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4章 彼は弱った狼を励まそうと緑の四つ葉を差し出しました
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バイクで走り去る明嵐が見えなくなってからも俺は彼が走り去った方角によろよろと走る。
犬として買われている間、まともに走ったり歩くことも部屋の中程度だった俺の足は既に疲れて小さく震えていた。
「はあ…はあ…」
膝に手を着いて息を整えると腕には明嵐か押し付けるように渡した腕時計が着いている。
この地下世界に置けるこの腕時計型の端末は言わば人間の証といっても過言ではないものだ。
それを俺に渡して「今日から人間だ」なんて言われてもそう簡単に頭は追いつかない。
息を整え再び歩きだそうとした時地面に小さな黒い点が現れる。
「…雨?」
それは地上のシェルターの雨とは違い、どちらかと言うと雨漏りのようにぽたぽたとまばらに落ちてくる。
「痛っ…!」
構わず先を急ごうと歩き出したとたん、足の裏に焼けるような痛みが走る。
犬の俺が自分の靴なんて持っている訳もなく、思わず裸足で飛び出してしまった。しかし、特に怪我をした訳でもないのになぜ…。
痛む箇所を庇うようにひょこひょこ歩き出したところで突然腕時計が振動する。画面には「着信」と表示され、蓮岡という知らない名前が添えられていた。
緑色のマークをタップすると振動が止まり腕時計から聞き覚えのある男の声が発される。
先日の真面目な顔でベッドを揺らしていた男だ。
「もしもし?今これに出ているのは明嵐さんですか?珠女さんですか?犬売の蓮岡です」
「…珠女だが」
「屋内ですか?雨が降っているので一先ず外は危ないです。室内にいるようでしたらお話できませんか?」
まるで全てを見ているかのような口ぶりだ。
「俺も話が聞きたい…屋外に居るが…まずいのか?」
「地下に降る雨は強酸性です。あまり触れると火傷になり、ただれます。髪も禿げますよ」
「禿げ…」と言いかけたとき腕にまた雨の雫が落ちる。
「痛っ!!」
「はやく屋内へ。本降りになれば命が危ないです」
俺の声に驚いたり焦るでもなく、彼は淡々と指示をだす。
俺はひとまず近くの建物に避難する。使われていない廃ビルのようで中に入ると雨宿りをしていたのだろう野良犬と思われる数人の男女が、俺から隠れるように暗がりへと引っ込む。
「…ひとまず屋内に入った。話ってなんだ?」
雨に触れた腕や足を服に拭って覗くと爛れて赤くなっている。
「明嵐さんはもうあなたに自分のものを全て移譲されたのですか?」
「今話している腕時計を…あと戸籍がとか言っていたか…」
「そうですか。予想より早かったですね」
蓮岡は電話口で小さくため息をつく。
「お洋服や靴はありますか?明嵐さん、ギリギリまで珠女さんに話したくないと言っていたので重要な引き継ぎが済んでいないのではと思いまして」
「そんなことより!明嵐は何処に行ったんだ!あいつはこれからどうなる?」
あれだけ犬らしくしろと好き勝手あそばれて、急にいらないなんて言ったと思えば次は人間になれだなんて身勝手にも程がある。文句のひとつ言う暇も与えずに俺を放り出したあいつにはまだまだ聞き足りないことが沢山あった。
珍しく声を上げる俺に蓮岡は少し沈黙を置いた。
「…あまり考えたくはありませんが、周囲に野良犬とバレた時点で生きていける望みは薄いでしょう。そもそも食料が手に入らないので、余程のサバイバル力がなければもって1週間かと」
「…なんのためにそんな…」
想像より残酷な回答に、俺は思わず息を飲む。
「それだけあなたが好きだったんでしょうね。相当歪んではいますが」
蓮岡は淡々と返す。
「明嵐はどこに行った?本当に野良犬になったのか?あいつ…」
「行き先は僕も分かりかねますが、犬になって飼い主がいないのは野良犬以外の何ものでもないです。一応飼い犬というカモフラージュの首輪をしているようでしたが」
彼の口ぶりから明嵐が俺が人間になることと引き換えに犬になったというのは確かなようだった。
「首輪が無ければ殺されるぞ」といつか明嵐が言った声が頭をよぎる。
「…地上に帰れるって本当なのか?」
俺の言葉に蓮岡は何の感情も読めない声で返答する。
「ええ、その手筈は整っています。3億で地下の戸籍をそのまま地上に移せる権利が得られます。明嵐さんはそれくらい持っているでしょう?」
このまま地上に帰ってしまえばもう日々の陵辱に耐えることも、犬のように媚びて生きることもない。治安と環境の保証された地上のシェルターで穏やかな日常を取り戻せる。
その後、地下で野良犬が1匹死んだところで俺には関係ないのだ。
電話の向こうで俺の沈黙に蓮岡はしばらく付き合ってから、静かに話し出す。
「…珠女さんが地上に戻るなら僕はお手伝いします。明嵐さんからも頼まれましたし、あなたとコネクションがあれば今後僕に利益が出る。だから恩を売りますよ」
包み隠さず淡々と話す彼の言葉には嘘は感じられない。ありのままを話しているのだろう。
「なら俺からもひとつ頼まれてくれないか。後払いで」
「腕時計があれば先払いもできると思いますが、依頼内容に寄ってはお引き受けします」
「まずは明嵐を連れ戻したい。全部上手くいったら地上の会社をくれてやる。潰れかけらしいけどお前くらい頭が回ればなんとかなるだろ」
少し考えるように蓮岡は黙る。
「…潰れかけの会社はいりませんが、あなたのいた地上での周辺環境についての詳しい情報の提供を頂ければ引き受けましょう。あなたの名前でアポを取れるようにしたい」
「…わかった、それでいいよ。抜け目ないな…」
こんな頭の回る得体の知れない男に自身の名義を明け渡すと思うと頭が痛いが、この際仕方がない。俺が呆れたように返事をする。
「では、早速ですが明嵐さんの付けている首輪はいつ購入された物かご存知ですか?ご存知でなければ、なにか彼の持ち物にGPSなどが仕込まれた物をご存知ないでしょうか?飼い犬としての登録が腕時計にないなら、物から探すしかないので」
話が終わるや否や蓮岡は早速本題に入る。仕事ならやる気でいるようだ。
「首輪か…あいつ首輪いっぱい持っていたと思うが…どんなやつだ?」
「紺色の高そうな革製の首輪で、金色の鑑札がついていました。偽物でなければ30万クラスの首輪ですので、大量購入は難しいかと」
蓮岡の情報を頼りに頭の中で首輪を思い浮かべる。…どこかで見た事あるような…。
「…あ。それ多分…俺の首輪だったやつ…いつ買ったかまではわからないが…3ヶ月前くらいに付けたことがある」
「なるほど、では偽物の線は薄いのですね」
蓮岡はそう言うと話を続ける。
「本物であれば金の鑑札は防犯機能付きの高級品です。首輪自体にGPSがついていて、持ち主を腕時計から探すことが可能です。また、それを破損した際には腕時計にブザーで通知がいく。腕時計に登録されたままなら、珠女さんの腕時計から探せるはずです」
言われるまま腕時計を手当り次第に操作する。俺の行動を見破っているかのように電話口から「赤い首輪のマーク」と声がかかりアプリを開くとマップに点が表示される。
「でた…位置がわかったぞ!」
「思っていたよりすぐ分かりましたね。そちらの座標を僕にも送って頂けますか。右上の共有ボタンから送れます」
指示通り座標を送ると蓮岡は確認しているのか一拍置いてから「ではこちらに向かいます」と言う。
「俺も直ぐに向か…」
話しながら建物を出ようとすると、外はいつの間にか雨が本格的に地味だし天井からぽたぽたととめどなく流れる。とても裸足では歩けそうにない。
「向かいたいが俺は靴を履いていない。こっちの手助けも期待していいのか?」
「1度引き受けた依頼は遂行します。衣類については後ほど実費負担頂きますが、よろしいですか?」
「…3億8000万ある」と呟くと「存じ上げております。珠女さんの座標だけお願いします」と言って電話を切った。
しばらくその場所で時々明嵐の居場所を確認しつつ待っていると、突如腕時計が振動し、ブザーが鳴る。画面には「首輪が破損しました」の文字。
明嵐が追われることに気づいて自分で破壊したのか?しかし、カモフラージュに自ら付けるくらいならそんな真似はしないだろう…よくない胸騒ぎが俺を焦らせる。
雨の中、あちこち塗装が剥げたワゴンがビルの前に止まる。中から黒いレインコートで全身を覆った人間が傘をさして降りてくる。
「珠女さん、お迎えに上がりました」
目深に被ったフードの中から見える顔は確かにあの時の男だ。彼はビルに入ると背中に背負ったカバンの中からレインコートと長靴、折りたたみ傘を手に取り俺に差し出す。
「いやに準備がいいな」
「よく言われます」
蓮岡から差し出されたものを身にまとい蓮岡の乗ってきたワゴンに向かう。
「さっきブザーが…首輪が破損したって」
俺は助手席に乗り、蓮岡は運転席へと回り込む。焦る様子もなく彼はエンジンをかけた。しかし、ポンコツなのかなかなかかからない。
「転売屋に追われているのかもしれません。ガタイのいい男性は労働用として需要がありますし、なんなら身元が分かれば処理用の需要はかなりあるでしょうね。風俗にでも働かせれば相当の利益が出ますし」
「なら急がないとダメだろ!なんだその落ち着きよう!」
「明嵐さんは喧嘩強いですから、転売屋数人くらいなら返り討ちできますよ。もうちょっと頑張って頂きましょう」
何度目とも分からないエンジンをふかす音でようやく車が動き出す。明嵐のスポーツカーとは比べものにならない横揺れを伴いながらワゴンが雨の中を走り出した。
時折俺はGPSを確認し、道を蓮岡に指示すると蓮岡は何一つ文句も言わずに従う。
やがて狭い路地を前に止まると、彼は運転席から傘をさして下りる。
「この先は車では入れません。歩きましょう」
俺も傘を片手に車からおりる。狭い路地の入口は苦い記憶を呼び覚ますようで足がすくむ。
「…早く行こう、明嵐が心配だ」
俺が呟くと蓮岡は首を傾げる。
「虐待した人を心配するなんて不思議ですね」
「…?心配してるなんて誰が言った、俺は話をつけないと気が済まないだけだ」
そう言って俺はGPSを頼りに路地へと足を踏み入れる。
「ここ10分ほど首輪の反応が動いていません。外れてしまった可能性がありますね」
俺の隣を歩きながら蓮岡は淡々と言う。
「明嵐、明嵐ー!」
首輪が外れてしまっていたら後を追いようが無くなる。あまり考えなくはないが10分ならまだ近くにいるかもしれないと俺は声を上げながら足を早める。
路地の一角にある廃墟を前に蓮岡立ち止まる。
「恐らくこの中ですね。首輪が外れている可能性を考えて二手に別れましょう。僕は下から探しますので、珠女さんは上へ」
彼は建物のなかへと入っていく。入口の脇には外階段がついていた。
サビだらけの階段に足をかけるとギシギシと嫌な音をたてる。
あいつわざと俺を上に行かせたんじゃなかろうか…。
そっと階段を登り始めると途中途中でメキとかパキとか大きな音がなる度足がすくみ固まる。
「なんとか着いたな…」
今にも崩れそうな外階段を何とか渡りきり建物の2階に足を踏み入れる。中は昔誰かが住んでいた痕跡かボロボロの家具がいくつかと、スプレーの落書きなどが壁中に書きなぐってある。雨と時間の経過で薄暗い部屋を歩き進めると、部屋の隅に千切れた紺色の首輪が落ちているのに気が付いた。
首輪を手に取り当たりを見渡すが人の気配はない。
蓮岡に連絡を取ろうと腕時計に手を触れたとき上から複数人の足音が聞こえた気がした。
「…明嵐?」
腕時計を操作する手を止め上に通じる道を探すと、下に続く方は崩れているものの建物の内部にも階段があった。
「ここから上にいける…!」
俺は階段を駆け上がる。
「バーッカ!俺の野良犬ライフ今日始まったばっかなんだから邪魔すんな!」
上の方で明嵐の声が聞こえる。1つの足音を追いかけるように他の足音が続く。
「あの野良犬、すばしっこいぞ!追い込め!」
屋上へ出る扉を開けると明嵐が3人の男女に囲まれて隅に追いやられているのが見えた。
「…今日もうお前らの前に8人と殴り合いして手が痛いから帰ってくんね?」
言葉は元気そうだが明嵐は肩で息をしていて、顔や手には痣や血痕がついているのが遠くからでも分かる。首輪を無理やり剥がされたのか、首には大きな切り傷がある。
周囲を囲む男女の手には先が2つに別れた棒やスタンガン、網がそれぞれ握られていた。
「明嵐!!」
階段を駆け上がって既に重たい足取りをもつれさせながら走る。明嵐は驚いた顔でこちらを見る。
明嵐を取り囲んでいた男女たちも手をとめ、俺に対して道を開ける。
「…え、もしかして飼い主さん?」
網を持つ女性が俺を見て呟く。
「…そうだ。俺の犬に何か用事か!首輪を壊したのお前らか?」
一瞬明嵐の顔を見てから、俺は壊れた首輪を見せつけるように 啖呵を切る。それを聞いた転売屋と思われる3人は戸惑うように目を合わせた。
「えっ…でも一応鑑札はスキャンして…あれは違う犬の情報が…珠女クリフって…」
「買った犬の名前を好みで改名したら悪いのか?」
俺は犬のルールは教えられたが、地下のルールも飼い主のルールもあまり知らない。これで法律で改名が禁止されていたらなんとも苦しい言い訳だ…。3人を睨みながら俺は内心次の言い訳を考えていた。
それでも転売屋たちはあまり強く出られないようで、おずおずと手に持っていたものをしまい始める。
「…し、失礼しました」
「首輪の破壊は犯罪だぞ、次は気をつけろ」
「はい…大変申し訳ありません…」
3人は頭を下げ、逃げるように足早に建物内へと去っていく。残された明嵐は何が何だか分からないという顔でこちらを見ていたが、何を考えたのか睨むように笑った。
「人間になったから俺を飼い殺しに来たのか?」
「…いや。犬とか人間とかじゃなくて…明嵐を探しに来た」
あまり抑揚のない声で話しながら明嵐を見上げる。
「やっとみつけた」
明嵐は俺の言葉に固まる。時が止まったんじゃないかと思うくらい瞬きもせずこちらを見ていたが、前にも1度見せた今にも泣き出しそうな怒りの表情を見せた。
「お前べつに俺のことなんとも思ってねえだろ!騙されねえぞ!」
「ああ、なんとも思ってない。思ってないさ。だからあのまま地上に帰ろうとした。だけどそれが出来ずに人の手まで借りて、こうしてお前のこと探しに来るあたり何かしら思うところがあるんだろうな」
俺は明嵐の火傷だらけの手を取ると軽く引っ張る。
「家に帰ろう」
その手を見つめ、明嵐は目を閉じて首を横に振る。
「…帰ってどうすんだよ…」
いつもダミ声みたいな声が、ますます掠れて震えていた。
「俺はお前を虐待してたんだぞ…檻に閉じ込めて犯して回して首絞めたし叩いたし、薬飲ませたりとか完全にヤバいやつだぞ…」
「ヤバい自覚はあったんだな」
てっきり犬と飼い主の間では当然の事なのかと思っていた。一応ヤバいと認定されるような行為で、本人にもその自覚はあったらしい。
「俺だって普段あそこまでやんねえよ…同時挿入とか誰得だよ…」
お前がやりたいって言ったんじゃないかと言いたい気持ちをぐっと飲み込む。こんなことしていたら多分キリがない。
「この際ヤバいやつでもいい。ひとまず帰ろう。下で蓮岡って男が待ってる」
「蓮岡?なんでアイツが?」
状況が分からないという顔の明嵐の腕を強めに引くとようやく歩き出した。屋上から屋内に繋がる扉を潜ると、すぐ隣に壁にもたれかかっている黒い影があった。
「あ、ホントに蓮岡だ」
明嵐の言葉に振り返ると、蓮岡が腕を組んでこちらを見ていた。
「いつからいたんだ」
「うちに帰ろうあたりから」
俺の言葉に相変わらず淡々と蓮岡は答える。じゃあこいつ犯して回してのあたりも聞いていたのか…。
「ひとまず明嵐さんが見付かったようで何よりです。首輪がないのは危険ですから、早く帰りましょう。お屋敷まで送りますから、遂行した報酬をよろしくお願いします」
「ああ…頼む。報酬もしっかり払う」
俺たちの話に「なんの依頼?」とか「何が報酬なの?」と明嵐は質問を繰り返したが、蓮岡が黙秘で通したので俺も黙っておいた。
後部座席に明嵐と並んで乗り込むと、ポンコツワゴンのエンジンがかかるよりも早く明嵐は眠りに着いてしまう。
1度眠るとテコでも起きないと言う明嵐が肩にのしかかるのを気持ち避けつつ蓮岡が投げかける地上に関する質問や疑問なんかにわかる範囲で答えた。俺みたいな一般人の話が参考になるのかわからないが、蓮岡は興味深そうに時折「なるほど」と納得した声を出した。
屋敷について明嵐を起こそうと叩いたり引っ張ったりしても全然目覚めない明嵐だったが、横から蓮岡が容赦なく髪を引っ張ると痛そうに呻き声をあげた。
「あでででで…」
「明嵐さん着きましたよ」
明嵐は眠そうな顔でむにゃむにゃとしながらゆっくりとワゴンを下りる。
「では、レインコートと長靴、傘をしめて14820円、実費負担でお願いします」
「こまかいな…」
「ビジネスですから消費税までお願いします」
蓮岡が差し出す腕時計に俺も腕時計をだす。よく明嵐がこれで買い物をしているのを見ていたからきっと何かやれば何かなるんだろうと適当にポチポチ操作してみると画面には『特選!SM道楽!』だの『素人ハメ撮り20連発!』だのいかがわしいビデオのタイトルであろうファイルがずらりと並んでしまった。
「…俺のじゃないぞ」
「あ、それ俺の仕事用資料ね」
別に恥ずかしがるわけでもなく横から明嵐が俺の腕時計を操作する。蓮岡も慣れているからか何もいわないし顔色も変えない。気まずいのは俺だけのようだった。なんなんだこの業界。
「はい、14820円」
明嵐が金額を入力し、画面にコードを表示する。蓮岡はそれを自分の腕時計で読み取り、確認すると頭を丁寧に下げた。
「それでは、サイドビジネスの匂いのする情報も頂けましたので僕は失礼いたします。後ほど、珠女さんの地上での情報をメールでお願いいたします」
てっきり地上の環境情報で満足したかと思ったのだが、そっちの方も忘れてはなかったらしい。
「あ、ああ…わかった」
蓮岡は俺の返事に再び頭を下げ、ワゴンに乗り込む。
なかなかかからないエンジン音を聞きながら彼が無事に出発するのを待つ。ようやくエンジンがかかり、出発するワゴンに明嵐は眠そうに手をヒラヒラさせた。
「相変わらずポンコツに乗ってんな…」
空いた明嵐の手を指先でつつき「とりあえず洗って手当てしよう」と声をかける。
「…風呂使っていいの?俺、今野良犬だよ?」
「俺はそうは思ってない。お前は明嵐だし、ここはお前の家だし、俺から見ればお前は人間だし」
俺が玄関に足を入れると、明嵐は少し怪訝な顔をして見ていたがとぼとぼと後ろをついてくる。
少し顔色を伺うように何度か俺の方をチラチラ見てはいたが、何も言われないと分かってか明嵐は風呂場へ向かうと、そのうちシャワーが出る音が聞こえた。
俺はいつも明嵐が使っていた救急箱を探してリビングをうろつくとガラス戸の戸棚の中にそれを見つけて引っ張り出す。
しばらくリビングで待っていると髪をゴムで結い上げた状態でタオルを肩に引っ掛けて戻ってきた。
顔のあちこちが痣で変色していたり、殴り合いをしたせいなのか特に手の関節部分は火傷や怪我でボロボロだった。
「首がさすがに染みたわ」
ぱっくり縦に切れた首の傷回りを指先でポリポリ掻いて危機感のない声で明嵐が笑った。
「…とりあえずそこ座って」
椅子を指さすと明嵐は大人しく椅子に腰をかける。
「…これは手当が大変そうだな」
傷の手当なんてほとんどしたことは無い。本人にやらせた方が上手く手当できるだろうが、促しても「唾付けとけば治るし」と首を横に振るので俺がなんとか消毒をし不格好に包帯を巻いた。
巻かれた包帯をしげしげと眺め、明嵐は不思議そうに目を細めた。
「…俺を治してお前になんの得があんの?」
「強いていえば…明日の寝覚めが良くなる」
俺の言ってる意味が分からないと書いてある顔で明嵐は首を斜めに振った。
「で、俺はどの部屋にいればいいの?」
「どのって…自分の部屋があるだろ」
「あれは人間用の部屋だから、俺がいる場所じゃない」
明嵐はさも当然のように話す。何も疑問を持たない顔だ。
何故明嵐がこんなにも犬だの人間だのに拘るのか俺には分からない。明嵐だけじゃなく、この世界ではそれが当たり前なのかもしれないがよそ者の俺にその気持ちはやっぱり分からない。
「…じゃあ俺の部屋に居たらいい。その方がベッドも広いしいいだろ」
「わかった。クリフはどこで寝るの?俺の部屋?1階に母親の部屋もあるけど、ホコリすげえからな…掃除してこようか?」
さっきまで爆睡するほど疲れているはずなのに、明嵐は思いつくやいなや立ち上がる。
「俺も俺の部屋で寝るから掃除はいい、疲れてるんだから早く休んどけ」
「えっ、だってお前の部屋は人間の場所じゃ… 」
そこまで言ってから、明嵐は再び席に座る。顔を伏せて気まずそうに手元を弄りながら彼はぽつぽつと話し出す。
「…地上じゃそれが常識なのかなってのは、なんとなく分かるよ。でも、散々虐待した人間が一緒に寝たら胸糞悪いだろ」
「別に今更なんとも思わないし、今のお前がそういうことするようには見えない」
まるで叱られるのを恐れている子供のように目線だけで明嵐はこちらの顔色を伺う。何か言いたげに口を開けたり閉めたりするが、言葉が出てこないのか静かに諦めて立ち上がった。
「…わかった。じゃあ…部屋で寝てる」
「ああ、おやすみ」
明嵐はまだこちらを気にするように何度か視線だけで振り返るが、とぼとぼと背中を丸めてリビングを後にする。
俺は使い方の分からない腕時計型の端末をなんとか操作しながら、蓮岡に今日の報酬代わりのメールを送る。
試行錯誤しながら奮闘したおかげでメールを送信した頃にはあれから2時間ほど経過していた。
「…ねるか」
椅子から立ち上がりぐっと背中を伸ばして部屋に向かう。
髪を引っ張るでもしないと起きない明嵐とはいえ人が寝ていると思うと、無意識に静かに扉を開き中に入ると、明嵐はベッドの端っこで最小限のスペースだけ取って丸まって寝ていた。
「背骨が悪くなりそうな寝方だな…」
明嵐の足を引っ張り腕を引っ張り体を広げると明嵐は眉をしかめて呻くと、再び身体を丸めて頭を庇うような姿勢になる。
「…叩かないで…」
何か悪い夢でも見ているのか、絞り出すような寝言を口にする。
人間は…弱っているものを見ると施しを与えたくなるものだと思う。
明嵐の隣に潜り込み頭に触れるとびくっと体を震わせた。
そのまま髪を撫でるように指を滑らせると少しづつ身体の強ばりがとけていき、縮まっていた身体が少しづつ広がっていく。
「これからどうしようか」
眠ったままの明嵐に尋ねるがもちろん答えはない。
地上に帰るにしても、このまま明嵐を犬として置いていく訳には行かない。
かと言って明嵐を連れていく事が出来るかも、この世界に疎いよそ者の俺には分からない。
憎かった相手のはずなのに憎みきれずにこうして隣に横になり頭を撫でているのが不思議だ。
「絆されたかな…」
犯されて回されて、首を締めたり薬を飲まされたりしたのによくもまあ…自分で口にして自分で笑えてきた。
犬として買われている間、まともに走ったり歩くことも部屋の中程度だった俺の足は既に疲れて小さく震えていた。
「はあ…はあ…」
膝に手を着いて息を整えると腕には明嵐か押し付けるように渡した腕時計が着いている。
この地下世界に置けるこの腕時計型の端末は言わば人間の証といっても過言ではないものだ。
それを俺に渡して「今日から人間だ」なんて言われてもそう簡単に頭は追いつかない。
息を整え再び歩きだそうとした時地面に小さな黒い点が現れる。
「…雨?」
それは地上のシェルターの雨とは違い、どちらかと言うと雨漏りのようにぽたぽたとまばらに落ちてくる。
「痛っ…!」
構わず先を急ごうと歩き出したとたん、足の裏に焼けるような痛みが走る。
犬の俺が自分の靴なんて持っている訳もなく、思わず裸足で飛び出してしまった。しかし、特に怪我をした訳でもないのになぜ…。
痛む箇所を庇うようにひょこひょこ歩き出したところで突然腕時計が振動する。画面には「着信」と表示され、蓮岡という知らない名前が添えられていた。
緑色のマークをタップすると振動が止まり腕時計から聞き覚えのある男の声が発される。
先日の真面目な顔でベッドを揺らしていた男だ。
「もしもし?今これに出ているのは明嵐さんですか?珠女さんですか?犬売の蓮岡です」
「…珠女だが」
「屋内ですか?雨が降っているので一先ず外は危ないです。室内にいるようでしたらお話できませんか?」
まるで全てを見ているかのような口ぶりだ。
「俺も話が聞きたい…屋外に居るが…まずいのか?」
「地下に降る雨は強酸性です。あまり触れると火傷になり、ただれます。髪も禿げますよ」
「禿げ…」と言いかけたとき腕にまた雨の雫が落ちる。
「痛っ!!」
「はやく屋内へ。本降りになれば命が危ないです」
俺の声に驚いたり焦るでもなく、彼は淡々と指示をだす。
俺はひとまず近くの建物に避難する。使われていない廃ビルのようで中に入ると雨宿りをしていたのだろう野良犬と思われる数人の男女が、俺から隠れるように暗がりへと引っ込む。
「…ひとまず屋内に入った。話ってなんだ?」
雨に触れた腕や足を服に拭って覗くと爛れて赤くなっている。
「明嵐さんはもうあなたに自分のものを全て移譲されたのですか?」
「今話している腕時計を…あと戸籍がとか言っていたか…」
「そうですか。予想より早かったですね」
蓮岡は電話口で小さくため息をつく。
「お洋服や靴はありますか?明嵐さん、ギリギリまで珠女さんに話したくないと言っていたので重要な引き継ぎが済んでいないのではと思いまして」
「そんなことより!明嵐は何処に行ったんだ!あいつはこれからどうなる?」
あれだけ犬らしくしろと好き勝手あそばれて、急にいらないなんて言ったと思えば次は人間になれだなんて身勝手にも程がある。文句のひとつ言う暇も与えずに俺を放り出したあいつにはまだまだ聞き足りないことが沢山あった。
珍しく声を上げる俺に蓮岡は少し沈黙を置いた。
「…あまり考えたくはありませんが、周囲に野良犬とバレた時点で生きていける望みは薄いでしょう。そもそも食料が手に入らないので、余程のサバイバル力がなければもって1週間かと」
「…なんのためにそんな…」
想像より残酷な回答に、俺は思わず息を飲む。
「それだけあなたが好きだったんでしょうね。相当歪んではいますが」
蓮岡は淡々と返す。
「明嵐はどこに行った?本当に野良犬になったのか?あいつ…」
「行き先は僕も分かりかねますが、犬になって飼い主がいないのは野良犬以外の何ものでもないです。一応飼い犬というカモフラージュの首輪をしているようでしたが」
彼の口ぶりから明嵐が俺が人間になることと引き換えに犬になったというのは確かなようだった。
「首輪が無ければ殺されるぞ」といつか明嵐が言った声が頭をよぎる。
「…地上に帰れるって本当なのか?」
俺の言葉に蓮岡は何の感情も読めない声で返答する。
「ええ、その手筈は整っています。3億で地下の戸籍をそのまま地上に移せる権利が得られます。明嵐さんはそれくらい持っているでしょう?」
このまま地上に帰ってしまえばもう日々の陵辱に耐えることも、犬のように媚びて生きることもない。治安と環境の保証された地上のシェルターで穏やかな日常を取り戻せる。
その後、地下で野良犬が1匹死んだところで俺には関係ないのだ。
電話の向こうで俺の沈黙に蓮岡はしばらく付き合ってから、静かに話し出す。
「…珠女さんが地上に戻るなら僕はお手伝いします。明嵐さんからも頼まれましたし、あなたとコネクションがあれば今後僕に利益が出る。だから恩を売りますよ」
包み隠さず淡々と話す彼の言葉には嘘は感じられない。ありのままを話しているのだろう。
「なら俺からもひとつ頼まれてくれないか。後払いで」
「腕時計があれば先払いもできると思いますが、依頼内容に寄ってはお引き受けします」
「まずは明嵐を連れ戻したい。全部上手くいったら地上の会社をくれてやる。潰れかけらしいけどお前くらい頭が回ればなんとかなるだろ」
少し考えるように蓮岡は黙る。
「…潰れかけの会社はいりませんが、あなたのいた地上での周辺環境についての詳しい情報の提供を頂ければ引き受けましょう。あなたの名前でアポを取れるようにしたい」
「…わかった、それでいいよ。抜け目ないな…」
こんな頭の回る得体の知れない男に自身の名義を明け渡すと思うと頭が痛いが、この際仕方がない。俺が呆れたように返事をする。
「では、早速ですが明嵐さんの付けている首輪はいつ購入された物かご存知ですか?ご存知でなければ、なにか彼の持ち物にGPSなどが仕込まれた物をご存知ないでしょうか?飼い犬としての登録が腕時計にないなら、物から探すしかないので」
話が終わるや否や蓮岡は早速本題に入る。仕事ならやる気でいるようだ。
「首輪か…あいつ首輪いっぱい持っていたと思うが…どんなやつだ?」
「紺色の高そうな革製の首輪で、金色の鑑札がついていました。偽物でなければ30万クラスの首輪ですので、大量購入は難しいかと」
蓮岡の情報を頼りに頭の中で首輪を思い浮かべる。…どこかで見た事あるような…。
「…あ。それ多分…俺の首輪だったやつ…いつ買ったかまではわからないが…3ヶ月前くらいに付けたことがある」
「なるほど、では偽物の線は薄いのですね」
蓮岡はそう言うと話を続ける。
「本物であれば金の鑑札は防犯機能付きの高級品です。首輪自体にGPSがついていて、持ち主を腕時計から探すことが可能です。また、それを破損した際には腕時計にブザーで通知がいく。腕時計に登録されたままなら、珠女さんの腕時計から探せるはずです」
言われるまま腕時計を手当り次第に操作する。俺の行動を見破っているかのように電話口から「赤い首輪のマーク」と声がかかりアプリを開くとマップに点が表示される。
「でた…位置がわかったぞ!」
「思っていたよりすぐ分かりましたね。そちらの座標を僕にも送って頂けますか。右上の共有ボタンから送れます」
指示通り座標を送ると蓮岡は確認しているのか一拍置いてから「ではこちらに向かいます」と言う。
「俺も直ぐに向か…」
話しながら建物を出ようとすると、外はいつの間にか雨が本格的に地味だし天井からぽたぽたととめどなく流れる。とても裸足では歩けそうにない。
「向かいたいが俺は靴を履いていない。こっちの手助けも期待していいのか?」
「1度引き受けた依頼は遂行します。衣類については後ほど実費負担頂きますが、よろしいですか?」
「…3億8000万ある」と呟くと「存じ上げております。珠女さんの座標だけお願いします」と言って電話を切った。
しばらくその場所で時々明嵐の居場所を確認しつつ待っていると、突如腕時計が振動し、ブザーが鳴る。画面には「首輪が破損しました」の文字。
明嵐が追われることに気づいて自分で破壊したのか?しかし、カモフラージュに自ら付けるくらいならそんな真似はしないだろう…よくない胸騒ぎが俺を焦らせる。
雨の中、あちこち塗装が剥げたワゴンがビルの前に止まる。中から黒いレインコートで全身を覆った人間が傘をさして降りてくる。
「珠女さん、お迎えに上がりました」
目深に被ったフードの中から見える顔は確かにあの時の男だ。彼はビルに入ると背中に背負ったカバンの中からレインコートと長靴、折りたたみ傘を手に取り俺に差し出す。
「いやに準備がいいな」
「よく言われます」
蓮岡から差し出されたものを身にまとい蓮岡の乗ってきたワゴンに向かう。
「さっきブザーが…首輪が破損したって」
俺は助手席に乗り、蓮岡は運転席へと回り込む。焦る様子もなく彼はエンジンをかけた。しかし、ポンコツなのかなかなかかからない。
「転売屋に追われているのかもしれません。ガタイのいい男性は労働用として需要がありますし、なんなら身元が分かれば処理用の需要はかなりあるでしょうね。風俗にでも働かせれば相当の利益が出ますし」
「なら急がないとダメだろ!なんだその落ち着きよう!」
「明嵐さんは喧嘩強いですから、転売屋数人くらいなら返り討ちできますよ。もうちょっと頑張って頂きましょう」
何度目とも分からないエンジンをふかす音でようやく車が動き出す。明嵐のスポーツカーとは比べものにならない横揺れを伴いながらワゴンが雨の中を走り出した。
時折俺はGPSを確認し、道を蓮岡に指示すると蓮岡は何一つ文句も言わずに従う。
やがて狭い路地を前に止まると、彼は運転席から傘をさして下りる。
「この先は車では入れません。歩きましょう」
俺も傘を片手に車からおりる。狭い路地の入口は苦い記憶を呼び覚ますようで足がすくむ。
「…早く行こう、明嵐が心配だ」
俺が呟くと蓮岡は首を傾げる。
「虐待した人を心配するなんて不思議ですね」
「…?心配してるなんて誰が言った、俺は話をつけないと気が済まないだけだ」
そう言って俺はGPSを頼りに路地へと足を踏み入れる。
「ここ10分ほど首輪の反応が動いていません。外れてしまった可能性がありますね」
俺の隣を歩きながら蓮岡は淡々と言う。
「明嵐、明嵐ー!」
首輪が外れてしまっていたら後を追いようが無くなる。あまり考えなくはないが10分ならまだ近くにいるかもしれないと俺は声を上げながら足を早める。
路地の一角にある廃墟を前に蓮岡立ち止まる。
「恐らくこの中ですね。首輪が外れている可能性を考えて二手に別れましょう。僕は下から探しますので、珠女さんは上へ」
彼は建物のなかへと入っていく。入口の脇には外階段がついていた。
サビだらけの階段に足をかけるとギシギシと嫌な音をたてる。
あいつわざと俺を上に行かせたんじゃなかろうか…。
そっと階段を登り始めると途中途中でメキとかパキとか大きな音がなる度足がすくみ固まる。
「なんとか着いたな…」
今にも崩れそうな外階段を何とか渡りきり建物の2階に足を踏み入れる。中は昔誰かが住んでいた痕跡かボロボロの家具がいくつかと、スプレーの落書きなどが壁中に書きなぐってある。雨と時間の経過で薄暗い部屋を歩き進めると、部屋の隅に千切れた紺色の首輪が落ちているのに気が付いた。
首輪を手に取り当たりを見渡すが人の気配はない。
蓮岡に連絡を取ろうと腕時計に手を触れたとき上から複数人の足音が聞こえた気がした。
「…明嵐?」
腕時計を操作する手を止め上に通じる道を探すと、下に続く方は崩れているものの建物の内部にも階段があった。
「ここから上にいける…!」
俺は階段を駆け上がる。
「バーッカ!俺の野良犬ライフ今日始まったばっかなんだから邪魔すんな!」
上の方で明嵐の声が聞こえる。1つの足音を追いかけるように他の足音が続く。
「あの野良犬、すばしっこいぞ!追い込め!」
屋上へ出る扉を開けると明嵐が3人の男女に囲まれて隅に追いやられているのが見えた。
「…今日もうお前らの前に8人と殴り合いして手が痛いから帰ってくんね?」
言葉は元気そうだが明嵐は肩で息をしていて、顔や手には痣や血痕がついているのが遠くからでも分かる。首輪を無理やり剥がされたのか、首には大きな切り傷がある。
周囲を囲む男女の手には先が2つに別れた棒やスタンガン、網がそれぞれ握られていた。
「明嵐!!」
階段を駆け上がって既に重たい足取りをもつれさせながら走る。明嵐は驚いた顔でこちらを見る。
明嵐を取り囲んでいた男女たちも手をとめ、俺に対して道を開ける。
「…え、もしかして飼い主さん?」
網を持つ女性が俺を見て呟く。
「…そうだ。俺の犬に何か用事か!首輪を壊したのお前らか?」
一瞬明嵐の顔を見てから、俺は壊れた首輪を見せつけるように 啖呵を切る。それを聞いた転売屋と思われる3人は戸惑うように目を合わせた。
「えっ…でも一応鑑札はスキャンして…あれは違う犬の情報が…珠女クリフって…」
「買った犬の名前を好みで改名したら悪いのか?」
俺は犬のルールは教えられたが、地下のルールも飼い主のルールもあまり知らない。これで法律で改名が禁止されていたらなんとも苦しい言い訳だ…。3人を睨みながら俺は内心次の言い訳を考えていた。
それでも転売屋たちはあまり強く出られないようで、おずおずと手に持っていたものをしまい始める。
「…し、失礼しました」
「首輪の破壊は犯罪だぞ、次は気をつけろ」
「はい…大変申し訳ありません…」
3人は頭を下げ、逃げるように足早に建物内へと去っていく。残された明嵐は何が何だか分からないという顔でこちらを見ていたが、何を考えたのか睨むように笑った。
「人間になったから俺を飼い殺しに来たのか?」
「…いや。犬とか人間とかじゃなくて…明嵐を探しに来た」
あまり抑揚のない声で話しながら明嵐を見上げる。
「やっとみつけた」
明嵐は俺の言葉に固まる。時が止まったんじゃないかと思うくらい瞬きもせずこちらを見ていたが、前にも1度見せた今にも泣き出しそうな怒りの表情を見せた。
「お前べつに俺のことなんとも思ってねえだろ!騙されねえぞ!」
「ああ、なんとも思ってない。思ってないさ。だからあのまま地上に帰ろうとした。だけどそれが出来ずに人の手まで借りて、こうしてお前のこと探しに来るあたり何かしら思うところがあるんだろうな」
俺は明嵐の火傷だらけの手を取ると軽く引っ張る。
「家に帰ろう」
その手を見つめ、明嵐は目を閉じて首を横に振る。
「…帰ってどうすんだよ…」
いつもダミ声みたいな声が、ますます掠れて震えていた。
「俺はお前を虐待してたんだぞ…檻に閉じ込めて犯して回して首絞めたし叩いたし、薬飲ませたりとか完全にヤバいやつだぞ…」
「ヤバい自覚はあったんだな」
てっきり犬と飼い主の間では当然の事なのかと思っていた。一応ヤバいと認定されるような行為で、本人にもその自覚はあったらしい。
「俺だって普段あそこまでやんねえよ…同時挿入とか誰得だよ…」
お前がやりたいって言ったんじゃないかと言いたい気持ちをぐっと飲み込む。こんなことしていたら多分キリがない。
「この際ヤバいやつでもいい。ひとまず帰ろう。下で蓮岡って男が待ってる」
「蓮岡?なんでアイツが?」
状況が分からないという顔の明嵐の腕を強めに引くとようやく歩き出した。屋上から屋内に繋がる扉を潜ると、すぐ隣に壁にもたれかかっている黒い影があった。
「あ、ホントに蓮岡だ」
明嵐の言葉に振り返ると、蓮岡が腕を組んでこちらを見ていた。
「いつからいたんだ」
「うちに帰ろうあたりから」
俺の言葉に相変わらず淡々と蓮岡は答える。じゃあこいつ犯して回してのあたりも聞いていたのか…。
「ひとまず明嵐さんが見付かったようで何よりです。首輪がないのは危険ですから、早く帰りましょう。お屋敷まで送りますから、遂行した報酬をよろしくお願いします」
「ああ…頼む。報酬もしっかり払う」
俺たちの話に「なんの依頼?」とか「何が報酬なの?」と明嵐は質問を繰り返したが、蓮岡が黙秘で通したので俺も黙っておいた。
後部座席に明嵐と並んで乗り込むと、ポンコツワゴンのエンジンがかかるよりも早く明嵐は眠りに着いてしまう。
1度眠るとテコでも起きないと言う明嵐が肩にのしかかるのを気持ち避けつつ蓮岡が投げかける地上に関する質問や疑問なんかにわかる範囲で答えた。俺みたいな一般人の話が参考になるのかわからないが、蓮岡は興味深そうに時折「なるほど」と納得した声を出した。
屋敷について明嵐を起こそうと叩いたり引っ張ったりしても全然目覚めない明嵐だったが、横から蓮岡が容赦なく髪を引っ張ると痛そうに呻き声をあげた。
「あでででで…」
「明嵐さん着きましたよ」
明嵐は眠そうな顔でむにゃむにゃとしながらゆっくりとワゴンを下りる。
「では、レインコートと長靴、傘をしめて14820円、実費負担でお願いします」
「こまかいな…」
「ビジネスですから消費税までお願いします」
蓮岡が差し出す腕時計に俺も腕時計をだす。よく明嵐がこれで買い物をしているのを見ていたからきっと何かやれば何かなるんだろうと適当にポチポチ操作してみると画面には『特選!SM道楽!』だの『素人ハメ撮り20連発!』だのいかがわしいビデオのタイトルであろうファイルがずらりと並んでしまった。
「…俺のじゃないぞ」
「あ、それ俺の仕事用資料ね」
別に恥ずかしがるわけでもなく横から明嵐が俺の腕時計を操作する。蓮岡も慣れているからか何もいわないし顔色も変えない。気まずいのは俺だけのようだった。なんなんだこの業界。
「はい、14820円」
明嵐が金額を入力し、画面にコードを表示する。蓮岡はそれを自分の腕時計で読み取り、確認すると頭を丁寧に下げた。
「それでは、サイドビジネスの匂いのする情報も頂けましたので僕は失礼いたします。後ほど、珠女さんの地上での情報をメールでお願いいたします」
てっきり地上の環境情報で満足したかと思ったのだが、そっちの方も忘れてはなかったらしい。
「あ、ああ…わかった」
蓮岡は俺の返事に再び頭を下げ、ワゴンに乗り込む。
なかなかかからないエンジン音を聞きながら彼が無事に出発するのを待つ。ようやくエンジンがかかり、出発するワゴンに明嵐は眠そうに手をヒラヒラさせた。
「相変わらずポンコツに乗ってんな…」
空いた明嵐の手を指先でつつき「とりあえず洗って手当てしよう」と声をかける。
「…風呂使っていいの?俺、今野良犬だよ?」
「俺はそうは思ってない。お前は明嵐だし、ここはお前の家だし、俺から見ればお前は人間だし」
俺が玄関に足を入れると、明嵐は少し怪訝な顔をして見ていたがとぼとぼと後ろをついてくる。
少し顔色を伺うように何度か俺の方をチラチラ見てはいたが、何も言われないと分かってか明嵐は風呂場へ向かうと、そのうちシャワーが出る音が聞こえた。
俺はいつも明嵐が使っていた救急箱を探してリビングをうろつくとガラス戸の戸棚の中にそれを見つけて引っ張り出す。
しばらくリビングで待っていると髪をゴムで結い上げた状態でタオルを肩に引っ掛けて戻ってきた。
顔のあちこちが痣で変色していたり、殴り合いをしたせいなのか特に手の関節部分は火傷や怪我でボロボロだった。
「首がさすがに染みたわ」
ぱっくり縦に切れた首の傷回りを指先でポリポリ掻いて危機感のない声で明嵐が笑った。
「…とりあえずそこ座って」
椅子を指さすと明嵐は大人しく椅子に腰をかける。
「…これは手当が大変そうだな」
傷の手当なんてほとんどしたことは無い。本人にやらせた方が上手く手当できるだろうが、促しても「唾付けとけば治るし」と首を横に振るので俺がなんとか消毒をし不格好に包帯を巻いた。
巻かれた包帯をしげしげと眺め、明嵐は不思議そうに目を細めた。
「…俺を治してお前になんの得があんの?」
「強いていえば…明日の寝覚めが良くなる」
俺の言ってる意味が分からないと書いてある顔で明嵐は首を斜めに振った。
「で、俺はどの部屋にいればいいの?」
「どのって…自分の部屋があるだろ」
「あれは人間用の部屋だから、俺がいる場所じゃない」
明嵐はさも当然のように話す。何も疑問を持たない顔だ。
何故明嵐がこんなにも犬だの人間だのに拘るのか俺には分からない。明嵐だけじゃなく、この世界ではそれが当たり前なのかもしれないがよそ者の俺にその気持ちはやっぱり分からない。
「…じゃあ俺の部屋に居たらいい。その方がベッドも広いしいいだろ」
「わかった。クリフはどこで寝るの?俺の部屋?1階に母親の部屋もあるけど、ホコリすげえからな…掃除してこようか?」
さっきまで爆睡するほど疲れているはずなのに、明嵐は思いつくやいなや立ち上がる。
「俺も俺の部屋で寝るから掃除はいい、疲れてるんだから早く休んどけ」
「えっ、だってお前の部屋は人間の場所じゃ… 」
そこまで言ってから、明嵐は再び席に座る。顔を伏せて気まずそうに手元を弄りながら彼はぽつぽつと話し出す。
「…地上じゃそれが常識なのかなってのは、なんとなく分かるよ。でも、散々虐待した人間が一緒に寝たら胸糞悪いだろ」
「別に今更なんとも思わないし、今のお前がそういうことするようには見えない」
まるで叱られるのを恐れている子供のように目線だけで明嵐はこちらの顔色を伺う。何か言いたげに口を開けたり閉めたりするが、言葉が出てこないのか静かに諦めて立ち上がった。
「…わかった。じゃあ…部屋で寝てる」
「ああ、おやすみ」
明嵐はまだこちらを気にするように何度か視線だけで振り返るが、とぼとぼと背中を丸めてリビングを後にする。
俺は使い方の分からない腕時計型の端末をなんとか操作しながら、蓮岡に今日の報酬代わりのメールを送る。
試行錯誤しながら奮闘したおかげでメールを送信した頃にはあれから2時間ほど経過していた。
「…ねるか」
椅子から立ち上がりぐっと背中を伸ばして部屋に向かう。
髪を引っ張るでもしないと起きない明嵐とはいえ人が寝ていると思うと、無意識に静かに扉を開き中に入ると、明嵐はベッドの端っこで最小限のスペースだけ取って丸まって寝ていた。
「背骨が悪くなりそうな寝方だな…」
明嵐の足を引っ張り腕を引っ張り体を広げると明嵐は眉をしかめて呻くと、再び身体を丸めて頭を庇うような姿勢になる。
「…叩かないで…」
何か悪い夢でも見ているのか、絞り出すような寝言を口にする。
人間は…弱っているものを見ると施しを与えたくなるものだと思う。
明嵐の隣に潜り込み頭に触れるとびくっと体を震わせた。
そのまま髪を撫でるように指を滑らせると少しづつ身体の強ばりがとけていき、縮まっていた身体が少しづつ広がっていく。
「これからどうしようか」
眠ったままの明嵐に尋ねるがもちろん答えはない。
地上に帰るにしても、このまま明嵐を犬として置いていく訳には行かない。
かと言って明嵐を連れていく事が出来るかも、この世界に疎いよそ者の俺には分からない。
憎かった相手のはずなのに憎みきれずにこうして隣に横になり頭を撫でているのが不思議だ。
「絆されたかな…」
犯されて回されて、首を締めたり薬を飲まされたりしたのによくもまあ…自分で口にして自分で笑えてきた。
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