夜を生きた日

日暮マルタ

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夜を生きた日

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 生きているのが辛くなったので、睡眠薬を飲んだ。といっても、自殺志願者みたいに大量に飲んだのではなく、お行儀良く書いてあるとおりの量を飲んだ。漠然とこの場から逃げ出したかったので、眠りの国へと逃げ込んだ。その時刻は夕方五時、普通の人が眠るにはあまりにも早すぎる時間だった。
 そして私が次に目を覚ましたのは、深夜二時だった。ゆっくり取れた休息のおかげか、落涙もおさまり、晴れやかな気持ちになった私は、お気に入りの緑のコートを羽織って散歩に出かけた。満天の星空、が私を迎えてくれることはなく、少し曇った暗い世界だった。

 足は自然と。昔飼っていた犬の散歩ルートを歩いた。途中に神社があったのだが、夜の神社って、少し怖い。風が木々をざわめかせて、明るい時間はあんなにも神聖なのに夜になった途端に不気味だ。
 怖い物見たさで、数段の階段を登った。ご神木の姿が見える。狭い神社を少し探索すると、白い服の女性を見つけた。見つけてしまった。
「見てしまったのね……」
「思い切ったことをしてしまいましたね……」
 コスプレみたいなペラペラの白装束に身を包んだその女性は、頭に蝋燭をくくりつけて金槌と藁人形を持っていた。まだ準備中だったのだろう、一度も金槌の音は聞こえなかったし、蝋燭は火がついたり消えたりするのを悪戦苦闘して点火しようとしていた。
「ちょっとあの、見られるとまずいんですけど……」
 その女性は困った顔をしていた。真っ白に塗りつぶされた顔の、眉毛がハの字だ。確かこういう呪いを見られたら追いかけてこられて殺されるのではなかったか。それは嫌だな。痛そう。
「事前だったってことでセーフ扱いに見逃してもらえます? っていうかやめた方がいいですよ、ねぇ、呪いなんてさぁ。ここ神社ですよぉ」
「神社でやることなんです……すみません……。やらざるをえないんです、私はこれを達成しなきゃ」
 名も知らぬその人はボロボロと大粒の涙をこぼし始めた。着物の裾で拭い、涙で白塗りが落ちた。薄幸そうな美人だった。中途半端な白塗りで台無しだが。
「……睡眠薬でも飲んでゆっくり睡眠取りましょうや」
 私がそう言うと、彼女は激昂した。
「あんなベッド! あの女が寝たベッドで! 寝られるわけがないの、よ……うぅう」
 彼女はうずくまり、しくしくと泣きながら、低い声で恨み言をぼそりぼそりと続けた。これが呪いになるのではないかと思うような、怨念の詰まった声だった。
「まあまあ……今回はとりあえず未遂ってことで、睡眠薬飲みましょう。彼氏の浮気相手がもしアンアン言ってたベッドが嫌だったら漫喫にでも行ってさぁ」
「睡眠薬って、何、私に死ねって言うの……私が死んでなるものか! 殺してやる! 死んでたまるか、殺してでも私が……私が!」
 ヒートアップする彼女は大声を上げて赤子のように泣き始めた。これは手に負えないと思った私は、まあまあ、違う違う、落ち着いて、と言いながら後退を繰り返す。距離を十分取った時、彼女が立ち上がって私を追いかけてこようとした。もう遅い! これだけ距離があれば、草履には負けない。家に走って帰ろうか。

 家に歩いて向かう途中、背後にもう草履の気配などどこにもなかった。雲が晴れて、空の上が見えたが。星はない。この地上は明るくなってしまった。蝋燭頭に装着する人もいるし。
 ただ、雲に囲まれていた月が顔を覗かせていたのは、私を一瞬の郷愁に引き寄せた。
 まだ私が人の肩に全体重を乗せられるくらいの、つまりお父さんが私を肩車できたくらいの小さな頃。月にはうさぎがいてな、月のうさぎは頭にみんなパンツ履いてるんだ、ってよく言われていた。足を入れるための穴を耳のために空いている穴だと思い込んだという父の作り話を私はあの頃信じていた。まあそれで学校で恥をかいたこともあるが、お茶目で大好きな父だった。

 もう家をバリアフリーにする計画も要らなくなった。デイケアの人達や福祉サービスの人達に連絡しなくては。その前に警察だっけ病院だっけ、諸々忘れて眠ってしまった。冷たくなろうとする父の横で、私も全て忘れて眠りたかった。何も知らない子供のように。
 家に帰りたくない。現実を受け入れたくない。時刻は丑三つ時、私はゆっくりと帰路につく。背後から来る草履の音にも気付かずに。
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