花束と犬とヒエラルキー

葉月香

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第一章

ボーイ・ミーツ・ボーイ(6)

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「今夜は、御馳走様でした、ローラン。とてもおいしかったです、料理もワインも…ワインについては、おかげで興味も湧いたので、ちょっと勉強してみようと思います。確かに、ラトゥールはいいきっかけになりました」
「…肝をつぶすだろうな、きっと」
 思い出し笑いを噛み殺すローランを、ルネは不思議そうに見上げた。
 今、2人は、レストランを出て、徒歩圏内にあるホテルまでぶらぶらと歩いている最中だ。タクシーで素早く移動してもよかったのだが、涼しい夜風に当たって酔いを醒ましたいと言ったのは、ルネだった。
(だって、もう少しだけ、この人と一緒にいたいから…)
 一時は、ローランの人の気持ちを顧みない強引な態度と言い草に、つい反発せずにはいられなくなったため、彼との縁もこれで終わってしまうことを覚悟した。けれど、ローランが素直に謝ってくれたおかげで、ルネは振り上げた拳を下ろすことが出来たし、後は、美味しい料理とワインの力も借りて、険悪になりかけたことなどなかったように、打ち解けた時間を過ごすことができた。
(本当に、あのまま怒って席を立たなくてよかったな。あそこで帰ってしまったら、その後の楽しい時間はなかった訳だから…)
 そして、もう引き下がれなくなったルネは、この就職話はなかったものとして、実家に帰るしかなかった。せっかく思い切ってパリまで出てきたのに、仕事も恋のチャンスも両方ともふいにしたと後悔したことだろう。
(あの時は、ローランの思い通りになっちゃ駄目だと思って、意地になって拒絶した僕だけれど…もしかしたら惜しいことをしたのかもしれないな。いっそ何も気づかない馬鹿のふりをして、誘惑に乗せられてみてもよかったなんて……ああ、うっかり正直に自分の感情をぶちまけるものじゃない。逃がした魚はやっぱり大きいぞ)
 視界の横を流れていく車のライトに照らし出されるローランの綺麗な横顔をちらちら盗み見ながら、そんなことを考えて、ルネを切ない溜息をつく。
(下心を持って近づくのは許せないなんて、僕には言えた義理じゃないのにね。別に誘惑されなくったって、とっくの昔に惹かれてた。ただ、うっかりこの人に捕まって、逃げられなくなるのは困るって…予防線を張ったんだ)
 ルネは絡みついてくる何かを振り払うかの如く頭を振った。
(ああ、何考えてるんだろう、僕…)
 先程からこんなふうに気持ちがゆらゆらとおかしな方向に揺らぐのは、ローランがまとっているコロンのせいだろうか。時間と共に変化して、今はオリエンタルな甘さと共にムスクに似たセクシーな香りが鼻腔をくすぐり、嗅いでいると、何だか怪しい眩暈に捕らわれそうになる。
(それにしても、ローランはこの僕をどんなふうに変えたいんだろう…? 愛人候補みたいな話は別にしたって、確かに、このままの僕じゃ、彼の傍について仕事をするにしても差し支えはあるのは認めるよ。立ち居振る舞いや言葉遣いひとつ取っても、僕は洗練とは程遠い、田舎出のぱっとしない男の子でしかない。でも、他人を自分の思い通りに作り変えようって発想自体、全くエゴもいいところで、むかつくじゃないか。それでも…ローランの理想がどういうものか、ちょっと興味はある…かな…)
 ルネは手を上げて、何気なく自分の髪に触れてみた。ふんわりと柔らかな金髪は、本来ルネが持っていたものではない。初めて見た時は絶対慣れないと思っていたのに、ローランに似合うと言われて嬉しくなってからは、うっかりその気になってしまったのか、早くも違和感が薄れてきた気がする。
(ああ、僕って他人の言葉に乗せられたり、流されやすい性質なのかな…? それとも、相手がローランだから、明らかな無茶や理不尽でも、つい甘くなって許してしまうんだろうか…?)
 それはちょっと問題だなと先行きに少々不安を覚えた時、ローランが急に足をとめた。ぶつかりそうになったルネは慌てて立ち止った。
「着いたぞ」
 ぶっきらぼうな声が告げるのに目を上げると、路地の向こうの明るい大通りに、ルネが泊まっているホテルが見えた
「ああ…」
 ルネはついがっかりしたような声を出してしまった。
「今日一日、僕に付き合って下さって、ありがとうございました、ローラン…」
 そう言えば、彼のことをローランと呼んでいいのも、きっと今宵限りだろう。週が明けて仕事に出るようになれば、上司と部下の間柄のこと、馴れ馴れしい態度は御法度だ。ならば、やはり必要以上にこの人と親しくならなかったことは、正解だったのかも―。
 そんな考えに捕らわれているルネの前に、ふいに影が落ちた。
「ローラン…?」
 反射的に上げた顔に指がかかったと思った、次の瞬間、素早く下りてきたローランの唇がルネの唇を覆った。
(あ…不意打ち…)
 とっさに喘ぐような息を漏らすルネの唇に、ローランは優しく触れ、確かめるように深く口づけた。
 途端にがくっと膝から力が抜けて、後ろによろめくルネを追うよう、ローランの手が背中に回り、再び唇が重なる。今度は一転、激しさを増して吸い上げられ、息をつく間も与えず貪られて、ルネは体の芯が甘く痺れるような衝撃に震えた。
 戦慄く歯列を割って潜り込んでくる、舌の熱さ。かかる吐息。
 何度も顔の向きを変えて、温かく濡れた唇を重ね、深く味わう、濃厚なキスは次第に噛み突くような荒々しさを増して、ルネを翻弄する。
 抵抗することなど、思いつく間もなかった。
 一気に昂った気持ちに任せて、ルネはローランの体に腕を巻き付け、自ら口を開いて熱のこもったキスを受け入れる。
 ローランの手がルネの体を服の上から探っている。布地の下の小刻みに震えている肌の熱さや感触を確かめるかのように、ゆっくりと―。
 もうすっかり感情の堰が切れたルネは、夢中になって彼の唇に唇を押し付け、舌を差し入れていた。
 キスの合間に苦しげに息を継ぎながら、くんと鼻を鳴らして嗅ぎ取ったのは、ウッディーでオリエンタルな香料の中に、ほのかに見え隠れする薔薇…ぞくぞくするようなムスクとバニラの甘さ…。
 逃げられないようしっかりと回された腕の中、密着させた体の熱によってローランの愛用のコロンが香り立って、ルネを包み込みこみ、どこまでも溺れさせようとしていた。
(このうっとりするような香りが好き…あなたがくれる甘くて熱いキスが好き…息がつまるほどぎゅっと抱きしめてくれるあなたの腕が好き…僕は、ローラン、あなたが大好き…)
 体の奥底から湧きあがってきた熱が全身に広がってくるのに、堪らず、ルネが切ない声を上げて、すがりつく手に力を入れようとした時、唐突に、ローランは彼の体を引き離した。
「えっ?」
 すっかり夢中になってキスに応えていたルネは、いきなりの中断に戸惑いながら、ぱっと目を開けた。息を弾ませながら投げかけた問いは、我ながら恥ずかしくなるくらい、甘く掠れていた。
「ローラン、どう…したんですか…?」
 当のローランは息一つ乱しておらず、動揺するルネを面白がるように眺めたかと思うと、澄ました顔をして無情にも告げた。
「それじゃあな、ルネ、俺は行くぞ…今夜はぐっすり眠って良い夢を見ろよ」
 は? これで終わり? ルネは愕然となった。
(まさか…嘘でしょ…?)
 信じられないように目を見開いて言葉もなく立ちつくしているルネに向かって、ローランは憎たらしいウインクを投げてよこすと、本当にさっさと背中を向けて大通り目指して歩き出した。
「ちょっ…と…」
 去っていくローランを引き留めようととっさに手を上げ、追いかけようとしたが、力の入らない体は足から崩れそうになり、ルネは慌てて、傍にあった街路樹にしがみついた。
 恥ずかしいことに、一端昂ってしまった体は、なかなか通常の動作することが困難なようだ。意識していた相手にあれだけ濃厚な接触をされたのだから、ルネが、その気になってしまったとしても仕方ないだろう。
 問題は、あんな不埒な行為を仕掛けた当人が、ルネを一方的にかき乱しておいて、無責任にもあっさり立ち去ってしまったことだ。
「一体どういうつもりなんだよ…人をここまで盛り上がらせておいて、いきなり放置だなんて、ひ、酷すぎる…悪魔だ」
 一体、あの情熱的なキスと抱擁はどういう意味なのか―ルネがレストランで彼の誘惑を拒絶したことへの意趣返しか、それとも単にからかわれただけか。
(なのに、僕は我を忘れて、夢中なって、あの人のキスに応えてた…)
 恥ずかしさと悔しさのあまり、ルネの目にはじわりと涙がこみ上げてきた。それと共に、猛烈な怒りが胸の奥底から突き上げてくる。
(あ…駄目だ、僕、切れそう、切れちゃう…頭に来すぎて、もう、くらくらする)
 ふつふつと怒りを滾らせるルネの震える手の下で、固く握り締めていた樹の枝がめきっと不穏な音を立てた。
(そうだとも、どうして、この僕が、ここまで他人に弄ばれ、こけにされなければならないんだ。いくらタイプだからって、一瞬でもあんな傲慢な男に心を許した自分が、いっそ憎い!)
 ルネは頭をかきむしって一声唸るやしがみついていた樹木からさっと飛びのき、転瞬、体を捻りつつぐんと回転をつけた足蹴りを自分が捕まっていた枝に喰らわせた。
 怒りにまかせた回し蹴りの破壊力は、我ながら凄まじい。どかっというような派手な音を共に、大人の腕くらいある枝は見事に裂けて、地面に落ちた。
 公共物を壊したりして、見つかったら通報ものかもしれないが、今のルネには、そこまで考える余裕がない。
「愛しさ余って憎さ百倍…どうしてくれよう、ローラン…!」
 逆上したルネは、手で涙を振り払い、ホテルの角を曲がって消えたローランを追って走り出した。このままの勢いで追いついていたら、きっと彼もあの街路樹と同じ運命を辿っていたことだろう。
 しかし、さっさとタクシーを見つけて乗り込んでしまったのか、ホテルの玄関前の大通りを行きかう人と車の中にあの長身の姿はなく、しばらくうろうろとその辺りを探しまわってみたのだが、結局ルネには見つけられなかった。
(ローランは帰ってしまったのか…ああ、全く、運のいい人だな。危ういところで、病院送りを免れたぞ)
 しばらくホテルの周囲をうろついているうちに、次第にルネの頭も冷え、それと共に戦意も喪失していき、そうするとやはり情けなさと惨めさだけが残った。
(僕は馬鹿だ…きっと、僕のうわついた気持ちが顔や態度に出ていたから、あの人がそれを見透かして、遊びたくなったんだろう。だとすれば、そんな隙を見せた僕のせいなんだ…自業自得じゃないか)
 泣くに泣けないどん底気分のルネは、重い足を引きずるようにホテルに入り、頭をうなだれたままエレベーターに乗り込んだ。
 激情が去った後の胸の空白は、言いようのない悲しさに満たされて、ルネはともすればこぼれそうになる嗚咽を堪えるよう、きゅっと唇を引き結んだ。
(本当に酷い人だ、ローラン…僕をあんなに夢中させて、溺れさせて、いきなりぽいはないじゃないか…本気で好きになりかけたのに…)
 目的の階でエレベーターを降りたルネは、しょんぼり肩を落としながら、スーツのポケットに手を突っ込み、そこに入れておいたはずの部屋のカード・キーを探した。しかし、その指先に固いカード・キーが触れることはなかった。
「あれ…おかしいな、ここに入れておいたはずなんだけれど、どこかで落としたのかな…?」
 他のポケットに間違えて入れてないかと焦りながら探しまくっていたルネの脳裏に、ふいに、先程のローランとの熱烈なキスの場面が閃いた。
(あっ、そう言えば、あの時…)
 ルネが夢見心地でローランに抱き寄せられていた、あの時、そう言えばポケットの中を探られるような気配がしなかったか…?
(まさか)
 ルネは愕然となりながら、何かを探し求めるかのごとく、辺りをゆっくりと見渡した。
 すると、ごく仄かな甘い香りが自分の部屋へと続く廊下に漂っていることに気づいて、ルネは鼻をくんと鳴らした。
(ああ…この香り、いつどこで嗅いだものか、僕はもう絶対に忘れない)
 呆然となってしばし視線を廊下の向こうにあてていたルネは、やがて、ゆっくりと確かめるような足取りで歩きだし、少しずつ歩調を早めて、最後はほとんど走り出していた。
 香りと共に蘇る甘く艶めいた記憶に、胸の鼓動が速くなり、体も熱くなる。
角を曲がった所で、ルネは前につんのめったように立ち止り、思わず頭を抱えて低く呻いた。
「やっぱり…!」
 ルネは続く言葉をなくして立ち尽くし、呆然と廊下の先を眺めた。
(もう、腹が立つやらおかしいやら、何がなんだか訳が分からない…!)
 がっくりと頭をうなだれ、困ったように手で金髪の頭をかき乱しながら、苦笑混じりに呟く。
「何がやっぱりなんだ、ルネ?」
 笑いを含んだ低い声が呼びかけてくるのに、ルネは観念したように再び顔を上げた。
「人をからかうのはいい加減にしてくださいよ、ローラン…」
 ルネが恨みを込めて訴える先には、彼の大好きな香りの主が部屋の前に悠然と立ちはだかっていて、指先に挟んだカード・キーをこれ見よがしにひらひらさせていた。ルネと抱き合ってキスを交わしていた時に、やはりポケットからすり取っていたのだ。
「子供みたいな悪戯はやめてくださいっ」
 ルネが頬を膨らませて怒ると、ローランはますます笑みを深くして、首を僅かに傾げた。
「…それで?」
 ルネは、うっと言葉に詰まった。
「それでって…だから―」
 何を言い淀むことがあるのだろう。馬鹿馬鹿しい真似はやめて、そのキーを返して下さい、部屋に入れないじゃないですかとでも言い返せばいいのだ。
 ルネが本気で怒れば、ローランだって、いつまでも大人げない悪ふざけはしないだろう。いざとなれば実力行使、先程の恨みも込めて、その男前の顔に一発喰らわしてやってもいい。
(でも、実際の所、僕はどうしたいのだろう…キーを奪い返して、この人を追い帰したいのか、それとも…?)
 部屋のドアにもたれかかりゆったりと腕を組んでルネの答えを待つ構えのローランを半眼で睨み据えながら、ルネは自問した。
(一瞬前だったら、僕はこの人を見るなり、掴みかかっていただろうけれど、今は何だかそんな気もそがれてしまったし…全く、自分がさり気なく命の綱渡りをしていたことも知らないで、いい気なものだな。僕がその気になれば、いつだって簡単に叩きのめせるのに…)
 しかし、自分は絶対にそんなことはしないだろうということも、ルネには分かっていた。どんなに腹が立ってもローランには指一本上げられないし、格闘技の才能を隠し持っていることも知られたくない。
(惚れた弱みってやつかぁ…困ったことに…)
 ルネは天を仰いで溜息をついた後、腹をくくって、まっすぐローランに近づいて行った。
 ルネの顔はまだ固かったが、それでも内心の微妙な変化を感じ取ったのだろうか、ローランはもたれかかっていたドアから離れ、彼を通すような仕草をした。
「あの…ローラン…」
 ルネは自分の部屋の前に立つと、勇気を出して、ローランの顔を近々と覗き込んだ。一瞬、その深緑の瞳にどきりとなる。強く意志的で、ねっとりとまといつくような、熱い眼差し…。
「へ、部屋の中は、今日の買い物の荷物が開きっぱなしで、散らかっていますよ。待ち合わせの時間直前に慌てて飛び出してきた、そのままですから…それでもよかったら、寄っていって下さい」
「ああ」
 その言葉に、ローランは満足げに目を細めて微笑み、ルネの差し出した手にカード・キーをそっと乗せた。
(たぶんローランは、今夜僕をみすみす逃がす気なんて、なかったんだろうな。僕が彼のやり方に腹を立てて少しくらい逆らった所で、それも想定の範囲内か…さながら、今日一日僕をどこに連れ回し、どういう段取りで手を加えて変身させるか、いかに僕を誘惑して夢中にさせて…最後の仕上げとばかり、自分のものにしてしまうかまで、全て予め立てていた筋書き通り…)
 ルネが悩ましげに眉を寄せて考え込んでいたからだろう、ローランは、キーを返した、その手で彼の手を乱暴に握りしめた。
「ルネ、真剣に悩んでいる最中悪いが、俺は気が短いんだ。これ以上ぐずぐずと待たせるようなら、問答無用で部屋に連れ込んで襲うぞ」
「は…はいっ」
 獰猛に歯を剥いて凄んでみせるローランに、ルネは慌ててドアに向き直り、カード・キーを使ってロックを解除した。こんな理不尽な命令にも、反射的にもう体が動いてしまうあたり、既に彼にしっかり手綱も心も掴まれてしまっている気がする。
(全く、パリに出てきてすぐに仕事も恋も見つかったのはいいけれど、万事がこの調子では、先行きが不安…)
 また少し思案の淵に沈み込みかけるルネに痺れを切らしたローランは、「遅い」と一喝、解錠されたドアを自分で開いて、彼の体を抱きかかえるようにして部屋の中に強引に押し入った。
「ちょ…ちょっと待って下さい、まだ片付けもしてないし、心の準備が…」
「うるさい、ベッドさえ空いてりゃいいだろうが…今更生娘みたいにうろたえるな」
 仰天したルネの悲鳴と抗議の声を塞ぐよう、ローランは両腕で彼を深々と抱きしめながら、キスをする。
 たちまちルネは、くたっとおとなしくなった。
(ああ、さっきと同じだ。僕を抱きしめる腕の強さも熱っぽいキスも…それに、この香り…あのまま放置じゃなくてよかったと僕は思うべきなのかな? 素直に喜ぶには、やり方が酷すぎるけれど…)
 先刻路上で交わしたキスと抱擁の続きを、ルネは戸惑い、釈然としない思いを抱えながらも、結局は受け入れ、許していった。
(僕は、こんなつもりで、パリに出てきた訳じゃあなかったのにな)
 そう、気がつけばルネは、ローラン・ヴェルヌにどっぷりはまってしまったのだ。 
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