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第1話「捨てた女」
辺境の村に、豪華な馬車が到着したのは、春の終わりの午後だった。
仕立て屋の看板を掲げた小さな店の前で、リディア・クレインは針仕事の手を止めた。胸騒ぎ。いや、確信に近い予感が、背筋を冷たく撫でる。
「ママ、お客さんだよ!」
裏の部屋から、4歳の娘エリーゼが駆けてくる。亜麻色の髪に、明るい笑顔。そして――その瞳だけが、深い蒼。
リディアは娘の頭を優しく撫でた。
「エリー、奥にいなさい。今日のお客様は、特別だから」
「特別? すごい人?」
「……ええ。とても」
娘を部屋に戻し、リディアは扉を開けた。
そこに立っていたのは、5年前、自分が人生で最も愛した男だった。
アーサー・ヴァンデール公爵。
漆黒の髪、氷のような蒼い瞳、整った顔立ちに刻まれた冷徹さ。すべてが、記憶の中のままだった。
いや、違う。彼はもっと――冷たくなっていた。
「……久しぶりだね、リディア」
低い声。それだけで、心臓が悲鳴を上げる。
「公爵様。このような辺境まで、一体何の御用でしょうか」
リディアは膝を折り、恭しく頭を下げた。感情を、一切表に出さない。それが、5年間守り続けてきた鎧だった。
「顔を上げろ」
「……はい」
ゆっくりと顔を上げる。アーサーの視線が、まっすぐリディアを捉えていた。
「探したよ。5年間、ずっと」
「……それは、お気の毒なことを」
「なぜ消えた」
静かな、けれど有無を言わさぬ声。
リディアは微笑んだ。作り笑いだと、自分でもわかる。
「申し上げたはずです。他に、愛する方ができたと」
「嘘だ」
即答だった。
「あれは嘘だ。お前は、俺を愛していた」
リディアの胸が、ぎゅっと締め付けられる。
――そうよ。愛していた。今も、愛している。
だからこそ、あなたを捨てた。
「……公爵様の思い込みです」
「ならば証明しろ。お前が俺を愛していなかったと」
アーサーが一歩、踏み込む。リディアは後ずさることも許さず、彼の腕が壁に手をついた。
顔が、近い。
「5年間、一度も俺を思い出さなかったと言えるか」
「……言えます」
「嘘をつけ」
その声は、怒りではなく――悲痛だった。
リディアは目を伏せた。このまま見つめていたら、泣いてしまう。
「公爵様。どうか、お引き取りください」
「断る」
「……っ」
「お前を見つけたんだ。二度と、離さない」
その時、裏の部屋から小さな声がした。
「ママー? まだお話してるのー?」
リディアの顔色が、一瞬で変わった。
アーサーの目が、鋭く細められる。
「……子ども?」
「ええ。私の、娘です」
平然と答える。心臓は破裂しそうなのに、声は震えない。
「やはり、男がいたのか」
「……ええ」
嘘。嘘。嘘。
でも、これでいい。
アーサーの瞳に、初めて激しい感情が宿った。それは嫉妬か、憎悪か、それとも――
「その男は、どこだ」
「いません」
「死んだのか」
「……いいえ。最初から、いませんでした」
リディアは、まっすぐアーサーを見返した。
「私は一人で、この子を育てています。それが、私の選択です」
アーサーは何も言わなかった。
ただ、じっとリディアを見つめていた。
そして――ふいに、笑った。
冷たい、けれどどこか狂気を帯びた笑みだった。
「そうか。ならば、俺が父親になろう」
「……は?」
「お前と、その子を、俺が引き取る。今すぐにでも」
「お断りします!」
リディアは声を荒げた。初めて、感情が表に出た。
アーサーは動じない。
「拒否権はない。お前は、まだ俺のものだ」
「私はあなたの所有物ではありません」
「ならば、妻になれ」
リディアは息を呑んだ。
今、この男は何と言った?
「……冗談、ですよね」
「本気だ」
アーサーの瞳に、迷いはなかった。
「5年前、お前は俺を捨てた。理由は知らない。だが、もういい。お前が何を隠していようと、関係ない」
「公爵様――」
「俺は、お前が欲しい。それだけだ」
リディアは、唇を噛んだ。
彼の愛が、重すぎる。
そして――危険すぎる。
「お帰りください」
「断る」
「……公爵様」
「俺は、お前を連れて帰る。たとえお前が拒もうと」
その宣言は、絶対だった。
リディアは、絶望した。
――ああ、神様。
私は、まだ罰を受け続けなければならないのですか。
愛した人を、また、傷つけ続けなければならないのですか。
その時、エリーゼが部屋から顔を出した。
「ママ? このおじさん、だあれ?」
アーサーの視線が、エリーゼに注がれた。
そして――彼の瞳が、見開かれた。
エリーゼの瞳。
深い、深い蒼。
それは――ヴァンデール家の、血の証だった。
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