18 / 18
第三章【遭遇、降雨】
【遭遇、降雨】3
しおりを挟む
「やめるんだ」
先程よりも幾らか落ち着いた声で、彼は同じ言葉を繰り返す。だが、目の鋭利さはそのままだった。私は自分でも何を言おうとしているのか分からないまま、彼に向けて言葉を発しようと口を開き掛けた、その時だった。
不意に、およそ人間のものとは思えない声が空気を振動させ、切り裂くように響き渡る。細く、それでいて強く、聞く者の身を竦ませる叫びのような声。
「何をしている」
次いで聞こえて来た声は、ゆっくりと重力の塊を此方に放つような重厚さを持っていた。それと同時、私の目の前に立っている売り子である彼女が、腰から折れて頭を下げる。その先には、雪の冷たさを錯覚させるような白さに包まれた猫が一匹、何処までも暗い海のような黒い目を此方に向けて佇んでいた。
昨日、彼と話していた猫だ。思い当たったものの、其処で私の思考は停止する。大きくも小さくもない一匹の猫は、形容し難いほどの圧倒的存在感を以て私を射抜く。その両目の中心で針のように細く浮かぶ金の瞳孔が、私の輪郭の全てを展翅する。
「お前か」
白猫はやがて私から針を外し、悠々と通路を進み出る。そして、ひどく憎々しげにそう言った。私の足元にいる、彼に向けて。
長い沈黙が流れる。気が付けば、視界に収まる人間の全てが頭を下げている。そして、それぞれの店先では一匹ずつの猫が此方を窺うようにして見ている。異様な光景だった。
「昨日の話を、もう忘れたか」
沈黙を打ち破ったのは白猫だった。忌々しげに言い放った後、右前足で二度、顔を擦った。その仕草は普通の猫と何ら変わり無い。
「……忘れたわけでは無い」
「それならば、何故妨げる。どのような理由があろうとも禁じ手は禁じ手、決して認めるわけにはいかないと知ってのことだと判ずるが」
「だが、何事にも例外は有る」
「無い。今までお前の行動には目を瞑って来たが、これ以上繰り返すようならばそれ相応の対応を取らざるを得ない」
会話の応酬。その内容は良く分からない。だが、決して穏やかでは無いことは判然としている。加えて、彼が危地に立たされているということも。
私は言うべき言葉を探しつつ、両者を見つめ続ける。私に出来ることは何なのか。しかし、そんな私の心の内を笑うように白猫は一つ大きく欠伸をし、白すぎる右前足をすっと伸ばした。それが彼に触れるか触れないかというところで、私は自分が意識するよりも早く彼と白猫の間に割って入っていた。再び、白猫の一対の黒い目がじろりと私を睨む。私は、狩られる獣とはこういう気持ちだろうかと、他人事のように考えていた。恐怖のあまり、脳味噌が麻痺したのかもしれない。
「何用だ、人間」
地の底から響くような、低く重い声。それは、菓子商店が閉まる時に鳴り響く鐘の音に良く似ていた。
「邪魔立てするか」
私の意思を確かめるように白猫が言う。やはり白猫は何かしようとしていたのだと、その発言で知った。だが、私に何が出来るというのだろう。全身が凍ったように動かない程の恐ろしさを間近で感じ、言葉すら忘れたように声が出ないというのに。
不気味な静寂の中、不意に、かつん、という小さな音が背後から聞こえた。けれど振り返るという簡単な動作すら私には出来なかった。
「良いじゃあないか」
聞き覚えのある女性の声。
「やらせておけば良い。全てを暴き立てたわけでも無いだろう」
「……店主が、そう仰るなら」
白猫は一つ軽くお辞儀をしてから居住まいを正し、再び私を刺すように見据えた。そして数秒の後、くるりと背を向けて白猫は店の奥へと去って行く。
「すまない」
聞こえた声に視線を落とすと、足元で彼が俯いていた。その表情を窺い知ることは出来ない。だが私は、初めて聞いた消え入りそうな彼の声に、確かに胸が痛んだ。
「どうせ何も出来やしないさ」
言い放ち、かつん、と音を鳴らして背後の人物が遠ざかって行く気配がする。私がゆっくりと振り向くと、赤と黒の艶やかな着物を身に纏い、朱色に染められた塗下駄を履いた女性が、空気すら震わせないかのように静かに歩いているのが見えた。此処に来た時に一度だけ話をした、この菓子商店の女主人だった。
やがて彼女の姿が見えなくなると、止められていた時が再び動き出したかのように、店内はざわめきを取り戻す。お辞儀をしたままぴたりと静止していた売り子や客の人々が顔を上げ、それぞれの時間に戻って行く。その中で私と彼だけが、足元に根が生えたように動けなかった。彼はまだ、俯き続けていた。
「これ、良かったらどうぞ。試食用に」
私は彼から視線を離し、声に導かれるままその方向を見遣る。売り子の彼女が小さな袋を差し出していた。中には煎餅が数枚、入っている。躊躇いながらも礼を言って受け取ると、春の野のように彼女は微笑んだ。だが私は笑い返すことは出来なかった。それどころか、とてつもない違和感を覚え、私はすぐに視線を逸らす。
「戻ろうか」
私の言葉に彼は、そうだな、と言う。それは小さく、細く、後悔に似た何かが滲んでいる、そんな声だった。
先程よりも幾らか落ち着いた声で、彼は同じ言葉を繰り返す。だが、目の鋭利さはそのままだった。私は自分でも何を言おうとしているのか分からないまま、彼に向けて言葉を発しようと口を開き掛けた、その時だった。
不意に、およそ人間のものとは思えない声が空気を振動させ、切り裂くように響き渡る。細く、それでいて強く、聞く者の身を竦ませる叫びのような声。
「何をしている」
次いで聞こえて来た声は、ゆっくりと重力の塊を此方に放つような重厚さを持っていた。それと同時、私の目の前に立っている売り子である彼女が、腰から折れて頭を下げる。その先には、雪の冷たさを錯覚させるような白さに包まれた猫が一匹、何処までも暗い海のような黒い目を此方に向けて佇んでいた。
昨日、彼と話していた猫だ。思い当たったものの、其処で私の思考は停止する。大きくも小さくもない一匹の猫は、形容し難いほどの圧倒的存在感を以て私を射抜く。その両目の中心で針のように細く浮かぶ金の瞳孔が、私の輪郭の全てを展翅する。
「お前か」
白猫はやがて私から針を外し、悠々と通路を進み出る。そして、ひどく憎々しげにそう言った。私の足元にいる、彼に向けて。
長い沈黙が流れる。気が付けば、視界に収まる人間の全てが頭を下げている。そして、それぞれの店先では一匹ずつの猫が此方を窺うようにして見ている。異様な光景だった。
「昨日の話を、もう忘れたか」
沈黙を打ち破ったのは白猫だった。忌々しげに言い放った後、右前足で二度、顔を擦った。その仕草は普通の猫と何ら変わり無い。
「……忘れたわけでは無い」
「それならば、何故妨げる。どのような理由があろうとも禁じ手は禁じ手、決して認めるわけにはいかないと知ってのことだと判ずるが」
「だが、何事にも例外は有る」
「無い。今までお前の行動には目を瞑って来たが、これ以上繰り返すようならばそれ相応の対応を取らざるを得ない」
会話の応酬。その内容は良く分からない。だが、決して穏やかでは無いことは判然としている。加えて、彼が危地に立たされているということも。
私は言うべき言葉を探しつつ、両者を見つめ続ける。私に出来ることは何なのか。しかし、そんな私の心の内を笑うように白猫は一つ大きく欠伸をし、白すぎる右前足をすっと伸ばした。それが彼に触れるか触れないかというところで、私は自分が意識するよりも早く彼と白猫の間に割って入っていた。再び、白猫の一対の黒い目がじろりと私を睨む。私は、狩られる獣とはこういう気持ちだろうかと、他人事のように考えていた。恐怖のあまり、脳味噌が麻痺したのかもしれない。
「何用だ、人間」
地の底から響くような、低く重い声。それは、菓子商店が閉まる時に鳴り響く鐘の音に良く似ていた。
「邪魔立てするか」
私の意思を確かめるように白猫が言う。やはり白猫は何かしようとしていたのだと、その発言で知った。だが、私に何が出来るというのだろう。全身が凍ったように動かない程の恐ろしさを間近で感じ、言葉すら忘れたように声が出ないというのに。
不気味な静寂の中、不意に、かつん、という小さな音が背後から聞こえた。けれど振り返るという簡単な動作すら私には出来なかった。
「良いじゃあないか」
聞き覚えのある女性の声。
「やらせておけば良い。全てを暴き立てたわけでも無いだろう」
「……店主が、そう仰るなら」
白猫は一つ軽くお辞儀をしてから居住まいを正し、再び私を刺すように見据えた。そして数秒の後、くるりと背を向けて白猫は店の奥へと去って行く。
「すまない」
聞こえた声に視線を落とすと、足元で彼が俯いていた。その表情を窺い知ることは出来ない。だが私は、初めて聞いた消え入りそうな彼の声に、確かに胸が痛んだ。
「どうせ何も出来やしないさ」
言い放ち、かつん、と音を鳴らして背後の人物が遠ざかって行く気配がする。私がゆっくりと振り向くと、赤と黒の艶やかな着物を身に纏い、朱色に染められた塗下駄を履いた女性が、空気すら震わせないかのように静かに歩いているのが見えた。此処に来た時に一度だけ話をした、この菓子商店の女主人だった。
やがて彼女の姿が見えなくなると、止められていた時が再び動き出したかのように、店内はざわめきを取り戻す。お辞儀をしたままぴたりと静止していた売り子や客の人々が顔を上げ、それぞれの時間に戻って行く。その中で私と彼だけが、足元に根が生えたように動けなかった。彼はまだ、俯き続けていた。
「これ、良かったらどうぞ。試食用に」
私は彼から視線を離し、声に導かれるままその方向を見遣る。売り子の彼女が小さな袋を差し出していた。中には煎餅が数枚、入っている。躊躇いながらも礼を言って受け取ると、春の野のように彼女は微笑んだ。だが私は笑い返すことは出来なかった。それどころか、とてつもない違和感を覚え、私はすぐに視線を逸らす。
「戻ろうか」
私の言葉に彼は、そうだな、と言う。それは小さく、細く、後悔に似た何かが滲んでいる、そんな声だった。
0
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました
蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈
絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。
絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!!
聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ!
ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!!
+++++
・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)
裏切られ続けた負け犬。25年前に戻ったので人生をやり直す。当然、裏切られた礼はするけどね
竹井ゴールド
ファンタジー
冒険者ギルドの雑用として働く隻腕義足の中年、カーターは裏切られ続ける人生を送っていた。
元々は食堂の息子という人並みの平民だったが、
王族の継承争いに巻き込まれてアドの街の毒茸流布騒動でコックの父親が毒茸の味見で死に。
代わって雇った料理人が裏切って金を持ち逃げ。
父親の親友が融資を持ち掛けるも平然と裏切って借金の返済の為に母親と妹を娼館へと売り。
カーターが冒険者として金を稼ぐも、後輩がカーターの幼馴染に横恋慕してスタンピードの最中に裏切ってカーターは片腕と片足を損失。カーターを持ち上げていたギルマスも裏切り、幼馴染も去って後輩とくっつく。
その後は負け犬人生で冒険者ギルドの雑用として細々と暮らしていたのだが。
ある日、人ならざる存在が話しかけてきた。
「この世界は滅びに進んでいる。是正しなければならない。手を貸すように」
そして気付けは25年前の15歳にカーターは戻っており、二回目の人生をやり直すのだった。
もちろん、裏切ってくれた連中への返礼と共に。
【完結】あなたに知られたくなかった
ここ
ファンタジー
セレナの幸せな生活はあっという間に消え去った。新しい継母と異母妹によって。
5歳まで令嬢として生きてきたセレナは6歳の今は、小さな手足で必死に下女見習いをしている。もう自分が令嬢だということは忘れていた。
そんなセレナに起きた奇跡とは?
主婦が役立たず? どう思うかは勝手だけど、こっちも勝手にやらせて貰うから
渡里あずま
ファンタジー
安藤舞は、専業主婦である。ちなみに現在、三十二歳だ。
朝、夫と幼稚園児の子供を見送り、さて掃除と洗濯をしようとしたところで――気づけば、石造りの知らない部屋で座り込んでいた。そして映画で見たような古めかしいコスプレをした、外国人集団に囲まれていた。
「我々が召喚したかったのは、そちらの世界での『学者』や『医者』だ。それを『主婦』だと!? そんなごく潰しが、聖女になどなれるものか! 役立たずなどいらんっ」
「いや、理不尽!」
初対面の見た目だけ美青年に暴言を吐かれ、舞はそのまま無一文で追い出されてしまう。腹を立てながらも、舞は何としても元の世界に戻ることを決意する。
「主婦が役立たず? どう思うかは勝手だけど、こっちも勝手にやらせて貰うから」
※※※
専業主婦の舞が、主婦力・大人力を駆使して元の世界に戻ろうとする話です(ざまぁあり)
※重複投稿作品※
表紙の使用画像は、AdobeStockのものです。
クラス転移したら種族が変化してたけどとりあえず生きる
あっとさん
ファンタジー
16歳になったばかりの高校2年の主人公。
でも、主人公は昔から体が弱くなかなか学校に通えなかった。
でも学校には、行っても俺に声をかけてくれる親友はいた。
その日も体の調子が良くなり、親友と久しぶりの学校に行きHRが終わり先生が出ていったとき、クラスが眩しい光に包まれた。
そして僕は一人、違う場所に飛ばされいた。
『異世界庭付き一戸建て』を相続した仲良し兄妹は今までの不幸にサヨナラしてスローライフを満喫できる、はず?
釈 余白(しやく)
ファンタジー
毒親の父が不慮の事故で死亡したことで最後の肉親を失い、残された高校生の小村雷人(こむら らいと)と小学生の真琴(まこと)の兄妹が聞かされたのは、父が家を担保に金を借りていたという絶望の事実だった。慣れ親しんだ自宅から早々の退去が必要となった二人は家の中で金目の物を探す。
その結果見つかったのは、僅かな現金に空の預金通帳といくつかの宝飾品、そして家の権利書と見知らぬ文字で書かれた書類くらいだった。謎の書類には祖父のサインが記されていたが内容は読めず、頼みの綱は挟まれていた弁護士の名刺だけだ。
最後の希望とも言える名刺の電話番号へ連絡した二人は、やってきた弁護士から契約書の内容を聞かされ唖然とする。それは祖父が遺産として残した『異世界トラス』にある土地と建物を孫へ渡すというものだった。もちろん現地へ行かなければ遺産は受け取れないが。兄妹には他に頼れるものがなく、思い切って異世界へと赴き新生活をスタートさせるのだった。
連載時、HOT 1位ありがとうございました!
その他、多数投稿しています。
こちらもよろしくお願いします!
https://www.alphapolis.co.jp/author/detail/398438394
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる