マーダーホリックパラダイス

アーケロン

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1.狂った街の殺人鬼

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 午後十時。
 四谷寛が夜空を見上げた。ビルの隙間から見える真っ暗な空に、星は見えない。
 生ゴミの腐った匂いが漂ってきた。生ゴミをあさっていたネズミが、近くにいる四谷に気づいて慌てて走り去っていった。夜の街に生息するネズミは、警戒心が低いのか人をあまり恐れない。
 息苦しかったので、詰襟制服のホックに指をかけてはずした。四谷が通う旭光学園の制服はブレザーだ。中学の制服もブレザーだったので、詰襟の制服に袖を通すなど初めてのことだった。
 人通りの多い路上で、橋本がようやく立小便を終えた。トイレならさっきの店で済ませてくればよかったのに。それに、こんなに人目の多い場所で堂々と立小便をするとはデリカシーのない男だ。同じクラスの関本朱里がいたら、きっと「最低」を連発していただろう。
 酒場が並ぶ通りを、橋本がひとりで歩いていく。通りには酒に酔った男たちと、そんな男たちを自分の店に引き入れようと狙っている水商売の女たちがいた。路上で繰り広げられている両者の駆け引きが、まるで狐と狸の化かしあいに見える。
 若いカップルが路上でふざけあっていた。女の耳障りな笑い声が、ネオンの光溢れる路地に反響している。
 近寄ってきた橋本の顔を見て、男女が口を噤んだ。男の顔が、媚びるようなぎこちない笑顔に変わった。女がそっと男の背中に隠れる。夜の街では有名な男なのだろう。さすがは石田組の幹部だ。
 だが、隙が多すぎる。
「ベラマチュア尊師を崇拝する会」
 ダークウェブ「onionちゃんねる」のアングラ板を探っていると誰でも見つけることができる闇サイト。
 悪人の素顔を晒したい者からの詳細な情報が、このサイトに集まる。
 ベラマチュア尊師、東屋信一の信奉者たちの間では有名な闇サイトだが、運営者が誰なのか誰も知らない。東屋信一自身も無関係のようだ。
 天誅を下すべき人物として、橋本博文の名前が「ベラマチュア尊師を崇拝する会」の掲示板に載っていた。情報の確認に少し時間を要したが、掲示板に掲載されていた橋本に関する情報は、すべて事実だった。
 あの掲示板に情報を載せておけば、いつか誰かがあの悪人に天誅を下してくれる。橋本に酷い目に合わされた何者かが怨嗟をこめて書き込んだものなのか。それとも、対立する組織が自分達の手を汚さずに、誰か見知らぬものの手であの男を葬らせようとしているのか。
 誰が情報をアップしたのか、四谷にはわからない。だが、そんなことは関係ない。所詮、殺されてもかまわない屑人間であることに変わりはないのだ。
 橋本が人影の多い通りから細い路地に入った。街灯もネオンの明かりも届かない、暗い路地だった。
 下ろされた商店のシャッターに、黒のスプレーで髑髏の落書きがされている。自分達の縄張りを示すための、不良グループのマーキングだ。
 スカル。
 街の不良グループ。人間の屑の集団。
「ベラマチュア尊師を崇拝する会」のホームページにも、その情報が載っている。
 だが、少し前まで街を闊歩していたスカルのメンバーの姿が、街からすっかり消えていた。石田組に追われ、息を潜めながらどこかに隠れているのだろう。いずれにせよ、石田組に殲滅されるのも時間の問題だ。
 慎重にあとをつけて様子を伺っていると、橋本が古いマンションの階段を上がっていった。あの男の情婦のマンションだが、女はこの時間は仕事に出ていて、部屋には誰もいないはずだ。そのことを、二日前にようやく突き止めることができた。
 橋本のあとを追って、四谷が足音を立てずに階段を上がっていく。厚底ゴムの靴を選んだが、正解だった。今夜の仕事を終えればこの靴は廃棄しなくてはならないが、次の狩りのときも同じ靴を買って履くことにしよう。
 三階で、金属がこすれあう音がした。鍵を取り出したのだ。四谷は急いで階段を駆け上がり、踊り場で耳を澄ませた。ドアの鍵の開けられる音と同時に、物陰から姿を現した。
 橋本が飛び上がるように振り向いて、四谷のほうを見た。
「こんばんわ……」
 手に学生かばんを持った詰襟服姿の四谷を見て、橋本が表情を緩めた。身長は百六十五。クラスの女子たちと同じような体格に、気の弱そうな色白の顔。実際、女子生徒にからかわれることもある。
 そんな四谷を見て、橋本は完全に油断していた。橋本は四谷を無視してドアノブに手をかけた。
 彼の後ろを通り過ぎようとしたとき、首筋にスタンガンの電極を押し当てた。改造して電流値を五アンペアまで高めてある、強力なスタンガンだ。
 橋本の身体が痙攣し、声もあげずに廊下に倒れた。さらに立て続けに二回、男の首に電極を押し当て、電流を流した。
 ドアを開け、ぐったりした橋本を玄関に引きずり込み、後ろ手に結束バンドをはめた。しばらくして、橋本がうめき声をあげた。
「てめえ、誰だ!」
 目を覚ました橋本が四谷を罵ったが、学生かばんから大型のサバイバルナイフを取り出すと、彼の身体が震えた。
「てめえ、スカルか?」
 質問に答えても無意味だし、橋本がその答えを聞くことにも意味はない。この男はまもなく死ぬのだから。
 土足のまま部屋に上がった。女の部屋にしては殺風景だった。ベッドから布団を引きはがし、それを持ってリビングに戻った。
 床に転がされた橋本が、結束バンドをはずそうと必死でもがいていた。この先自分にどんな運命が待っているのか、この男はわかっているのだ。
 床に落ちていたタオルを男の口に押し込んで身体に布団を被せ、腹と胸の辺りを狙って布団越しにサバイバルナイフを突きたてた。
 橋本がくぐもった声を上げ、身体を痙攣させた。立て続けに血に濡れたナイフを何回も抜き差しする。刃が男の肉体を切り裂く感覚に、恍惚となった。
 床に血が広がっていくが、返り血を浴びることはない。
 男の身体の痙攣が、やがて止まった。布団を跳ね上げ、血まみれになって息絶えた男の身体をひっくり返した。
 どちらから歩み寄ったのかは知らないが、石田組とスカルが和解しそうになっている。それでは困る。だが、幹部を殺されたとあっては、石田組のスカルへの追い込みはまた激化するだろう。
 証拠となる結束バンドをナイフで切り外し、ポケットに押し込んだ。そして、玄関に落ちていた鍵を拾い、部屋を出てドアに鍵をかけた。
「この世には消し去らなくてはならない命がある」
 ベラマチュア尊師のお言葉だ。
 尊師が「革命」を起こしたのは十五のとき。そして、彼の革命が、絶望に打ちひしがれていた全国の少年少女たちを覚醒させた。
 覚醒した四谷も、十四のときに消し去らなくてはならない命をふたつ、この世から消去した。
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