花束と犬とヒエラルキー

葉月香

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第四章

愛とスープの法則(8)

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「う…そ、それは――」
 ルネはこの問題について真剣に考えを巡らせてみた。
「もちろん、よくはないですよ…でも僕は、よほど無茶なことじゃない限り、何でもローランの好きなようにやらせてあげたいし、そのための苦労なら我慢できるかなとも思うんです。まあ、さっき、あなたに聞かれてしまった絶叫も僕の紛れもない本音で、確かにもう少しくらい気遣って欲しいとは思いますけれど…僕は別に、あの人の感謝の言葉が欲しくて尽くす訳じゃない」
 ルネは首を傾げてまた少し考え込んだ。
「あの人の身勝手や我が侭に振り回されて、たまに本気で投げ飛ばしてやろうかと思うことはあっても、僕がそれをしないのは、その苦労に見合う何かを、僕があの人からもらっているからなんです。そりゃ、僕にだって、あの人の心を知りたい、もっと愛してもらいたいという気持ちはありますよ。でも、それ以上に強く僕を突き動かしている欲求があって、それが満たされると幸せな気持ちになれる…ううん、何が言いたいんでしょうね、僕――」
 次第に頭の中が混乱してきたルネは、途中で理路整然と語ることを放棄して、両手で顔を覆った。
「こんな甘いこと言っているとますますローランを図に乗らせそうだけれど、僕は結局、あの人が喜ぶ顔を見たいから尽くしている気がする」
 言った瞬間、ルネはげっと思った。自分の満足よりも奉仕する相手の幸せが優先だなんて、これでは、ローランと同じ忠犬体質のようではないか。
「ああ…そういうことですか…」
 やけに納得したようなガブリエルの呟きに、ルネはとっさに伏せていた手から顔を上げた。
「そ、そういうことって…?」
 分かったような顔でしきりに頷いているかと思うと、ガブリエルは小さく吹きだした。
「すみません、笑ったりして…いつも他人の評価に厳しいローランが、どうしてあなたをあそこまで気に入って自分の秘書にしたのか、その理由が分かったので、おかしくなってしまったんです」
 ガブリエルはくつくつと笑いながら、目じりに浮かんだ涙を指先で拭うった。
「ルネ、どうしてローランが身を粉にして私に尽くすのかというとね…もちろん私を愛しているからではありますが、それと同じくらい彼が、全力で奉仕している自分のことも大好きだからなんですよ。愛する者のため、我が身に鞭打ち一生懸命働くことが気持ちいいんです。そして私が彼に対していつも我が侭に振舞うのは、そんな彼の欲求を知っているからで…もしも私が、彼の手を借りずに何でも自分でやろうとしたら、生き甲斐をなくしたローランは、きっとがっくりきてしまうでしょうからね」
 顔を引きつらせているルネに向かって、ガブリエルは揶揄するように、片目を瞑って見せた。
「ルネ、どうやら、あなたにもそういう性向があるようですね?」
 ルネははっと息を吸い込んだ。
「そ、そんなはずないです…! 確かに僕はあの人に尽くすのは好きだけど、ローランのあなたに対する盲目的忠誠に比べたら全然常識的なはずです。僕は別にローランの飼い犬って訳じゃないですし…い、嫌ですよ、そんな同病相哀れむみたいな…」
 言いかけて、ルネはまたしても黙りこんだ。
(いや、傍から見ていれば、僕のローランに対する懲りない忠実さは、やはり犬のように思われていたんだろうか。ローランのガブリエルへの忠実さを目の当たりにするたび苛々したのも、単なる嫉妬を超えて、同族嫌悪が混じっていたりして――)
 ローランは彼の絶対的君主であるガブリエルの背を追い、そのローランを熱愛するルネはやはり彼の注意を乞いながら追いかけていく、これこそ正しい犬の姿であるかのごとく。
 どんよりと落ち込むルネに向かって、ガブリエルは厳かに告げた。
「別に卑下するようなことじゃないでしょう、ルネ。ローランは私に隷属している訳ではないし、あなたもローランの所有物ではない。全て、あなたやローランが自分の自由意思で行っていることで、だからこそ、その忠誠心は、それを捧げられる者にとって、とても得難い貴重なものなんですよ」
「そんなこと言われたって…そりゃ、あなたはヒエラルキーのトップにいて、愛情も忠誠も一方的に捧げられる側だからいいでしょうけれど…」
 情けなそうに頭を振るルネに、ガブリエルは椅子から立ちあがって、近づいてきた。
「ルネ」
「は、はい」
 ルネは、目から出かかっていた涙を引っ込め、反射的に顔を上げた。すると、自分を覗きこむガブリエルの美しい顔が、その芳しい吐息がかかりそうなくらい間近にあった。
「私は、あなたを気に入りましたよ。あなたになら、いつかローランを譲ってあげてもいいかもしれないですね」
 天使は楽しげな笑みに唇を綻ばせながら、優しく告げた。
「ムッシュ・ロスコー…?」
 これまでの話の流れの中で、一体自分のどこをどう気に入っていただけたのか、ルネにはさっぱり分かなかったが、存外に温かく好意的なガブリエルの眼差しに、不思議なほど心が安らぐのを覚えた。
 その時、副社長室のドアが、今度はさっきよりも控え目にノックされ、シュアンが遠慮がちに声をかけてきた
「あの、ムッシュ・ロスコー…そろそろここを離れませんと予約したフライトに間に合わなくなります」
「そうですか…分かりました」
 ガブリエルは、半分開いたドアの向こうに影のように立っているシュアンにそっと目配せし、もう一度、名残惜しげにルネの顔を覗き込んだ。
「あなたと話すのがあんまり楽しくて長居をしすぎたようです、ルネ」
「フライトって…ムッシュ・ロスコー、これからパリを離れてどこかへ行かれるのですか…?」
「ええ、ローランとも話し合って決めたことですが、しばらく私はフランスを離れることにしたんです。私がいるとやはりマスコミの注目を集め過ぎて、それは敵の活動を抑えるのに一役買ってはくれるんですが、こちらも動きにくくて不便なことも多いんです」
「敵というと…例のソロモン・ドゥ・ロスコーっていう人ですか…?」
 読んでいた雑誌の記事を思い出しながらルネがまた単純に尋ねると、その質問に関しては秘密ですとでもいうかのごとく、ガブリエルはふっくらと官能的な唇の前で人差し指をそっと立てた。
「ローランのことをくれぐれも頼みますよ、ルネ」
 ガブリエルはふいに真顔になって言い、戸惑うルネの手をぎゅっと握りしめた。
「私の姿が見えないとローランは気分的にどっと落ち込みそうなので、心配です。もしも彼が鬱になっていたら、あなたが私の代わりに慰めてあげてくださいね」
「そ、そんな…あなたの代わりなんて、僕にはとても無理です。僕では本物の『大天使』のカリスマを再現することは不可能だということは、あなたに会って実感しましたから」
 ルネが訴えても、ガブリエルは彼の手を離してくれず、微笑みながら、きっぱりと首を振った。
「無理だなんてとんでもない。私の単なる代役に留まらず、ローランのため、あなたでなければできないことはたくさんあるはずですよ。どうか彼を支え、助けてあげてください…誰かに命じられたからではなく、あなたの自由意思でね」
 ガブリエルは、自信なさそうに黙りこんでいるルネの手を離して立ち上がり、ドアの前で大人しく控えているシュアンの方に歩いていこうとした。
 その後ろ姿を見送りかけたルネは、思い出したようにいきなり声を張り上げた。
「そ、そうだ…ムッシュ・ロスコー…!」
「はい?」
 うろんそうに振り返るガブリエルに、ルネは慌てて駆け寄った。
「すみません、ムッシュ…あなたとローランの間に秘密はないとさっき言われていましたけれど…お願いします、僕の武道の腕や今でも道場通いをしていることは、やっぱりローランには黙っていていただけませんか?」
「何を言い出すかと思えば―」
 ガブリエルは虚を突かれたように瞬きし、ルネの思いつめた顔を、しばし信じられないものを見るかのような目つきで凝視した。
「ルネ、あなたという人は…賢いのか馬鹿なのか、よく分かりませんねぇ」
「えっ?」
 ガブリエルはふっと微笑み、不安そうなルネの頭に手を伸ばし、宥めるように撫でた。
「安心なさい、ルネ、あなたが秘密にしたがっていることを、私の口からローランに伝えるつもりはありません。確かに私とローランの間に秘密はないと言いましたが、聞かれていないことを逐一報告する義務も、私にはないですからね」
「あ、ありがとうございます、ムッシュ・ロスコー!」
 感動のあまりぱっと頬を紅潮させて、ガブリエルの手をぎゅっと握って振り回すルネを、彼はまだ少し何か言いたげな目で見ていた。
「しかし、できるだけ早い時期に、あなたの口からローランにその秘密は打ち明けた方がいいですよ、ルネ…勇気を出して一言言えば、ああ、こんなつまらないことでくよくよ悩んでいたのかと思うはずです」
「は、はい…すみません、ムッシュ・ロスコーにまで余計なご心配をかけてしまって…そうですね、いつまでもローランに嘘をつき続ける訳にもいかない…」
 またしても深いジレンマに陥りかけるルネの肩を、ガブリエルは優しくかき抱いた。
「大丈夫、ローランがそんなつまらないことであなたを嫌いになったりするものですか。あなたはとても魅力的で可愛い人ですよ、ルネ、もっと自分に自信を持ちなさい」
「ムッシュ・ロスコー」
 ぱっと頬を赤らめ瞳を揺らせるルネの髪に指を滑らせながら、ガブリエルはしばし次に言うべき言葉を考えていたようだったが、ふいにルネの顔から視線を外して、笑いをかみ殺した声で囁いた。
「ふふ、自分と同じ顔に向かってこんなセリフを言うのは、さすがの私もちょっと照れますね」
 ルネも同感だとばかりに、頷いた。
「僕も、何だか変な気分です」
 ルネとガブリエル、兄弟のようによく似た、しかし同時に全く似ていない2人は、目を見合わせて笑いあった。
「次にあなたと会う時には、ローランに自分の口から秘密を打ち明けたあなたが、彼の本当の心も確かめられて、失った自信を取り戻していることを願っていますよ」
 ガブリエルはそのままシュアンを連れてオフィスを立ち去った。
 今回のガブリエルの唐突な訪問について、ルネはローランに報告しなかった。ガブリエルの目的はルネ個人であったし、報告することで彼と交わした会話の内容をローランに追及されることが怖かったからだ。
(ローランが、かつて僕を振った先輩と同じ、『度量の小さい男』だとは思わないけれど―)
 ガブリエルにいくら促され励まされても、大好きなローランに嫌われたくなくてずっと秘密にしていた本当の自分の姿を明かす決意は、今のルネにはできなかった。
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