花束と犬とヒエラルキー

葉月香

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第四章

愛とスープの法則(11)

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 本来ならばローランと2人で楽しむはずだったディナー・クルーズ。
 ほとんど満席の船内で、ルネは今、独りきり、そのテーブルに着いている。
 ローランが予約してくれたのは、一番前方に位置する、テーブルも二つしかない端の席で、こんないい場所を自分だけで陣取っているのは申し訳ない気がしたくらいだった。
 横目でオルセー美術館を見ながら船は出港し、ディナーも始まる。
(あ、ノートルダム寺院だ。ライトアップされてて綺麗だなぁ)
 アントレのフォアグラをちぎったパンに乗せて口に運びながら、ルネは、窓の外を流れていく美しくも荘厳な建物に見惚れていた。
 ワインは白を一本。これもローランが頼んでくれていたようで、ルネの知らない銘柄だったが、なかなか美味しかった。
 周りのテープルはほとんどカップルばかり。やはり、気にならないと言えば嘘になる。
(本当なら、僕もローランと一緒にここに座っているはずだった。もしも彼がここにいたら、僕は、他のテープルの様子なんか全く気にも留めなかったに違いない。川から眺めるパリの夜景は綺麗だけれど、彼と2人で眺めたなら、もっとロマンチックな気分に浸れたんだろうな)
 楽しげに談笑しながら食事をするカップルやグループ客達と違って、独り飯のルネのペースは早くなりがちだ。
 給仕がやってくるのを待つのも面倒なので、そのうち勝手にボトルからグラスにワインを注いで、次の料理が運ばれてくるまでの時間を窓の外の夜景に集中することで何とかやり過ごす。
(駄目だ…後悔なんかしない、愚痴なんかこぼすまいと決めていたのに、ここに座っていると嫌でも自覚してしまう。どんなに格好をつけたって、僕は結局ローランに置き去りにされたんだ。あの人は僕を振り返りもせず、まっすぐガブリエルのもとに飛んで行った)
 ルネは、ふいに込み上げてきた感情を抑えかね、両手で顔を覆った。
 動いた弾みで、テーブルの下に押し込んでいた荷物に足が当たり、デパートの袋が横倒しになる。
「あっ」
 慌ててルネは、椅子を引いて身を屈め、荷物をもとに位置に戻した。クルーズまでの時間潰しに行ったギャラリー・ラファイエットでは、家族のためのクリスマス・プレゼントの他にもレアなワインや買う買う予定のないものを衝動買いしてしまった。そのくらいのガス抜きをしないとやってられなかった。
(何だか、僕、ローランを追い続けられる自信がなくなってきた。あの人が喜ぶ顔が見たくて、尽くすのはいい…でも、永遠に振り返ってくれない人をいつまでもただ追い続けるのも、時に虚しくなる。僕の心は、今はあの人への熱い想いでいっぱいだけれど、このままじゃ、いつか、その熱も冷めてしまいそうだ。愛想が尽きるまで傍にいてやるなんて考えたこともあるけれど、それよりは今、あの人のもとを去った方がいいかもしれない。そうしたら、ローランと一緒に働いたパリでの日々も、いい思い出となって残るから…もっとも、思い出にできるくらい、個人的に親密な時間を過ごしたことは少ししかないんだけれどね)
 ルネはしんみりとなりながら、グラスに残ったワインを一気に飲み干した。
(ローランにとって、僕は何なんだろ…ガブリエルとは比較にならないとしても、少しは大切に思ってくれているんだろうか)
 船の前方に、金色の光に包まれたエッフェル塔が見えてきた。
(ああ、ローランと一緒にあそこに登ったんだなぁ)
 エッフェル塔や隣接するビル群、セーヌ川に映る金色に揺らめくその影は、昼間見た風景とはまた趣を変えて、溜息が洩れそうになるほど美しい。
 その姿がふいにぼやけて見えなくなったのに、ルネは自分の目が涙でいっぱいになっているのに気がついた。
(わっ、やば…)
 とっさにナプキンを持ち上げて、人知れず涙をぬぐったその時、ルネのスマホの着信音が鳴り響いた。
「す、すみません」
 近くのテーブルの客からうろんそうな目を向けられたルネは、慌てて鳴りつづける携帯を引っ張り出し、その表示を確かめた。
「えっ…ローラン…?」
 ルネは瞠目した。心臓が一瞬止まったかと思った。
(ガブリエルと一緒にジュネーブの休日を楽しんでいるはずのローランが、今頃どうして…?)
 戸惑いながらも、ルネは通話に出た。すると、耳に馴染んだ、ローランの艶のある低い声が聞こえてきた。
(ルネ、今、どこにいる?)
 ルネはしゃきんと背筋を伸ばし、おろおろと周囲を見渡しながら、スマホを半分手で隠し、こっそり囁いた。
「あ、あの…今、例のクルーズ船に乗ってて、ディナーの最中なんですが…」
(何だ、おまえ、独りでディナー・クルーズ船になんか乗ったのか)
 誰のせいだと一瞬噛みつきそうになるのを堪えながら、ルネは言い訳した
「どうしようかと思ったんですが、せっかくあなたに予約してもらったチケットがもったいなかったので…」
 ローランは、電話の向こうで苦笑とも溜息ともつかぬ息を漏らした。
「あのローラン…あなたは今、どこに…ムッシュ・ロスコーと一緒じゃ…」
 おずおずと確かめようとするルネの声を遮るよう、ローランは問うてきた。
「クルーズが終わるのは何時だ?」
「ええっと…確か、21時15分着です。オルセー美術館の傍の船着き場です」
「分かった。それに間に合うよう、迎えに行く」
「ハ…ハァッ?!」
 素っ頓狂な声を発し、電話を掴んだまま思わずテーブルから立ちあがってしまうルネに、またしても多くの視線が突き刺さる。ルネは焦りながら、椅子に座りなおした。
「ロ、ローラン、それって一体…?」
 ルネは気を取り直して携帯に向かって問い直すが、せっかちなローランは既に一方的に通話を切っていた。
(迎えに来るって、どういうこと…? まさか、ローランはパリに戻ってきているのか…?)
 キツネにつままれたような気分で、ルネはしばしスマホを睨みつけていたが、やがて諦めたようにそれを再びジャケットのポケットになおしこんだ。
 いつの間にかディナー・クルーズは終盤に差し掛かっていた。
 テープルの上にほとんど手つかずで残していたショコラのムースを再び口に運んで、ルネがぼんやり考え込んでいるうちに、夜景の向こうに再びライトアップされたオルセー美術館が見えてきた。
 


 クルーズ船から降りたルネは半信半疑、辺りを見渡した。
 客達がそれぞれ帰路に着く中、ルネがゆっくりとオルセー美術館に向かって歩いていくと、斜め脇から車のクラクションが鳴り響いた。
 反射的に振り返るルネの視線の先には、見たことのある、濃い緑のルノー車が止まっている。
 ルネは大荷物を両脇に抱えながらも、全速力でその車に駆け寄った。
「ローラン!」 
 ルネが見る前で、車のドアが開き、粋な黒のスーツに身を包んだ男の姿が現れる。
「ルネ、ディナー・クルーズはそれなりに楽しめたのか?」
 顎をしゃくって、河岸に停船しているクルーズ船を示しながら横柄な口調で尋ねるのは、正真正銘ローラン・ヴェルヌだった。
「しかし、大荷物だな、ルネ…クリスマスの買い物か…?」
「ど…どうして、あなたがここにいるんです、ローラン?!」
 まだ目の前の現実が信じられなくて、上ずった声で問いただすルネに、ローランはうるさそうに手を上げた。
「俺がパリに戻ってきたことに、何か文句でもあるのか、ルネ?」
「だ、だって…あなたはムッシュ・ロスコーに会うため、ジュネーブに行ったはずでしょう?」
「ジュネーブには行ったぞ。ガブリエルにも会った」
「そ、それなら、なぜ…?」
 ローランはやれやれというように肩をすくめ、呆然と立ち尽くしているルネに歩み寄り、その顔をじっと見下ろしながら囁いた。
「なぜなら、俺はおまえと約束したからだ、ルネ。せっかくのデートを途中で中断してしまったし、楽しみにしていたディナー・クルーズにも間に合わなかったのは悪く思っている。しかし、今夜から明日の1日をかけて、その埋め合わせは十二分にするつもりだ」
 ルネは問い返す代わりに、ぱちぱちと瞬きした。
「言ったはずだ、ルネ、俺は約束を守る男だ」
 驚きのあまり声も出せないでいるルネに向かってローランは微笑みかけ、その腰に手を回して深々と抱き寄せると、とびきり甘い声で付け加えた。
「俺にとって価値ある相手と交わした約束ならば、尚更な」
「ローラン…」
 ローランの胸に頬を押し付けられたルネは、彼の愛用のコロンの甘くセクシーな香りを吸い込みながら、うっとりと囁いた。
(ローランは戻ってきてくれた。僕との約束を守るため…僕のために…!)
 ルネの心臓は、その胸の奥で感動のあまり打ち震えている。
(ああ、畜生畜生、好きだ…僕はローランが大好きだー!!)
 エッフェル塔の天辺から世界中に向かって叫んでいる自分の姿を想像しているルネの顔をローランの手が上げさせ、素早く下りてきた唇がルネのそれを覆った。
(ローラン、あなたを愛してる)
 ルネはローランのキスに応えるよう、彼の唇を夢中になって吸った。力の抜けたその手から、デパートで買った荷物がどさりと地面に落ちる。
「ああっ、奮発して買ったジャック・セロスが!」
 ルネは一瞬で我に返った。自分を熱烈にかき抱こうとするローランを突き飛ばして、地面に座り込み、荷物の中から取り出したシャンパンを確かめる。
「大丈夫…ああ、瓶は割れてないみたいだ…よかった…」
 高級シャンパンのボトルを嬉々として抱きしめているルネを見て、ローランはちょっと寂しそうな顔をした。
「それにしても、ローラン…ムッシュ・ロスコーとはちゃんと話をすることはできたんですか…? 僕との約束をこうして守ってくれたことは嬉しいですけれど、ガブリエルと一緒に休日を過ごした方が、あなたはよかたんじゃないですか?」
「俺は、一目あいつに会って、その声を直接聞いて、それで満足できたからいいんだ。スイスに留まって休日をあいつと過ごすつもりは、初めからなかった。あいつにとっても、まさか俺がジュネーブにやってくるなんて予定外のことだからな。一体何しに来たんだと呆れられたどころか、俺が、おまえとのデートを途中ですっぽかして飛んできたと知って激怒していた。全く、あいつに殴られたのは久しぶりだぞ」
「ムッシュ・ロスコーにな、殴られたんですか?!」
「あいつのパンチは結構効くぞ…今でもちょっと顎が痛い」
 ルネは慌てて、ローランのハンサムな顔に傷が残っていないか確かめた。
「よかった、痣にはなっていません。しかし、ムッシュ・ロスコーって、きつい方なんですね…そうは見えないのに…」
「仕方ないさ。ガブリエルがしばらく身を隠すことは俺も了承してしたはずなのに、実際会えなくなると我慢できなくなったなんて、情けない話だ。ルネ、おまえにも余計な心配をかけて、すまなかった」
「い、いえ、僕は別にいいんです。あなたが、元気を取り戻してくれさえしたら、それで…」
 ルネは、ガブリエルの叱責を受けたことでローランがダメージを受けていないか心配したが、昨日までとは打って変わって、彼は生気を取り戻していた。
「本当に、ムッシュ・ロスコーは、あなたにとって必要不可欠な方なんですね。一目会って、ぶん殴られて帰ってきただけでも、満足だなんて…」
 半ば呆れ、半ば悔しいような腹立たしいような気分になりながら、ルネは言った。
(本当は認めたくないけれど、ローランのそんな気持ちは、僕には理解できる。僕だって、ローランがいない間、仕事も何もする気にならなくて、毎日が虚しかった。ローランが傍にいてくれれば、それだけで、僕は…)
 我ながら、全く現金なくらい、一人ぼっちにされた恨みつらみも綺麗さっぱり忘れさって、今のルネは幸せだった。
「まあ、いずれにせよ、クリスマスにはあいつはパリに戻ってくるからな。それまでの辛抱だと思えば、俺も、あいつの不在の物足りなさをやり過ごすことができそうだ」
「クリスマスは、あなたはムッシュ・ロスコーと一緒に過ごされるんですね?」
 肉親とは縁の薄いローランにとって、最も家族に近いのがガブリエルなのだとすれば、それも仕方ないのかなと、ルネはこっそり自分に言い聞かせた。
「別に、2人きりで過ごすって訳じゃないぞ」と、ルネの胸の内のもやもやと見抜いたかのように、ローランは言った。
「年に一度、クリスマスに一族の主だった人間が集まるのが、ロスコー家の慣例なんだ。国中のロスコーやヴェルヌ、リュリとかが一堂に会し、親睦を深め、一族の発展のため結束を誓い合う。もちろん、ガブリエルの爺さん…ジル・ドゥ・ロスコーも一族の長として、隠居していたブルゴーニュからパリにやってくることになっている」
「へぇ…なかなか盛大な催しになりそうですね」
「しかし、今年のクリスマスは親睦を深めるどころか、荒れるかもしれないぞ。ガブリエルがホスト役として会を取りしきることになっているし、それに、ボルドーに引きこもっている、あの男も恒例のクリスマスの集まりだけはどうしても出席しないわけにはいかないからな」
「つまり、ジル会長の弟のソロモン・ドゥ・ロスコーのことですね…?」
 ルネは考え深げに首を傾げながら、ローランの腕を心配そうに指先でそっと擦った。
「敵対している者同士が、クリスマスを名目に直に顔を合わせて…何事もなく、終わればいいですけれど…?」
「心配するな。ジル爺さんや他の親族の目もある…ソロモンが、どれほどガブリエルのことを疎ましく思っていても、あいつの懐の中ではおとなしくしている他ない。むしろ、この機会に心理戦を仕掛けて追いつめられるだけ追いつめてやるさ」
 ローランは一瞬酷薄な光を緑の瞳の奥底に閃かせたが、再びルネに顔を向けた時、その表情は穏やかなものに戻っていた。
「さて、そろそろ行こうか、ルネ。こんな河岸でいつまでも話しこんでいたら、体が冷えるだけだ」
「は、はい…でも、行くって、どこに…?」
「食事はもう終わったなら、俺のアパルトメンに直行するか…? 明日は少し早起きして、約束通りロスコー家のシャトーに連れて行ってやる」
「ああ、それなら丁度よかった。このシャンパン…あなたの家で、2人で飲みませんか?」
「ジャック・セロスのプラン・ド・プランか。ふうん…おまえに似合いそうなシャンパンだな」
「飲んだことないので分かりませんが、それ、僕に似合いそうなんですか…?」
 首を傾げて素直に問い返すルネの髪をくしゃりと撫でて、ローランは笑った。
「それは、一緒に飲みながら、確かめればいいだろう? 時間が惜しいから、もう行くぞ、ルネ…俺は、早くお前と2人きりになりたい。それとも、お前は違うのか?」
 揶揄するようにローランに言われて、ルネはちぎれんばかりに首を左右に振った。
「もちろん、僕だって、そう思っていますとも。というか、クルーズ船の中では、どうしてあなたはここにいないんだろうって、周りのテーブルのカップルを羨ましげに眺めては、独り寂しく手酌でワインを飲んでいたんですからっ」
「…独りでディナー・クルーズ船になんか乗るからだ。しかし、それも俺の責任だな。寂しい思いをさせた分、その埋め合わせはたっぷりしてやるから、もう許せ」
 赤くなって俯くルネの手を取り、ローランはきゅっと握り締めた。
「は…はい」
 ルネもまた、ありったけの思いを込めてローランの手を握り返した。
 寒いはずのセーヌの河岸にいても、ルネはもう少しも寒いとは思わなかった。
顔を上げれば、愛する人が今はちゃんと傍にいて、ルネだけを見つめて優しく微笑んでいる。
胸の奥が、火が灯ったかのように暖かくなり、体中にそれが広がっていくのを覚えながら、ルネはローランと2人きりのとびきり甘い休日の続きを始めるのだった。
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