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零れた日々
しおりを挟む翌朝。
青あざになっている手首や首筋の噛み跡を見て、ひなたは一人静かに涙を流す。
「すみません。はい、はい・・・お願いします」
ひなたは会社に仮病を使って休む連絡を入れる。
隣で寝ていた英樹がもぞもぞ動く気配がし、ひなたは息を飲んだ。
「・・・ひなた?」
怖くて振り返れない。
彼が伺うようにそっと手を伸ばしてくる。
ビクリと反応するひなたに、英樹は躊躇った手をそのまま引っ込めた。
「ひなた・・・ごめん。俺、ひなたに、またひどい事した――・・・」
うっ・・・と彼の啜り泣く声が聞こえる。
男の人の涙に慣れていないひなたは、驚いて振り向く。
「俺、ひなたが好きで・・・不安で、でもどうしようもなくて――ごめん、ひなたごめんな、」
ポロポロと涙を流し顔を歪めて謝る彼。
反応に困るひなたに、彼は続ける。
「昨日、会社のメールに、ひなたが男の車に乗り込む写真が送られてて・・・イタズラだろうと思ったけど、もし本当だったらどうしようって不安になって――昨日ひなたの顔見たら、なんだか自分が分からなくなって・・・俺、ホント最低だよな・・・」
「英くん・・・」
「大丈夫。・・・覚悟出来た。ひなたがそいつの事好きなら、俺、ちゃんと応援するから。就職してから全然ひなたと時間取れなくて、いっつも寂しい思いさせて、あんなひどい事して傷付けて・・・俺、彼氏失格だよな。ひなたの幸せが、俺の幸せだから・・・俺よりもそいつといた方が幸せになれるってひなたが思うなら、俺のこと気にしなくて良いからな」
そう言って儚げに笑う彼に、ひなたは胸が締め付けられる思いがした。
――何で彼は一人で勝手に勘違いして、こんなに悲しい顔をしているのだろう。
ひなたまで切なくなり、彼をギュッと抱きしめて言う。
「英くん・・・勘違いしないで。私が好きなのは英くんだよ。 わたしが幸せに感じるのは、英くんが笑って傍に居てくれることだよ・・・彼は幼馴染みで、英くんの考えるような相手じゃないから心配しないで」
「ひなた・・・でも俺、昨日ひどい事したし」
「大丈夫。英くんも寂しかったんだよね・・・」
「ひなた・・・ごめん・・・」
こんなに不安になるほど、彼は私の事を愛してくれている。
みんなの人気者の彼が、自分の事を考えて些細なことで取り乱している。
そんな優越感にも似たような感情が、ひなたの感覚を狂わす。
英樹はその一件があってから、以前にも増してひなたに優しく接するようになった。
仕事が落ち着いてくれば二人で遠出の旅行に出掛けたり、ひなたが会社の飲み会で遅くなれば、英樹が駅まで迎えに行ったりと、端からみれは仲良しカップルのような日々を送っていた。
ひなたも英樹を不安にさせないため、よく車で迎えに来てた廣瀬に事情を話して会わない旨を伝えると、彼はいつものように『いいよ、分かった』と笑った。
そうしてひなたもあの日の夜を忘れられそうになっていた時、再び事件が起きる。
ひなたがその日英樹の家に行くと、玄関に知らない男物の靴が並んでいる。
誰だろう・・・珍しいなお客さんかな?
入り口で入ろうかどうかと悩んでいると、居間の扉が開き笑顔の英樹が出てくる。
「ひなたっ! 丁度良かった、会わせたい人がいるんだ」
久しぶりに見た、学生時代を思い起こさせるような彼の明るい笑顔。
懐かしい友だちでも来ているのだろうか。
彼に引っ張られるように室内に入れば、――そこにはスーツ姿の廣瀬が居た。
「初めまして、廣瀬です」
にっこりといつもの笑顔で優しく微笑む廣瀬に、ひなたは固まった。
――なんで、彼が・・・陽斗くんが居るの?
しかも『初めまして』と挨拶された。
英樹には、以前浮気を疑われた時に『陽斗くん』という名前は言っているはず。
どう言うこと? 英樹は何も知らないの? それとも、まだ浮気を疑っててわざと彼と私を引き合わせた?
英樹に乱暴をされた嫌な記憶が甦る。
何も言えずに立ちすくむひなたに、英樹は機嫌よさげに言う。
「おいおい、イケメンだからって見とれるなよ。妬くだろう。突っ立ってないでひなたも座れって」
これも何かの冗談?
英樹の言葉が信じられず、思わず彼の顔を見てみるが、彼は心底嬉しそうに笑っている。
本当に、何も知らないのだろうか?
気まずい空気を放つ私に、廣瀬は気を利かせた風な事を言い出す。
「彼女さんが来たなら、私はお邪魔でしょうから帰りますね」
「いやいや、大丈夫っす! ひなたは人見知りで緊張してるだけなんで! こいつの作る飯は美味いんで、良かったら一緒に食事していって下さい。なっ、いいよなひなた」
まるで先輩に対するような英樹の口調。
二人の関係性が全く見えない。
ひなたは恐る恐る英樹に尋ねた。
「え、っと、"彼"は・・・?」
「聞いてくれよひなた! 今度エハラ工業との合同開発に俺も抜擢されたんだぜっ!」
不安げな私をよそに、英樹は熱に浮かれたように一人で話し続ける。
「それで今日、エハラ工業の方が打ち合わせに来たんだけど、その時にたまたま研究室を見学に来た廣瀬さんが、俺の作ってた試作品をすっごい評価してくれてさ! それでエハラ工業の偉い人に俺の事を話してくれて、その人からうちの部長に俺を開発メンバーに加えてはどうだって推してくれたんだよ~!」
「いえいえ。田原さんの研究は素晴らしいですよ。まさか日本にもあんな先進的な取り組みをしている人がいるなんて、驚きました」
「いやぁ、マジで照れるっす。 同期にも先輩にもずっと馬鹿にされてたんで、まさかエハラ工業の廣瀬さんに褒めて頂けるとは。ホント光栄です」
褒められ嬉しそうに顔を赤らめている英樹に、廣瀬はニコニコと笑顔で答える。
英樹は目を輝かせ、ひなたを見て言う。
「それでさ、話を聞いてみたらなんと! 廣瀬さん俺たちと同い年なんだってよ! 最近海外赴任から日本に戻られたみたいなんだけど、超エリートコース歩んでいるかと思いきや結構苦労されているみたいでさ。生産技術開発の現場の話とか、日本と海外の特許の話とか、色々聞いてたら意気投合してすっかり仲良くなったって訳」
「私も、同い年でこんなに情熱を持っている人に会えて嬉しいです」
「自分の考えている事を理解してくれたのは、廣瀬さんが初めてっすよ。気恥ずかしいですけど、こういうのを運命って言うんでしょうね」
「ははは。 そうかも知れませんね」
二人の話について行けないひなたは、今だ立ったまま二人のやり取りを聞いていた。
「・・・話が盛り上がって、つい長居してしまいました。 今日は急にお邪魔したので、また今度ゆっくりお酒でも飲みながら話しましょう。・・・えっと、ひなたさん? 急にお邪魔してすみません」
「廣瀬さん、何言っているんですか! 気にしないで下さい。まだまだ話しましょうよ」
「私もそうしたいのは山々ですが、会社に仕事を残してまして・・・後日、改めてまたお話ししましょう。今後、仕事でお会いする機会も多いでしょうし。 今日は色々聞けて楽しかったです」
「そうでしたか、こちらこそ引き留めてしまいすみませんでした。 分かりました、是非次はひなたの手料理食べてやって下さい」
「ええ、楽しみにしています」
廣瀬は入り口に立つひなたに会釈すると、そのまま帰っていった。
英樹は外まで廣瀬を見送りに行き、しばらくして顔に怒りを滲ませて戻ってくる。
やっぱり、陽斗くんと私の事知ってる――ひなたは緊張して身構える。
「・・・ひなた、何でずっと突っ立ってたんだよ。お茶くらい出すだろ普通。廣瀬さんに気を遣わせてどうすんだよ」
「・・・え、あ、ごめん」
「ったく。廣瀬さん優しいから良かったけど、普通あんな態度取られたら相手気分悪くするだろ」
「ごめん、ビックリして」
「・・・まぁ、確かにいきなり家に仕事関係者が居たら驚くよな。俺も急だったし、ごめんな」
英樹は申し訳なさそうに顔を崩すと、ぎゅっとひなたを抱きしめる。
ビクリと一瞬反応するが、英樹が怒っている訳では無さそうだと理解したひなたは力を抜いた。
「ひなた・・・一番に報告したかったんだ。やっと、俺の仕事が認められたって」
「英くん・・・」
ひなたを抱きしめる彼は、喜びを噛みしめるように目を瞑っている。
「良かったね、英くん。おめでとう」
「ああ、ありがとう――」
優しく笑って、私の唇にキスを落とす。
「ま、開発メンバーになれたってだけで、これからもっと頑張んないといけないけどな」
にかっとひなたの好きな笑顔で笑う彼。
なんだかひなたも自分のことのように嬉しくなってくる。
それからも英樹は、上機嫌に仕事の事や廣瀬の事を話し続け、ひなたが不安を抱いていた浮気の件が話題に上る事は無かった。
英樹は廣瀬とひなたが全くの初対面だと思っているようだ。
自分から本当の事を話した方がいいのかひなたは悩んだが、こんなに嬉しそうな彼を落ち込ますような事は言いたくない。
それに、それで英樹の機嫌が悪くなり、またあの日の夜のような事になったら怖い――
ひなたは英樹を騙しているような罪悪感を覚えながらも、彼の怒りが怖くて結局言い出せなかった。
帰宅したひなたは、すぐに廣瀬に電話を掛けた。
『今日は驚かせたね。僕も、まさか彼がひなたちゃんの婚約者だと思わなかったから、びっくりしたよ』
どうやら、廣瀬にとっても全くの偶然らしい。
廣瀬と英樹は直接の面識もないし、ずっと海外にいた廣瀬にひなたは自分の婚約者についてあまり詳しく話していない。
英樹にしても、機嫌が悪くなるため廣瀬を含め他の男性のことをひなたは話さない。
『彼は嫉妬深いってひなたちゃんから聞いてたから、他人のふりした方が良いかと思って。マズかった?』
「ううん。大丈夫。・・・だけど、英くんは本当に気付いてないのかな。陽斗くんの名前は覚えていると思うんだけど」
『似たような名前は沢山あるし、同じ名前だからってそんなに直ぐ思い当たらないんじゃない?』
そこまでメジャーな名前でもないから記憶に残ると思うんだけど・・・
『彼とはあくまで仕事上の関係だし、幼馴染みだとバレてもそんなに面倒な事にはならないと思うよ。いかがわしい関係でもないんだし』
たしかに、ひなたと廣瀬が浮気のような事をしていた訳でもない。
ただの幼馴染みで、会社帰りに少し車で送って貰っていたというだけだ。
二人きりでどこかに行ったりもしてないし、元々が英樹の勘違いである。
考えすぎかな、とひなたは思った。
取りあえずしばらくはこのままで、廣瀬と英樹が個人的に信頼関係を築けたら話してみようと言う事になった。
英樹は仕事の事をあまり多く語らないが、廣瀬とは上手くやっているようで、何度か二人で食事もしたようだった。
英樹の家に遊びに来ては、ひなたが食事を作って三人で食べると言う事も何度かあった。
その度にひなたは冷や冷やしたが、段々と打ち解けていく二人を見てこれなら大丈夫かなと思えてきた。
仕事の方も順調のようで、最近は忙しくても英樹は楽しそうに働いている。
生き生きとしている彼の様子に、ひなたも安心して応援していた。
そんな穏やかな日々も、唐突に終わる。
『ひなた・・・俺、もうダメかも・・・』
仕事中に掛かって来た不穏な電話に、心配したひなたは早上がりして英樹の家に向かう。
「英くん、いる?」
電気も付けていない薄暗い部屋の中、奥の方からボソボソと声が聞こえてくる。
「・・・嘘だ・・・俺じゃない・・・俺じゃない・・・これは罠だ・・・誰かに嵌められたんだ・・・」
英樹は部屋の奥で壁に向かってぶつぶつと呟いている。
スーツ姿のままでいる事から、職場から今さっき帰ってきたばかりなのだろう。
明らかに普通じゃない英樹の様子に、ひなたは異常を感じて直ぐに駆け寄る。
「英くん、どうしたの? 大丈夫?」
「・・・ひなた・・・」
振り向いた彼の顔は、生気がなく虚ろな視線を彷徨わせている。
不気味な彼の姿にひなたは少したじろいだが、彼の肩をしっかり抱きしめ安心させるように言う。
「大丈夫だよ、私が傍にいるから」
「・・・・ひなた、俺・・・俺じゃないのに――」
無表情のまま、涙を流し同じ言葉を繰り返す。
英樹が落ち着くまで、ひなたは彼を抱きしめ続けた。
しばらくして落ち着いた彼は、表情の抜け落ちた顔のままポツリ、ポツリとひなたに話し始める。
「俺は、何もしていない。誰かが漏らしたんだ。俺の考えた技術が、新しい技術が、盗まれたんだ・・・」
彼の話す言葉は単語ばかりで、内容もちぐはぐで要領を得ない。
それでもひなたは黙って彼の話を聞き、なんとか内容を理解しようと努めた。
要約すると、新人でいきなりプロジェクトメンバーに選ばれた彼を、周りの人間は良く思わなかったらしい。
そして謂われの無い罪をきせられ、プロジェクトメンバーどころか開発部からも追い出されたようだ。
彼が提案した技術はかなり画期的なものだったらしく、上層部は彼をとても見込んでいたらしいが、その技術が実は盗用したものではないかと周りから疑われ始めたらしい。
勿論彼は否定したし、廣瀬もかなり彼を庇ったらしい。しかし疑いの目は晴れず、なんとか結果を出そうと頑張っていた彼に追い打ちを掛けるニュースが出回る。
極秘で開発してはずの情報が外に漏れ、全く同じようなものを他社が先に製品発表したのだ。
さらに英樹のパソコンから、覚えのない外部とのやり取りの痕跡が見つかり、情報を売ったのは彼ではないかと決めつけられ開発メンバーから外される事となったのだ。
ひなたは英樹の事を信じていたし、初めから決めつけ何も調べようとしない彼の会社の態度が許せなかった。
真面目に一生懸命働いていた事は勿論、新しい技術を勉強するために専門書を読みふけっていた事も知っている。
何よりも嘘が嫌いで、言葉で飾らずに結果を出そうと真っ直ぐに頑張っていた彼に、これはあんまりの仕打ちだと思う。
話を聞いていて、ひなたまで悔しくなってくる。
彼は自分の現状がいまだに受け入れきれないようで、放心状態で「違う、俺じゃない」とうわごとを繰り返していた。
そんな状態の英樹を放ってはおけず、ひなたはしばらく彼の家から職場に通うことにした。
彼は仕事にも行かず、ただ窓の外をジッと眺める毎日が続いた。
何もしない彼に変わって、ひなたが彼の会社に体調が悪いと欠席の連絡を入れ続けた。
廃人のような英樹に、ひなたはどうしたら良いのか分からなくなっていた時、廣瀬が英樹の家を訪れた。
「廣瀬さん・・・俺・・・すみません」
「田原さん、気をしっかり持って下さい。情報の流出は別の社員がやった事が判明しました。あなたの無罪は証明されたのですよ」
「・・・え・・・ほんとうに・・・?」
廣瀬を前にしてやっと反応を示した英樹だったが、その言葉を聞いてもうまく理解出来ていない様子だった。
「英くん、良かったね・・・!」
ひなたは喜んで英樹に言うが、本人は不審げな目で廣瀬を見やる。
「・・・また、俺を騙そうとしてるんじゃ」
「違いますよ。田原さんは何も間違っていませんでした。だから元気を出して、また一緒に仕事しましょう」
その言葉に、やっと信じる気になったのか英樹は目に涙を浮かべる。
廣瀬は違う会社ながら、かなり英樹を庇って行動したらしい。
『彼の才能を無くすのは御社にとっても不利益な事だと思います』そう言って直接開発部に直訴したようだ。
そうして疑いの晴れた彼は、しばらくして会社に復帰する事となった。
以前と同じ開発部に戻れたのはかなり奇跡に近いことだが、やはり社員の中でも彼の存在は浮いたものとなっていた。
それでももう一度認めて貰おうと彼は今まで以上に必死に働いたし、辛い時に彼を支えてくれた廣瀬の存在をとても信頼しているようだった。
だが人間、誰にも認められずに頑張り続ける事は出来ない。
英樹はいつからか、仕事のストレスを発散するためギャンブルに嵌まるようになっていた。
やけくそのように始めた事が、気が付けば彼の心の拠り所となっていたらしい。
パチンコで稼げる事が分かってくると、彼の仕事の熱はギャンブルに傾けられるようになっていった。
残業して開発に熱心に取り組んで居た彼は、早々に退社してパチンコ屋へ通うようになっていた。
ひなたもその異変に気付いていたが、「気晴らしだから」と言い張る彼にそれ以上何も言えなかった。
「俺、仕事辞めるわ。スロットで稼ぐ」
ある日、英樹はそんな事を言い出した。
「・・・え? 英くん、本気?」
「本気。毎日職場通って真面目に働いても、数十万しか稼げねぇ。でもスロットは違う。一日でその数十万が稼げる」
「・・・でも、」
「心配するなって。俺の友だちは一日50万稼いるやつもいる。仕事なんかするよりよっぽど稼げるから」
そんな友だち、何時出来たんだろう・・・
昔の彼なら、こんな事絶対言わない。
そもそも彼の夢は『世の中に新しいモノを広める事』と言ってた。
その為に開発部に就職したのであって、お金のためなんかじゃない。
変わってゆく英樹に、ひなたは不安を感じながらも傍で見守るしか出来なかった。
スロットで稼ぐなんて、そんな上手い事があるわけない。きっと彼も直ぐに目を覚ますはず。
そう思っていたひなただったが、予想に反して英樹は驚くような金額を稼いでくる。
「スロットは、知識と計算が大事だ。技術も大事だけど、何より引きを見極める事が勝つポイントだ」
本当に数十万も稼げるなんて・・・ひなたは驚いたが、それがさらに不安を募らせた。
毎日パチンコに通う彼は、日に日に帰宅が遅くなってゆく。
きっとどこかで飲んでいるのだろう。ひなたが作った食事に手を付けていない事もあった。
英樹の生活環境は変わったが、ひなたに対して暴力を振るうとかそういった事は一切なく、むしろ仕事のストレスから解放された彼は優しかった。
だからひなたも、彼の変化に戸惑いながらも受け入れていた。
「浅田さん。最近顔色がすぐれないけど、大丈夫?」
「はい、大丈夫です・・・」
疲れだろう、そう思っていたが翌日ひなたは40度近い高熱を出した。
実家暮らしだったため、母親に面倒を見て貰いしばらくひなたは会社を休んだ。
英樹にも連絡したが『お大事に。治ったらどこか出掛けような』とメールが来ただけで見舞いにも来てくれなかった。
熱の下がり始めたひなたは、英樹の様子が気になり家に行くことにした。
玄関を開ければ、昼間にも関わらず英樹の靴がある。
今日はスロットに行ってないのかな・・・
ふと視線をそらせば、その横に乱雑に脱ぎ捨てられた女物のパンプスが目に入ってくる。
・・・友だちかな?
英樹は大学時代、男女分け隔てなく沢山の友だちがいた。
社会人になってからは仕事が忙しくてあまり会えていなかったようだが、仕事も辞めたしまた友だちと会うようになったのかな。
ざわざわと変な気持ちが沸き上がるのを見ないふりして、そんな事を考える。
「英くん、いる?」
風邪をうつしたらいけないと、マスクをしているため声がくぐもる。
変だな、電気も付いていない・・・
居間には誰もいない。
ひなたは嫌な気がして、寝室にしている和室を覗く。
そこには裸で絡み合い、情事後だと明らかに分かる男女が寝ていた。
「――!」
嘘、うそ・・・
この状況になりながらも、これは誰か別の人だ、そうに違いないとひなたは必死に現状に否定する。
そうだ、誰か友だちが、英くんの家で寝てるんだ。
「・・・ん」
男の顔が、寝ぼけたようにひなたに向けられる。
それは間違いないく、英樹だった。
「!―――ひなたッ?!」
英樹は驚いた声をあげ、それから慌てたように横に眠る女を布団で隠す。
・・・ああ、そうなんだ――
英樹が何か言っているが、ひなたには届かない。
頭の中が真っ白になっていく。
ただ二人を眺めていたひなたの心に、パキン、と何かが壊れる音が響く。
もう、いいや――
風邪で体調が優れていなかったからだろうか。
ボンヤリとした思考のまま、気が付いたらひなたは自分の家に帰ってきていた。
どうやってここまで戻って来たかも覚えていない。
走馬燈のように英樹と過ごした日々を思い出していたような気がする。
――でも、もう終わった。
もう、いいや。
気怠い気分のまま、それ以上考えずにひなたは眠った。
翌日、僅かな期待を持って携帯を見るが、英樹からは着信どころかメールも来ていない。
その事実が、昨日以上にひなたの心を重く暗くする。
なんで、なんにも連絡してこないの? その程度だったの――?
昨日は流れなかった涙が、今になってひなたの頬を濡らす。
自分から家を飛び出したくせに、何でちゃんと話を聞かなかったのだろうと後悔すらしてくる。
もしかしたら、何か事情があったのかもしれない・・・でも、裸で寝るなんてどんな事情?
矛盾した気持ちが渦巻く。
英樹のことを信じたいのか、もうこれ以上傷つきたくないのか、自分の気持ちが分からなくなる。
そうして結局英樹から連絡のないまま、一週間が過ぎた。
『ひなたちゃんから電話が来るなんて、珍しいね。どうかした?』
「・・・うん、ちょっと」
『もしかして・・・彼と喧嘩でもした?』
悩んだひなたは、色々事情を知っている廣瀬に電話を掛けた。
英樹が仕事を辞めてからも、廣瀬は何かを気を遣ってくれていた。
もしまた仕事を始める気があるなら、どこか別の会社を紹介するとまで言ってくれている。
それぐらい、英樹の才能を買ってくれているのだろう。
ひなたは度々メールで廣瀬に現状報告をしていたが、自分から電話をするのは初めてだった。
『・・・そっか。大変だったね。ひなたちゃんはどうしたいの? もう彼とは二度と会いたくない?』
「分かんない・・・でも、ちゃんと話さなきゃダメだと思う」
『そうだね。大切な人なら、きちんと向き合わないとね』
廣瀬に何があったかを話しただけでも、ひなたはかなり心が軽くなった。
そうだ。やっぱり、もう一回彼に会おう。
別れるにしても、大学時代から数年一緒に過ごしてきた相手だ。
婚約もしているし、このまま二度と会わずに別れるなんて現実的じゃない。
しばらく会わないうちに、ひなたの中では英樹との楽しい思い出が美化されていた。
彼の家に色々私物も置きっ放しだし・・・そんな言い訳じみた理由を言い聞かせて、ひなたは数日ぶりに彼の家に行くことにした。
「・・・ひなた?」
玄関扉から覗く彼は、かなりやつれていた。
別れよう――そう思って来たはずなのに、あまりにも弱々しい彼の姿に心が揺らぐ。
でも、ここで流されちゃダメだ。
気をしっかりと持ち直して、ひなたは彼に言う。
「英くん。話があるの」
「・・・俺も、ひなたに話がある。取りあえず、中に入って・・・」
どうしようか一瞬迷ったが、玄関先で別れ話をするのも恥ずかしい。
ひなたは頷いて彼の家に入る。
家の中は、あの日ひなたが飛び出した時と全く同じだった。
玄関にはあのパンプスはない。――その事に少しホッとしながら、ひなたが靴を脱ごうとしたらガチャリと鍵を閉める音が響く。
「ひなた――捕まえた」
・・・え――?
首筋から脳天に響くような衝撃を受ける。
ぐわんと歪む視界の中で、英樹の歪んだ笑顔が見えた気がした。
応援ありがとうございます!
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