シュガーポットに食べかけの子守唄

Life up+α

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2章

1 眠れぬ夜とチェシャ猫の笑い声

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1.
パステルピンクのワンピース、白いタイツに桃色のパンプス。
「可愛いわよ」
真っ白で何もない空間の中で母が僕の姿を見て、満足そうに笑う。僕の身体はまだ幼児のように小さくて、思うように動かない。
「やーあ」
嫌だと伝えようと口を開くが、舌が回らない。母は首を横に振る。
「大人しくしなさい」
母親が持ってくる服はどれもフリルのついた可愛らしいものだ。ピンク色、黄色、白…暖色を中心としたそれらの中で、唯一僕が好きな色は赤色だ。
「赤は女の色だ」
パソコン画面かじりつき、座ったままコーヒーをすする父が言った。
「レッドはみんなのリーダーだよ」
目の前にあるテレビに映し出された特撮ものの番組を指さして僕は言う。今度は舌が思うように動いた。それでも手足が短くて、まだ子供の域を出ない等身だ。
テレビに映っているのは戦隊もの。赤レンジャー、みんなに慕われるレッドは今日も世界のどこかで悪者を倒して、世界を救っている。赤はカッコイイ。みんなを救うヒーローの色だ。
「ああいう特撮ものは特別さ。女の子のランドセルは赤だろ。赤は女の色だ」
父親が赤いランドセルを僕に差し出す。ピカピカと輝くそのランドセルは凄く憧れたもののはずなのに、父親の言葉に僕は酷い不快感を覚えた。
「いらない!」
僕はランドセルを突き返す。ランドセルが勢いあまって父親の手から滑り降りた。
「なんてことをするんだ!」
父親が僕を平手で叩く。バシンと強い音がする。叩かれた手首に骨が軋むように痛みが響いて、僕は泣いた。
「泣くな!近所迷惑だろう!」
泣けば泣くほど、何故か父親は僕を叩いた。僕は何故、ここまで叩かれなくてはならないのか分からなかったが、自分が泣くのが悪いのだと思って泣くのをやめた。ジンジンとヒリつく身体を縮めて、僕は出来るだけ声を殺して誰にも見つからないように泣いた。
沢山泣いて、沢山動いたら汗をかいた。自分が着ていた赤いシャツが汚れていく。嫌々背負ったランドセルで学校に行くと、クラスの子たちが僕を見て笑った。
「明日香ちゃんってなんで毎日同じ服着てるの?」
「臭い、近寄らないで」
その時、初めて僕は自分が汚いと気付いた。臭いのか。そうだ、だってこの服はもう三日以上洗っていない。
「毎日ちがう服で学校に行きたい」
僕はすぐ傍にいた母親に言う。母親は呆れたような顔をして溜息を吐いた。
「誰が洗濯してると思ってるの。大して汚くないでしょう」
おかしいな、みんなは僕を汚いと言うのに母親は僕の服を洗ってくれない。僕は仕方なくその赤いシャツのままでテレビの前に座り込む。
恐竜が街を壊す。いいな、僕もあんな力が欲しかった。街を火の海にする恐竜はとても自由に見えた。
「アンタって臭い。顔も長くて女の子らしくない。裸足で歩かないで」
テレビを見ていた僕に母親が言う。自分の来ている赤いシャツが気付いたら黒く変色していた。
ああ、やっぱりそうだよね。僕ってすごく臭いんだ。汚い。着替えたいけど、母親に叱られるのが怖くて、僕は何も言えないでいた。
不機嫌そうな母は今度は紺色のセーラー服を持ってくる。ようやく差し出された別の服を僕はすぐに受け取った。
気付くと身体は大きくなっていて、僕は背丈に合うそれに袖を通す。だけど足を見せるのがなんだか凄く嫌で、昭和の不良みたいにスカート丈を長くして下げる。三つ折りソックスがダサくて気分が下がる。
遠くに3人の女の子たちが机を囲んでスマートフォンを弄っている。彼女たちはスカートをギリギリまで短くして、校則外の靴下を履いていた。
「ねえ、聞いた?ミカのやつがリカコの悪口言ってたらしいじゃん。アイツまじで調子乗りすぎ」
「えーハブる?グループメッセに貼るよー?」
「ねえ、明日香もアイツ嫌いだよねえ?」
彼女たちが僕に振り返る。僕はただ苦笑いする。
ミカもリカコも僕は知らない。誰の話をしてるんだろう。だけど、同意しないと僕の居場所がなくなるんだ。みんなの目が僕に頷けと言っていた。
機嫌とらなきゃな。面倒臭いな。
「あはは…まあ…」
適当な返事を返す自分に辟易する。思ってもないことを口に出すごとに自分を嫌いになった。いつも相手の顔色を伺って、様子を見て、機嫌を損ねないよう愛想笑いをした。
下手なことを話したら嫌われる。だって僕はとても醜くて臭いから、傍にいるだけでみんなが不快になってしまう。
「ねえ、アスカちゃん聞いて。パパが酷いのよ」
今度は僕はベッドに座っていた。隣には母がいる。母は漫画家で仕事が出来る人だったが、酷く孤独な人だった。
僕の父は無職、働いていない。母は父が嫌いで、いつも僕に愚痴を言うが、絶対に別れたりしなかった。寂しかったのだろうと思う。
母は家事をしながら僕を学校にやり、塾に行かせ、父を養った。凄まじい経済力だったし、よく出来た人だったが、彼女はいつだって満たされていなかった。
「明日香ちゃんはママのことが好きでしょう?パパより好きでしょう?」
僕の両手を握って母親が言う。僕は曖昧に笑う。
父親と母親どちらが好きかって、そんなこと言われたって困る。僕が母親のことを好きと言えば父親は機嫌を損ねて僕を叩くかもしれない。父親が好きと言えば、母親は泣いて喚いて僕を親不孝だとなじるんだ。
「アンタはいつもそうやって、みんなにいい顔するのね。八方美人。そんなんだから嫌われるのよ」
母親が呆れたように手を離した。
僕は笑う。笑うしかない。僕が笑ってないと、誰かが怒る。
母親は自分の気が済むまで漫画のアシスタントに愚痴を吐き、父と喧嘩し、いつだって自分は凄いのだと話す。まるで自分に言い聞かせるように。
「パパと結婚しなかったら、こんな風にはならなかった。アンタみたいな気の回らない娘じゃなくて、親孝行な息子が欲しかったわ」
母はいつも僕を生んだことを嘆いていた。僕も彼女に同感だった。僕も、こんな僕じゃなければ良かったのにと思った。
「私はお人形さんみたいな娘が欲しかったの。可愛いお洋服を一緒に買って、一緒にお化粧の話をしたりして。なのに、あなたは足を開いて座って…女の子らしくない」
ガサツで、気遣いも出来なくて、可愛い服も着ない。ごめんね、頭も悪いんだ。ごめんね、お化粧したくないんだ。ごめんね、本当はスカートも履きたくないんだ。ごめんね。ごめんね。
僕もせめて息子として生まれたかったなあ。スカートも可愛いらしさも期待されずに、好きな格好を許されたかったなあ。頭悪いのは直らないんだろうけど。
「私、お医者さんに凄くアプローチされたことがあるのよ。凄く誠実でいい人だったのに、私はパパなんかと結婚してしまった。あれは運の尽きよ。あの人と結婚していれば、今頃私は幸せだったのに」
「…そしたら私も少しは変われていたのかな」
微かな希望にすがるように僕は母親に言う。すると母親は酷く驚いた顔で僕を見た。
「何言ってんのよ。アンタはパパの子供なんだから、私があの人と結婚してなかったら、アンタなんか生まれてなかったのよ」
僕は呆然として言葉を失う。
あれ、おかしいな。一緒に幸せになろうっていう話じゃなかったのかな。でも、僕は母親の機嫌が損なわれるのが怖くて思考を止めて笑った。
そうだ、そうだね。僕なんかいない方が、ママはずっと今より幸せだったね。
「ねえ、明日香ちゃん。電話番号交換しようよ、そしたら上の人にお給料あげて貰えるように相談してあげる」
振り返ると、そこにはバイト先の先輩がいた。彼は煙草のヤニで黄ばんだ歯を見せて笑い、僕の腰に手を回す。口から煙草とコーヒーが混ざった酷い臭いがした。
彼が期待していることは薄々わかる。でも、番号だけはどうしても教えたくないなあ。
「んー、自力で頑張ります!ありがとうございます!」
僕は声を少し高くして、彼の手を払わずに答えた。そんな自分に吐き気がした。
でも、こうでもしないと、みんなは機嫌を損ねるんでしょう?
「アンタって本当に可愛くないわよね。顔が長くて馬面。ピーナッツみたい」
母親が僕の顔を見て嘲笑う。僕の両手には沢山の芸能事務所のスカウトマンからの名刺。一枚、二枚、三枚…数えると八枚もあるそれは、確か一日で貰った最高記録だ。
「ねえ、でもこんなに声をかけてくれる人がいるよ。オシャレ頑張ってるんだ」
母親に僕が両手に集めたそれを差し出すと、母親は汚い物を見るように眉をしかめる。
「そんなの、あなたが女の子だからでしょう?ちょっと垢ぬけなくて隙のある女の子みんなに渡してんの。食い物にされそうになってるっていう自覚くらい持ちなさい。本当にバカね」
僕の手の中から名刺がバラバラと落ちる。これは僕が女である印。女でなかったら貰えない。女という記号がなくなった僕に何の価値もないのだ。
だから、バイト先の人も声をかけてくるんだ。僕が女だから。
「そっか、気を付けるね」
僕は笑う。
ああ、本当に嫌になるなあ。僕は自分が女であることしか存在価値がない。
「俺、結婚するなら、三食きちんとご飯作れる人じゃないと嫌だな。あと、魚を自分で三枚に下ろせる人」
横を見ると、昔付き合ってみて何となく別れた彼氏がいた。キスだけして、他は受け付けなかったからすぐに別れた人だ。
何を求めて僕にそれを言うんだろう。なんで僕がご飯を作らなくてはならないんだろう。
「うん、ご飯作れるように練習するね」
僕は笑って彼に答える。自分のことが信じられない。思ってもないことばかり口から出る。
辛い。息苦しい。呼吸が出来ない。自分の身の振る舞い方が分からない。
「アンタ、本当に中身がないわよね」
真っ白な空間で、さっきまでいた男たちがみんな消えていた。その場に残ったのは僕の母だけ。
「もうちょっと自分を持ったら?」
彼女の言葉に僕は笑う。
僕も嫌いだ。大嫌いだ、こんな自分。みんなの意見ばかり聞いて、僕の中身は空っぽだ。
「明日香ちゃんはママの気持ち、分かるでしょ?ママ凄くあなたのこと愛してるのよ。あなたがお腹にいるって分かった時、泣くほど嬉しかった」
本当に僕のこと、愛してくれてるの?
「明日香ちゃんは何でいつも私を裏切るの?どれだけ私があなたにお金をかけてきてあげたと思っているの?いくら勉強させても頭も良くならないし、汚い絵ばっかり描いて。何もママに似ていなかった。ママはこんなにしっかり者で働き者なのに」
ごめんね、裏切りたくないんだよ。
「ママはパパと結婚してずっと地獄なの。明日香ちゃんだけがママの人生。ママはずっとあなたのために生きてきたのに、どうして何も返してくれないの?」
返し方が分からないよ。どうしたら返せるの?
「怠け者。いくじなし。可愛くない。金食い虫。パパそっくり。不潔で臭い。アンタたちのせいで私の人生台無し」
やめてくれ。もう聞きたくない。知ってるんだ。あなたから言われなくても、僕はもう全部知ってるから。
生んでくれなんて頼んでない。なんで生んだんだ。あなたが選んで生んだんでしょう。僕だってあなたの元で生まれたくなんかなかった。
喉まで出かかる言葉を飲み込む。言ったら母が泣いて怒るのを知っているから。
だって、母は孤独な人。僕のことを愛してるんだから、僕だって愛さなきゃ。子供は親を愛さなくてはならないんだってあなたは言うんでしょう。
母が僕を蔑むような眼差しで言う。
「アンタなんか生まなきゃ良かった」
口を開く。震える自分の唇はただ笑みを作って、呼吸にもならないような息が漏れた。
「…生まれてきて、ごめん…」
僕の足元が木の床であると気付いたのはどのタイミングだっただろう。板には切れ込みがあって、顔を上げると目の前に輪になった縄がぶら下がっていた。
絞首台だ。僕はその縄を手に取る。
「明日香ちゃん、後でパパと不思議の国のアリスのアニメを一緒に見よう」
ふと聞こえた父親の声に僕は顔を上げる。絞首台の向こうで父親が片手に本を持っている。
その手にあるのはルイス・キャロルが書いた小説、不思議の国のアリス。彼は優しげな笑みを浮かべて僕に言った。
「パパはね、ジャバウォックが好きなんだ。アニメには出てこないけどね。勧善懲悪なんてこの世にはない。桃太郎に成敗される鬼のように、理由もなく一方的に殺されるジャバウォックも可哀想だと思うんだ。明日香ちゃんなら分かるだろう?」
父親はそう言って本を閉じる。
「明日香ちゃんは優しい子になるよ」
「どうやったら優しくなれる?」
首に縄をかけたまま、僕は声を張り上げて父親に尋ねる。
父親は優しく笑った。
「苦しい気持ちを味わった人ほど、優しくなれるんだ」
彼の言葉に僕の心がふっと明るくなる。
いや、「明るく」ではないのだろうか。「諦め」だろうか。
苦しい先にそれがあるなら、この縄に首を通した自分を肯定できるような気がしたのだ。
「いただきまーす!」
その瞬間、見知らぬ声と共に床が開いて落ちる。
目を開けると知らない女性が、地面で横になっている僕の上に跨っていた。



桃色の明るい色の長い巻き毛に織り混ざる紫色のメッシュ。下着のような面積の少ないチューブトップからは豊満な胸の谷間が覗く。
つり上がった大きな瞳の瞳孔は猫のように縦に細長い。紫色の瞳を瞬いて、彼女は僕の服の下に手を滑り込ませた。肌を撫でながら僕の鎖骨にキスをする。
「ちょ…ちょちょちょ、待って!何なんですか!やめてください!」
混乱する頭を無理やり稼働させ、僕は彼女を突き飛ばす。尻もちをつく彼女が小さく声を上げたが、僕はその間に慌てて立ち上がった。
「ちょっと~、何すんのよ~!アンタ男の子でしょ~、玉ついてるのお?据え膳食わぬは男の恥って言わないかにゃあ?」
明らかに媚びたような声で彼女はその場に座ると、猫のように両手で軽く拳を作ってウィンクして見せる。
いや、よく見れば本当に猫耳と尻尾がある。ピンクと紫色のしましま模様の尻尾だ。
「…」
僕は黙って腕を組み、彼女を睨みつける。
この特徴、有名すぎてすぐ分かる。勘違いでなければ、彼女はきっとチェシャ猫だ。
尻尾を揺らしながら彼女は悪びれずに笑みを浮かべてこちらを見ていたが、解けない僕の警戒を見てか、ふあ~と大きな欠伸した。
「は~、最近身持ち固い男子ばっかでつまんな~!男って猫耳ついた女がニャンニャン言ってれば大体喜んでがっつくクセにさあ!アンタもしかしてED?ウケんね!」
「別にEDじゃないです」
「んじゃ、童貞?」
ゲタゲタと笑う彼女に僕は思わず顔を赤くする。
確かに…童貞ではある…。だって、男性になってから1ヶ月くらいしか経ってない。仕方ないじゃないか。
「この世界に来たなら楽しんどかなきゃ損だじょ
~?今からでもニャンニャンする?お姉さんが童貞卒業させてあげてもいいよお?」
「結構です!そういうのが目的なら他を当たって下さい!」
また甘えた声を出し始める彼女に僕は大きめの声でピシャリと断る。何が楽しくて見知らぬ人と身体を重ねなくてはならないのか。
イディオットの集落から出てきて1週間以上が経つ。僕は森をさ迷いながら自給自足の生活を送っていた。イディオットやトゥルー、集落の人たちが食料の確保の仕方を教えてくれたから、お陰様で飢えずに済んでいる。
こうして人と話すのは随分久しぶりに思えた。
「いや、まあ待ちたまえよ若人。とりあえず、お姉さんと…」
彼女がそこまで口にしたあたりで、彼女の腹の虫が盛大にぐぅーと鳴った。
呆気に取られて思わず黙る。訪れる沈黙に、彼女は笑顔のまま首を傾げた。
「…ま、そういうことなのだ!お姉さんとエッチなことしていいから、ご飯下さい!アタシ、とってもお腹減りました!」
「身体をそんな安売りしないで下さいよ…」
僕はため息を吐いてから、そばの草むらへと向かう。
盗まれないように、作りすぎたご飯はいつも草むらに隠している。これがまた保温も兼ねられて、なかなか重宝している。
僕は草に包んだ手のひら大のボールを2つ、彼女に手渡す。彼女は不思議そうに反対側に首を傾げると、草の包みを開いた。
中にはキノコで作った焼きおにぎりのようなものがある。トゥルーから教えてもらったレシピだ。この世界のキノコは万能だから、困ったら食べていいと言われた。
「えっ、ちょっとグロいけど匂いは美味しそう…」
「焼きおにぎりのイメージで作ってありますよ。中に焼いた魚入ってるので、我ながら美味しいと思います」
僕の説明を聞くと、彼女は大きな口でかぶりつく。もちゃもちゃとワイルドに咀嚼すると、彼女は耳と尻尾をピンと立てて目を輝かせた。
「むむ!美味しい!美味しいぞ少年!」
「それは何よりです」
ガツガツを両手に持ったそれらを頬張る彼女を見つめ、僕はため息を吐く。
よく分からない人だが、こう嬉しそうに食べて貰えるとちょっと嬉しい。
早々にそれらを平らげると、彼女は指をチュッチュと舐め取り、両手を合わせた。
「美味であった!これは何かお礼せんばなあ…本当にエッチしなくて大丈夫?抜くよ?」
「結構です」
「お堅いねえ~!」
彼女はひとしきり笑うと、身体ごと首を傾けて唸った。
「ん~、じゃあちょっとした予言をしてあげようかねえ!少年はこのままここで野宿をしたまえ。さすれば、近いうちに素晴らしい友人に出会えるだろう!」
ビシッと彼女は僕を指さしてニヤリと笑う。彼女の言葉に今度は僕が首を傾げた。
素晴らしい友人…?イディオットとかトゥルーか…?ジャッジは…僕は好感を持っているが、友人と呼んで良いものか怪しい感じだ。
「…それは三月兎?」
「ブブーッ!初対面の女の子でーす!」
質問すると、彼女はバッと手をクロスさせて大きくバツを作る。なんか腹立つ。
「なんだよ…ていうか、その予言って当たるんですか?本当にお礼する気あります?」
「アリアリのアリだよ~!チェシャ猫の能力は未来予知!ま、見たい未来が見れるとも限らないし、いつ実現するかも曖昧にしか見れないけどね~!」
そう言うと、彼女は立ち上がる。下着が見えるほど下げたカーゴパンツの背面を手で払い、土埃を落とした。
「さあて、お姉さんそろそろ行くよ。また三月兎でも誘惑しに行こうかねえ」
「また?」
彼女の言葉を思わず復唱する。
三月兎と言えば、イディオットしかいないだろう。しかし、あんなに堅い彼が情事を楽しむ姿があまり思い浮かばない。いや、進んで想像したいものでもないが。
「そうそう、三月兎の配役って性欲めちゃくちゃ強いん。だから、1回始めると長々楽しめるし、お馬鹿さんだから手の平でコロコロ~ってね?でも、今の三月兎は随分お堅くなっちゃって、まだ1回しか誘惑成功してないの」
1回しか誘惑成功していない。
つまり、1回成功してるの?僕は思わず目を丸くする。
「イディオットさんが?!本当に?」
「うんうん。何でも、現実ではそーゆー欲求がない人なんだっけ?アタシには理解出来ないけど。だから、1回くらい経験してみるのはいいかもって。あれ、しゅごかったにゃ~」
彼女は顔を赤らめてホウと息を吐く。やめろよ、しゅごかったってなんだよ。イディオットがどんなことしたのかちょっと気になっちゃうだろ。
「アタシはまた三月兎に抱いて貰いたいんだけど、彼は『大体理解したし、時間の無駄だからもういい』って言うんだよねえ。アタシ、そんな下手くそだったかなあ?どう思う?」
「知りませんよ」
ため息を吐く僕に、彼女は楽しそうに尻尾をくゆらす。
「ま、元々そういう欲求がない人の性欲が、あの配役で一時的に高まってるだけでしょ。根本は変わんないんだよね、自己肯定感高めって言うか?そういう人って身体に依存しないから、恋愛しずらいだけだと、アタシは思うけどねえ」
ふあ~とまた彼女は欠伸をし、天高く腕を伸ばして伸びをした。
「身体が密にくっついた時にアイツは満たされないのかな。アタシはあれがないと寂しくて死にそうだし、アタシを必要としてくれるなら身体だけでも構わないし、誰でもいい。だけど、あの兎にはそれは理解できなそう」
先程までふざけていた彼女が月を見上げて静かに呟く。その眼差しが真剣で、とても寂しそうに見えた。
「…でも、身体をだけって寂しくないですか?自分の中身に相手は価値を見てないんですよ」
オスメスという枠組み、身体、性欲という本能。それは確かに生き物に生まれつけば、全員が持ち合わせている。その個々に性格が、個性が許されるのであれば、誰でも持ってるもので選ばれたくないと僕は思う。
彼女は僕に振り返る。月を背にした彼女は目を閉じる。浮かび上がる白い歯だけが、笑顔を作っていた。
「寂しいよ?だから、みんな誰かの1番になりたくて恋愛するんじゃない?結婚は、アンタの1番は死ぬまでアタシって契約書を書かせるため。子供が産まれたら、子供は親を無償で愛す。そしたら夫はもう用なし。だって、子供が1番に自分を愛してくれるんだから」
彼女の身体が暗闇に透けるように消えていく。
「命短し恋せよ乙女!老いた醜女に価値はない!だから、綺麗なうちに誰かの1番を貰うんだ!少なくともアタシはね!」
白い歯を蓄えた口が閉じられると、彼女はついに暗闇に消えていなくなる。
嵐のように去った彼女の声は、底抜けに明るいのに、どうにも僕には切なく聞こえた。
僕は再び地面に横になる。空に広がる満天の星空も大分見慣れたものだ。
僕の母は僕を本当に愛してくれていたのだろうか。僕は母を愛していたのだろうか。
親は子を選べない。だけど、子も親を選べない。もし神様がいたならば、どうしてそんなに歪な組み合わせにしてしまったんだろう。
あのチェシャ猫は、これからも沢山の男性と寝るのだろう。自分を1番にしてくれる人を探して、自分を満たしてくれと、対価に身体を差し出すのだろう。
彼女が自分が愛されるためだけに子を生むことがないように、胸に下がった十字架を模した短剣を握りしめて僕は祈る。
子は親を無償で愛さなくてはならない。そんな理不尽が、どうかなくなりますように。
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