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「興奮しちゃうじゃないですか」
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しおりを挟む「じゃあ主任、そういうことなんで。帰りますね。今は美雪さんも主任と離れて落ち着いた方がいいと思いますし」
主任は顔をしかめたが、「悪いな」と言った。あー、まだ一応、擬態中なのか。直後、ポケットの中でスマホが震えた。おそらく主任からの長い謝罪メールだろう。
どうせこの人、私の家なら会話を聞けるから構わないんだろうな。きっとうちのすぐ近くに待機するんだろうし。
「美雪さん、行きましょうか」
主任と別れ、私はすぐに彼女を家まで案内した。
「狭いところですが……」
「すみません。おじゃまします」
彼女はお辞儀をして玄関へ入った。
「すぐにタオル持ってきますね!ザザーッとシャワー浴びちゃってください。着替えも用意しておくんで」
彼女は品のいい生地のカーディガンを着ていた。それもびしょ濡れで肌に張り付いてしまっている。
「寒そうッ。寒いですよね?」
美雪さんを見上げる。びしょ濡れのその姿は、見ているだけで身震いしそうだった。早くシャワーを浴びた方がいいと思ったけど、彼女は玄関に立ったままだ。
「少し、聞いてもいいですか」
「え?はい」
「帝人さんは、会社ではどんな感じですか?」
明るくも暗くもない単調な声だった。会社でどんな感じ?主任が?私はオフィスでの主任を思い浮かべた。
「それはそれは、みんなに尊敬された存在ですよ。上司までが、ひともく置きつつ、頼りにしているというか。あんまり美雪さんの前と変わらないと思いますけど」
まあ、裏は全然違う人格があるんだけど。心の中で付け加えたが、、美雪さんは「そうですか」と嬉しそうに顔を綻ばせた。しかしすぐにその表情は曇る。
「帝人さんはお仕事も出来るようですけど、なぜか昇進や移動の話を断り続けているようです」
「そうなんですか?」
「彼を留まらせる原因が、今の場所にあるのではないかと思うのです」
「えーなんでしょう」
のんきに言ったあとで私は気づいた。言ってた……言っていたよ……。本社にこないかと誘われてるって……。
『できれば、今のままでいられないかなー……なんて』
『詩絵子様のお望みでしたら、なんなりと』
その原因、私じゃん……。
「それより美雪さん!早くシャワー浴びちゃってください!こんなところで立ちっぱじゃ風邪ひきますよ!」
慌てて美雪さんを脱衣所へ追いやり、ドアを閉める。そこで深く一息をついてから、今度はダッシュで着替えの準備をした。
美雪さんってお嬢様らしいけど、スウェットでもいいのかな?シルクのパジャマしか受け付けないような人だったら困るけど。そうしてクローゼットを漁っている間、テーブルの上で何度かスマホが鳴っていた。
私は服を抱えて、「はいはいはいはい」とやかましく呼びつけるスマホを引っつかんだ。予想通り主任からの連絡だった。何通もメールがきている。
「なになに。もう、こっちは忙しいのに」
その内容はこうだった。
『何度もメールを送りつけて申し訳ありません。彼女、詩絵子様が僕の恋人だと感づいているようです。気をつけてください』
気をつけてください。
最後の一文が、いい知れぬ不安感を腹の中に運び込む。
「気をつけて、って……」
美雪さんが私を監禁でもするって言うの?もしくは殺……。
「すみませーん」
嫌な考えが頭に浮かんだところ、遮るように風呂場から声が上がった。私はハッと顔を上げる。
「は、はーい」
「シャワーのお湯が出ないようなんですけど」
「あ、すぐ行きます!」
せっつかれて立ち上がり、風呂場へ行く。
「故障ですかね?」
ドアを開けるわけにもいかないので、扉の前で問いかける。半透明の扉の向こうで、美雪さんのシルエットが影絵のように動いた。
瞬間、おもむろに扉が開き、まるで飛び出す絵本のごとく、全裸の美雪さんがシャワーヘッドを振りかぶって飛び出してきた。
私は声を出す間もなく、洗面台に背をつけて彼女を見ていた。
がつん、と鈍い音をたて、シャワーヘッドは洗面台の縁に当たり、そこから温かなお湯が噴水のごとく上がった。
「お、お、お湯……出た、みたい……ですね」
顔にかかる温かさはほとんど感じられなかったが、私はなんとかそう言った。
「ほんとだ」
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