の視線から、自分を必死に守り抜くための。
「おや……手厳しいな。朝食を独りで摂れ、というわけですか。死神姫殿?」
背後から届いたその声は、驚くほど愉悦に満ちていた。拒絶されたことへの憤りなど微塵も感じられない。むしろ、逃げようとする私を、背後からじっくりと観察することを楽しんでいるかのような響き。
「残念ながら、私は一人で食事をするのが苦手で……その席に当主殿も座ってくれる、と期待しておりますね」
私は立ち止まらない。彼の言葉が、ヴェールを突き抜けて私の項をじりじりと焼く。光の届かない回廊の角を曲がるまで、私は一度も振り返らなかった。
ようやく一人になった暗闇の中で、私は壁に手をつき、肺に残ったわずかな空気を吐き出した。
――呼吸が、苦しい。
それがコルセットのせいなのか、それとも、あの琥珀色の瞳のせいなのか。鏡の中の死神は、今、どんな顔をしているだろうか。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話
登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。
転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました
桜あずみ
恋愛
異世界に転移して2年。
言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。
しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。
──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。
その一行が、彼の目に留まった。
「この文字を書いたのは、あなたですか?」
美しく、完璧で、どこか現実離れした男。
日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。
最初はただの好奇心だと思っていた。
けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。
彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ざまぁに失敗したけど辺境伯に溺愛されています
木漏れ日
恋愛
天才魔術師セディが自分の番である『異界渡りの姫』を召喚したとき、16歳の少女奈緒はそれに巻き込まれて、壁外という身分を持たない人々が住む場所に落ちました。
少女は自分を異世界トリップに巻き込んだ『異界渡り姫』に復讐しようとして失敗。なぜかロビン辺境伯は少女も『異界渡りの姫』だと言って溺愛するのですが……
陰陽の姫シリーズ『図書館の幽霊って私のことですか?』と連動しています。
どちらからお読み頂いても話は通じます。
人狼な幼妻は夫が変態で困り果てている
井中かわず
恋愛
古い魔法契約によって強制的に結ばれたマリアとシュヤンの14歳年の離れた夫婦。それでも、シュヤンはマリアを愛していた。
それはもう深く愛していた。
変質的、偏執的、なんとも形容しがたいほどの狂気の愛情を注ぐシュヤン。異常さを感じながらも、なんだかんだでシュヤンが好きなマリア。
これもひとつの夫婦愛の形…なのかもしれない。
全3章、1日1章更新、完結済
※特に物語と言う物語はありません
※オチもありません
※ただひたすら時系列に沿って変態したりイチャイチャしたりする話が続きます。
※主人公の1人(夫)が気持ち悪いです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる