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part1

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 今日は珍しくみぞれが降った。
 天気予報では積雪の予報だったが、それがわずかに外れた形だ。
 もっとも、この六ヶ原ろくがはら市で雪が降ることはほとんどない。
 けれども、この日に至る一週間は突き刺すような寒さが街に満ちていた。
 雪が降るでしょう、と穏やかに原稿を読み上げるお天気お姉さんの言葉には信憑性があったから、平田ひらた自身も雪道に備えて、玄関の奥の紙箱にしまってあったブーツを用意していた。

 結局、雪は積もらずに、道路はいつもどおり真っ黒のまま。
 灰色の雲の隙間から、はらはらと落ちてきた水と雪の塊は、お昼前には全て水に戻ってしまい、跡形もなく消えてしまったようだ。
 第二音楽室に繋がる廊下の窓から、薄い陽光が差し込んでいたから、平田は窓から、ふと空の雲を眺める。
 陽光が差し込んだのは、わずか一瞬の間だったらしく、雲はどんよりと空の隙間を覆い始めていた。
 
 廊下の奥から、「結局降らなかったね」と数人の女子たちが残念がる声が聞こえた。
 その声たちの中に細井ほそい由梨恵ゆりえの声が混ざっていたことに気付いたから、平田は即座に回れ右をした。
 少し遠回りにはなるが、特段、第二音楽室に急ぐ理由はなかったから。

 バレンタインの日からちょうど一週間。
 由梨恵の『代理人』として、同級生の宮坂に手紙を渡したはいいものの、当の宮坂は由梨恵に何か特別な言葉をかけたわけではなさそうだった。
 本命チョコよりも遥かに気持ちを載せたーー意地悪な言い方をすれば男子にとって重く感じてしまうであろうーー「手紙」を渡した由梨恵からしてみれば、この一週間は夜も眠れないほどに胸が苦しかっただろう。
 平田からしても、由梨恵の気持ちは分からないこともないし、ある程度の同情もしてはいるが、今はなるべく他人の恋愛事情に関わりたくないのが本音だった。

 遠回りした甲斐もあって、誰に会うこともなく第二音楽室に付くことができ、平田はふぅ、と一息ついた。
 第一音楽室よりもずっと昔に作られた古い音楽室、それがこの第二音楽室。
 音楽室という体裁ではあるものの、古い作りの壁や扉は、防音性能に若干の難があった。
 音楽室の扉に耳を近づければ、たいてい誰が何を演奏しているのかすぐに分かってしまう。
 昔からの癖のように一瞬、扉に耳を近づけてから平田は音楽室の扉を開けた。
 扉の向こうからは何の音もしなかったが、案の定、無音の空間の中には誰もいなかったし、窓から差し込む薄暗い光が、より音楽室のわびしさを引き立てていた。

 マンドリン部のメンバーがいないのは、おそらく何かの補講を受けているからだろう。
 お世辞にも偏差値の高いとは言えないこの高校で、悲しいかな、マンドリン部の面々も、あまり勉強が得意ではないらしい。

 誰もいないなら、まあ、仕方ないか。
 平田は音楽室の前に置いてあるピアノの椅子に座ると、ふっと目を閉じた。

 この音楽室の古い匂いは、ずいぶんと昔の記憶をいろいろと思い出させてくれる。

 平田が初めてマンドリンの弾き方を教えてもらった記憶。
 合奏練習の前に、曲を一緒に合わせて練習した記憶。
 合奏中、楽しげな音が聞こえて、思わずその音の先に目線を送ってしまった記憶。
 全ての記憶の中心に、彼女の存在があった。

 蓮水はすみ千尋ちひろ
 この六ヶ原ろくがはら高校マンドリン部の創設者。
 マンドリンの基礎を、音楽の楽しさを平田に教えてくれた先輩。
 音楽的にも、人間的にも未熟であった平田を受け入れてくれた優しい人間。
 だから平田は千尋が好きだった。
 本当の恋だった。
 そして彼女は、そんな平田を受け止めてくれた。

「大丈夫、平田君なら、きっと大丈夫」
 演奏会の本番前に、千尋はそう言って、平田の右手を握ってくれた。
 緊張で指先から血の気が引いていた平田の手は、さぞかし冷たかっただろう。
 千尋の体温が指先から伝わってきて、平田の心を暖めてくれた。
「ありがとう……ございます」
 平田のぎこちない笑みに、千尋は「うん、大丈夫だね」と、いつもどおり笑ってみせた。
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