錆びた十字架

アーケロン

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 微かな振動で目を覚ました。枕元のスマートフォンの液晶画面が、ぼんやり光っている。横で眠っている玲奈を起こさないようにそっとソファから降りると、床に尻を落としてスマートフォンを耳にあてた。
「桃香ちゃん? 」
「奈緒美さん、助けて!」
「どうしたの?」
「変な人に狙われてるの! 私、殺される!」
 またか。奈緒美はテーブルの上のセーラムライトに手を伸ばした。暗い部屋の中で、テーブルに置いてあるデジタル時計の文字がぼんやり光っている。
「ドアの向こうに誰かがいるの。さっきからドアを開けようとしているの! それに、天井からも足音が聞こえてくるの。天井裏に誰かが隠れてるのよ!」
「落ち着いて。いつもの幻覚よ」
「違うわ! あっ! 隣の部屋からも聞こえてくる。誰かが私を殺す相談をしているんだわ!」
「私の言うことをよく聞いて。薬を入れてどれくらい経つの?」
 受話器の向こうが黙った。奈緒美が、口に咥えたタバコに火をつける。乳房の上に落ちた灰を手ではらった。
「昨日の夜に打ったから……ええっと……」
「いい? 深呼吸して。大きく三回。それからキッチンにいって水を飲んで。コップで三杯。それで、幻覚や幻聴は消えるわ」
「幻聴じゃない! 私、殺されちゃう!」
「すぐに深呼吸して、それからキッチンにいって。電話はそのまま切らないで」
 桃香が泣き出した。電話を持って移動する気配が伝わってきた。
「キッチンにいるの?」
「うん」
「じゃあ、水を飲んで」
「コップがないわ! 誰かが隠したのよ。部屋の中に入ってきたんだわ!」
「コップはいいから、蛇口を捻って、早く!」
 水がシンクに落ちる音が聞こえてきた。
「じゃあ、すぐに水を飲んで」
「だって、コップがないの!」
「じゃあ、直接飲んで」
「無理よ!」
「早く飲め!」
 奈緒美が怒鳴ると、桃香の泣き声が消えた。水がシンクに飛び散る音が聞こえてきた。後ろから、ふいに髪に触れられた。玲奈を起こしてしまったようだ
「どう? 落ち着いた?」
「うん……」
「しばらく部屋でじっとしていなさい」
「でも……怖いよう……」
「幻聴が聞こえたら、また水を飲みなさい。あとで部屋に行くから」
 そして、桃香が何か言いだす前に電話を切った。
 桃香は取材の最中に知り合った、まだ二十歳の風俗嬢だった。彼女を取材して記事にした体験談が好評だったので、今も桃香を中心に取材を続けている。そして、彼女は重度の覚醒剤中毒者でもあった。
「大変ね」
 玲奈がソファから降りて奈緒美の横に腰を下ろした。奈緒美はタバコを灰皿に押し付けた。
「吸っててもいいのに」
「タバコ、嫌いでしょ?」
「でも、あなたのことは好きよ」
 腕を組んでくる。彼女の大きな乳房が二の腕にあたって潰れる。床に転がっていたウイスキーのボトルを拾い上げて栓を開け、直接口をつけた。
「そんな飲み方、やめなさい。身体に悪いわ」
 奈緒美が玲奈を抱き寄せ、唇を奪った。舌を割り込ませ、口に含んだウイスキーを玲奈の口に流し込む。彼女の身体が硬直した。慌てて奈緒美を突き放し、テーブルの上のグラスに手を伸ばして解けた氷水を飲んだ。
「こんな強いお酒、無理」
 彼女の強い視線を感じる。抗議の視線。部屋が暗くて表情はよくわからない。もう一度キスをする。玲奈が素直に唇を預けた。彼女の豊かな乳房に触れる。大きくて張りがあって形も良く、女ですら見とれてしまう美乳だ。乳首を弄んでいると、すぐに反応し始めた。
「だめ……。さっきさんざん触ったでしょ?」
 彼女が奈緒美の手を胸から払う。その手を素早く玲奈の股間に滑り込ませた。彼女が慌てて太股を閉じた。彼女の性器に触れる。先ほどまでの潤いが、まだ残っている。
「駄目だって……」奈緒美の手首を掴んで、股間から引き離した。
「その気にさせてやろうって思ったのに」
「もう十分やったじゃない」
「私は一晩中やりたいわ」
「私は明日仕事なの」
「私もよ」
「あなたは昼過ぎまで寝てられるじゃない」
 奈緒美は玲奈の頬にキスをすると立ち上がり、壁のスイッチを入れた。玲奈の白い裸体が蛍光灯に照らされる。彼女が慌てて両手で身体を抱きしめ胸を隠した。付き合って三年。身体の隅々まで知り合った仲なのに、彼女は今も明かりの下で裸体を晒すのを恥ずかしがる。
「氷、だいぶ溶けちゃったね」アイスクーラーの中を覗くと、氷が半分溶けていた。
「まだ製氷室にあるわよ」
 玲奈が裸体にガウンを羽織り、床に落ちていたショーツを拾って素早く脚を通した。キッチンに氷を取りに行くつもりらしい。「これでいい」といって、アイスクーラーを傾けて氷水をグラスに入れ、ウイスキーをその上から注いだ。
「さっきの子、様子を見に行かなくて大丈夫なの? また、手首切ったりしない?」
 ちょうどひと月前の夜、桃香から電話があったが、玲奈と愛し合っている最中だったので無視してしまった。あとで気になって電話をしたが出ようとしないので、彼女のアパートに駆けつけてみると、部屋の隅でカッターナイフを手で持ち、血だらけで震えている桃香を見つけた。自殺しようとして手首を切ったのだ。傷口は浅かったが、縫いあわせた傷口を翌日再び切ってしまったので、病院に入院させる羽目になった。彼女は常に幻聴や幻覚に脅かされ続けていて、奈緒美と知り合う前にも何度か自殺を図っていた。
 奈緒美は桃香を救ってやることはできない。桃香が錯乱したら、水を飲まして落ち着かせてやるくらいくらいしかしてやれない。薬は自分の意志で断つしかないのだ。
「今頃、やっちゃってるかも」
「冷たいのね」
「あとで様子を見に行ってくるわ、大切な金づるだから」玲奈の頬をすっとなでる。「錯乱した彼女に殺されるかも。あなたとはこれで今生の別れになるかもしれないわね」
 幻覚や幻聴で錯乱した覚醒剤中毒者は、追い詰められた動物のように何をするかわからない。目に凶暴な光が宿ったら、刺激しないようになだめながら、その場を離れるしかない。そのサインを見逃して命を落としたものも多い。覚醒剤とはそれほど恐ろしいものなのだ。
「私もついていってあげようか?」
「大丈夫よ。明日は朝から授業なんでしょ、尾崎先生?」
 玲奈は有名な中高一貫女学校の教師だ。清楚で色白の美人、そのうえしっかり者なので、まだ二年目の新米教師なのに多くの女子生徒たちから慕われている。彼女にアタックしてくる女子生徒も多く、生徒からもらったラブレターをいつも自慢気に見せてくる。
 奈緒美がテレビのリモコンのスイッチを入れた。夜十一時。ニュースの始まる時間だ。
「服、着たら?」
 全裸で床に胡坐をかいでいる奈緒美を見て、玲奈がくすっと笑った。雪のように白い肌の玲奈と違い、奈緒美の皮膚は南国の原住民のような小麦色をしている。中学高校とソフトボール部で、大学在学中は海外の海や山でさんざん遊んできた。長い間太陽の下で過ごしてきた肌は、いつの間にか冬でも白くならなくなった。
 テレビのニュースが始まった。死刑囚を早く処刑しろと、遺族が裁判を起こしたニュース。死刑囚の名は田島仁志。七年前に女性二人を殺して死刑判決を受け、一年前に刑が確定した。死刑確定後、六か月以内に刑を執行するよう刑事訴訟法第475条で定められているが、国が法を順守していないといって遺族が訴訟を起こしたのだ。
「最近、死刑って多いのね」
 奈緒美の水割りを一口飲んで、玲奈が呟いた。増える凶悪犯罪に、司法は容赦なくなってきているのは事実だろう。
 奈緒美が玲奈の腰を抱いた。彼女が水割りをもう一口飲み、奈緒美の肩に顎を乗せる。無防備になった喉を指でくすぐると、甘い息を吐いた。
「猫じゃないのよ」
「猫よ。私の可愛いにゃん子ちゃん」
 玲奈の顔が、もうピンク色に染まり始めている。彼女はアルコールに弱い。ガウンから覗いている胸元もピンク色に変わっている。色っぽい彼女の身体に手を伸ばすと、玲奈が「駄目」と言って、胸元を閉じた。
「今から桃香のところにいってくる。殺されても知らないから」
 拗ねた顔で、奈緒美は床から立ち上がった。

 築三十年は優に越えている二世代前のワンルームマンション。階段横に並べられてある郵便受けがピンクチラシで溢れている。ここの住人は若い独身男女ばかりだ。
 階段を一つ上がり、真ん中にある部屋のドアを叩く。ドアの向こうで慌ただしく人が動く気配がした。大きな音を立ててドアの鍵が外される。
「奈緒美ちゃん!」
 ドアから顔を出した桃香の眼が輝いている。玄関に入ると、「来てくれたんだ!」と叫んで抱きついてきた。電話で話したときと様子がまるで違うハイテンション。耐え切れずに薬を入れたのだ。
 桃香が一回に使用する覚せい剤の量は尋常ではない。通常の人間の致死量をはるかに超えている。薬が切れた状態でも入れた状態でも、明らかに普通とは違うとわかるので、歓楽街にある風俗店では雇って貰えない。かといってまともに働いたことのない彼女は身体を売ることでしか金を稼ぐことができない。彼女は今、変態の中国人相手の裏風俗で働いている。避妊具なしのセックスとアナルセックス。性病の感染などにかまってはいられない。その実態を記事にした時の読者の反響は大きかった。
「取材協力費よ」
 財布から二万円を出してテーブルの上に置く。出版社から出るのは一万円、あとの一万円は奈緒美の持ち出しだった。
「インターバル、短すぎない? 昨日の夜、薬を入れたばかりなんでしょ」
「だって、気分が落ち込んでたし」
「あとどれくらい残ってるの?」
「一回分」
 最後の薬がなくなる前に、桃香は売人の元に走る。奈緒美が渡した金も、薬代に消えるのだ。
 ベッドに腰かけた奈緒美の横に、桃香が飛んできた。
「奈緒美ちゃん、とっておきの情報、あるんだよ。お店に元アイドルの女の子がやってきたの」
 お店とは桃香が在籍している会員制クラブのことで、実態は娼婦の置き屋だ。客の変態男たちはこのクラブで酒を飲み女を選ぶ。在籍している女たちはいずれも表の社会では働けなくなった、いわゆるわけあり女たちである。
 桃香が口にしたのは、数年前まで一世を風靡していた元アイドルだったが、複数の男と乱交パーティーの最中に警察に踏み込まれ、覚醒剤使用で逮捕された。組関係者のパトロンまでいることが明らかとなり、芸能界を永久追放された。アダルトビデオに出演するという話もあったが、いつの間にか立ち消えになっていた。覚醒剤の使用が止められず、さすがのAV業界も彼女の利用を諦めたのだろう。桃香の話では、彼女も変態中国人の慰み者になっているらしい。
 微に入り細を穿った彼女の話はリアル感に溢れ辻褄もあっていて矛盾もなかった。金欲しさのでっち上げ話には思えない。
「これって、とっておきの情報でしょ?」身を乗り出してきた桃香の眼が完全に据わっている。
「今度、こっそり写真も撮ってきてあげる」
「わかったわ。また情報提供料、持ってきてあげる」
 彼女の顔にようやく安堵感が宿った。売人と同様、彼女からの裏情報で稼いでいる自分も桃香を食い物にしている一人なのかもしれない。
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