花束と犬とヒエラルキー

葉月香

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第二章

悪魔のように黒く(6)

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「あ、いい匂い」
 テーブルの上に置かれた紙袋の中にはケータリング用のパックが幾つも入っていて、そこから食欲を誘う匂いが漂ってくる。
「今日、社でお前と会った時、やけに顔色が悪いのが気になってな。どうせ、この1週間ろくなものを食べていなかったんだろう。元気がなくとも、おまえが喜んで食べられそうなものを探して買ってきた…と言っても、おまえは何が好きかまで分からなかったんだが、オーヴェルニュの家庭料理なら、油の回った中華のケータリングよりも食べやすいだろう…?」
 ローランはそんなことを言いながら、紙袋から取り出した料理のパックを開いて、テーブルに並べていった。
 ジャガイモ入りのチーズのお焼き、豚肉とレンズ豆の煮込み、プルーンと野菜のテリーヌ…ルネの実家の料理とは微妙に違うけれど、確かに、どこか懐かしいような料理であることは間違いない。
「ここのレストランは普段ケータリングなどしていないんだが、おまえのために、特別に頼み込んで作ってもらったんだぞ。モンドール出身の夫婦が2人でやっている小さな店だが、味はいいと評判で、パリに移り住んだオーヴェルニュ地方出身者が常連になっているそうだ」
 ちゃんと保温のできるパックに入っていたので、料理はまだ温かく、いかにも美味しそうで、ルネは早速手を伸ばして、ジャガイモとチーズのお焼きを口に運んだ。
「美味しい…これなら、食べられそうです」
「それを聞いて、安心したぞ」
 フォークを持ち直して本格的に食べ始めるルネの様子に目を細め、ローランは、別の袋から取り出したボトルをテーブルの上に置いた。
「あれ、シードルですか…?」
「おまえ、好きだと言っていただろう…? しかし、調子が悪いなら、アルコールは控えた方がいいかな」
「気持ち悪いのはもう治ったみたいですから、少しだけいただきます」
 自分の好みをローランが覚えていてくれたことが意外であると同時に嬉しくて、ルネは気がつけば、彼に向って微笑みかけていた。
「うーん、やっぱり、俺には少し甘過ぎるな。ルネ、冷蔵庫のビールを1本もらうぞ」
 ローランはまだ食器もほとんど揃っていない食器棚から探し出してきたグラスにシードルを注いで味見をしたが、すぐに顔をしかめて、グラスを置いた。代わりに、冷蔵庫から缶ビールを持ってきて、ルネの前の席に腰を下ろす。
「あれ、ローラン、あなたでもビールなんか飲むんですか…?」
「俺だって、別に毎晩高いワインばかり飲んでいる訳じゃないさ」
 自分のアバルトメンの小さなダイニング・キッチンで、こんなふうにローランと向き合ってケータリングの料理をつついていることが、ルネは不思議だった。
 本来なら、こんなふうに気安く人の部屋に上がりこんで一緒に食事をするなどと、ルネは彼に許すはずもない。
(ローランが来てくれなかったら、僕は今夜食事にもありつけず、あのままキッチンの床で泣きながら眠り込んで、きっと風邪をひいていた訳で…確かに、この人のおかげで助かったのかもしれないな。でも、そんなことで誤魔化される程、僕は馬鹿じゃない…それとも、やっぱり馬鹿なんだろうか…? 困ったことに、僕は今、ローランとこうしていられることが心地よいと感じている)
 会社での彼は近づきがたく余所余所しい感じがしたが、今はごく自然にくつろいで、ルネに対する態度も親密で気遣いに満ちているからだろうか。
(どうしよう…こんなふうに優しくされると、うっかりまた勝手に思いこんで、信じてしまいそうだ。この人が僕のことを好きだなんて…)
 差し入れのシードルを飲みながら、ルネは、ローランが豚肉とレンズ豆の料理を頬張って、なかなかいけるなと頷くのを見守っていた。
(ローランがくれた、このシードル…甘酸っぱくて、切ない味がする)
 ルネの複雑な心情を、ローランはどこまで斟酌しているのだろう。それとも本当に無頓着なのか。
「ここの料理が気に入ったなら、今度は一緒に食べに行こう。出来たての方が、うまいに決まっているからな」
「え、ええ…それにしても、こんな素朴な家庭料理の店なんて、あなたがよく知っていましたね」
「実は、ガブリエルに教えてもらったんだ」
 臆面もなくローランが打ち明けたのに、ルネは料理をつつく手をとめた。
「さすがはアカデミー・グルマンディーズ主宰と言うべきかな。パリにあるレストランの情報なら、最新のグルメ情報誌よりもよほど正確で信頼できる。美味いものに関しては、特別なアンテナが働くんだろうな…実際よく1人で食べ歩いているらしいが、あんな下町の小さな食堂まで網羅しているんだから、全く驚きだ」
 ルネはシードルのグラスをぐっと握り締めながら、一気に早くなった心臓の鼓動を鎮めようと努力していた。
(ガブリエル…雑誌の中で見た、僕にそっくりな人…ローランがこの世で最も愛しているという『大天使』…)
 ルネは顔を俯けてしばし煩悶した後、思い切ったように目を上げ、ローランに向かって訴えかけた。
「あのローラン…ムッシュ・ロスコー…ガブリエルって、一体どんな人なんですか…?」
 ルネの思いつめた顔を見たローランは、缶ビールを口に運びかけていた手を止めると、極めて真面目な顔つきになって、こう切り返した。
「おまえが聞きたいというのなら、話してやるが…ガブリエルについて俺に語らせると、とてつもなく長い話になるぞ。本当に聞きたいのか?」
「う…」
 ルネはとっさに怯んで、自分の反応をじっと窺う構えのローランの鋭い緑の目を見返した。
「い…いいです、やっぱり…今は聞きたくありませんっ」
 がっくりと肩を落として、力なく頭を振りながら、ルネは答えた。
 そんな壮大な好きな人語りをローランの口から聞かされたら、せっかく持ち直しかけている心が、今度こそぽっきり折れてしまいそうだ。
「そんな情けなそうな顔をしなくても、そのうち分かるさ、ルネ」
 分かりたいような分かりたくないような、もやもやとした気持ちを持て余しているルネの頭にローランは手を伸ばし、柔らかな髪の中に指を差し入れて優しく撫でた。
(僕はどうしたらいいんだろう…見せかけだけかもしれない優しさに、不覚にも、すがりついて泣きだしたい自分がここにいる)
 ルネはグラスに残っているシードルを飲みほして、テーブルの上に置いた。
「ご馳走様でした。ありがとうございます、ローラン、おかげで飢え死にしなくてすみました。人間、やっぱりちゃんと食べるものを食べておかないと駄目ですね。もう二度とこんな恥ずかしいところをあなたに見せずにすむよう、気をつけます」
 ローランはルネの生真面目な顔を見て、何も言わずに微笑むと、おもむろに立ち上がった。
「あっ…ローラン…」
 一瞬もう帰ってしまうのかと思ったルネは、ついそれを追うように立ち上がって、伸ばした手で彼の腕を掴んだ。
「何だ?」
 ルネは顔を赤らめながら、すぐに手を離して、ごまかすようそれをぱたぱたさせた。
「い、いえ…あの…」
 ローランは笑いを含んだ目で、そんなルネをじっと見下ろしている。
「あの…まだ帰らないでください…急いでいるのでなければ、もう少し僕と一緒にいてくれませんか…? その…たぶん僕はホーム・シックなんです。独りでいることが何だか心細くて…」
 一体自分は何をやっているのだろうとルネは思った。ホーム・シックだなんて白々しい言い訳をしてまで、ローラン引き留めようとしたりして――。
「駄目ですか…?」
 こんな馬鹿な真似はやめようと思いながらも、つい、今にも泣きだしそうな潤んだ目でローランを見上げてしまう。
「…帰るだなんて、一言も言ってないぞ」
 ローランがぶっきらぼうな口調で答えたのに、ルネはぱっと顔を輝かせた。
「食後にコーヒーか何か欲しいな…どこに置いてある、ルネ? 俺が淹れるから、おまえは座っていろ」
 コーヒーと聞くとついオフィスでの苦労を思い出してしまうルネは、慌ててローランの後を追い、テーブルを離れた。
「すみません、コーヒーはまだインスタントしか置いてないんです。ええっと、ハーブ・ティーか緑茶はどうですか? といっても、どちらもティー・バックですが…」
 インスタントのコーヒーよりは無難な食後のお茶を用意して、リビングに移動した後、2人はテレビの前のソファに身を落ちつけて、適当につけた番組を見るともなく見ながら、取り留めもない話を続けた。
 そう言えば、ローランと2人きり、こんなふうにくつろいで過ごしたのは先週末以来のことだった。
 特別何をするでもなく、ただ寄り添い合っているだけで、温かさが胸の奥から体中にじんわりと広がっていくような心地よさに、ルネは、自分がよほど彼を恋しがっていたことに気付かされた。
(そうかぁ…僕はやっぱり、この人のいないパリで、独りぼっちでいるのが心細くて寂しかったんだ。ローランがいないなら、冷たくて余所余所しい都会になんか、僕はそもそも移り住もうとは思わなかった。そのローランに裏切られて、心の拠り所がなくなってしまったから、こんなにも心が不安定になっていたんだ。この人が僕にしたことを簡単に許す訳にはいかないけれど、でも―)
 深く考えだすとどっぷりはまって抜けられなくなりそうな煩悶は、取りあえず脇に置いておいて、現在傍にあるささやかな幸せに浸っていたいールネは、隣り合って座っているローランの脚にぴたっと自分の脚をくっつけて、甘えかかるような口調で話しかけた。
「ねえ、ローラン、さっき、ここに来る前にジムに立ち寄ったって言ってましたよね。よく行くんですか、仕事帰りにジムなんて…?」
「ああ、出張や他の約束がない時は、ほとんど毎日かな。ストレスの発散と体の維持管理のため…」
 ローランは、なかなか色の出ない緑茶のティー・パックをマグカップの中でぐるぐるさせながら、答える。
「ふうん…仕事だけでハードなのに、毎日はすごいですね」
「一種の強迫観念だな。俺が仕事の席で会うのは、それなりの年齢の管理職の連中が多いんだが、どいつもこいつも、言っちゃなんだが、でっぷりと肥えた親父ばかりなんだ。そういう奴らに、ムッシュ・ヴェルヌは若くてスタイルもいいから羨ましいなどとでかい腹をさすりながら言われ続けると、おまえも年をとったらこうなるぞと脅されているような気分になってな。俺は、いくら年を食っても、醜く腹が出るのだけはごめんだ。そのくらいなら潔く早死にしてやる」
 何を思い出したのか、ローランは渋い顔をして、緑茶をぐいっと飲んだ。
「ああ、それで水泳ですか。スタイル・キープには適していますものね。ナルシストっぽいとは思ってたけど、やっぱり…」
「何が、やっぱり、なんだ?」
 ルネはローランに軽く小突かれながら、カモミール・ティーのカップを手に、くすくす笑った。
「いいえ、僕は泳ぎは苦手なんで、羨ましいなって…水泳の他には、何をするんですか?」 
「時間がなくてジムで泳がない時でも、筋トレとバイクくらいはするようにしているぞ。簡単なマシーンなら、家に幾つか置いてあるんだ。もっとも、家だとつい気が緩んで、バイクをこぎながら居眠りしそうになるから困る。それから、体の完全に空いた休日には、乗馬やテニスだな…よかったら今度連れて行ってやろうか?」
「あ、乗馬は楽しそうですね。僕も子供の頃、家の近所の牧場で馬に乗せてもらったことならあります。そういう気晴らしを何か持つことが、日頃ストレスを溜めこまないコツかもしれないですねぇ」
「おまえも、俺のようにジムに通えとは言わないが、仕事以外に何か気分転換になる趣味や関心を見つけることだな。そうすれば、それを通じて新しい仲間や友人も見つけられる。自分の居場所を作ることができれば、今は余所余所しくて冷たく感じられるパリの街も、案外住みやすいということが分かるさ」
 今自分が感じている所在なさをローランに見抜かれたような気がして、ルネは少しはっとした。
「仕事以外に僕が興味を持てそうなことですか。今は、そこまで考える余裕もないですけれど…」
 カップから立ち上るハーブの心安らぐ香りに目を細め、ルネはふと、今通っている秘書の学校の近くで見かけた、柔道教室の看板を思い出した。
(…一緒に空手も教えているみたいだったな。本格的にまたやり始めるつもりは全くないけど、息抜き程度なら…今度、ちょっと中を覗いてみようか)
 都会の人は取っつきにくそうでも、格闘技を通じてなら、すぐに分かりあえて、友達だってできるかもしれない。
 そもそも確固たる自分を持っていないから、周りの環境が変わったくらいですぐに動じて、心が揺れやすくなるのだ。失恋したくらいで、この世の終わりのように落ち込むのだ。しかし、これが自分の在り処だと胸を張って言えるものなら、ルネもかつては持っていた
(ああ、でも、僕は格闘技の世界からは足を洗ったはずだ。いくら強くなったって、僕は幸せにはなれない…それに、もしローランが、僕が道場に通いだしたことを知ったら何て思うか、やっぱり恐い…)
 ぐるぐると思い悩んでいるルネの肩を、その時ローランの手が包み込み、そっと抱き寄せた。
 ルネは素直に甘えるよう、ローランの胸に頭を預けて、目を閉じた。
(ローラン、今のあなた、昼間とは別人のようですよ。いつもこんなふうだったらいいのに…ううん、四六時中優しくされたら、また僕は甘い期待を抱いてしまいそうで、困るかな)
 下りてきたローランの唇がルネの額に触れ、それから瞼の上にそっと押しあてられる。髪を優しく梳いているしなやかな指先が快くて、ルネはうっとりとなって、思わず喉を鳴らした。
(柔道教室、ローランに知られなきゃ、別にいいかな…こんなふうに大人しく従順に抱かれている僕が実は黒帯持ちだなんて、いくらローランだって夢にも思わないはずだ。そう、えっちの最中に寝技をかけちゃうなんてことがなければ、きっと大丈夫…ばれない、ばれない)
 微かな笑みをうかべているルネの顔を見下ろしながら、ローランは甘く低い声で囁きかけた。
「何を笑っている…?」
 ルネは薄っすらと目を開けて、怪訝そうなローランを悪戯っぽく見上げた。
「秘密です」
 ルネは腕を伸ばしてローランの首に巻き付け、焦れたように、自分の方に軽く引っ張った。これも柔道の絞め技に簡単に持っていけそうな体勢だが、無論、そんなことはしない。
「今夜の俺は塩素臭いけど、いいのか…?」
「別にもう気になりません。それに、あなただったら、たとえニンニク臭くても、僕は大丈夫です」
「…それは、俺が嫌だな」
 ルネが再び目を閉じてどきどきしながら待っていると、ローランの唇が今度は唇に触れた。
(ローラン…今のあなたは、キスまで優しい…)
 それは、いつかの夜に交わした、ルネの全てを食いつくそうとするような性急で荒々しくいキスではなかった。こうして触れ合うことで、互いの存在を確かめあおうとするような優しさに満ちたもので、弱くなっている今のルネには、むしろ好ましい。
(そう言えば、初めてこの人と寝た時も…どうせ一夜の遊びだからと半分覚悟していたのに、意外なくらい優しくて、僕はびっくりしたんだ)
 ルネはローランと唇を軽く擦り合わせ、漏れる吐息を絡めあいながら、ぼんやりと思った。
(いかにも遊び慣れてそうな都会の男だもの、終わったらきっと手の平返したように素っ気なくなるんじゃないかって疑ったけど、全然そんなこともなくて…ローランの胸に抱かれていると、すごく温かくて安心できて、いつまでもこの人と一緒にいたい、離れたくないって思った。だから、僕は…何も知らない、この人のことを信じてみようという気になったんだ)
 背中をゆっくりと確かめるように撫でていたローランが、ふいにその手をとめ、またしても自分を抱き上げようと試みるのに、我に返ったルネは、慌ててソファから飛び起きた。
「駄目です、ローラン!」
「ど、どうして…?」
 ルネは瞳をぐるっと回して、苦しい言い訳をした。
「…さ、先に、寝室を片付けさせてください。ベッドなんか、今朝起きだしたままの状態でぐちゃぐちゃだし、せめてシーツくらい変えないと…僕が呼ぶまで、ちょっとの間待ってくださいっ」
 せっかく気分が盛り上がってきたところで中断かよと、ローランは鼻白んだ顔をしたが、捕まえようと伸びてきた彼の手を軽くかわして、ルネは寝室の方に飛んで行った。
「はあっ…ぼうっとしてるとあの人に正体ばれるぞ。気をつけないとなぁ」
 立てこもった寝室のドアに背中を押しつけ、ルネは紅くなった頬を両手で挟んで冷やした。
(そうだ、僕はあの時、ローランについていこうと決めた。腹の中に一物も二物もありそうなクセのある人だけれど、僕の胸に伝わってくる彼の優しさは紛れもない本物だったから…あれが嘘なら、僕がこの世に信じられるものなんか、もう何もなくなる)
 だから、もう少しパリの街に留まってがんばってみよう。
(だって、僕はまだ、ローランのことをほとんど何も知らないもの…鬼か悪魔のような顔で人を怒鳴りつけるかと思ったら、心を蕩かすような優しい笑顔を向けてくる。自信家で傲慢なナルシストのくせに、好きな人のためなら粉骨砕身尽くしてしまう…彼をもう少し理解できるようになって、それでも僕は傍にいたいと思えるだろうか。そうだ、三行半を叩きつけてローランのもとを去るのは、それからでも遅くないはずだ)
 気持ちの整理がついたというか、むしろ開き直ったと言うべきか、ルネの胸に涼しい風が吹き抜けていくような清々しさが広がっていく。
(僕がローランに愛想尽かしてここから出て行く時には、それまで受けた心の痛みを倍にして返してやろう。自分が拾った可愛い犬が実はどんな猛犬だったのかを、死ぬほど思い知らせてやればいい)
 そんな物騒なことを心の片隅で考えながら、ルネは手早く寝室を掃除し、ベッドのシーツも新しいものに取り換えた。
(ローラン、それまであなたは、僕が命がけで愛し尽くそうと思う、この世で一番大切な人です)
 寝室のドアを大きく開いたルネは、すうっと息を吸い込み、とびきり甘くて可愛い声で、じりじりしながら待っているだろう愛しい人を呼んだ。
「お待たせしました、ローラン…ね、早くここに来て下さいよ」
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