警鐘を打ち鳴らせ

有未

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第三章【遭遇、降雨】

【遭遇、降雨】3

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「やめるんだ」

 先程よりも幾らか落ち着いた声で、彼は同じ言葉を繰り返す。だが、目の鋭利さはそのままだった。私は自分でも何を言おうとしているのか分からないまま、彼に向けて言葉を発しようと口を開き掛けた、その時だった。

 不意に、およそ人間のものとは思えない声が空気を振動させ、切り裂くように響き渡る。細く、それでいて強く、聞く者の身を竦ませる叫びのような声。

「何をしている」

 次いで聞こえて来た声は、ゆっくりと重力の塊を此方に放つような重厚さを持っていた。それと同時、私の目の前に立っている売り子である彼女が、腰から折れて頭を下げる。その先には、雪の冷たさを錯覚させるような白さに包まれた猫が一匹、何処までも暗い海のような黒い目を此方に向けて佇んでいた。

  昨日、彼と話していた猫だ。思い当たったものの、其処で私の思考は停止する。大きくも小さくもない一匹の猫は、形容し難いほどの圧倒的存在感を以て私を射抜く。その両目の中心で針のように細く浮かぶ金の瞳孔が、私の輪郭の全てを展翅てんしする。

「お前か」

 白猫はやがて私から針を外し、悠々と通路を進み出る。そして、ひどく憎々しげにそう言った。私の足元にいる、彼に向けて。

 長い沈黙が流れる。気が付けば、視界に収まる人間の全てが頭を下げている。そして、それぞれの店先では一匹ずつの猫が此方を窺うようにして見ている。異様な光景だった。

「昨日の話を、もう忘れたか」

 沈黙を打ち破ったのは白猫だった。忌々しげに言い放った後、右前足で二度、顔を擦った。その仕草は普通の猫と何ら変わり無い。

「……忘れたわけでは無い」

「それならば、何故なにゆえ妨げる。どのような理由があろうとも禁じ手は禁じ手、決して認めるわけにはいかないと知ってのことだと判ずるが」

「だが、何事にも例外は有る」

「無い。今までお前の行動には目を瞑って来たが、これ以上繰り返すようならばそれ相応の対応を取らざるを得ない」

 会話の応酬。その内容は良く分からない。だが、決して穏やかでは無いことは判然としている。加えて、彼が危地に立たされているということも。

 私は言うべき言葉を探しつつ、両者を見つめ続ける。私に出来ることは何なのか。しかし、そんな私の心の内を笑うように白猫は一つ大きく欠伸をし、白すぎる右前足をすっと伸ばした。それが彼に触れるか触れないかというところで、私は自分が意識するよりも早く彼と白猫の間に割って入っていた。再び、白猫の一対の黒い目がじろりと私を睨む。私は、狩られる獣とはこういう気持ちだろうかと、他人事のように考えていた。恐怖のあまり、脳味噌が麻痺したのかもしれない。

「何用だ、人間」

 地の底から響くような、低く重い声。それは、菓子商店が閉まる時に鳴り響く鐘の音に良く似ていた。

「邪魔立てするか」

 私の意思を確かめるように白猫が言う。やはり白猫は何かしようとしていたのだと、その発言で知った。だが、私に何が出来るというのだろう。全身が凍ったように動かない程の恐ろしさを間近で感じ、言葉すら忘れたように声が出ないというのに。

 不気味な静寂の中、不意に、かつん、という小さな音が背後から聞こえた。けれど振り返るという簡単な動作すら私には出来なかった。

「良いじゃあないか」

 聞き覚えのある女性の声。

「やらせておけば良い。全てを暴き立てたわけでも無いだろう」

「……店主が、そう仰るなら」

 白猫は一つ軽くお辞儀をしてから居住まいを正し、再び私を刺すように見据えた。そして数秒の後、くるりと背を向けて白猫は店の奥へと去って行く。

「すまない」

 聞こえた声に視線を落とすと、足元で彼が俯いていた。その表情を窺い知ることは出来ない。だが私は、初めて聞いた消え入りそうな彼の声に、確かに胸が痛んだ。

「どうせ何も出来やしないさ」

 言い放ち、かつん、と音を鳴らして背後の人物が遠ざかって行く気配がする。私がゆっくりと振り向くと、赤と黒の艶やかな着物を身に纏い、朱色に染められた塗下駄ぬりげたを履いた女性が、空気すら震わせないかのように静かに歩いているのが見えた。此処に来た時に一度だけ話をした、この菓子商店の女主人だった。

 やがて彼女の姿が見えなくなると、止められていた時が再び動き出したかのように、店内はざわめきを取り戻す。お辞儀をしたままぴたりと静止していた売り子や客の人々が顔を上げ、それぞれの時間に戻って行く。その中で私と彼だけが、足元に根が生えたように動けなかった。彼はまだ、俯き続けていた。

「これ、良かったらどうぞ。試食用に」

 私は彼から視線を離し、声に導かれるままその方向を見遣る。売り子の彼女が小さな袋を差し出していた。中には煎餅が数枚、入っている。躊躇いながらも礼を言って受け取ると、春の野のように彼女は微笑んだ。だが私は笑い返すことは出来なかった。それどころか、とてつもない違和感を覚え、私はすぐに視線を逸らす。

「戻ろうか」

 私の言葉に彼は、そうだな、と言う。それは小さく、細く、後悔に似た何かが滲んでいる、そんな声だった。
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