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06犯人像 偽りの救い
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深夜の空気は淀み、換気扇の低い唸りだけが、小田切敦夫の支配する四畳半の静寂をかき乱していた。
安アパートの壁は薄く、隣室から漏れるテレビの笑い声が、まるで遠い世界の出来事のようにぼんやりと響く。
彼の世界はモニターが放つ冷たい光によってのみ、その輪郭を保っていた。
彼はパソコンの前に座り、古びたオフィスチェアを軋ませながら、数日前の記録映像を再生していた。
画面にはタクシーの後部座席で絶望に顔を歪める女の姿が映し出されている。
小田切の視線はエンジニアが実験データを分析するかのように冷徹で、何の感情も宿していなかった。
彼の興味は女の涙や嗚咽にはない。
ただ一点、尿で満たされたタッパーが、その容量の限界を超え、便によって汚物が溢れ出す、その物理現象だけを追っていた。
「……計算通り、だが」
口の中で呟き、彼は傍らに置いてあったプラスチック容器を手に取った。犯行の後、ハイターで入念に洗浄・消毒され、今は何の匂いもしない、ただの物体だ。
ぱちん、と蓋を開け、また閉める。
その単純な構造を指先で確かめるように吟味する。
しかし、その行為にはもはや、初期の頃に感じたような高揚感はなかった。
彼はつまらなそうに息を吐き、タッパーを机の隅へと無造作に押しやった。
物理的な仕掛けによる征服は、あまりにも直接的で芸がない。
彼の歪んだ美意識は、より洗練された刺激を求め始めていた。
彼はマウスをクリックし、次のファイルを開いた。青山の街から乗せた女の記録。
画面に映る気品に満ちた女の顔が次第に苦悶に歪んでいく。
小田切は早送りで映像を進めた。
彼が執拗に繰り返し再生したのは、おむつから汚物が溢れ出す場面ではなかった。
そうではない。彼が求めているのは、もっと別のものだ。
何度も、何度も巻き戻し、再生する。
それは下剤による第二の激痛が静江を襲った、まさにその瞬間だった。
事故渋滞という嘘、親切心を装って渡された大人用のおむつ――その全てが自分を貶めるための罠だったと、彼女が悟った瞬間の表情。
驚愕、混乱、そして、理解が絶望へと変わる、その刹那のグラデーション。
常に優雅さを崩さなかった女の理性が内側から崩壊していく様。
それこそが彼の琴線を最も激しく震わせるのだ。
「これだ……」
小田切の乾いた唇の端が、ゆっくりと吊り上がった。
希望が、信頼が、裏切られる瞬間。
救いの手が差し伸べられたと信じた直後に、その手が奈落へと突き落とすためにあったのだと知る、その純粋な絶望。
物理的な汚れなど、所詮は結果に過ぎない。
真の愉悦は、そこに至るまでの心の軌跡、希望から絶望へと堕ちていく、その美しい放物線の中にこそあるのだ。
彼は自身の嗜虐性の新たな源泉を発見したのだ。
小田切は興奮に火照る頬を自覚しながら映像を止めた。
そして、ブラウザを立ち上げ、使い慣れたオンラインの地図サービスを開いた。
画面には彼が深夜の営業で幾度となく通過した、首都高速のルートが青い線で表示されている。
彼は地図をスクロールさせ、ある一点を執拗に拡大していった。
横浜横須賀道路に接続する、狩場ジャンクション手前の巨大なパーキングエリア。
その衛星写真が画面いっぱいに広がった。
「停めやすい、見通しがいい、そして……出口が一つ」
マウスのカーソルで、その施設の構内図をゆっくりとなぞる。
獲物を追う蛇のように執念深く、緻密な動きで。
入口の合流路から、本線を見下ろすように配置された駐車スペースへ。
そして最も重要な場所――トイレのある建物の前をカーソルは数ミリ単位で進んでいく。
建物に立ち寄ることなく、そのまま駐車スペースをゆっくりと一周し、再びトイレの前を通り過ぎ、何事もなかったかのように出口から本線へと合流するルート。
その軌跡を、彼は何度も、何度も、画面上で反芻した。
これだ。
完璧な「舞台」を見つけた彼の顔に、もはや隠しようのない、サディスティックな笑みが広がった。
タッパーも、おむつも、もう要らない。
あのような野暮な小道具は彼の芸術を陳腐化させるだけだ。
これからの犯行に必要なのは、たった一つ。目前にぶら下げられ、しかし決して手の届かない、「救い」という名の餌だけだ。
「次の獲物は、これでいこう」
彼は満足げに呟くと、軋む椅子から立ち上がった。
部屋の隅にある、薬品や道具を保管している安物のプラスチック製引き出しへ向かう。
一番上の段を開けると、様々な薬の箱が乱雑に詰め込まれていた。
睡眠導入剤、強力な下剤。
だが、彼はそれらには目もくれなかった。その指が掴んだのは、一番手前にあった、使い古された利尿剤の箱だった。
この新たな遊戯においては、下剤のような派手な効果は不要だ。
ただひたすらに純粋で、切実で、コントロールしやすい尿意こそが、最も効果的な演出なのだと、彼は確信していた。
小田切は目を閉じた。
彼の脳裏に、これから繰り広げられるであろう傑作の光景が鮮明に映し出される。
その光景を想像しただけで、小田切の喉の奥が、くつ、と愉悦に打ち震えた。
それは、もはや性的興奮という言葉では表現できない、神にでもなったかのような、万能感に満ちた戦慄だった。
安アパートの壁は薄く、隣室から漏れるテレビの笑い声が、まるで遠い世界の出来事のようにぼんやりと響く。
彼の世界はモニターが放つ冷たい光によってのみ、その輪郭を保っていた。
彼はパソコンの前に座り、古びたオフィスチェアを軋ませながら、数日前の記録映像を再生していた。
画面にはタクシーの後部座席で絶望に顔を歪める女の姿が映し出されている。
小田切の視線はエンジニアが実験データを分析するかのように冷徹で、何の感情も宿していなかった。
彼の興味は女の涙や嗚咽にはない。
ただ一点、尿で満たされたタッパーが、その容量の限界を超え、便によって汚物が溢れ出す、その物理現象だけを追っていた。
「……計算通り、だが」
口の中で呟き、彼は傍らに置いてあったプラスチック容器を手に取った。犯行の後、ハイターで入念に洗浄・消毒され、今は何の匂いもしない、ただの物体だ。
ぱちん、と蓋を開け、また閉める。
その単純な構造を指先で確かめるように吟味する。
しかし、その行為にはもはや、初期の頃に感じたような高揚感はなかった。
彼はつまらなそうに息を吐き、タッパーを机の隅へと無造作に押しやった。
物理的な仕掛けによる征服は、あまりにも直接的で芸がない。
彼の歪んだ美意識は、より洗練された刺激を求め始めていた。
彼はマウスをクリックし、次のファイルを開いた。青山の街から乗せた女の記録。
画面に映る気品に満ちた女の顔が次第に苦悶に歪んでいく。
小田切は早送りで映像を進めた。
彼が執拗に繰り返し再生したのは、おむつから汚物が溢れ出す場面ではなかった。
そうではない。彼が求めているのは、もっと別のものだ。
何度も、何度も巻き戻し、再生する。
それは下剤による第二の激痛が静江を襲った、まさにその瞬間だった。
事故渋滞という嘘、親切心を装って渡された大人用のおむつ――その全てが自分を貶めるための罠だったと、彼女が悟った瞬間の表情。
驚愕、混乱、そして、理解が絶望へと変わる、その刹那のグラデーション。
常に優雅さを崩さなかった女の理性が内側から崩壊していく様。
それこそが彼の琴線を最も激しく震わせるのだ。
「これだ……」
小田切の乾いた唇の端が、ゆっくりと吊り上がった。
希望が、信頼が、裏切られる瞬間。
救いの手が差し伸べられたと信じた直後に、その手が奈落へと突き落とすためにあったのだと知る、その純粋な絶望。
物理的な汚れなど、所詮は結果に過ぎない。
真の愉悦は、そこに至るまでの心の軌跡、希望から絶望へと堕ちていく、その美しい放物線の中にこそあるのだ。
彼は自身の嗜虐性の新たな源泉を発見したのだ。
小田切は興奮に火照る頬を自覚しながら映像を止めた。
そして、ブラウザを立ち上げ、使い慣れたオンラインの地図サービスを開いた。
画面には彼が深夜の営業で幾度となく通過した、首都高速のルートが青い線で表示されている。
彼は地図をスクロールさせ、ある一点を執拗に拡大していった。
横浜横須賀道路に接続する、狩場ジャンクション手前の巨大なパーキングエリア。
その衛星写真が画面いっぱいに広がった。
「停めやすい、見通しがいい、そして……出口が一つ」
マウスのカーソルで、その施設の構内図をゆっくりとなぞる。
獲物を追う蛇のように執念深く、緻密な動きで。
入口の合流路から、本線を見下ろすように配置された駐車スペースへ。
そして最も重要な場所――トイレのある建物の前をカーソルは数ミリ単位で進んでいく。
建物に立ち寄ることなく、そのまま駐車スペースをゆっくりと一周し、再びトイレの前を通り過ぎ、何事もなかったかのように出口から本線へと合流するルート。
その軌跡を、彼は何度も、何度も、画面上で反芻した。
これだ。
完璧な「舞台」を見つけた彼の顔に、もはや隠しようのない、サディスティックな笑みが広がった。
タッパーも、おむつも、もう要らない。
あのような野暮な小道具は彼の芸術を陳腐化させるだけだ。
これからの犯行に必要なのは、たった一つ。目前にぶら下げられ、しかし決して手の届かない、「救い」という名の餌だけだ。
「次の獲物は、これでいこう」
彼は満足げに呟くと、軋む椅子から立ち上がった。
部屋の隅にある、薬品や道具を保管している安物のプラスチック製引き出しへ向かう。
一番上の段を開けると、様々な薬の箱が乱雑に詰め込まれていた。
睡眠導入剤、強力な下剤。
だが、彼はそれらには目もくれなかった。その指が掴んだのは、一番手前にあった、使い古された利尿剤の箱だった。
この新たな遊戯においては、下剤のような派手な効果は不要だ。
ただひたすらに純粋で、切実で、コントロールしやすい尿意こそが、最も効果的な演出なのだと、彼は確信していた。
小田切は目を閉じた。
彼の脳裏に、これから繰り広げられるであろう傑作の光景が鮮明に映し出される。
その光景を想像しただけで、小田切の喉の奥が、くつ、と愉悦に打ち震えた。
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