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3章
3 眠り鼠の思惑
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3.
部屋を分かたれてから、僕とミズキが話す機会は急激に減った。僕がちゃんと話さないからなのもあるが、僕が話しかけない限り、ミズキが話しかけて来ないというのもあった。
城に来た日の6日後の朝、僕は窓から見える薔薇の庭園を眺めて溜息を吐いた。僕の視線の先には、庭園を並んで歩くミズキとフロージィの姿、そして、それを楽しそうについて回る双子たちの姿があった。
あれからミズキと僕が二人一緒にいる時の空気は最悪だった。食卓に呼ばれても僕はミズキの顔を見ることが出来ず、ミズキはチラチラと僕を見るものの声を発さない。賑やかな双子たちの会話と、それを相手するフロージィの声だけがある、気まずい空気を作り出してしまっていた。
気まずい空気に耐えられず、僕はただ口を閉ざして今日まで部屋に引きこもり続けている。
何故、ここまで気持ちが沈むのか分からないとは言え、自分でも大人気ないと思う。それでも、口を開けば彼女を否定する言葉が自分の口から出てきそうで、飯を食べる以外で口を開く事が出来なかった。
何気ない会話くらいすれば良かったのに、それすら出来なかった。思い出すだけでも恥ずかしくて、穴があれば入りたい気分だ。
そのくせ、こうやって窓から4人が楽しそうにしているのを見ていると面白くない。自分の考えに感情がついていかないのだ。
「コウモリくんはミズキのところに行かなくていいの?」
頭の角に逆さまにぶら下がるコウモリに尋ねると、彼は興味なさそうに欠伸をする。
きっとコウモリも僕の気持ちを察しているのだろう。本当に自分が嫌になってしまう。なんて卑屈なんだろう。
言わなくても伝わる、相手が自分を肯定してくれる。そんな心地良さが、ミズキのそばに居る間に当たり前になっていた。彼女は僕とどんなに似た趣味趣向を持っていようと、考えが似てようとも、別の人間であることを忘れかけていたのだ。
僕は最初、ミズキが当たり前のように、自分と同じく現実に帰ることを前向きに考えてくれていると思っていた。それを、ミズキが僕と2人きりでいることを強く望むようになってから、少しずつ疑うようになり、ついに彼女がそれを望んでいないと知ってしまった。それも、彼女自身の口から明白に告げられる形で。それに対し、僕が抱いていた感情は、裏切られた時のような落胆や失望に限りなく近かっただろう。
自分の身体の一部だと信じ込んでいたものが、少しずつ僕の身体から離れていき、急に剥がれ落ちてなくなってしまったような。そんな喪失感。ミズキは僕の半身であり、生涯離れないものであると、思っていたかったのだろう。
愚かだ。僕とミズキはあの双子のように心で会話することも出来ないし、産み落とされた場所すら違うのに。
「ねーえ、なんでそんなにヤキモチ嫉妬むんむんで話しにいかないの~?」
突然聞こえた声に視線を隣に流すと、至近距離で猫のような瞳と目が合う。鼻と鼻がぶつかりそうなその距離に驚き、慌てて後退すると、僕は窓を見るために座っていたソファから頭から転落する。角にぶら下がっていたコウモリがバサバサと逃げるように飛び立った。
後ろ向きにでんぐり返しをするように転んだ僕を見下ろすその猫は、ニヤニヤとした笑みを浮かべて僕を見下ろす。
「な、なんであなたがここにいるんですか!」
「だって、アタシはチェシャ猫だよ~?人目をかいくぐるのも気配を消すのも得意中の得意!フフッ、少年はまだまだ青いのう」
僕が声を荒らげると、ソファに当たり前のように座っているチェシャ猫は尻尾をパタパタと機嫌良さそうにくねらせながら、偉そうに鼻を鳴らした。
「アタシが紹介してあげた運命のおにゃのこ、気に入らなかったのかにゃーあ?随分、入れ込んでいるように見えるけど~?」
「…ミズキはそんなんじゃない」
僕は口を曲げて床にあぐらをかいて座る。声は拗ねた子供そのもので、恥ずかしいと思いつつも、明るく振る舞うなんて高等技術を僕は持ち合わせていない。
実際、拗ねているのだろう。自分でも分かる。馬鹿みたいだ。
「そんなに好きなら、合わせちゃえばいいのに。あの子の言う通りにすれば全部解決。アンタはあのサイコパスから見逃してもらえるし、あの子の隣は死ぬまでアンタのもの。そんなに不安なら契約書でも書いてもらえば?婚姻届持ってきてあげよっか?アタシの手書きで良ければさ」
チェシャ猫は笑いながら、僕がやっていたように窓枠に肘をついて外を覗き込む。その先には恐らく、まだミズキたちがいるのだろう。
「面白そうだったから、アンタたちが来た日にあの子の部屋に忍び込んで、ちょっかいかけてきたんよ。女子同士だし、恋バナとか~!あの子、人見知りだけどユーモアセンスもあるし、ちょっと天然入ってて和むよね~!アタシも好き」
ペラペラとよく回る舌でチェシャ猫は1人で勝手に喋る。僕は何故だがそれすら不愉快で、ムッと口を曲げてそっぽを向く。
視界の端に映る彼女は相変わらずニヤニヤとした笑みを浮かべたまま僕を見つめ、ゆらゆらと尻尾を揺らす。
「なーんでアンタはそんな釣れない態度とるの?ツンデレ目指してんの?ミズキチャン、アンタにズブズブだよ~。お砂糖吐きそうなくらい、アンタが好き。満更でもないくせに~」
僕が好き、という響きに僕の曲げていた口の端が上がる。それが悔しくて僕は更にそっぽを向いて口を手で隠す。
好きなんて言われても、ミズキ本人の口から聞いたわけでもないし、意見が食い違っていることには間違いない。喜んでなんかない。そう自分に言い聞かせる。
そんな僕にチェシャ猫は呆れたように溜め息を吐いた。
「あーあ、痴話喧嘩とかアホくさ。ラブラブな人は悩みが小さくていいよね~」
「だから、そんなんじゃないんだって」
心底馬鹿にされているのはさすがに分かる。僕は眉間に皺を寄せて声を低くする。
「ミズキのことは恋愛どうこうとか思ってないんだ。本当に、ただ人として好きで傍にいたいだけ」
「とか言って、キスしたり、ヤることやってんでしょ?」
「やってない!」
僕は思わず声を上げる。事実、僕はミズキと手を繋いだりはしたが、それ以上のことはしていない。
男女だからといって、恋愛に関する行為で全てを括られなければならないなんて変だ。そんなこと関係なく僕は彼女が好きなだけ。その好意を否定されたようで無性に腹立たしかった。
「何で好きならキスやセックスをしなくちゃいけないんだよ。しなくたって、仲の良い人たちはいるでしょう?家族を愛するように誰かを愛したら悪いんですか」
学校のクラスメイトたちがハグで喜びを分かち合うように、家族の手を引くように手を繋いだりすることは、性別も血縁も関係なく皆がするものだと僕は認識している。
恋人だから、男女だからと、そんな枠組みだけでミズキと僕の関係を勝手に決めつけないで欲しかった。
僕の怒りが伝わったのか、チェシャ猫は少し目を丸くしたが、大きな欠伸をしてソファに寝転がった。
「はーあ!つまんな~!アンタもあの馬鹿兎と一緒だ!何が愛だ!1番じゃなきゃ意味ないのにさ!」
イライラしたように尻尾を大きく左右に振りながら彼女は目を閉じた。
「アタシならその1番、喜んで貰うのにさ。好きな子とずっと2人きりで愛し合って平和に暮らすなんておとぎ話レベルの奇跡じゃん。アンタさえ彼女を受け入れれば、ここは間違いなく楽園になるよ。その有難みが分からないなんて、アンタも馬鹿。馬鹿トカゲ」
「そんな狭い世界、いつか壊れるに決まってますよ」
呟くように反論し、僕はふと気が付く。
そうだ、こんな夢の世界はいつかなくなる。崩れるに決まってる。知らないどこかのアリスが作った箱庭は、自分が作ったものじゃないのだから、いつか必ず困難に直面する。アリスと僕たちの思考は別物なのだから。
ここは確かに楽園だ。ミズキと出会った日から、ミズキがいる場所が僕の楽園。
キャンプ地を離れた時から、僕はずっと続く楽園を探しているんだろう。ここはキャンプ地と同じ、第二の儚い理想郷。そんなこと、5日も考えれば僕だって理解できる。
だけど、僕は納得できないんだ。僕は欲張りだから、ミズキが大好きだから、そんな儚い場所を楽園と呼べない。
「なんでそう言いきれるのさ。4年も続いてるらしいじゃん、この世界」
「たったの4年です。アリスがある日突然、この世界をやめると言い出したら?アリスが死んだら?どの道、この世界が未来永劫続くわけないんですよ。現実を諦めて、夢にばかり逃げてたら、突然訪れた現実に適応できるわけない」
チェシャ猫の問いに僕は返答する。僕の言葉に彼女はチラと視線をこちらに寄越すと、眉間にしわを寄せた。
「眠り鼠の女王がなんとかしてくれるでしょ」
「三月兎はそれをきっと許さない。いずれ大きな戦争が起きる。どっちが勝っても負けても大勢が傷つく」
誰かに頼りきって、自分で選択することをやめたら、その後に起きたことに対処なんか出来るわけがない。
頼りきって全てを失ったその時、僕らはきっと考えることをやめているだろう。ミズキと2人きりで内にこもっていたら、2人とも破滅するだけだ。
「僕は…ミズキに傷ついて欲しくない。一緒に立って、歩いて、支え合いたい。だから、僕はミズキと一緒に現実に帰りたいんだ」
話しながら自分の思考が整理されていくのが分かる。そうだ、ただ僕はミズキと自由に生きていきたいのだ。
僕らが生きているのはこの世界じゃない。現実だ。きちんと未来がある世界で、僕は長く長くミズキと寄り添うように生きていきたいだけ。
「楽園は自分で築いていくものだと思うんです。誰かに作って貰うものじゃない」
甘ったれていたら、自分の足で歩けなくなってしまう。その場の空気に合わせて、自分が思ってもないことを口に出して生きていても、いつかツケを払う日が来る。
現実で生きてきた自分がそれを証明している。みんなの意見に合わせてばかりいて、その場その場の空気に馴染むことばかりを選んできた。その結果が、この世界に来たばかりの僕だ。
中身のない空っぽ。着る服すら自分で選択できない、息苦しくて、不自由で、何もない臆病な僕。そんなのはただの傀儡だ。そんな状態で生きることなんか出来やしない。
ミズキにはそうなって欲しくない。彼女を通して、僕は初めて本当になりたい自分に出会えた。自分を認め、人の愛される喜びを、人を愛することを知った。そんな僕は、現実で生きてきた今までの中で間違いなく一番自由だ。
僕は彼女にただ、自由に笑っていて欲しかっただけ。僕をここまで育ててくれた彼女に恩返しがしたい。彼女が彼女自身を認められるようになるための手助けがしたかった。
頭が痛い。ジクジクと疼くような痛み。この世界に来た時に感じたあの痛みだ。僕はこの痛みの原因が、何となく分かりつつあった。
「そんなにアンタは現実が好きなんだ?」
興味深そうにニヤニヤと尋ねてくるチェシャ猫に、僕は首を横に振った。
「…自殺するくらい嫌いです」
僕の言葉にチェシャ猫は片目だけ見開く。僕は彼女の顔を見つめ、言葉を続けた。
「現実で自殺を試みたのが最後の記憶です」
75mgの大きめの、強力な痛み止めを5シート分を一気にお酒で流し込んで、グラグラする頭で首をカッターで切った。
首は硬くて全然切れなかったから、何度も何度も同じところを抉った。絶対に死んでやるつもりだった。
途中から吐き気と目眩がして、意識が朦朧としたけど、抉り続けた。途中からカッターが神経に触れてビリビリと電気が流れるような激痛が走った。痛み止めとお酒で誤魔化しても誤魔化しきれない、経験したことのないような痛みだった。
血は何度でも固まって、身体は何とか出血を止めようとする。止められてたまるかと、浴室でシャワーを浴びながら繰り返した。次第に傷が深くなると血が固まりきれなくなって、止まらない血でシャツの上半分が血で真っ赤になった。
朦朧とする意識の中で浴室に転がって、それでも傷を抉った。生きたくなかった。死にたかった。あの時はただひたすらに早くこの不自由から解放されたいと願っていた。
頭が痛かった。ジクジクと疼くような痛み。興奮状態で首の痛みは、途中から傷を深く抉る時以外は感じなくなったのをよく覚えている。
僕の話を聞いていたチェシャ猫がソファに頬杖をつく。彼女は黙ったまま僕の言葉の続きを待っていた。
「ミズキにはそんな思いをして欲しくない。現実でも、この世界でも」
僕が見た最後の現実の風景は血まみれの浴室だ。それでも、ここにいるのはきっと現実で僕が生きているからだろう。
死にたくたって、人間の身体は案外丈夫なものだ。そんな無駄な努力なんかしない方がいい。
僕はこの世界に来てから、初めて自分として、自分の意思で生きることを知った。ジャッジやイディオット、トゥルーから話を聞いて考える機会を得た。そうしてミズキと出会い、自分らしく生きることが楽しいと思えるようになった。
この世界の僕は限りなく自由だ。現実なんかより、ずっとずっと好きに生きていける。それでも、この世界でこうして生きてこれたなら、その経験は絶対に無駄にはならない。現実に帰ったって、僕はそれを忘れさえしなければ、僕はどこへ行こうと自由になれる。
僕はきっと今のいつ崩れるとも分からない世界ではなく、ミズキと一緒に現実という末永く続く世界に帰って、辛いことも楽しいことも分かちあっていきたかったんだろう。
「…自殺までしたのに、現実に帰りたいの?」
話に耳を傾けていたチェシャ猫は不思議そうに僕に尋ねる。僕はそれに強く頷いた。
「帰りたい。帰りますよ。ミズキも一緒にね」
「わかんな~」
チェシャ猫は大きく溜息を吐いたが、先ほどよりも口調は柔らかい。尻尾を動かすことをやめ、彼女は再びソファに腹ばいになって転がった。
「…自殺したくなる気持ちだけ分かるけどね」
彼女はそのままポツリと呟くように言った。その声はどうしようもなく寂しそうな、諦めの含まれた自嘲だった。
「チェシャ猫さんは現実では何してたんです?」
彼女が僕の思考に苦しむよう、僕も彼女をまるで理解出来ない。僕が尋ねると、彼女はゴロリと仰向けに転がった。
「ホストにハマって、金を貢いでたの。輝くあの人の1番が欲しかった」
「ホスト?ホストクラブの?」
「そーそー、ウケるっしょ」
チェシャ猫は寝転んだまま笑った。
「見た目も出来るだけ綺麗にして、働いて働いて働いて…でも、ホストクラブって一晩で何十万もなくなんの。たった1本のボトルで。被りがいたら伝票で殺すしかないから、とことん金がかかんのよ。ビビるっしょ?」
ゲラゲラと彼女は笑うが、内容は恐ろしい。僕はホストクラブなど行ったことがないので、被りとか伝票とかよく分からないが、それだけお金がかかりそうなイメージは確かにあった。
「全然お金が足りないから風俗で働いて、家賃払うのも惜しくなって色んな男の家を転々とした。男って馬鹿だから、ちょっと身体明け渡すとすぐ住まわせてくれる。でも、私が些細なことで逆らうとすぐ殴るんだ。本当に男ってサイテー」
「でも、そんなに男性が嫌いでもホストがやめられないんですか?」
「やめられないよ。引き返せない。これだけのお金使ったのにさ。それに、たまに一緒に寝てくれる。その時だけは、彼は間違いなくアタシだけのものだもん」
チェシャ猫の指す「寝る」はセックスを指しているのは何となく分かる。彼女が恋愛や身体の繋がりにこだわる理由は、恐らくそこにあるのだろう。
「まあ、アタシが彼のお店でヒスったせいで関係も終わったけどさ。掲示板もSNSも炎上して嫌がらせされまくるし、お金も無いし、もう最悪。それからはずっと適当な男と寝て、その日の宿を決める感じ。だから、女の子は若いうちが花。綺麗で若いうちに早く寄生先を見つけないと暮らしていけないもん」
「…大変でしたね」
何と反応すればいいのか悩んで、出た一言はそれだった。
きっと自業自得もあっただろう。それでも、彼女なりに足掻いた結果がそれだったなら、それは地獄だったに違いない。
僕の言葉にチェシャ猫はこちらを見る。その目は驚いているように見えた。
「馬鹿な女って言わないの?男のくせに」
「なんでも男女に括るのやめましょうよ。大変だったのは間違いないんだし、これから変えたらいいじゃないですか」
話を聞く限り、チェシャ猫は随分と男女という枠組みに強いこだわりがあるようだった。それも重度の男嫌い。男性を馬鹿にして、見下しているのに身体を安売りしてしまったりするほどに寂しいのだろう。それは酷く矛盾しているのに、誰しもが持ちうる矛盾のようで、分からないこともなかった。
僕の母が僕に娘然とふるまうように強要されていた時、僕も女性らしく、世間が考える女性像のテンプレートに収まろうと努力していた。チェシャ猫がそうした男女の枠組みに拘り、それに収まろうとするのは、彼女が生きてくる過程の中にその要因があったのではないかと思えたのだ。
「くそ…若造に諭された…悔しい…」
チェシャ猫は苦笑いしながら起き上がると、大きく伸びをする。飛び去っていたコウモリがバサバサと室内を大きく回りながら、僕の角へと戻ってくる。再び彼は僕の角に逆さまにぶら下がり、小さく鳴いた。
「ねえ、アンタの名前は?アタシはチェルシー。小さい頃に好きだったお菓子の名前からとったの」
不意にチェシャ猫が僕に振り返って笑った。そういえば、僕は彼女の名前をずっと知らないでいた。
「僕はアスカです」
「アスカかあ。カッコイイ名前じゃん。アタシも自分の名前もう忘れちゃったけど、そういう名前だったのかな」
チェルシーは自分が独占していたソファに詰めて座ると、自分の隣をとんとんと叩いて示す。恐らく、隣に座れという意味なのだろう。
何度もどっきりに遭っている身からすれば、なんだか座りずらいのが本音だが、今の彼女がそんな変なことを仕掛けてくるようにも思えない。僕はチェルシーと距離を開けてソファの端に座ると、彼女はその隣で窓の外を見やる。
窓の外では相変わらずミズキやフロージィたちが穏やかな表情で何か話していた。
「アスカやオットーが話す愛情って、アタシよく分かんないの」
「オットーさん?」
窓の外を眺めながら話すチェルシーの口から出た友人の名前に僕は首を傾げる。彼女は窓枠に肘をついたまま頷いた。
「あれから何度もアプローチに行ったんだけどさあ…もう寝ることもないし、寝たってお前は満たされないだろって。話したりするだけじゃダメなのかとかさ。よくわかんないの。どういう原理なんだろ」
それではお前は満たされないというイディオットの言葉は、とても難しいようで僕には何となく分かるような気がした。それと同時に、彼らしいなとも思う。僕は思わず少し笑ってしまう。
「何笑ってんのよ」
「あ、いや、ごめん」
ムッと口を尖らせる彼女に僕は小さく咳払いをする。
「チェルシーさんはもっと深い繋がりが欲しいんじゃないかなって、僕は勝手に思ってるんですけどね。もし、僕がオットーさんに似ていると言ってくれているなら、僕も彼と同じ意見です。あなたが求めるそれは、確かに身体では埋められないなって」
イディオットの悪評は湖を渡ったここではかなり聞くものだが、彼は僕がこの世界で生きていく上で大きな指標になっている。そんな彼に似ていると言われるのは少しばかり恐縮するが、何よりも光栄な話だと思った。
そんな彼と同じように語るとすれば、それは恐れ多いような気もするが、僕は僕で考えた話をそのまま続ける。
「気持ちが寂しい時に身体を重ねると、それはもう物理的に一体化するわけじゃないですか。そうすると、相手がとても近い場所にいて、なんなら身体の一部になる。それが寂しさを埋めている気にさせちゃうんじゃないかなって、僕は思います。憶測ですけどね」
僕自身、ミズキがこうして自分の気持ちから離れていくことにこれだけの寂しさを覚えている。僕とミズキに関しては精神的な同一化であるが、それが物理的にあっても何もおかしくないのではと考えていた。
僕は誰かとそういうことをしたことがないが、きっとそれは物理的な距離が物凄く近いせいで寂しさが紛れるのではないかと思う。そんな近かったものが離れていったら、きっと寂しい。セックスなんて、長くてせいぜい数時間だろう。そんな短い時間でくっついて離れてを繰り返したって、結局最後に残るのは寂しさだけだ。
「分かったようなこと言うじゃん。童貞のくせに」
「童貞で悪かったな」
途中まで感心したように話を聞いていたチェルシーがニヤニヤ笑いながらチャチャを入れる。それに苦笑いで返すと、彼女は大きく鼻で溜息を吐いた。
「…そう、寝てる時はいいんだよ。それが終わって、相手が離れていくと無性に不安になっちゃう。その背中が凄く遠くなったような、もう帰って来ないようなさ。だから、自分が身体を差し出して、寄ってくる男の数で自分の価値を確かめるの。今日のアタシも誰かに必要とされてるなって」
彼女はそこまで話すと、僕の顔を見る。僕はただそれを見つめ返す。
少しばかり、彼女の気持ちが分かってしまった。僕が自分を醜くて汚いと思うから、都会をうろついてスカウトマンから貰う名刺の枚数で「自分は醜くない」と言い聞かしているのと、あまり変わらない気がした。
「…物理的な数って、自分の価値を自分に言い聞かす材料としては分かりやすいですからね。でも、チェルシーさんはそんなことしなくても綺麗ですし、素敵な人ですよ」
面と向かって好意を伝えたり、悪態を吐けるのは裏表がなくて明快だ。そこは彼女の長所であり、派手ではあるが確かに彼女はそれを抜いても綺麗な人だった。日頃から美容に気を使ってきた賜物だろう。
少しだけ笑った僕をチェルシーはじっと猫のような大きな目で見つめ、口をへの字にして頬をほんのり赤らめる。
「…あっそ、ありがと」
照れ隠しなのかわざとらしいくらいにそっけない感謝を述べると、彼女はまたニヤリと笑って僕の額をつつく。
「でも、アスカクンはミズキチャンと懇ろにならなくても、彼女が自分を必要としてくれているのが分かるからそんなことが言えるのさ。オットーと同じ、自己肯定感高め。でも、彼女がいなくなったら、アンタの自己肯定感は誰が満たしてくれるのかな~?」
ニヤニヤと笑うチェルシーに僕は目を伏せる。それは彼女の言う通りだ、ぐうの音も出ない。
ミズキが一人でどこにも行けなくて、僕を頼りきってくれることが僕の救いだったのは間違いない。僕のあり方を肯定してくれて、僕に明け透けな好意を寄せてくれる彼女が、僕の寄りどころだった。
それが、今はこうして話すことすら出来ない。どれもこれも自分が蒔いた種。僕が彼女に依存するから、彼女に依存を許したから、離れようにも離れられない。掛けたい言葉が浮かばないから、こうして今も彼女に話しかけることはおろか、部屋の窓から眺めているだけ。
心のどこかで僕はまたミズキに甘えている。ミズキなら僕の気持ちを言わずとも分かってくれるんじゃないかって、ありもしない展開をただ夢見て、期待してるのだ。
「話しかけに行ったらいいじゃん。そんなに身体に依存しなくても大丈夫って言うなら、アタシにそれを証明してよ。オットー譲りの口達者で、熱苦しい意志で、あの子のハート掴みとって来いよ。男なんだろ!」
僕の額に付けていた人差し指を丸め、チェルシーは僕の額を指先で弾く。パチンと軽い音。アマネのそれとは比べ物にならないほど軽いものだが、彼女の長い爪が刺さって痛い。
自分の額をさする僕に、チェルシーは再びニヤニヤと笑った。
「アンタはいらないって言うかもしれないけど、ここで未来を予言してあげる。ぼんやりとしか分からないけど、アンタはこれから彼女の意思に沿うか沿わないかの二択を選ぶしかなくなる。アンタが今の意思を曲げる気がないのであれば、近いうちに痛い目を見るよ。そのもっと先をアタシは知らないけど」
「それは、僕がミズキにどう話しても拒絶を示すと言うこと…?」
嫌な予言だ。僕が恐る恐る尋ねると、彼女は笑みを崩さずに首を横に傾けた。
「さーあ?アタシはちょこっと未来が見えるだけ。アンタが苦しんでいる姿が見えたから言っただけだよ。どっちかと言うと、なんか血生臭い感じだけど」
「めちゃくちゃ物理的に痛い目見てるやつ」
血なまぐさいと聞いて安心したような、身の危険を感じるような複雑な心境だ。苦虫を噛みつぶしたような顔をする僕に、チェルシーはゲラゲラと笑った。
「自分で選択して、自分の足で歩きたいんでしょ~?試練だと思って頑張んなよ!アスカクンのちょっとイイとこ見てみたい!ハイハイ!」
子供をからかうように手拍子をしながら彼女はひとしきり笑うと、ふうと息を吐いて彼女は笑みを浮かべた。
「ミズキはアンタが思ってるより、アンタのこと考えてるでしょ。アタシ、ここ数日しかミズキと話してないけど、挙動不審なだけで悪い子じゃないと思うよ。変に勘ぐるくらいなら、自分でちゃんと話しなよ」
そう言いながら、チェルシーの身体が透けていく。
「アンタが言ったこと、証明してくれるの遠くから見て待ってるから。少年よ!大志を抱け!どう動いたって構わないけど、ちゃんと自分の言葉に責任持ってよね」
残った口元が歯を見せて笑う。その歯も次第に背景に溶け込むように消え、初めて会った時と同じような静寂が残った。
僕はしばらくチェルシーがいたところを見つめていたが、先ほどまで彼女が座っていたソファに手を乗せても、そこに体温はない。本当にその場からいなくなってしまったことを確認し、僕は再び窓を見た。
窓の向こうのミズキとフロージィたちは散歩を終えたのか、城の中へと戻っていくのが見えた。
確かに彼女の言う通りだ。伝えたいことがまとまったなら話しに行くべきだ。ただ期待するだけではダメなのを、僕はよく知っているはずだろう。
ちゃんと僕が彼女を想っていることを伝えよう。現実に帰りたい理由も、ミズキありきの未来だからこそだって。黙っていたら、誤解しか生まれない。
「…よし、行こう」
意を決して僕が立ち上がると、角にぶら下がっていたコウモリが飛び立ち、僕のすぐ隣でアイドリングをする。つぶらなその瞳と目が合う。その目が僕をどう見ているのか分からないが、僕はただ彼に向かって頷いた。
コウモリを連れ、部屋を出てミズキたちがいる方へと歩き出した。赤い絨毯を踏みしめ、白い廊下を足早に抜ける。いつもながら長い廊下だが、それを抜けるとミズキとフロージィ、その周囲で遊び回る双子たちは中庭へ向かう途中だったのか、僕の姿を見つけて足を止めた。
「ちょうどいいところに。今からお茶の時間にしようと思っていたんだ。今日はアスカとも是非話をしたいと思っていたから声を掛ける手間が省けたよ」
フロージィがそう言うや否や、双子たちがわらわらと僕の周囲へと集まる。彼らに手を引かれ、4人の元へ合流した。
ミズキが僕を見つめ、目が合うと迷ったように目を伏せる。僕も自分の顔が強張るのが分かった。
でも、話さなければ。僕とミズキは双子のようにはなれないから、ちゃんと口を通して話すんだ。
「声を掛けようとして下さってありがとうございます。ご一緒させて下さい」
フロージィに会釈をすると、彼女は赤いまつげに囲まれた目を細めて頷く。
「かたくるしいー」
「かたいなー!」
僕の右手にはメベーラ、左手にはドゥエル。彼らはあっけらかんと笑いながら中庭へと手を引いた。ミズキと気まずくなってから双子とは話したことは何度かあったが、僕が部屋に引きこもっていたせいでシュラーフロージィと話すのは久しぶりだ。
初日のように中庭に配置された丸テーブルへと案内される。昨日と同じ配置、同じような時間帯。日の光が眩しいほどに差し込むその場所で、僕はミズキの隣の席に着いた。
双子たちの手で紅茶が運ばれてくる。今日の紅茶は花のような甘い香りがした。
「あれからミズキと話をしていたんだけど、やっぱり君は現実に帰りたいのかい?」
ミズキに話しかけようと思っていると、先に口を開いたのはフロージィだった。どうしようかと思い、ミズキを見ると彼女はチラと僕を一瞥するものの俯いてしまう。
「ああ…まあ、そうですね…」
何と答えようかと迷ったが、フロージィを無視してミズキと話すわけにもいかない。当たり障りない答えを返すと、彼女は穏やかな笑みを浮かべたまま小首を傾げた。
「なら、もうミズキに関わるのはやめてくれ。ミズキは夢から目覚めたくないそうだから」
フロージィの言葉に僕は目を見開く。僕がいない短い時間でどうしてそうなってしまったんだ。ミズキの顔を見るが、彼女はやはり僕を見てはくれない。
ふと、その時に僕はミズキの姿に変化が起きていることに気付く。彼女の黒くて長い髪の毛の先が、グラデーションのように金色になっているのだ。
「待ってください…なんでそんな話に?ミズキは僕と一緒にいたいって言ってくれたから、僕は現実でも末永く…」
「それはあくまで、君の意見なんじゃないかな?自分の気持ちを押し付けるのは、三月兎と同じだ。君はミズキの意見を聞いたことがあるかい?」
赤いまつげの隙間に見える水色の瞳がじっと僕を見据える。その瞳は微笑んでいるようで、好意的には見えなかった。
「ねえ、ミズキ、本当にそうまでしてこの世界に残りたいの?僕と一緒にって話してくれたのは、嘘だったの?」
頭が混乱する。心臓がバクバクと鳴り、手が震えた。思わずミズキの膝の上にある彼女の手を握ると、彼女の手は随分と冷たくなっていた。
「一緒にいたいよ…でも、アスカは私に何も話してくれないでしょ…?」
ミズキが目を合わせないまま、震えた声で返事をする。僕はそれに首を大きく横に振った。
「話せなくてごめん!なんて伝えたらいいか分からなくて…でも、今なら説明できる!説明できるから、話を聞いてくれよ!」
今までに出したことのないような大きな声が出た。それに驚いたようにミズキは身を竦め、双子たちがじっと僕を見つめた。
「アスカ、怖いよ」
双子たちが声を揃えて言う。その言葉に僕の身体が凍りつく。
何故、こうなってしまったんだ。何が起きているんだ。誰に自分の気持ちを話せばいいのか分からない。自分に集まる視線に、僕の身体から嫌な汗が伝った。
「僕はただ、現実でミズキとずっと一緒にいたいんだ。こんな不安定な世界じゃなくて、現実に帰って、また一緒に…」
「私はアスカと一緒にここにいたい。アスカの気持ちと何も変わらないよ」
僕の言葉に、ミズキが僕の手を払う。何が起きたのか分からず、呆然とする僕を見てミズキは眉根を寄せた。その表情は珍しく怒っているように見えた。
「でも、私は最初から現実に帰りたいとは言ってない」
「そんな、一緒に頑張ろうって…」
「あの時に私が賛同しなかったら、アスカは私と一緒にいてくれなかったでしょ…?」
僕は彼女とのやりとりを思い返す。確かに彼女は現実に帰りたいなんて言っていなかった。だけど、僕は彼女と自分の気持ちに相違がないかを確かめてきたはずだった。なのに彼女は僕に合わせてるだけだったということになる。
そんな仕打ちはない。話し合っていこうって、僕は言ったはずなのに。
「置いてったりなんかしないよ!そんな薄っぺらい気持ちで傍にいたんじゃない!」
「だって、私が帰りたくないって言ったって、アスカは現実に帰る大事さを話し続けるだけだもん!アスカの意見はいつもまっとうで、言い返す隙がないから怖い。私なんかすぐ流されてしまう」
初めてミズキが僕に声を荒げて反論した。思ってもいなかった。彼女が僕のことをそんな風に思っているなんて、夢にも思ってなかったのだ。
言葉を失って、ただ僕は呆然と立ち尽くす。
そんなに僕は怖かっただろうか。僕は、僕なりに彼女の意見に譲歩して旅をして来たつもりだった。でも、言われてみれば、ここまで来るのにミズキは何度も自分の意見を曲げて来ている。
森から出たくない。人と話したくない。僕と二人だけでいたい。現実に帰りたくない。どれもこれも間違いなく彼女の要望であり、それを全て押し切ってここまで来たのは他ならぬ僕だ。だけど、そんな希望を叶えてしまっては、どこにも行けない。だから説得した。
納得してもらった気でいた。きちんと説明した気でいた。
それが、怖かったというのか?じゃあ、僕はどうすれば良かったんだ?
「そんなの…だって、ミズキがあんまり自分に自信がないから…守りたかったんだ」
「アスカのその気持ちは本当にミズキを想っているから出るのかい?」
フロージィの言葉に僕は首だけで振り返る。彼女は傍らについたステッキに両手を乗せ、僕に向けて小首を傾げる。
「現実に帰らないことを望んでいる人に、自分が帰りたいという希望を押し付けていることに変わりはないだろう?君が守っている気でも、その保護でミズキの人生は本当に良いものになるという確信はあるのかい?ただ、君が現実にミズキを連れて帰りたいという我儘である可能性を考えたことは?」
彼女の口から並べ立てられる多くの疑念に僕は思わず席を立つ。ミズキを見ると、彼女はただ黙って僕を見上げている。その表情に好意的なものは感じられない。他の四人と同じような、僕を疑う眼差しだ。
彼女を守っている気で、それはただの僕のエゴだったということなのか?
言い訳にその言葉を使っているんじゃないかと、頭の隅でもう一人の自分が言う。守ってほしいなんて、ミズキは言っていない。守ろうと思っていたのは、僕の一方的な気持ちだ。
頭が痛んだ。昔にもこんな光景をどこかで僕は見なかっただろうか。
「ここでなら私がアスカを守ってあげられる。私が絵に起こせば、何でも生み出せる。アスカの望みを何でも叶えてあげる」
ミズキの髪色が少しずつ毛先から金色に染まっていく。白に近い美しい金色の髪、水色の瞳。それは小さい頃に本の挿絵やアニメで見たことがある姿だ。
不思議の国のアリス。金色の髪と水色の瞳をしたその少女は、童話の主人公だ。
「ミズキは帽子屋だと自分のことを思っていたみたいだけどね、彼女はアリスだ。この世界を作った張本人」
フロージィは笑みを浮かべたまま、ミズキを手で指し示す。
ジャッジが連れている雨の中で、止まらずに動いて話せる数少ない配役。絵の具さえあれば何でも作り出せる能力は、確かに帽子屋を名乗るには万能すぎるとは思っていた。それでもジャッジは、今自分が話せるのはジャバウォックと帽子屋だけだと話していた。
あの時にジャッジは自分と話せる配役に、どうしてアリスを省いたのか。ミズキ自身が自分をアリスだと認識していなかったからなのか。彼女が自らを帽子屋だと思い込んでいたからなのか。
「アスカ、君が考えていることだけが、必ずしも本人にとっての幸せとは限らないよ。人には選択の権利があり、その選択肢はあまりに多い。君の気持ち一つで全てを決定するのは、おかしいんじゃないだろうか」
フロージィの言葉に僕は息を呑む。彼女が話すことは何も間違っていなかった。全て正論だ。
「でも、そんな…」
それでも、彼女たちの言葉が僕には飲み込めない。言葉にならない違和感がもやもやと胸の中で溜まり、黒い渦を巻くようだった。
「私はここにいたい。だから、アスカも一緒にいようよ。辛い現実にわざわざ戻る必要なんかないでしょ?」」
ミズキが僕の手を取る。さっきまで僕が彼女にやっていたように。
こんなに短時間で、気が付くと僕とミズキの立場は逆転していた。まるで言うことを聞かない子供を諭すようにミズキは困ったように眉をひそめて僕を見ている。
「…ミズキが突然、目覚めてしまったらどうするんだよ…」
「目覚めないよ。ずっと眠ってる。私が眠っている限り、ここはずっと続くよ」
呟くような僕の反論に、ミズキが静かに首を振る。
本人が望む限り、ずっと続く夢の世界。そこに居座ることが本当に幸せなのだろうか。
確かに、ミズキからすればこの世界は自分が作り上げた世界だ。僕の感性とは違う。彼女には不安も何もない。この世界は全て、彼女のさじ加減一つでどうにでもなるのだ。
それなら、この世界は現実と変わらないのではないか。未来永劫続く、自分の生きる場所こそを現実と定義するのであれば、ミズキにとってはどちらも同じだ。彼女が望む限り、世界はなくならないのだから。
「…でも、こんなのおかしいよ…」
ミズキの手をぎゅっと握る。手と手が触れ合う距離なのに、なんだか彼女が酷く遠くにいるような気がした。
「ここはミズキが作った世界なんだろ。ミズキは現実のこともよく覚えていないのに、どうして作ったの?そんなに現実は辛いの?そしたら、この世界が嫌になった時にどうするんだよ。また眠って新しい世界を作るの?そうしたら、僕はどうなるの?」
「それは僕がサポートするよ」
フロージィが僕の言葉をさえぎるように言う。呆然とする僕に、彼女は穏やかな笑みのまま双子たちに何か耳打ちをした。
「ミズキ!先に部屋に帰ろ!あとはフロージィが何とかしてくれるってさ!」
ドゥエルが立ち上がり、僕が繋ぐ手と反対のミズキの手を取る。彼に促され、ミズキが僕の手を離す。それでも、僕だけは彼女の手が離せなかった。
「待てよ!まだ話は終わって…」
言い終わる前に、ミズキの手にすがる僕の手をメベーラが叩き落とす。
「レディが嫌がってるなら、ちゃんと離さないとダメよ」
僕からミズキの手が離れていく。僕が掴んでいたミズキの手をメベーラが取り、双子たちはミズキを連れて中庭から出て行く。
「アスカ、ずっと待ってるから」
双子に手を引かれながらミズキが僕に振り返って言う。
ずっと待っていると言うのは、きっと僕が彼女の意見に同意するのを待つという意味だろう。ミズキに同意することが出来ない僕はその言葉への返事が思いつかない。
中庭を出て行く。小さくなっていくミズキの背中を、僕は追いかけるべきだったのかもしれない。でも、僕の足は動いてくれない。つい昨日まであんなに近しかった人たちがどうして皆、離れていくのかが僕の頭が理解してくれなかった。
「…さて、二人だけになったね」
相変わらず丸テーブルの椅子に腰かけたまま、フロージィが紅茶をすすった。僕はその場に立ち尽くしたまま彼女を見る。僕の気持ちなどまるで気にしてないように、フロージィは何も態度を変えない。
「僕としては、君のようなジャバウォックがこちらの味方をしてくれるなら、それほどありがたいことはないのだけど…このまま君が意見を曲げないのであれば、この城に置いておくことは難しいな」
「…ミズキに何を話したんだ」
手がぶるぶると震えるのをごまかすように拳を握りしめる。僕の声はどうにも震えていて、大きな声が出そうになるのをこらえると喉が痛んだ。
「なんということはない。ミズキの配役が帽子屋ではなく、アリスであると伝えただけだ。彼女は自ら望んでこの世界にいて、今現在幸せに暮らしている。それなら、その生活を維持しようとするのは、決して悪ではないと僕が考えたことを話した」
彼女は僕の表情を見て肩を竦める。
彼女が見ている僕の表情がどんなものなのかは分からない。分からないが、きっと今の僕はとても醜いということだけは分かる。怒りに顔をゆがませる自分ほど、汚い絵面はない。
「ミズキをサポートすると言ったのは嘘ではない。僕にはそれが出来る。眠り鼠の能力は、本人が望んだ記憶を任意で眠らせる力だ。ミズキにとって嫌な思い出があり、ミズキ本人がそれを忘れたいと願うなら、僕はその記憶を眠らせることが出来る。本人が思い出したいと願う日までね」
記憶を眠らせる…平たく言えば忘れさせるということだろう。そこまで言われて、僕は初めて出会ったミズキの話を思い出す。
彼女はあの森で僕と出会うまでのことを覚えていないと言った。だから、僕はミズキがこの世界に来て間もない人間なのだと思い込んでいたのだ。
5年以上も前からあるこの世界は、アリスがずっといるから存続している。そのアリス本人が記憶を綺麗に忘れ去ることが自力で出来るだろうか。そんなこと、出来るわけがない。
「最初からあなたはミズキがアリスだと知っていて、そのアリスの記憶を消していたのか。だから、こんなに簡単に僕らを城に招き入れたのか」
「僕とミズキの仲だ、と話しただろう?僕とミズキは共に最初のお茶会で同じテーブルを囲み、今に至るまで僕らだけが生きている。知らないわけがないじゃないか」
さも当然と言いたげに彼女はクスクスと笑う。
「記憶を消すのも、別に今回が初めてじゃないさ。彼女がこの世界の辟易する頃、不思議と必ず僕の城へとやって来る。現実も、こんなも世界いらないと嘆く彼女の記憶を、僕は本人の同意の元で何度も眠らせてきた。だから、彼女がこの世界をやめる日なんて来ない。ここが彼女の現実なんだから」
「ミズキの現実の記憶も、あなたが眠らせたのか?本当にそれがミズキにとって幸せなのか?」
「知らないよ。でも、僕の能力はあくまで相手の同意がなければ発動できない。少なくとも彼女本人が望むから、僕はその願いを叶えただけ。僕もこの世界が好きだから、作ってくれたアリス…ミズキにはこれでも感謝はしているんだよ」
フロージィの話を聞きながら、僕は言いようのない不快感を覚えていた。
本人が望んだことを肯定するだけが愛情だろうか。本人が泣きながら、もうこんな世界は嫌だと苦しむのを見届けて、その記憶を消すだけが優しさだろうか。そこで彼女が苦しんだという事実は何も変わらないのに。
「しかし、あれだけ何もできなかったミズキをここまで成長させた君には驚いたよ。君は本当に根気強い…いや、君もミズキを利用したに過ぎないのかな?君もそんなに立派なジャバウォックになっている。ミズキへの執着を見る限り、君もかなり彼女に助けられたんだろうね」
バサバサと中庭を舞っていたコウモリが僕の背後にとまる。しがみつくように止まったその小さな重みが、ミズキではなく僕の元にあったことに驚いた。
「配役持ちの姿が変わる理由を知っているかい?配役の特徴が現れる人は皆、この世界で何かしらの変化を得た人だ。自我を持ったり、意思を持ったり、時には勇ましく成長し、時には醜くなることもあるだろう。ここは夢の世界、自分の気持ちの持ちようでいくらでも変化できるんだ」
背中にしがみついていた小さな重みが次第に大きくなっていく。地面に落ちた自分の影からコウモリとも、ドラゴンともとれる大きな翼が生えていくのが分かった。
「ここまで強く育ったジャバウォックは初めて見た。敵に回すと厄介だから、すぐにアマネに殺すよう指示を出していたんだけれど…もう遅いようだ」
フロージィは丸テーブルから立ち上がるでもなく、僕の姿を眺めて微笑む。自分の背中に新しく生えた翼を動かすと、風で彼女の赤い髪がなびいた。
翼には確かに感覚があり、それは僕が思うように動くのが自分の影で分かった。コウモリが僕の身体の一部になったのだろう。だとすれば、そのコウモリを作ったのは他の誰でもないミズキであり、離れた今ですらミズキが僕の成長を促していたことが否応にも分かってしまう。
きっと今の僕なら、アマネがいない今なら、目の前の彼女を殺すことなど簡単なのだろう。彼女に危害を加え、ミズキを奪い返すことも出来るだろう。それでも、双子やアマネがどう感じるのかを考えると、とてもじゃないがそんなことは出来ない。アマネの真意はともかく、双子がフロージィを心から慕っているのは、見ていて嫌ってほど分かる。
ただ行き場のない感情を抱えたまま黙り込む僕をフロージィは興味深そうに眺めると、彼女は何かを思いついたように笑って自身の唇を指先で叩いた。
「君からすればとても理不尽だろうに、襲いかかって来ないなんて理性的だ。だから、僕から条件を提示しようか」
紅茶を飲み干し、フロージィはようやく椅子から立ち上がる。ステッキを片手に僕へと歩み寄ると、彼女は僕を見上げて人差し指を立てる。
「一つは君が先ほどから拒絶を続けている案になってしまうが、この世界で一緒に暮らしてくれることだ。もし、それを呑んでくれるのであれば、この城での衣食住は保証しよう。ミズキの傍にいられるよう、僕も協力する」
続けてフロージィは人差し指に並べて中指を立てる。
「もう一つはこの城から去って、ミズキを諦めてもらうことだ。双子たちが君を殺さないでくれと言っていた部分も加味して、アマネに出した君を殺さないという指示は撤回しないでおく。代わりに、ミズキの傍には寄らないでくれ。お互い、利にならない争いは避けよう」
フロージィは首をゆっくりと傾けて僕を見る。
「アスカ、君ならどちらを選ぶ?」
ミズキの傍にいるために、この世界でずっと暮らすことに同意するか、この城を去って彼女から永遠に離れることを約束するか。どちらも僕からすれば同意しがたい。僕は拳を握ったまま、地面を見つめる。
ミズキと話がしたかった。本当にミズキがこうなることを心から望んでいるのか、彼女自身の口から答えが欲しかった。二人で話した時間が短すぎる。
でも、彼女はもういない。話そうと言ってくれた彼女を拒絶してしまったのが悔まれた。
あの時、どうして僕はもっと彼女に言葉を尽くして話そうとしなかったんだろう。夕飯時にも、今日の朝にも、彼女と話す時間はあったのに、意見がすれ違ったことにただ不貞腐れて僕は口を閉ざしてしまった。
「…僕はミズキとお別れなんてしたくない。でも、この世界でも暮らせない」
現実から逃れるために作られた世界で、彼女が何かに躓くたびに記憶を失う姿なんて僕は見たくない。それが彼女の本当の幸せだなんて、どうしても僕には思えなかった。
「僕は現実にミズキを連れて帰るよ。彼女ともっと外の世界を歩きたい。ここだけじゃなくて、本当に自分たちが生きている世界で」
「つまり交渉決裂だ。敵になるかもしれない人物に何かを譲歩することは難しい。僕の国には、僕が守らなくてはならない人々が沢山いるのだからね」
フロージィは目を閉じて、深い溜息をつくと中庭の外へと歩き出す。
「…君がここで僕を襲わないでいてくれたことへの感謝を込めて、今日はまだアマネに君を殺さないよう伝えておく。明日からは保証しない。早くここを去るといい」
そう言い残し、フロージィは中庭から出て行く。取り残された僕は、ただ大きくなっていく自分の影を見ながら黙っていた。
日の光が傾き、中庭に差し込む光がオレンジ色になっていく。
その色はいつかにミズキと一緒に見た朝焼けによく似ていた。
部屋を分かたれてから、僕とミズキが話す機会は急激に減った。僕がちゃんと話さないからなのもあるが、僕が話しかけない限り、ミズキが話しかけて来ないというのもあった。
城に来た日の6日後の朝、僕は窓から見える薔薇の庭園を眺めて溜息を吐いた。僕の視線の先には、庭園を並んで歩くミズキとフロージィの姿、そして、それを楽しそうについて回る双子たちの姿があった。
あれからミズキと僕が二人一緒にいる時の空気は最悪だった。食卓に呼ばれても僕はミズキの顔を見ることが出来ず、ミズキはチラチラと僕を見るものの声を発さない。賑やかな双子たちの会話と、それを相手するフロージィの声だけがある、気まずい空気を作り出してしまっていた。
気まずい空気に耐えられず、僕はただ口を閉ざして今日まで部屋に引きこもり続けている。
何故、ここまで気持ちが沈むのか分からないとは言え、自分でも大人気ないと思う。それでも、口を開けば彼女を否定する言葉が自分の口から出てきそうで、飯を食べる以外で口を開く事が出来なかった。
何気ない会話くらいすれば良かったのに、それすら出来なかった。思い出すだけでも恥ずかしくて、穴があれば入りたい気分だ。
そのくせ、こうやって窓から4人が楽しそうにしているのを見ていると面白くない。自分の考えに感情がついていかないのだ。
「コウモリくんはミズキのところに行かなくていいの?」
頭の角に逆さまにぶら下がるコウモリに尋ねると、彼は興味なさそうに欠伸をする。
きっとコウモリも僕の気持ちを察しているのだろう。本当に自分が嫌になってしまう。なんて卑屈なんだろう。
言わなくても伝わる、相手が自分を肯定してくれる。そんな心地良さが、ミズキのそばに居る間に当たり前になっていた。彼女は僕とどんなに似た趣味趣向を持っていようと、考えが似てようとも、別の人間であることを忘れかけていたのだ。
僕は最初、ミズキが当たり前のように、自分と同じく現実に帰ることを前向きに考えてくれていると思っていた。それを、ミズキが僕と2人きりでいることを強く望むようになってから、少しずつ疑うようになり、ついに彼女がそれを望んでいないと知ってしまった。それも、彼女自身の口から明白に告げられる形で。それに対し、僕が抱いていた感情は、裏切られた時のような落胆や失望に限りなく近かっただろう。
自分の身体の一部だと信じ込んでいたものが、少しずつ僕の身体から離れていき、急に剥がれ落ちてなくなってしまったような。そんな喪失感。ミズキは僕の半身であり、生涯離れないものであると、思っていたかったのだろう。
愚かだ。僕とミズキはあの双子のように心で会話することも出来ないし、産み落とされた場所すら違うのに。
「ねーえ、なんでそんなにヤキモチ嫉妬むんむんで話しにいかないの~?」
突然聞こえた声に視線を隣に流すと、至近距離で猫のような瞳と目が合う。鼻と鼻がぶつかりそうなその距離に驚き、慌てて後退すると、僕は窓を見るために座っていたソファから頭から転落する。角にぶら下がっていたコウモリがバサバサと逃げるように飛び立った。
後ろ向きにでんぐり返しをするように転んだ僕を見下ろすその猫は、ニヤニヤとした笑みを浮かべて僕を見下ろす。
「な、なんであなたがここにいるんですか!」
「だって、アタシはチェシャ猫だよ~?人目をかいくぐるのも気配を消すのも得意中の得意!フフッ、少年はまだまだ青いのう」
僕が声を荒らげると、ソファに当たり前のように座っているチェシャ猫は尻尾をパタパタと機嫌良さそうにくねらせながら、偉そうに鼻を鳴らした。
「アタシが紹介してあげた運命のおにゃのこ、気に入らなかったのかにゃーあ?随分、入れ込んでいるように見えるけど~?」
「…ミズキはそんなんじゃない」
僕は口を曲げて床にあぐらをかいて座る。声は拗ねた子供そのもので、恥ずかしいと思いつつも、明るく振る舞うなんて高等技術を僕は持ち合わせていない。
実際、拗ねているのだろう。自分でも分かる。馬鹿みたいだ。
「そんなに好きなら、合わせちゃえばいいのに。あの子の言う通りにすれば全部解決。アンタはあのサイコパスから見逃してもらえるし、あの子の隣は死ぬまでアンタのもの。そんなに不安なら契約書でも書いてもらえば?婚姻届持ってきてあげよっか?アタシの手書きで良ければさ」
チェシャ猫は笑いながら、僕がやっていたように窓枠に肘をついて外を覗き込む。その先には恐らく、まだミズキたちがいるのだろう。
「面白そうだったから、アンタたちが来た日にあの子の部屋に忍び込んで、ちょっかいかけてきたんよ。女子同士だし、恋バナとか~!あの子、人見知りだけどユーモアセンスもあるし、ちょっと天然入ってて和むよね~!アタシも好き」
ペラペラとよく回る舌でチェシャ猫は1人で勝手に喋る。僕は何故だがそれすら不愉快で、ムッと口を曲げてそっぽを向く。
視界の端に映る彼女は相変わらずニヤニヤとした笑みを浮かべたまま僕を見つめ、ゆらゆらと尻尾を揺らす。
「なーんでアンタはそんな釣れない態度とるの?ツンデレ目指してんの?ミズキチャン、アンタにズブズブだよ~。お砂糖吐きそうなくらい、アンタが好き。満更でもないくせに~」
僕が好き、という響きに僕の曲げていた口の端が上がる。それが悔しくて僕は更にそっぽを向いて口を手で隠す。
好きなんて言われても、ミズキ本人の口から聞いたわけでもないし、意見が食い違っていることには間違いない。喜んでなんかない。そう自分に言い聞かせる。
そんな僕にチェシャ猫は呆れたように溜め息を吐いた。
「あーあ、痴話喧嘩とかアホくさ。ラブラブな人は悩みが小さくていいよね~」
「だから、そんなんじゃないんだって」
心底馬鹿にされているのはさすがに分かる。僕は眉間に皺を寄せて声を低くする。
「ミズキのことは恋愛どうこうとか思ってないんだ。本当に、ただ人として好きで傍にいたいだけ」
「とか言って、キスしたり、ヤることやってんでしょ?」
「やってない!」
僕は思わず声を上げる。事実、僕はミズキと手を繋いだりはしたが、それ以上のことはしていない。
男女だからといって、恋愛に関する行為で全てを括られなければならないなんて変だ。そんなこと関係なく僕は彼女が好きなだけ。その好意を否定されたようで無性に腹立たしかった。
「何で好きならキスやセックスをしなくちゃいけないんだよ。しなくたって、仲の良い人たちはいるでしょう?家族を愛するように誰かを愛したら悪いんですか」
学校のクラスメイトたちがハグで喜びを分かち合うように、家族の手を引くように手を繋いだりすることは、性別も血縁も関係なく皆がするものだと僕は認識している。
恋人だから、男女だからと、そんな枠組みだけでミズキと僕の関係を勝手に決めつけないで欲しかった。
僕の怒りが伝わったのか、チェシャ猫は少し目を丸くしたが、大きな欠伸をしてソファに寝転がった。
「はーあ!つまんな~!アンタもあの馬鹿兎と一緒だ!何が愛だ!1番じゃなきゃ意味ないのにさ!」
イライラしたように尻尾を大きく左右に振りながら彼女は目を閉じた。
「アタシならその1番、喜んで貰うのにさ。好きな子とずっと2人きりで愛し合って平和に暮らすなんておとぎ話レベルの奇跡じゃん。アンタさえ彼女を受け入れれば、ここは間違いなく楽園になるよ。その有難みが分からないなんて、アンタも馬鹿。馬鹿トカゲ」
「そんな狭い世界、いつか壊れるに決まってますよ」
呟くように反論し、僕はふと気が付く。
そうだ、こんな夢の世界はいつかなくなる。崩れるに決まってる。知らないどこかのアリスが作った箱庭は、自分が作ったものじゃないのだから、いつか必ず困難に直面する。アリスと僕たちの思考は別物なのだから。
ここは確かに楽園だ。ミズキと出会った日から、ミズキがいる場所が僕の楽園。
キャンプ地を離れた時から、僕はずっと続く楽園を探しているんだろう。ここはキャンプ地と同じ、第二の儚い理想郷。そんなこと、5日も考えれば僕だって理解できる。
だけど、僕は納得できないんだ。僕は欲張りだから、ミズキが大好きだから、そんな儚い場所を楽園と呼べない。
「なんでそう言いきれるのさ。4年も続いてるらしいじゃん、この世界」
「たったの4年です。アリスがある日突然、この世界をやめると言い出したら?アリスが死んだら?どの道、この世界が未来永劫続くわけないんですよ。現実を諦めて、夢にばかり逃げてたら、突然訪れた現実に適応できるわけない」
チェシャ猫の問いに僕は返答する。僕の言葉に彼女はチラと視線をこちらに寄越すと、眉間にしわを寄せた。
「眠り鼠の女王がなんとかしてくれるでしょ」
「三月兎はそれをきっと許さない。いずれ大きな戦争が起きる。どっちが勝っても負けても大勢が傷つく」
誰かに頼りきって、自分で選択することをやめたら、その後に起きたことに対処なんか出来るわけがない。
頼りきって全てを失ったその時、僕らはきっと考えることをやめているだろう。ミズキと2人きりで内にこもっていたら、2人とも破滅するだけだ。
「僕は…ミズキに傷ついて欲しくない。一緒に立って、歩いて、支え合いたい。だから、僕はミズキと一緒に現実に帰りたいんだ」
話しながら自分の思考が整理されていくのが分かる。そうだ、ただ僕はミズキと自由に生きていきたいのだ。
僕らが生きているのはこの世界じゃない。現実だ。きちんと未来がある世界で、僕は長く長くミズキと寄り添うように生きていきたいだけ。
「楽園は自分で築いていくものだと思うんです。誰かに作って貰うものじゃない」
甘ったれていたら、自分の足で歩けなくなってしまう。その場の空気に合わせて、自分が思ってもないことを口に出して生きていても、いつかツケを払う日が来る。
現実で生きてきた自分がそれを証明している。みんなの意見に合わせてばかりいて、その場その場の空気に馴染むことばかりを選んできた。その結果が、この世界に来たばかりの僕だ。
中身のない空っぽ。着る服すら自分で選択できない、息苦しくて、不自由で、何もない臆病な僕。そんなのはただの傀儡だ。そんな状態で生きることなんか出来やしない。
ミズキにはそうなって欲しくない。彼女を通して、僕は初めて本当になりたい自分に出会えた。自分を認め、人の愛される喜びを、人を愛することを知った。そんな僕は、現実で生きてきた今までの中で間違いなく一番自由だ。
僕は彼女にただ、自由に笑っていて欲しかっただけ。僕をここまで育ててくれた彼女に恩返しがしたい。彼女が彼女自身を認められるようになるための手助けがしたかった。
頭が痛い。ジクジクと疼くような痛み。この世界に来た時に感じたあの痛みだ。僕はこの痛みの原因が、何となく分かりつつあった。
「そんなにアンタは現実が好きなんだ?」
興味深そうにニヤニヤと尋ねてくるチェシャ猫に、僕は首を横に振った。
「…自殺するくらい嫌いです」
僕の言葉にチェシャ猫は片目だけ見開く。僕は彼女の顔を見つめ、言葉を続けた。
「現実で自殺を試みたのが最後の記憶です」
75mgの大きめの、強力な痛み止めを5シート分を一気にお酒で流し込んで、グラグラする頭で首をカッターで切った。
首は硬くて全然切れなかったから、何度も何度も同じところを抉った。絶対に死んでやるつもりだった。
途中から吐き気と目眩がして、意識が朦朧としたけど、抉り続けた。途中からカッターが神経に触れてビリビリと電気が流れるような激痛が走った。痛み止めとお酒で誤魔化しても誤魔化しきれない、経験したことのないような痛みだった。
血は何度でも固まって、身体は何とか出血を止めようとする。止められてたまるかと、浴室でシャワーを浴びながら繰り返した。次第に傷が深くなると血が固まりきれなくなって、止まらない血でシャツの上半分が血で真っ赤になった。
朦朧とする意識の中で浴室に転がって、それでも傷を抉った。生きたくなかった。死にたかった。あの時はただひたすらに早くこの不自由から解放されたいと願っていた。
頭が痛かった。ジクジクと疼くような痛み。興奮状態で首の痛みは、途中から傷を深く抉る時以外は感じなくなったのをよく覚えている。
僕の話を聞いていたチェシャ猫がソファに頬杖をつく。彼女は黙ったまま僕の言葉の続きを待っていた。
「ミズキにはそんな思いをして欲しくない。現実でも、この世界でも」
僕が見た最後の現実の風景は血まみれの浴室だ。それでも、ここにいるのはきっと現実で僕が生きているからだろう。
死にたくたって、人間の身体は案外丈夫なものだ。そんな無駄な努力なんかしない方がいい。
僕はこの世界に来てから、初めて自分として、自分の意思で生きることを知った。ジャッジやイディオット、トゥルーから話を聞いて考える機会を得た。そうしてミズキと出会い、自分らしく生きることが楽しいと思えるようになった。
この世界の僕は限りなく自由だ。現実なんかより、ずっとずっと好きに生きていける。それでも、この世界でこうして生きてこれたなら、その経験は絶対に無駄にはならない。現実に帰ったって、僕はそれを忘れさえしなければ、僕はどこへ行こうと自由になれる。
僕はきっと今のいつ崩れるとも分からない世界ではなく、ミズキと一緒に現実という末永く続く世界に帰って、辛いことも楽しいことも分かちあっていきたかったんだろう。
「…自殺までしたのに、現実に帰りたいの?」
話に耳を傾けていたチェシャ猫は不思議そうに僕に尋ねる。僕はそれに強く頷いた。
「帰りたい。帰りますよ。ミズキも一緒にね」
「わかんな~」
チェシャ猫は大きく溜息を吐いたが、先ほどよりも口調は柔らかい。尻尾を動かすことをやめ、彼女は再びソファに腹ばいになって転がった。
「…自殺したくなる気持ちだけ分かるけどね」
彼女はそのままポツリと呟くように言った。その声はどうしようもなく寂しそうな、諦めの含まれた自嘲だった。
「チェシャ猫さんは現実では何してたんです?」
彼女が僕の思考に苦しむよう、僕も彼女をまるで理解出来ない。僕が尋ねると、彼女はゴロリと仰向けに転がった。
「ホストにハマって、金を貢いでたの。輝くあの人の1番が欲しかった」
「ホスト?ホストクラブの?」
「そーそー、ウケるっしょ」
チェシャ猫は寝転んだまま笑った。
「見た目も出来るだけ綺麗にして、働いて働いて働いて…でも、ホストクラブって一晩で何十万もなくなんの。たった1本のボトルで。被りがいたら伝票で殺すしかないから、とことん金がかかんのよ。ビビるっしょ?」
ゲラゲラと彼女は笑うが、内容は恐ろしい。僕はホストクラブなど行ったことがないので、被りとか伝票とかよく分からないが、それだけお金がかかりそうなイメージは確かにあった。
「全然お金が足りないから風俗で働いて、家賃払うのも惜しくなって色んな男の家を転々とした。男って馬鹿だから、ちょっと身体明け渡すとすぐ住まわせてくれる。でも、私が些細なことで逆らうとすぐ殴るんだ。本当に男ってサイテー」
「でも、そんなに男性が嫌いでもホストがやめられないんですか?」
「やめられないよ。引き返せない。これだけのお金使ったのにさ。それに、たまに一緒に寝てくれる。その時だけは、彼は間違いなくアタシだけのものだもん」
チェシャ猫の指す「寝る」はセックスを指しているのは何となく分かる。彼女が恋愛や身体の繋がりにこだわる理由は、恐らくそこにあるのだろう。
「まあ、アタシが彼のお店でヒスったせいで関係も終わったけどさ。掲示板もSNSも炎上して嫌がらせされまくるし、お金も無いし、もう最悪。それからはずっと適当な男と寝て、その日の宿を決める感じ。だから、女の子は若いうちが花。綺麗で若いうちに早く寄生先を見つけないと暮らしていけないもん」
「…大変でしたね」
何と反応すればいいのか悩んで、出た一言はそれだった。
きっと自業自得もあっただろう。それでも、彼女なりに足掻いた結果がそれだったなら、それは地獄だったに違いない。
僕の言葉にチェシャ猫はこちらを見る。その目は驚いているように見えた。
「馬鹿な女って言わないの?男のくせに」
「なんでも男女に括るのやめましょうよ。大変だったのは間違いないんだし、これから変えたらいいじゃないですか」
話を聞く限り、チェシャ猫は随分と男女という枠組みに強いこだわりがあるようだった。それも重度の男嫌い。男性を馬鹿にして、見下しているのに身体を安売りしてしまったりするほどに寂しいのだろう。それは酷く矛盾しているのに、誰しもが持ちうる矛盾のようで、分からないこともなかった。
僕の母が僕に娘然とふるまうように強要されていた時、僕も女性らしく、世間が考える女性像のテンプレートに収まろうと努力していた。チェシャ猫がそうした男女の枠組みに拘り、それに収まろうとするのは、彼女が生きてくる過程の中にその要因があったのではないかと思えたのだ。
「くそ…若造に諭された…悔しい…」
チェシャ猫は苦笑いしながら起き上がると、大きく伸びをする。飛び去っていたコウモリがバサバサと室内を大きく回りながら、僕の角へと戻ってくる。再び彼は僕の角に逆さまにぶら下がり、小さく鳴いた。
「ねえ、アンタの名前は?アタシはチェルシー。小さい頃に好きだったお菓子の名前からとったの」
不意にチェシャ猫が僕に振り返って笑った。そういえば、僕は彼女の名前をずっと知らないでいた。
「僕はアスカです」
「アスカかあ。カッコイイ名前じゃん。アタシも自分の名前もう忘れちゃったけど、そういう名前だったのかな」
チェルシーは自分が独占していたソファに詰めて座ると、自分の隣をとんとんと叩いて示す。恐らく、隣に座れという意味なのだろう。
何度もどっきりに遭っている身からすれば、なんだか座りずらいのが本音だが、今の彼女がそんな変なことを仕掛けてくるようにも思えない。僕はチェルシーと距離を開けてソファの端に座ると、彼女はその隣で窓の外を見やる。
窓の外では相変わらずミズキやフロージィたちが穏やかな表情で何か話していた。
「アスカやオットーが話す愛情って、アタシよく分かんないの」
「オットーさん?」
窓の外を眺めながら話すチェルシーの口から出た友人の名前に僕は首を傾げる。彼女は窓枠に肘をついたまま頷いた。
「あれから何度もアプローチに行ったんだけどさあ…もう寝ることもないし、寝たってお前は満たされないだろって。話したりするだけじゃダメなのかとかさ。よくわかんないの。どういう原理なんだろ」
それではお前は満たされないというイディオットの言葉は、とても難しいようで僕には何となく分かるような気がした。それと同時に、彼らしいなとも思う。僕は思わず少し笑ってしまう。
「何笑ってんのよ」
「あ、いや、ごめん」
ムッと口を尖らせる彼女に僕は小さく咳払いをする。
「チェルシーさんはもっと深い繋がりが欲しいんじゃないかなって、僕は勝手に思ってるんですけどね。もし、僕がオットーさんに似ていると言ってくれているなら、僕も彼と同じ意見です。あなたが求めるそれは、確かに身体では埋められないなって」
イディオットの悪評は湖を渡ったここではかなり聞くものだが、彼は僕がこの世界で生きていく上で大きな指標になっている。そんな彼に似ていると言われるのは少しばかり恐縮するが、何よりも光栄な話だと思った。
そんな彼と同じように語るとすれば、それは恐れ多いような気もするが、僕は僕で考えた話をそのまま続ける。
「気持ちが寂しい時に身体を重ねると、それはもう物理的に一体化するわけじゃないですか。そうすると、相手がとても近い場所にいて、なんなら身体の一部になる。それが寂しさを埋めている気にさせちゃうんじゃないかなって、僕は思います。憶測ですけどね」
僕自身、ミズキがこうして自分の気持ちから離れていくことにこれだけの寂しさを覚えている。僕とミズキに関しては精神的な同一化であるが、それが物理的にあっても何もおかしくないのではと考えていた。
僕は誰かとそういうことをしたことがないが、きっとそれは物理的な距離が物凄く近いせいで寂しさが紛れるのではないかと思う。そんな近かったものが離れていったら、きっと寂しい。セックスなんて、長くてせいぜい数時間だろう。そんな短い時間でくっついて離れてを繰り返したって、結局最後に残るのは寂しさだけだ。
「分かったようなこと言うじゃん。童貞のくせに」
「童貞で悪かったな」
途中まで感心したように話を聞いていたチェルシーがニヤニヤ笑いながらチャチャを入れる。それに苦笑いで返すと、彼女は大きく鼻で溜息を吐いた。
「…そう、寝てる時はいいんだよ。それが終わって、相手が離れていくと無性に不安になっちゃう。その背中が凄く遠くなったような、もう帰って来ないようなさ。だから、自分が身体を差し出して、寄ってくる男の数で自分の価値を確かめるの。今日のアタシも誰かに必要とされてるなって」
彼女はそこまで話すと、僕の顔を見る。僕はただそれを見つめ返す。
少しばかり、彼女の気持ちが分かってしまった。僕が自分を醜くて汚いと思うから、都会をうろついてスカウトマンから貰う名刺の枚数で「自分は醜くない」と言い聞かしているのと、あまり変わらない気がした。
「…物理的な数って、自分の価値を自分に言い聞かす材料としては分かりやすいですからね。でも、チェルシーさんはそんなことしなくても綺麗ですし、素敵な人ですよ」
面と向かって好意を伝えたり、悪態を吐けるのは裏表がなくて明快だ。そこは彼女の長所であり、派手ではあるが確かに彼女はそれを抜いても綺麗な人だった。日頃から美容に気を使ってきた賜物だろう。
少しだけ笑った僕をチェルシーはじっと猫のような大きな目で見つめ、口をへの字にして頬をほんのり赤らめる。
「…あっそ、ありがと」
照れ隠しなのかわざとらしいくらいにそっけない感謝を述べると、彼女はまたニヤリと笑って僕の額をつつく。
「でも、アスカクンはミズキチャンと懇ろにならなくても、彼女が自分を必要としてくれているのが分かるからそんなことが言えるのさ。オットーと同じ、自己肯定感高め。でも、彼女がいなくなったら、アンタの自己肯定感は誰が満たしてくれるのかな~?」
ニヤニヤと笑うチェルシーに僕は目を伏せる。それは彼女の言う通りだ、ぐうの音も出ない。
ミズキが一人でどこにも行けなくて、僕を頼りきってくれることが僕の救いだったのは間違いない。僕のあり方を肯定してくれて、僕に明け透けな好意を寄せてくれる彼女が、僕の寄りどころだった。
それが、今はこうして話すことすら出来ない。どれもこれも自分が蒔いた種。僕が彼女に依存するから、彼女に依存を許したから、離れようにも離れられない。掛けたい言葉が浮かばないから、こうして今も彼女に話しかけることはおろか、部屋の窓から眺めているだけ。
心のどこかで僕はまたミズキに甘えている。ミズキなら僕の気持ちを言わずとも分かってくれるんじゃないかって、ありもしない展開をただ夢見て、期待してるのだ。
「話しかけに行ったらいいじゃん。そんなに身体に依存しなくても大丈夫って言うなら、アタシにそれを証明してよ。オットー譲りの口達者で、熱苦しい意志で、あの子のハート掴みとって来いよ。男なんだろ!」
僕の額に付けていた人差し指を丸め、チェルシーは僕の額を指先で弾く。パチンと軽い音。アマネのそれとは比べ物にならないほど軽いものだが、彼女の長い爪が刺さって痛い。
自分の額をさする僕に、チェルシーは再びニヤニヤと笑った。
「アンタはいらないって言うかもしれないけど、ここで未来を予言してあげる。ぼんやりとしか分からないけど、アンタはこれから彼女の意思に沿うか沿わないかの二択を選ぶしかなくなる。アンタが今の意思を曲げる気がないのであれば、近いうちに痛い目を見るよ。そのもっと先をアタシは知らないけど」
「それは、僕がミズキにどう話しても拒絶を示すと言うこと…?」
嫌な予言だ。僕が恐る恐る尋ねると、彼女は笑みを崩さずに首を横に傾けた。
「さーあ?アタシはちょこっと未来が見えるだけ。アンタが苦しんでいる姿が見えたから言っただけだよ。どっちかと言うと、なんか血生臭い感じだけど」
「めちゃくちゃ物理的に痛い目見てるやつ」
血なまぐさいと聞いて安心したような、身の危険を感じるような複雑な心境だ。苦虫を噛みつぶしたような顔をする僕に、チェルシーはゲラゲラと笑った。
「自分で選択して、自分の足で歩きたいんでしょ~?試練だと思って頑張んなよ!アスカクンのちょっとイイとこ見てみたい!ハイハイ!」
子供をからかうように手拍子をしながら彼女はひとしきり笑うと、ふうと息を吐いて彼女は笑みを浮かべた。
「ミズキはアンタが思ってるより、アンタのこと考えてるでしょ。アタシ、ここ数日しかミズキと話してないけど、挙動不審なだけで悪い子じゃないと思うよ。変に勘ぐるくらいなら、自分でちゃんと話しなよ」
そう言いながら、チェルシーの身体が透けていく。
「アンタが言ったこと、証明してくれるの遠くから見て待ってるから。少年よ!大志を抱け!どう動いたって構わないけど、ちゃんと自分の言葉に責任持ってよね」
残った口元が歯を見せて笑う。その歯も次第に背景に溶け込むように消え、初めて会った時と同じような静寂が残った。
僕はしばらくチェルシーがいたところを見つめていたが、先ほどまで彼女が座っていたソファに手を乗せても、そこに体温はない。本当にその場からいなくなってしまったことを確認し、僕は再び窓を見た。
窓の向こうのミズキとフロージィたちは散歩を終えたのか、城の中へと戻っていくのが見えた。
確かに彼女の言う通りだ。伝えたいことがまとまったなら話しに行くべきだ。ただ期待するだけではダメなのを、僕はよく知っているはずだろう。
ちゃんと僕が彼女を想っていることを伝えよう。現実に帰りたい理由も、ミズキありきの未来だからこそだって。黙っていたら、誤解しか生まれない。
「…よし、行こう」
意を決して僕が立ち上がると、角にぶら下がっていたコウモリが飛び立ち、僕のすぐ隣でアイドリングをする。つぶらなその瞳と目が合う。その目が僕をどう見ているのか分からないが、僕はただ彼に向かって頷いた。
コウモリを連れ、部屋を出てミズキたちがいる方へと歩き出した。赤い絨毯を踏みしめ、白い廊下を足早に抜ける。いつもながら長い廊下だが、それを抜けるとミズキとフロージィ、その周囲で遊び回る双子たちは中庭へ向かう途中だったのか、僕の姿を見つけて足を止めた。
「ちょうどいいところに。今からお茶の時間にしようと思っていたんだ。今日はアスカとも是非話をしたいと思っていたから声を掛ける手間が省けたよ」
フロージィがそう言うや否や、双子たちがわらわらと僕の周囲へと集まる。彼らに手を引かれ、4人の元へ合流した。
ミズキが僕を見つめ、目が合うと迷ったように目を伏せる。僕も自分の顔が強張るのが分かった。
でも、話さなければ。僕とミズキは双子のようにはなれないから、ちゃんと口を通して話すんだ。
「声を掛けようとして下さってありがとうございます。ご一緒させて下さい」
フロージィに会釈をすると、彼女は赤いまつげに囲まれた目を細めて頷く。
「かたくるしいー」
「かたいなー!」
僕の右手にはメベーラ、左手にはドゥエル。彼らはあっけらかんと笑いながら中庭へと手を引いた。ミズキと気まずくなってから双子とは話したことは何度かあったが、僕が部屋に引きこもっていたせいでシュラーフロージィと話すのは久しぶりだ。
初日のように中庭に配置された丸テーブルへと案内される。昨日と同じ配置、同じような時間帯。日の光が眩しいほどに差し込むその場所で、僕はミズキの隣の席に着いた。
双子たちの手で紅茶が運ばれてくる。今日の紅茶は花のような甘い香りがした。
「あれからミズキと話をしていたんだけど、やっぱり君は現実に帰りたいのかい?」
ミズキに話しかけようと思っていると、先に口を開いたのはフロージィだった。どうしようかと思い、ミズキを見ると彼女はチラと僕を一瞥するものの俯いてしまう。
「ああ…まあ、そうですね…」
何と答えようかと迷ったが、フロージィを無視してミズキと話すわけにもいかない。当たり障りない答えを返すと、彼女は穏やかな笑みを浮かべたまま小首を傾げた。
「なら、もうミズキに関わるのはやめてくれ。ミズキは夢から目覚めたくないそうだから」
フロージィの言葉に僕は目を見開く。僕がいない短い時間でどうしてそうなってしまったんだ。ミズキの顔を見るが、彼女はやはり僕を見てはくれない。
ふと、その時に僕はミズキの姿に変化が起きていることに気付く。彼女の黒くて長い髪の毛の先が、グラデーションのように金色になっているのだ。
「待ってください…なんでそんな話に?ミズキは僕と一緒にいたいって言ってくれたから、僕は現実でも末永く…」
「それはあくまで、君の意見なんじゃないかな?自分の気持ちを押し付けるのは、三月兎と同じだ。君はミズキの意見を聞いたことがあるかい?」
赤いまつげの隙間に見える水色の瞳がじっと僕を見据える。その瞳は微笑んでいるようで、好意的には見えなかった。
「ねえ、ミズキ、本当にそうまでしてこの世界に残りたいの?僕と一緒にって話してくれたのは、嘘だったの?」
頭が混乱する。心臓がバクバクと鳴り、手が震えた。思わずミズキの膝の上にある彼女の手を握ると、彼女の手は随分と冷たくなっていた。
「一緒にいたいよ…でも、アスカは私に何も話してくれないでしょ…?」
ミズキが目を合わせないまま、震えた声で返事をする。僕はそれに首を大きく横に振った。
「話せなくてごめん!なんて伝えたらいいか分からなくて…でも、今なら説明できる!説明できるから、話を聞いてくれよ!」
今までに出したことのないような大きな声が出た。それに驚いたようにミズキは身を竦め、双子たちがじっと僕を見つめた。
「アスカ、怖いよ」
双子たちが声を揃えて言う。その言葉に僕の身体が凍りつく。
何故、こうなってしまったんだ。何が起きているんだ。誰に自分の気持ちを話せばいいのか分からない。自分に集まる視線に、僕の身体から嫌な汗が伝った。
「僕はただ、現実でミズキとずっと一緒にいたいんだ。こんな不安定な世界じゃなくて、現実に帰って、また一緒に…」
「私はアスカと一緒にここにいたい。アスカの気持ちと何も変わらないよ」
僕の言葉に、ミズキが僕の手を払う。何が起きたのか分からず、呆然とする僕を見てミズキは眉根を寄せた。その表情は珍しく怒っているように見えた。
「でも、私は最初から現実に帰りたいとは言ってない」
「そんな、一緒に頑張ろうって…」
「あの時に私が賛同しなかったら、アスカは私と一緒にいてくれなかったでしょ…?」
僕は彼女とのやりとりを思い返す。確かに彼女は現実に帰りたいなんて言っていなかった。だけど、僕は彼女と自分の気持ちに相違がないかを確かめてきたはずだった。なのに彼女は僕に合わせてるだけだったということになる。
そんな仕打ちはない。話し合っていこうって、僕は言ったはずなのに。
「置いてったりなんかしないよ!そんな薄っぺらい気持ちで傍にいたんじゃない!」
「だって、私が帰りたくないって言ったって、アスカは現実に帰る大事さを話し続けるだけだもん!アスカの意見はいつもまっとうで、言い返す隙がないから怖い。私なんかすぐ流されてしまう」
初めてミズキが僕に声を荒げて反論した。思ってもいなかった。彼女が僕のことをそんな風に思っているなんて、夢にも思ってなかったのだ。
言葉を失って、ただ僕は呆然と立ち尽くす。
そんなに僕は怖かっただろうか。僕は、僕なりに彼女の意見に譲歩して旅をして来たつもりだった。でも、言われてみれば、ここまで来るのにミズキは何度も自分の意見を曲げて来ている。
森から出たくない。人と話したくない。僕と二人だけでいたい。現実に帰りたくない。どれもこれも間違いなく彼女の要望であり、それを全て押し切ってここまで来たのは他ならぬ僕だ。だけど、そんな希望を叶えてしまっては、どこにも行けない。だから説得した。
納得してもらった気でいた。きちんと説明した気でいた。
それが、怖かったというのか?じゃあ、僕はどうすれば良かったんだ?
「そんなの…だって、ミズキがあんまり自分に自信がないから…守りたかったんだ」
「アスカのその気持ちは本当にミズキを想っているから出るのかい?」
フロージィの言葉に僕は首だけで振り返る。彼女は傍らについたステッキに両手を乗せ、僕に向けて小首を傾げる。
「現実に帰らないことを望んでいる人に、自分が帰りたいという希望を押し付けていることに変わりはないだろう?君が守っている気でも、その保護でミズキの人生は本当に良いものになるという確信はあるのかい?ただ、君が現実にミズキを連れて帰りたいという我儘である可能性を考えたことは?」
彼女の口から並べ立てられる多くの疑念に僕は思わず席を立つ。ミズキを見ると、彼女はただ黙って僕を見上げている。その表情に好意的なものは感じられない。他の四人と同じような、僕を疑う眼差しだ。
彼女を守っている気で、それはただの僕のエゴだったということなのか?
言い訳にその言葉を使っているんじゃないかと、頭の隅でもう一人の自分が言う。守ってほしいなんて、ミズキは言っていない。守ろうと思っていたのは、僕の一方的な気持ちだ。
頭が痛んだ。昔にもこんな光景をどこかで僕は見なかっただろうか。
「ここでなら私がアスカを守ってあげられる。私が絵に起こせば、何でも生み出せる。アスカの望みを何でも叶えてあげる」
ミズキの髪色が少しずつ毛先から金色に染まっていく。白に近い美しい金色の髪、水色の瞳。それは小さい頃に本の挿絵やアニメで見たことがある姿だ。
不思議の国のアリス。金色の髪と水色の瞳をしたその少女は、童話の主人公だ。
「ミズキは帽子屋だと自分のことを思っていたみたいだけどね、彼女はアリスだ。この世界を作った張本人」
フロージィは笑みを浮かべたまま、ミズキを手で指し示す。
ジャッジが連れている雨の中で、止まらずに動いて話せる数少ない配役。絵の具さえあれば何でも作り出せる能力は、確かに帽子屋を名乗るには万能すぎるとは思っていた。それでもジャッジは、今自分が話せるのはジャバウォックと帽子屋だけだと話していた。
あの時にジャッジは自分と話せる配役に、どうしてアリスを省いたのか。ミズキ自身が自分をアリスだと認識していなかったからなのか。彼女が自らを帽子屋だと思い込んでいたからなのか。
「アスカ、君が考えていることだけが、必ずしも本人にとっての幸せとは限らないよ。人には選択の権利があり、その選択肢はあまりに多い。君の気持ち一つで全てを決定するのは、おかしいんじゃないだろうか」
フロージィの言葉に僕は息を呑む。彼女が話すことは何も間違っていなかった。全て正論だ。
「でも、そんな…」
それでも、彼女たちの言葉が僕には飲み込めない。言葉にならない違和感がもやもやと胸の中で溜まり、黒い渦を巻くようだった。
「私はここにいたい。だから、アスカも一緒にいようよ。辛い現実にわざわざ戻る必要なんかないでしょ?」」
ミズキが僕の手を取る。さっきまで僕が彼女にやっていたように。
こんなに短時間で、気が付くと僕とミズキの立場は逆転していた。まるで言うことを聞かない子供を諭すようにミズキは困ったように眉をひそめて僕を見ている。
「…ミズキが突然、目覚めてしまったらどうするんだよ…」
「目覚めないよ。ずっと眠ってる。私が眠っている限り、ここはずっと続くよ」
呟くような僕の反論に、ミズキが静かに首を振る。
本人が望む限り、ずっと続く夢の世界。そこに居座ることが本当に幸せなのだろうか。
確かに、ミズキからすればこの世界は自分が作り上げた世界だ。僕の感性とは違う。彼女には不安も何もない。この世界は全て、彼女のさじ加減一つでどうにでもなるのだ。
それなら、この世界は現実と変わらないのではないか。未来永劫続く、自分の生きる場所こそを現実と定義するのであれば、ミズキにとってはどちらも同じだ。彼女が望む限り、世界はなくならないのだから。
「…でも、こんなのおかしいよ…」
ミズキの手をぎゅっと握る。手と手が触れ合う距離なのに、なんだか彼女が酷く遠くにいるような気がした。
「ここはミズキが作った世界なんだろ。ミズキは現実のこともよく覚えていないのに、どうして作ったの?そんなに現実は辛いの?そしたら、この世界が嫌になった時にどうするんだよ。また眠って新しい世界を作るの?そうしたら、僕はどうなるの?」
「それは僕がサポートするよ」
フロージィが僕の言葉をさえぎるように言う。呆然とする僕に、彼女は穏やかな笑みのまま双子たちに何か耳打ちをした。
「ミズキ!先に部屋に帰ろ!あとはフロージィが何とかしてくれるってさ!」
ドゥエルが立ち上がり、僕が繋ぐ手と反対のミズキの手を取る。彼に促され、ミズキが僕の手を離す。それでも、僕だけは彼女の手が離せなかった。
「待てよ!まだ話は終わって…」
言い終わる前に、ミズキの手にすがる僕の手をメベーラが叩き落とす。
「レディが嫌がってるなら、ちゃんと離さないとダメよ」
僕からミズキの手が離れていく。僕が掴んでいたミズキの手をメベーラが取り、双子たちはミズキを連れて中庭から出て行く。
「アスカ、ずっと待ってるから」
双子に手を引かれながらミズキが僕に振り返って言う。
ずっと待っていると言うのは、きっと僕が彼女の意見に同意するのを待つという意味だろう。ミズキに同意することが出来ない僕はその言葉への返事が思いつかない。
中庭を出て行く。小さくなっていくミズキの背中を、僕は追いかけるべきだったのかもしれない。でも、僕の足は動いてくれない。つい昨日まであんなに近しかった人たちがどうして皆、離れていくのかが僕の頭が理解してくれなかった。
「…さて、二人だけになったね」
相変わらず丸テーブルの椅子に腰かけたまま、フロージィが紅茶をすすった。僕はその場に立ち尽くしたまま彼女を見る。僕の気持ちなどまるで気にしてないように、フロージィは何も態度を変えない。
「僕としては、君のようなジャバウォックがこちらの味方をしてくれるなら、それほどありがたいことはないのだけど…このまま君が意見を曲げないのであれば、この城に置いておくことは難しいな」
「…ミズキに何を話したんだ」
手がぶるぶると震えるのをごまかすように拳を握りしめる。僕の声はどうにも震えていて、大きな声が出そうになるのをこらえると喉が痛んだ。
「なんということはない。ミズキの配役が帽子屋ではなく、アリスであると伝えただけだ。彼女は自ら望んでこの世界にいて、今現在幸せに暮らしている。それなら、その生活を維持しようとするのは、決して悪ではないと僕が考えたことを話した」
彼女は僕の表情を見て肩を竦める。
彼女が見ている僕の表情がどんなものなのかは分からない。分からないが、きっと今の僕はとても醜いということだけは分かる。怒りに顔をゆがませる自分ほど、汚い絵面はない。
「ミズキをサポートすると言ったのは嘘ではない。僕にはそれが出来る。眠り鼠の能力は、本人が望んだ記憶を任意で眠らせる力だ。ミズキにとって嫌な思い出があり、ミズキ本人がそれを忘れたいと願うなら、僕はその記憶を眠らせることが出来る。本人が思い出したいと願う日までね」
記憶を眠らせる…平たく言えば忘れさせるということだろう。そこまで言われて、僕は初めて出会ったミズキの話を思い出す。
彼女はあの森で僕と出会うまでのことを覚えていないと言った。だから、僕はミズキがこの世界に来て間もない人間なのだと思い込んでいたのだ。
5年以上も前からあるこの世界は、アリスがずっといるから存続している。そのアリス本人が記憶を綺麗に忘れ去ることが自力で出来るだろうか。そんなこと、出来るわけがない。
「最初からあなたはミズキがアリスだと知っていて、そのアリスの記憶を消していたのか。だから、こんなに簡単に僕らを城に招き入れたのか」
「僕とミズキの仲だ、と話しただろう?僕とミズキは共に最初のお茶会で同じテーブルを囲み、今に至るまで僕らだけが生きている。知らないわけがないじゃないか」
さも当然と言いたげに彼女はクスクスと笑う。
「記憶を消すのも、別に今回が初めてじゃないさ。彼女がこの世界の辟易する頃、不思議と必ず僕の城へとやって来る。現実も、こんなも世界いらないと嘆く彼女の記憶を、僕は本人の同意の元で何度も眠らせてきた。だから、彼女がこの世界をやめる日なんて来ない。ここが彼女の現実なんだから」
「ミズキの現実の記憶も、あなたが眠らせたのか?本当にそれがミズキにとって幸せなのか?」
「知らないよ。でも、僕の能力はあくまで相手の同意がなければ発動できない。少なくとも彼女本人が望むから、僕はその願いを叶えただけ。僕もこの世界が好きだから、作ってくれたアリス…ミズキにはこれでも感謝はしているんだよ」
フロージィの話を聞きながら、僕は言いようのない不快感を覚えていた。
本人が望んだことを肯定するだけが愛情だろうか。本人が泣きながら、もうこんな世界は嫌だと苦しむのを見届けて、その記憶を消すだけが優しさだろうか。そこで彼女が苦しんだという事実は何も変わらないのに。
「しかし、あれだけ何もできなかったミズキをここまで成長させた君には驚いたよ。君は本当に根気強い…いや、君もミズキを利用したに過ぎないのかな?君もそんなに立派なジャバウォックになっている。ミズキへの執着を見る限り、君もかなり彼女に助けられたんだろうね」
バサバサと中庭を舞っていたコウモリが僕の背後にとまる。しがみつくように止まったその小さな重みが、ミズキではなく僕の元にあったことに驚いた。
「配役持ちの姿が変わる理由を知っているかい?配役の特徴が現れる人は皆、この世界で何かしらの変化を得た人だ。自我を持ったり、意思を持ったり、時には勇ましく成長し、時には醜くなることもあるだろう。ここは夢の世界、自分の気持ちの持ちようでいくらでも変化できるんだ」
背中にしがみついていた小さな重みが次第に大きくなっていく。地面に落ちた自分の影からコウモリとも、ドラゴンともとれる大きな翼が生えていくのが分かった。
「ここまで強く育ったジャバウォックは初めて見た。敵に回すと厄介だから、すぐにアマネに殺すよう指示を出していたんだけれど…もう遅いようだ」
フロージィは丸テーブルから立ち上がるでもなく、僕の姿を眺めて微笑む。自分の背中に新しく生えた翼を動かすと、風で彼女の赤い髪がなびいた。
翼には確かに感覚があり、それは僕が思うように動くのが自分の影で分かった。コウモリが僕の身体の一部になったのだろう。だとすれば、そのコウモリを作ったのは他の誰でもないミズキであり、離れた今ですらミズキが僕の成長を促していたことが否応にも分かってしまう。
きっと今の僕なら、アマネがいない今なら、目の前の彼女を殺すことなど簡単なのだろう。彼女に危害を加え、ミズキを奪い返すことも出来るだろう。それでも、双子やアマネがどう感じるのかを考えると、とてもじゃないがそんなことは出来ない。アマネの真意はともかく、双子がフロージィを心から慕っているのは、見ていて嫌ってほど分かる。
ただ行き場のない感情を抱えたまま黙り込む僕をフロージィは興味深そうに眺めると、彼女は何かを思いついたように笑って自身の唇を指先で叩いた。
「君からすればとても理不尽だろうに、襲いかかって来ないなんて理性的だ。だから、僕から条件を提示しようか」
紅茶を飲み干し、フロージィはようやく椅子から立ち上がる。ステッキを片手に僕へと歩み寄ると、彼女は僕を見上げて人差し指を立てる。
「一つは君が先ほどから拒絶を続けている案になってしまうが、この世界で一緒に暮らしてくれることだ。もし、それを呑んでくれるのであれば、この城での衣食住は保証しよう。ミズキの傍にいられるよう、僕も協力する」
続けてフロージィは人差し指に並べて中指を立てる。
「もう一つはこの城から去って、ミズキを諦めてもらうことだ。双子たちが君を殺さないでくれと言っていた部分も加味して、アマネに出した君を殺さないという指示は撤回しないでおく。代わりに、ミズキの傍には寄らないでくれ。お互い、利にならない争いは避けよう」
フロージィは首をゆっくりと傾けて僕を見る。
「アスカ、君ならどちらを選ぶ?」
ミズキの傍にいるために、この世界でずっと暮らすことに同意するか、この城を去って彼女から永遠に離れることを約束するか。どちらも僕からすれば同意しがたい。僕は拳を握ったまま、地面を見つめる。
ミズキと話がしたかった。本当にミズキがこうなることを心から望んでいるのか、彼女自身の口から答えが欲しかった。二人で話した時間が短すぎる。
でも、彼女はもういない。話そうと言ってくれた彼女を拒絶してしまったのが悔まれた。
あの時、どうして僕はもっと彼女に言葉を尽くして話そうとしなかったんだろう。夕飯時にも、今日の朝にも、彼女と話す時間はあったのに、意見がすれ違ったことにただ不貞腐れて僕は口を閉ざしてしまった。
「…僕はミズキとお別れなんてしたくない。でも、この世界でも暮らせない」
現実から逃れるために作られた世界で、彼女が何かに躓くたびに記憶を失う姿なんて僕は見たくない。それが彼女の本当の幸せだなんて、どうしても僕には思えなかった。
「僕は現実にミズキを連れて帰るよ。彼女ともっと外の世界を歩きたい。ここだけじゃなくて、本当に自分たちが生きている世界で」
「つまり交渉決裂だ。敵になるかもしれない人物に何かを譲歩することは難しい。僕の国には、僕が守らなくてはならない人々が沢山いるのだからね」
フロージィは目を閉じて、深い溜息をつくと中庭の外へと歩き出す。
「…君がここで僕を襲わないでいてくれたことへの感謝を込めて、今日はまだアマネに君を殺さないよう伝えておく。明日からは保証しない。早くここを去るといい」
そう言い残し、フロージィは中庭から出て行く。取り残された僕は、ただ大きくなっていく自分の影を見ながら黙っていた。
日の光が傾き、中庭に差し込む光がオレンジ色になっていく。
その色はいつかにミズキと一緒に見た朝焼けによく似ていた。
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第二章:勇者パーティ結成&魔王討伐軍北上編
第三章:帰郷&魔将・魔王決戦編
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下菊みこと
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