赤い箱庭

日暮マルタ

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2章鴉天狗編

鴉天狗という男

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「よう、サヤカ」
 いつもの散歩コースを歩いていると、上から声を掛けられる。今日は紅葉のエリアで声をかけられた。前よりも主様の居所に近い場所に来ている?
「鴉天狗さん」
 彼は好奇心を抑えきれないようだった。
「どうだった? コクトミって呼んだんだろう? 怒ってたか?」
「いえ、とんでもなく、喜んでいたように見えました」
「そうか……意外だ。お前があいつにとって、そこまでの奴だってことか。普通の女に見えるのに、コクトミの好みはわからん」
 鴉天狗はわけのわからないことを言う。
「主様は、あなたのことがあまり好きじゃないみたい。昔何かあったの?」
 はらりはらりと紅葉が落ちる。赤い世界に一人異端な黒がいる。
「昔馴染みだからな。色々あったけど、昔あいつのペットの猫を殺したことがある。つまらなかったからもうやらないけど」
 こともなげに彼は言い放った。
 主様がペットに猫を飼っていたのも初めて知ったけど、どうして殺すなんて思考になるんだろう。口ぶりからすると、気を引こうとしたような感じがする。そんなことのために猫を殺す? ありえない。
 こんな人は信用しない方がいい、そう思った。しかもなんだか、猫と私を同等に思っている節がある……人がいつだって尊いわけじゃないけど、そういう視線が不快だ。こいつは殺したらコクトミ怒るかな、みたいな嫌な感じがする。
 でも、主様とは昔馴染みだって言ってた。もしかして、主様との関係が進展しないこの悩みを、解決する糸口を持っていたりしないかな。
 そんなことをふわりと考えてしまい、鴉天狗に「相談に乗っていただけませんか」と問いかけてしまった。口をついて出たという感じだった。
 鴉天狗は面白そうに腕組みをした。木に寄りかかって長期戦の構えだ。
「何? 俺が懇切丁寧に相談に乗ってあげる」
「あの……主様と仲良くなりたくて」
 不思議と言葉がするすると出た。言葉は止まらず、主様のことが好きだとか助けてくれただとか余計と思えるようなことまで べらべらと喋ってしまった。恥じらいはないのか。いや、不思議なんだ。本当に話すつもりのないことまで口から出てくるんだ。
「赤い箱庭から外に出ないか?」
 そしてもたらされた結論は、全く的外れなものだった。
「ストーカーは俺が殺してあげるから、サヤカは死ななくていいよ。こんな狭い世界に閉じ込められる必要はない」
「そんな……でも、主様のことが好きだから」
 主様と過ごした記憶を持ったまま、元の生活に戻れるとは思わない。かといって、記憶が無いのも当然嫌だ。私はここにいるしかない。
「だーから、それが間違いなんじゃない? そう思わされてるだけじゃないの? 悪いけど、あいつもゴミクズみたいなところ、あるよ。好きな女の子手に入れるために手段は選ばないんじゃないの? 俺ならそうする、誰だってそうする」
 そんなことはないと思う。でも、どれだけ懸命に主様の誠実さを訴えても否定され、そんなに否定されると私も自信がなくなってしまう。主様の術か何かで好きだと思わされている、と何度も言われた。そういえば、湯船の匂いでいつも頭がぼーっとするのだ。
「それだよ、それが原因だ。そのせいで君はコクトミのことを好きにさせられている。奴は悪人で君は被害者だ、抗議した方がいい」
 鴉天狗はニヤニヤと楽しそうだ。混乱してきた私は、「それでも好きな気持ちは術じゃない」とそれだけは強く主張する。だって、そうじゃないと、あまりにも悲惨じゃないか? なんだかどうしようもなくなってしまいそう。
「そこまで言うのなら、試してみるか?」
 黒い眼が怪しく光る。コクトミから何かを取り上げるのは楽しくてな、という声が続けて聞こえてくる。突風が吹いたと思うと、鴉天狗のことが異様に気になって仕方がない。この男、自分に恋愛感情を抱くように術をかけたようだ。
「なんてことを! あなたが悪人じゃないですか!」
「そうだよ? 俺は悪人だよ」
 なんてことだ。私は今までこんな男と会話していたことが、おぞましいことだった、と思わない。早く主様に伝えなければ、と、思えない。術を解いてもらわなくても、私は大丈夫だ。
 ついさっきまで抱いていた淡い恋心とは違う。激しい熱情だった。この濁流に身を任せたい。嫌だ、だめだ、そう思うのに、思うように体が動かない。
 足が動かないのだ。
「なんて……ことを……」
 こんなのは、感情の蹂躙だ。それなのに、鴉天狗のことを、主様に報告することができなかった。
 夕食の席で主様は不思議そうに問いかけてきた。
「サヤカ? 今日はなんだか様子が違うようだが……」
「何かあったらいつもみたいに報告しますよ」
 私は朗らかに笑う。笑えてしまう。
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