花束と犬とヒエラルキー

葉月香

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第一章

ボーイ・ミーツ・ボーイ(5)

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「お飲み物は何にいたしましょう?」
 ローランに連れて行かれたレストランで、品のいいソムリエに尋ねられて、うっかり『ビール』と言いそうになったルネは、テーブルの下でローランに足を蹴飛ばされ、黙り込んだ。
「俺はシャンパンを、こいつにはビールじゃなくてキールをやってくれ」
 この馬鹿者と言いたげにローランはルネをじろりと睨んだが、ルネが緊張しているのを見て取ると、すぐにまた優しげに眦を下げた。
「外見はそれだけ見事に化けたのに、中身はやっぱり変わらんな…まあ、仕方ないか」
「すみません、こういう格式の高い場所での食事には慣れていないもので……普段友人達と食べに行くのは気の張らないビストロかバーですし、そういう場所で僕が好んで飲むのはビールやシードルみたいなものですから」
 汚すのが怖いような真っ白なテーブルクロス、重たげな銀のカトラリー、中で小魚でも飼えそうなクリスタルのグラスを前に、肩で大きく息をつくルネを眺め、ローランは柔らかな微笑みはそのままに、瞳の温度を僅かに下げた。
「慣れろ。俺のために」
「は、はい…」
「昨日やったパンフレットをちゃんと読んだのか…? うちの傘下には、こういう雰囲気のレストランが何件もあるんだぞ。たまに視察に行ったりする度、いちいち怯んでいたら、仕事にならんだろう?」
 噛んで含めるように言うローランに、ルネは素直に頷いた。
「確かにそうですね。場数を踏めば何とかなると思いますが、早く慣れるよう努力します」
「それから、好き嫌いは別にして、最低限のワインの知識くらいは身につけておけ。海外からの客をもてなすこともある。フランス人のおまえが、シャトー・ラトゥールの名前も聞いたことがなかったら、失笑ものだぞ」
 ラトゥール君か。後で調べてみようと、ルネは頭の中のメモに控えておいた。
「さて、耳の痛い説教はここまでにしよう。俺も、休日の夜にまで仕事モードでいたくない。特に、その姿を前にしてはな」
 またしてもローランは、あの不可思議な熱っぽい瞳で、ルネを凝視した。見ていて少しも飽きないというかのごとく熱心に、満足そうにほくそ笑んで―。
「あの、ローラン……」
 落ちつかなくなってきたルネが、思い切って口を開きかけた、その時、何やら焦った足取りで店の奥から飛んできた、黒服の店員の姿が視界の端に入ってきた。
「ムッシュ・ロスコー、ムッシュ・ヴェルヌ、ようこそおいで下さいました。予約時に一言おっしゃって下ったなら、別室にテーブルをご用意しましたのに…」
 ムッシュ・ロスコー? 店員が口にした、その名前を聞き咎め、ルネは訝しげに眉を寄せた。
「ああ、支配人…いいんだ、今夜はそんなにかしこまった席じゃないからな」
「しかし、せっかくムッシュ・ロスコーが、当店においでくださいましたのに…」
 申し訳なさそうな支配人の目がルネに向けられ、それから、おやというような戸惑いの表情を浮かべた。
「紹介しよう。これからもこいつを伴ってこの店に来ることがあるかもしれないからな。俺の新しい秘書のルネ・トリュフォーだ」
「よ、よろしく…」
 ぎこちなく微笑むルネの顔を、支配人は、何かしら信じられないものを見るかのごとく眺め、再び恐る恐るローランを振り返った。
「あの…ムッシュ・ヴェルヌ、そ、それでは、この方は…?」
 はあっと、ローランが溜息をついた。
「そういうことで、余計な気遣いはなしだ、支配人。悪いが、2人きりにしてもらえないか…? 俺は、ルネとの会話を楽しんでいた最中なんだ」
 ローランが上品に眉を潜めて不興を示しただけで、蛇に睨まれた蛙のようにすくみ上がった支配人は、慌てて謝罪し、退散していった。
「何だったんですか、今の…」
「気にするな…支配人の勘違いだ。それより、さっき俺に何かを聞きかけただろう、いいのか…?」
 矛先を軽くかわされたような気はしたが、ルネはひとまず、その釈然としない思いは胸の中にしまっておくことにして、ずっと気になっていた、別の問いを投げかけた。
「あの…ローラン、どうして、僕にここまでよくしてくださるんですか? せっかくの休日を僕のためにわざわざ割いて…昼間の買い物だって最低限の準備どころか必要以上、髪形を変えたことに至っては意味不明ですし、いくらあなたが自分でスカウトしたからって…」
「どうした、嫌だったのか…?」
「嫌とか迷惑だという訳じゃないですよ、ただ理解できなくて……」
「俺がおまえを気に入ったからというだけでは、理由にならないのか?」
 ルネの反応こそ、訳が分からないとでもいうかの如く、ローランは瞬きをした。
「あの短い休暇中、おまえを紹介された時から、どうしても気になって、欲しくなって仕方がなかった。だから昨日、俺を頼ってパリに出てきたおまえを見た瞬間は、胸の内で快哉を叫んだぞ。ルネ、俺がわざわざ自分でおまえに手をかけたがるのはな、おまえが俺の理想にとても近いところにあるからだ。だからこそ、刺激的なパリに暮らし始めて、そこにある余分なものまで吸収してしまう前に、俺の好みに合うように磨いてみたくなったんだ」
 ぽかんと口を開いて聞き入るばかりのルネに、ローランは悪戯っ子のように笑いながら、片目を瞑ってみせた。
「それにしたって、ほんの少し手を加えただけで、ここまで化けるとは思わなかったぞ。今のところは、俺の期待以上の出来だな。しかし、いくら外見を磨きたてた所で、それに内面が伴わなければ、すぐにぼろが出る。さて、お前はこれからどんなふうに変わっていくのだろうな、ルネ…これでも目は確かなつもりなんだが、どうか俺を失望させてくれるなよ…?」
 どくんと、ルネの心臓が胸の内で激しく打ち震えた。
(もしかしてこれは、口説かれているのだろうか…? 理想に近いから欲しくなったとか、好みに合うよう手をかけるとか、直截的ではないけれど…いくら都会の男だって、仕事の延長で普通は言わないよね…?)
 ルネは動転しながら、震える手でキールのグラスを引っ掴み、一息に飲んだ。
(落ち着け…冷静になれ、僕は、確かに就職だけでなく恋のチャンスも掴みたくてパリに出てきたけれど、いきなり、こんな大物を一本釣りだなんて、いくらなんでも話がうますぎる)
 ルネはともすれば暗転しそうになる頭をフル稼働させて、必死に考え続けた。
 これこそ理想の男だと憧れ続けたローランに、こんな嬉しいことを言われて一気に舞い上がらない自分が不思議だったが、とにかく胸の奥に引っかかりがあったことは確かだ。
(そうだ、この話、そもそもの初めから、何かおかしい。そりゃ、僕にとってとてもありがたい就職話であることには確かだけれど、ミラさんの代わりの秘書なら、僕みたいな田舎出の未経験者を一から仕込むより、パリで見つけた方が即戦力になるはずだ。ローランは僕を気に入ったと言ってくれたけれど、僕はそこまで目をかけてもらえるような特別な仕事を、あの短い期間中彼に対してした覚えはない…すると僕の外見が気に入ったということか。実際いじくりまわして好みに変えられた気はするけれど、手近な所に愛人めいた相手を囲っておくとか、そういう下心を仕事に持ち込むような人だとは思いたくない)
 ルネはすうっと息を吸いこんで気持ちを鎮めると、自分の反応をじっと窺う構えのローランを正面から睨み据えた。
「自分の理想に近いと言ってくださる僕のことを、あなたはどれだけ知っているというんです、ローラン?」
 挑戦的に問いかけるルネの態度に、ローランの目がほうとでもいうかのように目開かれ、口元が嬉しそうに綻んだが、さすがにそれを斟酌できるほどの余裕はルネにはない。
(ローランがどんなに僕のタイプで、彼に甘い言葉をかけられたらつい有頂天になってしまいそうでも…これだけはちゃんと言っておかなきゃならない。彼が僕にどんな理想像を期待し、押し付けようとしても、僕はそれだけでは収まらない。だって、今でさえ、僕には、この人には知られなくて履歴書にも書かなかった秘密や嫌われたくなくて用心深く隠している別の面がある。そんなことも知らないで、僕を簡単に変えられると思っているのなら、この人は僕を見損なっている)
 ルネはテーブルにばんと両手をついて立ちあがり、ローランを上から睨みつけながら、叩きつけるように言い放った。
「馬鹿にしないでください。僕は真面目に就職先を探してパリにまで出てきたんです、あなたの個人的なお相手をするために来たわけじゃありません。それに、あなたの好みにあうようお金で磨きたててくださるのは結構ですけれど、どんなに外見が変わったって、僕は僕です。僕以外に何ものにもなれませんし、僕自身が変わりたいと望まない限り、あなたの思い通りになんか、絶対なりませんからっ」
 言っちゃった。ルネはせっかくの就職も恋のチャンスもこれでふいにしたかなと思ったが、予想に反して、ローランの表情は満足そうだった。
 まるで、逆らわれて腹を立てるどころか、期待以上の反応をルネがしたことで、むしろ好感度が上がったというような…。
「そんなことは分かっているさ、ルネ…外見の印象や物腰がどんなに変わっても、おまえにはあくまでおまえのままでいてもらわなければならない。見た目だけを真似ようとして失敗した不自然で不細工なコピーなど、俺は求めない、いや…」
 ルネがずっと威嚇するように睨んでいるからだろう、ローランは神妙な顔をして、すまなげに付け加えた。
「今のは、俺の言い方が悪かった。許してくれ」
「ローラン…?」
 あっさりローランが引き下がったため、ルネはむしろ拍子抜けして、振り上げたこの拳をどうしたものかと迷った。
「まあ、落ちついて、座れ、ルネ、給仕が困っているぞ」
 ルネが脇を見やると、確かに料理の皿を手にした給仕が2人、テーブルに近づくタイミングが見つからずに途方に暮れて立ちつくしていた。
「あ、すみません…」
 この場の雰囲気に、何となく戦意を喪失したルネが素直に着席し直すと、給仕はすっと滑らかに動いて、テーブルの上に料理の皿を置いた。
「取りあえず、機嫌を直して、食事にしないか…? 料理は温かいうちにいただくものだ」
 子供に言い聞かせるような口調で、まだ怒りが収まらずに黙りこんでいるルネをやんわりたしなめて、ローランは優雅にナイフとフォークを取り上げた。
 それをちらっと見やって、ルネは唇を尖らせた。
(別に、食べ物で誤魔化されるつもりはないんだけれどな)
 ルネがはっきり拒絶の意志を示すつもりなら、ここはうやむやにせず、席を立って立ち去るべきなのかもしれない。ローランがこれ以上我を通して、ルネを力で押さえつけようとしたら、間違いなくそうしていただろう。
 しかし、物柔らかに頷かれて謝罪されれば、これ以上ルネが逆らう理由はなくなる。
 完全に納得したわけではなかったが、むきになって突っかかるのも子供じみているような気がしたので、ルネは不承不承、ローランにならって、食事を始めることにした。
(まあ、せっかく用意してもらった料理をないがしろにするのは、作ってくれた人に悪いよね…おばあちゃんに叱られちゃう…)
 与えてくださった神様と作ってくれた人に感謝しながら、出された料理はちゃんと残さず食べなさい。小さい頃近くに住んでいて、よく可愛がってもらったルネの祖母の口癖だった。
(これ、フォアグラのラビオリとか言ってたっけ。うちでは、フォアグラなんてクリスマスにしか食べないけど、薄く切って、それを焼いたパンにのせてがっつり食べるのが定番…)
 内心これでは食べた気がしないと思いながら、上品に調理されたラビオリの1つを口に入れた途端、ルネは目をまん丸く見開いた。
「あ…これ、美味しいっ…!」
 手が込みすぎて見た目では味の想像が出来なかったが、一口食べてみたら、その美味しさに、不機嫌だったルネの顔がぱっと花が咲いたように明るくなる。  
「ほお…初めは、こんな食べ付けないものには抵抗がある様子だったのに、口にあったようだな」
「はいっ。こんなに美味しいなら、クリスマスだけと言わず、時々食べたいくらいです」
 自分が不機嫌になっていた理由もひとまず脇に押しやって、弾んだ声で正直な感想を述べるルネに、ローランが小さく吹きだした。
「単純な奴だな、おまえ…」
 ルネは口をもごもご動かしながら、少し照れた顔をした。
「だって…美味しいものは美味しいですから…」
 ルネは急に自分が凄く空腹だったことを思い出したように、夢中になって、その料理を咀嚼し、舌で味わい、飲み込んだ。
 ついさっきまであれほど腹を立てていたローランが呆れたように見ていることも気にならず、あまりの美味しさについ顔が綻んでしまう。
「人間は美味しいものを食べる時、一番幸せな顔をするそうだが…お前の顔を見ていると、その通りだとつくづく思うな。俺は、仕事が絡むと素直に楽しめないことも多いんだが…」
 ローランがそんな感慨を述べる間にも、ルネはもう食べ終わってしまって、小さく割いたパンで皿に残ったソースをぬぐってはせっせと口に運んでいる。
 マナーがいいかはさておき、料理を作った人間にしてみたら、客にこんなに喜んでもらえたら本望だと思うに違いない。
 そうこうするうちに、先ほどと同じソムリエが恭しく一本のワインを携えてやってきた。
「シャトー・ラトゥール1990年でございます」
 あ、噂のラトゥール君か。興味津々ルネが見守る中、ソムリエは細心の注意を払ってワインを抜栓し、ローランのグラスの中に、深い紫の液体を細く注ぎ込んだ。
 それだけでふわりと立ち上ってくるすごい香りに、ルネは鼻をひくひくさせた。もともと嗅覚がいいので、ワインに興味はなくとも、匂いには敏感なのだ。
「ルネ、今夜は、おまえに最高峰のワインを体験させてやるからな。これも勉強だと思って…」
 テイスティングをした後、このワインについてソムリエに何か尋ねていたローランが思い出したように声をかけると、もう待ち切れなかったルネは、グラスを持ち上げて口元にまで運んできていた。
「いい匂い…」
 ほんのり甘いカシスとベリー…胡桃とスパイス…雨上がりの森の中を歩いた時のような懐かしい香りも…。
 うっとりと眼を瞑って、ルネはそのままくいっと一息にワインを飲んだ。
「あ」と、見ていたローランとソムリエが思わず同時に声をあげてしまったくらい、物おじもせず、大胆に。
「嘘ぉっ。何、これ、物凄く美味しい…感動的…!」
 今度は、全身花畑の中にどっぷりつかったというくらい嬉しそうに笑って、ルネは美味しそうにくいくい喉を鳴らして、シャトー・ラトゥールを飲みほした。
「そりゃ、美味いだろうさ…ラトゥールだからな…」
 ローランは軽い頭痛でも覚えたかのようにこめかみを押さえて、幸せそうにグラスを持って溜息をついているルネを眺めていたが、やがて、おかしそうに肩を揺らして笑いだした。
「あいつと同じ顔でラトゥールを一気飲みしやがった…はは、駄目だ、変な笑いのツボに入ったぞ。ああ、ルネ…せめて、その味と香りはちゃんと記憶に留めておいてくれよ。さすがの俺も、おいそれとおごってやれる代物じゃないからな」
 ルネは不思議そうにぱちぱち瞬きして、テーブルに突っ伏してくっくっと笑い転げているローランを眺めた。
 確かに、ラトゥール君は美味しかった。目の前で新しい世界が開けたくらいの衝撃だったが、ルネがもっとショックを受けたのは、後日自分にも買えないかと思ってネットでシャトー・ラトゥールについて調べてみた時のことになる。
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