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第一章
胡蝶の見る夢 一
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深更。神戸沖に浮かぶ人工島、六甲スマートシティ特区の一角で、久藤陽向は一人、自動走行車から降り、夫と一緒に暮らすはずだった、完成して間もない家の前に立った。
宅地開発の進む、この新しい住宅地では、入居している家屋はまだまばらで、家々の窓の温かい灯りは乏しい。
道路わきの街頭によってほのかに浮かび上がる、外構工事の済んだばかりの庭にはシンボリツリーの一本もなく、殺風景なものだ。
力のない夢遊病者のような足取りでアプローチを進み、玄関扉の前に立つ。
陽向の夫、朔也の遺した遺書の中に同封されていたカード・キーをセキュリティ・パネルかざすと、家のドアは音もなく滑らかに開いた。
陽向が足を踏み入れると同時に、まるで彼女を温かく迎え入れるかのように、それまで深闇に満たされていた室内に明かりがついた。
靴を脱いで、リビングに向かう。部屋の中は、朔也が生前に陽向と一緒にカタログを見ながら選びぬいた家具で快適に整えられていて、ここで暮らしたことはまだないはずなのに、不思議なことに、部屋の中に漂う静かな影の中に彼の気配を感じられた。
この家――最新のOSによって管理されたスマートホームの核である人工知能を開発したのは、他ならぬ朔也だった。そのせいか、彼の魂の一部が宿っているように思えてならない。
「馬鹿ね」
ただの錯覚。朔也は死んで、その体も燃やされ、灰になってしまった。
葬儀が終わってから今までずっと麻痺していた、陽向の心が大きく軋んだ。胸を圧迫されるような息苦しさが込み上げてき、思わず喘ぐ。
バッグを肩にかけたまま、奥のキッチン・ダイニングを抜けて、洗面所に入る。震える手で、この頃常用している精神安定剤をバッグから取り出すと、プラスチック製のコップに注いだ水で飲み下した。
肩で息をしながら濡れた口元を手の甲で拭い、顔を上げると、やつれきった若い女がこちらを見返している。
いつまでもどこか少女めいた甘い面差し、陽光のような溌溂とした表情をしていた、かつての陽向とは別人のようだ。長い髪はろくに櫛も入れずに乱れ、柔らかだった頬は痩せこけ、目は泣き腫らしている。
「……罰があたったのね」
ぽつりと呟いて、項垂れた。
初恋の人と結婚し、一緒に暮らし始めて、それで満足していればよかった。それなのに、研究者としての自分のキャリアをもっと積みたいなんて欲張って、我がままを通して、彼を振り回した。
朔也を置いて一人で東京になど行かなければ、彼の身に起こった異変に手遅れになる前に気づけたかもしれない。
この体に宿した小さな命も失わずに済んだかもしれない。
それほどまでにして打ち込んだ研究も、結局中途半端な状態でやり残したままだ。今更後悔しても、何もかもが遅すぎたのだけれど――。
流産してから精神不安定になった陽向のことを、朔也は闘病中も、自分の体以上に心配していた。
(陽向、こんな状態の君を独りにはできない。僕はまだとてもじゃないけど、死んだりなんかできやしないよ)
耳を澄ませれば、この静謐とした夜の彼方から、朔也の穏やかで優しい声が聞こえてくる気がする。
大きく開いた陽向の双眸から、大粒の涙がこぼれた。
「やっぱり無理……あなたがいない世界なんて、耐えられない」
途方に暮れた子供のように呟いて、陽向は両手で顔を覆い、しばらく泣いた。
もう何も考えられなかった。もっと目の前の現実的なことに意識を向けようとしても、頭に浮かぶのは朔也のことばかり。
とっさに自分の居場所を連絡しようと端末を取り出しかけ、陽向は、両親もすでになく、親身になってくれる友人もおらず、仕事さえ休職している今の自分にそんな相手は一人もいないことを思い出した。
(……疲れた……な)
シャワーを浴びる気力もなく、二階にある寝室のベッドに重い体を横たえた時、少しだけ胸をさいなんでいる痛みが和らぐ気がした。
(これはきっとただの夢……ねえ、そうでしょう、朔也さん……?)
仰向けに横たわった陽向が、目を閉じて胸に貯めていた息を吐くと、天井のセンサーが感知したのか、柔らかな照明は次第に暗くなり、温かい暗がりが彼女を包み込んだ。
朝になったら、自分の名前を呼ぶ彼の優しい声で目が覚めるに決まっている。
そんな益体もない想像をしながら、しばらくうとうとしていた陽向は、やがて深い眠りに落ちていくのだった。
宅地開発の進む、この新しい住宅地では、入居している家屋はまだまばらで、家々の窓の温かい灯りは乏しい。
道路わきの街頭によってほのかに浮かび上がる、外構工事の済んだばかりの庭にはシンボリツリーの一本もなく、殺風景なものだ。
力のない夢遊病者のような足取りでアプローチを進み、玄関扉の前に立つ。
陽向の夫、朔也の遺した遺書の中に同封されていたカード・キーをセキュリティ・パネルかざすと、家のドアは音もなく滑らかに開いた。
陽向が足を踏み入れると同時に、まるで彼女を温かく迎え入れるかのように、それまで深闇に満たされていた室内に明かりがついた。
靴を脱いで、リビングに向かう。部屋の中は、朔也が生前に陽向と一緒にカタログを見ながら選びぬいた家具で快適に整えられていて、ここで暮らしたことはまだないはずなのに、不思議なことに、部屋の中に漂う静かな影の中に彼の気配を感じられた。
この家――最新のOSによって管理されたスマートホームの核である人工知能を開発したのは、他ならぬ朔也だった。そのせいか、彼の魂の一部が宿っているように思えてならない。
「馬鹿ね」
ただの錯覚。朔也は死んで、その体も燃やされ、灰になってしまった。
葬儀が終わってから今までずっと麻痺していた、陽向の心が大きく軋んだ。胸を圧迫されるような息苦しさが込み上げてき、思わず喘ぐ。
バッグを肩にかけたまま、奥のキッチン・ダイニングを抜けて、洗面所に入る。震える手で、この頃常用している精神安定剤をバッグから取り出すと、プラスチック製のコップに注いだ水で飲み下した。
肩で息をしながら濡れた口元を手の甲で拭い、顔を上げると、やつれきった若い女がこちらを見返している。
いつまでもどこか少女めいた甘い面差し、陽光のような溌溂とした表情をしていた、かつての陽向とは別人のようだ。長い髪はろくに櫛も入れずに乱れ、柔らかだった頬は痩せこけ、目は泣き腫らしている。
「……罰があたったのね」
ぽつりと呟いて、項垂れた。
初恋の人と結婚し、一緒に暮らし始めて、それで満足していればよかった。それなのに、研究者としての自分のキャリアをもっと積みたいなんて欲張って、我がままを通して、彼を振り回した。
朔也を置いて一人で東京になど行かなければ、彼の身に起こった異変に手遅れになる前に気づけたかもしれない。
この体に宿した小さな命も失わずに済んだかもしれない。
それほどまでにして打ち込んだ研究も、結局中途半端な状態でやり残したままだ。今更後悔しても、何もかもが遅すぎたのだけれど――。
流産してから精神不安定になった陽向のことを、朔也は闘病中も、自分の体以上に心配していた。
(陽向、こんな状態の君を独りにはできない。僕はまだとてもじゃないけど、死んだりなんかできやしないよ)
耳を澄ませれば、この静謐とした夜の彼方から、朔也の穏やかで優しい声が聞こえてくる気がする。
大きく開いた陽向の双眸から、大粒の涙がこぼれた。
「やっぱり無理……あなたがいない世界なんて、耐えられない」
途方に暮れた子供のように呟いて、陽向は両手で顔を覆い、しばらく泣いた。
もう何も考えられなかった。もっと目の前の現実的なことに意識を向けようとしても、頭に浮かぶのは朔也のことばかり。
とっさに自分の居場所を連絡しようと端末を取り出しかけ、陽向は、両親もすでになく、親身になってくれる友人もおらず、仕事さえ休職している今の自分にそんな相手は一人もいないことを思い出した。
(……疲れた……な)
シャワーを浴びる気力もなく、二階にある寝室のベッドに重い体を横たえた時、少しだけ胸をさいなんでいる痛みが和らぐ気がした。
(これはきっとただの夢……ねえ、そうでしょう、朔也さん……?)
仰向けに横たわった陽向が、目を閉じて胸に貯めていた息を吐くと、天井のセンサーが感知したのか、柔らかな照明は次第に暗くなり、温かい暗がりが彼女を包み込んだ。
朝になったら、自分の名前を呼ぶ彼の優しい声で目が覚めるに決まっている。
そんな益体もない想像をしながら、しばらくうとうとしていた陽向は、やがて深い眠りに落ちていくのだった。
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