ワガママ女王としもべ達

角井まる子

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「・・・え?由佳さんが来てる・・・?」



最上階にあるプールでのんびりしていたら、使用人の一人が慌てたように呼びに来た。
ちょうど今の時間は、田中が仕事の打ち合わせで来ている頃だろう。
今日は気分が乗らなかったから、こうしてプールに逃げてきたのだ。

・・・あの人が、わざわざホテルまで来るはずがない。
どうせ、僕を呼び戻すための嘘だろう。
田中も人の良さそうな顔して、結構ずる賢い事を考えるからな。
ま、もともと賭博師だし。



「・・・ふ~ん。悪いけど、僕今そ~ゆ~冗談聞きたくないんだよねー。田中には机の上にある書類渡しておいて~」



それだけ言うと、再び水の中に潜る。
さっきの使用人が、プールサイドで何か喚いているけど、水の中ではハッキリ聞き取れない。


・・・水の、音がする。


すべてがゆっくりと感じられる水中。
鼓膜を刺激する水の音は、優しく心地よい。

自分の口から出ていく泡の感触を楽しみながら、十紀はしばらくプールの底でジッとしていた。

息が苦しくなり水面に顔を出すと、そのままクロールで激しく泳ぎ出す。
周りの音を全てかき消すように。
ただただ水面を叩き、蹴り、十紀は夢中になって泳いだ。







何往復かして一息ついてみれば、先ほど呼びに来た使用人は既に居なかった。



「・・・・・」



―――嘘だと、分かっているのに。


ホントはほんの少し、いや、かなり期待した自分がいた。


ニヤける頬を見られたくなくて、隠すように水中に逃げ込んだ。
高ぶる感情を沈めたくて、激しく泳いだ。
直ぐにでも部屋に飛んでいきそうな程、気持ちが逸っていた。
そんな自分が恥ずかしくて、照れ隠しのつもりで。
全ては、押さえる事の出来ない感情をごまかすためだった。

もし、まださっきの使用人が居て、「本当です」と再び言ってくれたら・・・

きっと十紀は素直に喜びを表現出来ていただろう。



でも、プールサイドには誰も居ない。



「・・・・・」



水面をたゆたいながら、十紀はそんな自分を冷めた気持ちで見つめていた。


馬鹿だな、自分は。
由佳さんの名前に、こんなに反応するなんて。
これじゃあ田中の思う壺だ。
・・・・・
・・・なんかムカついてきた。
明日からはもっと仕事押し付けてやろう。


今度は田中に対する怒りが沸いてきた十紀。
その怒りを発散しようと、再びクロールするべく仰向けの体勢を変えようとして横を向いた。



「・・・永瀬主任、長谷川代表が部屋でお待ちですよ」



視線の先で見たのは、プールサイドで佇む憎き田中の姿。
だがその怒りも田中の言葉で泡のように消え去り、今度こそ十紀は、すぐさま水から上がるのであった。
















「・・・・・由佳さん?」

「あ~!とーきくぅ~ん!!!待ってたよぉ~、悩み事はおねぇーさんに相談してみぃ~?」



急いで部屋に戻った十紀が見たのは、きゃはは!と笑い転げる由佳であった。
側についてる神谷に対して「もっと飲め飲め~!」と酒を勧めている。
絡まれて困り果てた様子の神谷が、現れた十紀を見て慌てるように弁解してきた。



「と、十紀様!これはですね、決して、わたくしどもがお酒を勧めた訳ではないのですが・・・」

「・・・田中、由佳さんにワイン飲ませた?」

「・・・いえ。私も、主任を呼びに行くまではここで一緒にお待ちしていたのですが、その時はこんな様子では・・・」

「・・・そう」



一緒に部屋に戻ってきた田中も、あまりの由佳の乱れっぷりに驚いていた。
この様子だと、田中が十紀を呼びに来ている間に、部屋にあったワインを開けて飲んだのだろう。


・・・まったく、この人は。

なんでこんなに、可愛いのだろう。



「由佳さん、ワインは勝手に外で飲んじゃダメだって、ゆーきサンにも言われているでしょ~?」



由佳が握っているワインボトルを無理矢理奪い取ると、赤らめた顔で「あっ、あっ~!」と言ってねだってくる。
その様子が情事を思い出させ、十紀の股間は知らず内に熱を持ち固くなる。


・・・こんな顔、二人には見せたくないな。


そう考えた十紀は、神谷と田中に対して退出するよう言い放つ。



「あとは僕が相手するから、二人とも出てってくれる~?」

「で、ですが十紀様・・・」

「酔っ払っている女性に、イヤラシい事なんてしないよ~?僕もそこまで落ちぶれてないしね~・・・それとも、僕が信用出来ないの?」

「・・・はぁ、かしこまりました・・・」

「田中も、仕事の打ち合わせは明日で良いでしょ~?書類はそこに作って置いてあるんだしー」

「・・・主任、あまり長谷川代表に飲ませられますと、森宮社長が心配するかと・・・」

「もー分かってるよ~煩いなぁ。ちゃんと夜には帰すから~ゆーきサンには田中から連絡しといてー」



そう言って、二人を部屋から追い出す。
二人きりになると、十紀は自分もワイングラスに注いで飲み始めた。
由佳は、既にボトルに口付けて飲んでいる。


・・・あ、それ、けっこー良いヤツなのに・・・


「偉大な年」に作られたヴィンテージ物のワインを、由佳は味わう事もなくゴクゴクと喉に流し込む。
ワイン好きの人間から見たら、悲鳴を上げるような光景だ。
由佳の口の端からこぼれ出る赤い滴を、十紀は指ですくい取ると自分の口に運ぶ。



「由佳さん、それ、僕にも飲ませて?」

「え~?いいでちゅよ~・・・はい、飲んれくださぁーい」



十紀は、由佳と同じようにボトルに口付けると、そのまま飲み始める。
まろやかな酸味と、深く鼻を抜ける、芳醇な香り。
それはそれは、甘美な味。

十紀は久方ぶりに、酒の味を楽しんだ。



「・・・ね、とーき君。お酒、おいち?」

「うん、すっごく美味しいよ~?由佳さんと一緒に飲んでるから、かな」

「よかったぁ~・・・」



へにゃり、と嬉しそうに由佳が笑いかける。
十紀の股間は既に爆発寸前で、ズボンに押さえつけられた自身が痛い。
触ってもいないのに、チャックが少し降りてきていた。



「・・・ね、とーき君。なにか悲しいこと、あったの~?」

「ん~?どうだろう?・・・なんで~?」

「悲しいそうな、め、してる・・・」



酔っ払ってて、正常な思考判断は出来ていないだろうに。
十紀の顔を覗き込んでくる由佳が、真っ直ぐな瞳で見つめてくるから、十紀は息を呑んだ。



「・・・とーき君、そんな顔しちゃ、悲しいよ・・・?」

「・・・由佳さん・・・」



そう言うと、十紀の頭を抱えるように抱きしめる由佳。
十紀の顔が由佳の胸に当たる。
由佳は、そのままの状態で十紀の頭を良い子良い子と撫でる。



「笑ってても、こころが悲しいと、目が、泣いてるんだよ・・・?」



―――・・・そんな事、あなたに言われたら。
僕は、どうしたら良いのですか・・・


この胸の気持ちを、どうやって表現したら、いいのだろう。



「由佳さん・・・僕はあなたが、好きです・・・」



由佳に抱きつきながら、溢れる想い。


愛おしい。
そばに居て。
そばに居たい。
ずっと、このまま抱きしめて・・・


言葉にしたら、陳腐に思える程軽くて。
伝えきれない想いを、由佳を抱きしめる腕に込める。


こんなに酔っているのだから、「私もよ」と軽く返してくれても良さそうなのに、由佳は決してそんな言葉を口にしない。
どんなに酔っても、どんなに求められても、最後の最後で、由佳の心は全てを拒絶する。

分かっているのに・・・
ほんの一時、由佳と心が通じたように感じられる瞬間が、十紀にとっては全てで。

僕はまた、あなたの心を、求めてしまう。


・・・きっと、明日になったら由佳は今の事なんて全て忘れてしまっている。


それでも良い。
今この瞬間だけは、あなたの心を独り占めしているのは、僕だ。


頭を撫で続ける由佳に、十紀はキツく縋り付いた。



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