上 下
6 / 13
【後編】 バレンタインの午後に

(1) 先輩

しおりを挟む
 朝木あさき入梨奈いりな
 彼女は六ヶ原高校マンドリン部の卒業生で、今も大学のマンドリン・サークルに所属している。
 朝木が得意とするのは「マンドラ・テノール」という楽器だ。
 「ドラ」と省略されて呼ばれるその楽器は、マンドリンよりも一回り大きく、オーケストラでのヴァイオリンとヴィオラの関係と同じである。

 ドラを背中に抱える朝木の顔を見た瞬間、平田は彼女に会いに来たことを後悔した。
 彼女の口角は優しく上がっていたが、目は全く笑ってなく、笑顔にも陰りが見えた。

「これ、平田君に渡したくて」
 朝木から手渡されたお菓子の箱は、平田が今日貰ったものの中で一番大きかった。

 椅子に座り直して背筋を伸ばしてから、「ありがとうございます」とたその箱を受け取る。
 朝木に連れられるまま入ったこのファミレスは、平田が普段よく行くお店よりも広々としており、椅子も幾分か座りやすかった。
 メニューに載っている値段をざっと眺めてみると、大学生という立場が羨ましく思えてきてしまう。

「実は私、ずっと平田君のことが好きだったの。今日はバレンタインだから、どうしてもそれを伝えたくて」
「それはどうも」
 平田の無機質な返答に、朝木はむっと膨れて見せる。
「もっと嬉しそうな反応してよ」
「今日は先輩の茶番に付き合う気分じゃないので」
 正確に言うと、おふざけに付き合う気分じゃなくなったのだ。
 無理に冗談を言って空気を和ませようとする彼女の姿はどこかつらそうで、見るに堪えなかったからだ。


「それで、今日はどんな用件なんですか。自分はこれから編曲作業したいんですけど」
 大した用事ではありませんように。
 その祈りも込めながら、なるべく無愛想な言葉を選ぶ。

「釣れないなあ」
 不満そうな彼女の笑顔は、お店に入る前に比べれば、いくらか柔らかくなっているように見えた。
「バレンタインだしチョコを渡したかったのは本当」
 朝木のその言葉に偽りはなさそうだ。
 だが、この文脈なら「でも」が後に続くのだろう。

 平田のその予想は正しく、朝木は一呼吸置いて「でも」と続ける。
「平田君に伝えておきたくて」
「何をですか?」
「もちろん、千尋のこと」
 やっぱりな。口から迂闊うかつに出そうになったため息を平田は飲み込んだ。
しおりを挟む

処理中です...