花束と犬とヒエラルキー

葉月香

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第四章

愛とスープの法則(10)

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 ローランとの『初デート』当日は、ルネの祈りが届いたかのようによく晴れて、この季節にしては暖かかった。
 普通の観光をしたいというルネの希望を考慮したのだろう、待ち合わせはシャイヨー宮の噴水の傍だ。エッフェル塔の写真スポットとして有名な場所で、観光客がそこら中でカメラを構えたり、ポーズを取ったりしている。
 そんな観光客達に混じりながら、ルネも持参したカメラをローランに手渡し、帰省した時に家族に見せるための写真を取ってもらっていた。 
「ベタですねぇ」
「全くだ」と笑うローランは、機嫌良さ気だ。少なくともルネと一緒にいる休日の一時、ガブリエルの不在の寂しさは忘れているように見えた。
「ディナー・クルーズの乗船時間は18時だからな。それまでは徒歩と地下鉄を使って街を歩き回るぞ」
 たっぷり運動することができるからか、やけにはりきっているローランにとっても、ルネに付き合っての街歩きはまんざら悪くない休日のつぶし方のようだ。
「明日はロスコー家のシャトーに連れて行ってやろう。その昔国王が狩りのために用いた別荘だった城で、周辺の景観は素晴らしい。乗馬を楽しむには、もってこいさ」
「それって、でも…ムッシュ・ロスコーの家なんですよね?」
「そして、俺が育った家でもある。使用人達も皆、顔馴染みだ。そんな訳で、主が不在でも、俺は好きな時に自由に使うことができるのさ」
 ガブリエルの名前を出すと一瞬またローランは落ち込むのではないかとルネは案じたが、幸い、そんな気配はなかった。
(ローランが育った家かぁ…ガブリエルが主だというのは引っかかるけど、『実家』に連れて行くなんて、それなりに親しい相手じゃないとしないだろうし、これって喜んでいい状況だよね)
 エッフェル塔とセーヌ川クルーズ以外はローランに任せたきりで当日まで分からなかったのだが、どうやらこれは期待してよさそうだ。幸先のいいスタートに、ルネはともすればにやけそうになった。
「どうした、ルネ、おかしな顔をして…」
 カメラを再び構えたローランが、怪訝そうに聞いてくる。
「いえ、何でもないです。あ、ローラン、ひとつお願いがあるんですが、いいですか?」
「何だ?」
「独りきりで写真に映っても何だか寂しい気がするんで、よかったら一緒に撮りませんか?」
「ああ? 一緒に記念写真だ? …全く、女の子みたいなことを言う奴だなぁ」
 呆れながらもローランは、近くにいた大学生くらいの日本人カップルに頼んでカメラを預けると、素早くルネの傍に来て、その腕を掴んで引き寄せた。
 たちまち、近くの芝生の上に座っていたグループからヒュッと口笛や軽い野次が飛んで来て、ルネは思わず身を固くする。
「ちょ…ちょっと近すぎませんか? カメラを頼んだあのカップル、少し引いてるみたいですよ?」
「ふん、どこからどう見ても立派なゲイのカップルだが、それがどうした。大体お前が頼んだんだろうが…面倒だから、さっさとすませるぞ」
 ローランはもじもじと後ずさりするルネの肩に手を回して抱き寄せ、今にも頬が触れんばかりに顔を近づけて、困惑顔でカメラを構えている青年に合図を送った。
「笑え、ルネ」
「は、はいっ」
 腹をくくったルネが全開にした笑顔をカメラに向けるや、お馴染みのシャッター音が響き渡った。
「なかなかよく撮れているぞ。おまえはやけに緊張していたから、どうなるかと思ったんだが、意外にいい表情で写っている」
 観光客から返してもらったデジカメの画像――内心の葛藤はおくびにも出さず弾けんばかりの笑顔を作っている自分とその傍らで余裕の笑みを見せているローラン――をルネは複雑な気分で見つめた。
「その写真、クリスマスに実家に帰った時、家族に何と言って見せるんだ? 上司か、恋人か?」
「…知りませんっ」
 ルネはぷいっとそっぽを向いて、電源を切ったカメラをコートのポケットに入れた。
 ローランは笑いながら、怒ったように唇を尖らせているルネの頭をひと撫でした。
「さて、写真はもう十分だろう。そろそろエッフェル塔まで歩いて行ってみるか」
「…はい」
 シャイヨー宮からセーヌ川を挟んで対岸にあるエッフェル塔は、離れて見てもよかったが、すぐ下から眺めても壮観だった。そして、やはり観光客であふれていた。
 展望台に登るエレベーターの前には当然のように長蛇の列ができていたが、はなからエレベーターを使う気のなどないローランに連れられて、ルネは階段を使って第二展望台まで上がった。
「ここのレストランでの夜景を眺めながらも食事もなかなかいいから、またの機会に一緒に来ような」
「それじゃあ、その時までは、他の友人に誘われるも断ることにします。楽しみにして待っていますから、絶対誘ってくださいね」
 微笑みながら頷くルネには、どうせその場限り口約束だろうという疑いは微塵も湧いてこない。
(少し前なら適当に聞き流す所だけれど、今は素直にローランの言葉を信じることができる。次の機会がいつになるかは分からなくても、約束したことはこうしてちゃんと守ってくれる人だと見直したから)
 展望台からは、先程記念写真を撮ったシャイヨー宮殿や反対側にはシャン・ド・マルス公園の広々とした緑地帯が見下ろせる。
「…あの公園は、もともと練兵場や閲兵所として用いられていたこともあって『マルスの野』と呼ばれているんだ。近くに今でも陸軍士官学校があるのも、その名残と言えるのかもな」
「向うに見える、高いビルは何でしょうね」
「ああ、あれはモンパルナス・タワーだな。パリ市内では、一番高い建築物だ」
 この日は空気が澄んでいて、パリの美しい街並みを遠くまではっきりと一望することができた。
 (ふふ、もっとも僕は、目の前の公園の由来に特別興味がある訳じゃないけれどね。たぶん、ローランと一緒にいられることが純粋に楽しくて仕方がないだけなんだ)
 こんな幸せな休日を過ごせるなんて夢ではないのかと、ルネがこっそりほっぺたをつねってみた時、ふいにローランの携帯電話が鳴った。
 ローランは夢から覚めたようにはっと息を吸い込んで、ポケットから携帯を取り出す。
「ルネ、ガブリエルからだ」
「……」
 一瞬言葉をなくすルネに頷きかけるや、ローランは素早く背中を向けて、電話に出た。その間、三秒も経ってはいまい。
(仕方ないな…いくらデート中だって、ガブリエルからのコールはローランにとって最優先であることには変わりないもの。それくらいは理解しよう)
 そう自分に言い聞かせながらも、ルネは胸の奥に何かがつかえたような気分になった。
「すると、お前は今ジュネーブにいるのか。いつまでだ…? 何だ、今夜にはもう移動するのか」
 しばらくローランの背中を眺めていたルネだったが、話が少々込み入ったものになりそうだったので、遠慮して、その場を離れ、展望台の中を1人でゆっくりと回ることにした。
(何だか、いきなり夢から叩き起こされたような気分だ。ほっぺたをつねったりしたのがいけなかったのかな…?)
 思わず頬に手を押し当てて、ふっと苦笑する。強化ガラスの向こうの美しい街並みも、急にその輝きを失ったように思われた。
(大天使は今スイスのジュネーブにいる…パリからだと、会いに行こうと思えば行ける場所だな)
 同じ柔道教室に通っている大学生が、友達とパリからスイスを経由してドイツまでドライブに行ったと話していたことを思い出しながら、ルネは次第に落ち着かない気分になってきた。
「ルネ」
 いきなり背中から声をかけられて、ルネは飛び上がりそうになった。振り返ると、ローランがすまなそうな顔をして立っていた。
「ムッシュ・ロスコーは何とおっしゃってきたんです? 何か問題が発生した訳ではないんですか?」
「いや、いつもの定期報告だ。一応毎日俺に電話をかけてくれることになっているんだ。ただ、旧友を見舞うためにジュネーブまで来ているという話は今聞いたばかりなので、少々驚いたがな。あいつもいきなり気まぐれを起こすから…」
「本当に、それだけですか…?」
「ああ、心配するな、ルネ」
 ローランは何事もなかったかのようにルネに笑いかけ、その肩を優しく抱いて、展望台からの風景を指差しながらまた先程の話の続きを始めた。しかし、彼が別の何かに心を捕らわれていることは明らかだった。
(ガブリエルのことが気になるんだ。ジュネーブはそう遠くない。ローランが会いに行こうと思えば、今からでもすぐに会いに行ける)
 いかにも平気そうなローランの横顔を気遣わしげに横目で何度も見やりながら、ルネの心もまた、このデートとは関係のない別の考えに捕らわれていった。
 結局どちらもが興醒めしたような雰囲気のまま、その後すぐに2人は展望台を下り、シャン・ド・マルス公園の方に向かって歩いて行き、途中見つけたカフェでランチを取った。
 会話はそれなりに弾んだが、ローランの心を半分以上占めているのが誰であるかに気付いてしまった以上、ルネが素直にこのデートを楽しむことはもうできなくなっていた。
 食後のコーヒーを飲みながら、ローランがちらっと腕時計を確認するのに、ルネも同じように時間を確かめてしまう。
 まだ14時を少し回ったところだ。おそらく、今からすぐにローランが自宅に戻って、そこから車を飛ばしてジュネーブに向かったとしても、ガブリエルを捕まえることは可能だ。
「…時間がどうかしたのか、ルネ?」
 考えていることが顔や態度に出やすいルネのことだから、目敏いローランに気付かれても、当然だった。
「あ、いえ…別に…」
 ルネは一瞬、適当に誤魔化そうかと思った。何食わぬ顔をして、このままローランとのデートを続けたって、よかった。しかし――。 
(ああ、僕って、本当に馬鹿がつくくらいにお人よしだ)
 思わず、溜息がルネの口をついて出てしまい、ローランはますます怪訝そうに眉を潜めた。
「ね、ローラン、あなたがこの休日を僕と2人きりで過ごすと決めてくださったこと、僕はとても嬉しかったです」
 心を決めたルネは、ローランが口を開くより先に切り出した。
「でも、考えてみたら、そもそも僕はあなたを元気にしたくて、そのためなら何でもするから言って下さいとお願いしたんです。そして、その気持ちは今でも変わっていません」
「ルネ?」
 ローランは、いきなりルネは何を言い出すのかと怪しむような戸惑い顔で、その名を呼ぶ。
「ローラン、僕を相手に気を使ったり遠慮したりするなんて、あなたらしくないですよ」
 ルネはテーブルの下で膝を掴む手に力を入れ、心の中で自分を励ましながら続けた。
「ガブリエルに会いに飛んでいきたいなら、そう言って下さい。いつものように、『悪いが、ルネ、俺はガブリエルが最優先なんだから我慢しろ』と命じられれば、僕は、今からあなたがジュネーブまで素っ飛んでいくとしても、笑って見送りますとも」
 ローランは瞑目し、軽く息を吸い込んだ。
「大体、ガブリエルに会いたくて気もそぞろのあなたを独り占めにして、何も感じずに笑っていられるほど、僕はずるくはなれません。本当はそれくらい狡賢く立ち回れれば良かったんですけれど、そういうタイプではないんですよね、残念ながら」
 軽く肩をすくめて、ルネはカップに残っていたコーヒーを一息に飲み干した。
「…ルネ」
 しばらく何も言わず、食い入るようにルネを見つめた後、ローランはやっと口を開いた。
「そこまで言われたら、俺はもう、言い訳も何もできないな」
 ローランの顔に痛快そうな笑みが広がっていくのを黙って見守りながら、ルネは満足と共に一抹の寂しさを噛みしめていた。
 ローランが椅子から立ち上がるのに、ルネもつられて立ち上がった。テーブルを回ってきたローランが、ルネの体を引き寄せて深く抱きしめた。
「ありがとう。この埋め回せは、必ずする」
 ローランの大きな手が頭の後ろに回り、背中に回ったもう片方の手が言葉にできない想いを伝えようとするかのようにぐっと力を込めてくる。ルネはとっさに目を閉じて、こみ上げてきそうになった涙を堪えた。
「気をつけて行ってらっしゃい、ローラン。くれぐれも気が逸り過ぎて、事故を起こしたりしないでくださいよ」
「そんなへまはするものか」
 ローランは喉の奥で笑いながら、ルネから身を離した。コートを椅子から素早く取り上げて、そのまま急ぎ足で店を出て行った。

 
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