選ばれし英雄達ー暁の訪れー

boou

文字の大きさ
14 / 22
第一章 セルシエン

12-2page 歯車は回った

しおりを挟む
……泥と水が混ざり合った、濃い匂いがする。
肌に張り付くような湿度の高さと、息苦しくも冷たい空気が充満したこの部屋は、とても人が住むように作られたとは思えなかった。
所々苔の生えた石畳の地面や壁、赤錆の酷い鉄格子は自分達を逃すまいとした檻であり、己の細腕ではとても突破するなどできない事をレイズはよく理解していた。
宝石のように輝くその青い瞳も今は悲しみの色に染まり、静かに鍵のかかった扉を見つめるばかりであった。

(……閉じ込められてどれくらい経ったんだろう。
時間が分からない……。)

そう、レイズは今、地下牢に閉じ込められていたのだった。
ルビア達と別れた後、リンの店にて彼女達が戻るのを待っていたのだが、突然押しかけてきた兵士達に無理やり連れ去られてしまったのだ。
己が閉じ込められた牢屋の中を見回す。
蝋燭の灯りはたった一本、ゆらゆらと揺れる灯火は頼りなく輝き、辛うじて部屋の四隅が薄らぼんやりと見える程度には照らしてくれていた。
窓はない、仮にあったとしても自分に脱出する術はない。
……否、自分一人ならまだ何とかなる。
この環境を何とか打開する術がある。
極力使いたくはない、だが自分の身に危険が迫っているのなら仕方ないとも言える……のだが。

「……う、ぅ……。」

ふと、呻き声が聞こえた。
その方向へレイズが視線を向けると、そこには地面に倒れるリンの姿があったのだった。
彼女は苦悶の表情を浮かべ、苦しそうに横たわっている。
どうやら連れ去られた際に気を失ってしまったようだ。

(……リンさんがいる横では、使えない。)

そう心の中で呟く。
レイズの持つ、正に切り札と言える力がある。
だがそれは決して人には見られてはならない。
知られてはならないし、勘付かれてもいけない。
だからレイズはそれを使い、ここから脱出する事を諦めたのだった。
(青年の切り札については今は語る事をしない。
いずれ分かる事だからだ。)
ふと、その場から動き出し鉄格子に近づき、指で触れる。
その感触は何者も拒む鉱物独特の頑丈さと、酸化し棘のようにささくれた赤錆独特の攻撃性が両立したものだった。
……どうする事もできない、自分はここから出られない。
毎分、毎秒、この場所にいる時間に比例して、レイズはその事実を深く深く思い知らされる。
その度に脳裏で蘇るのは、連れ去られた馬車の中で見えた光景だった。
大通りを走る馬車の中、すれ違ったとある少女。
……ルビアの姿だった。

「……ルビア、気が付かなかったなぁ。」

無意識ながら、はっきりとした声色で呟く。
その声の端々に落胆の感情が乗っていることにレイズは気がついていない。
……あぁ、息がし辛い。
心が重い、まるで鉛のようだ。

(違う、違う、きっとルビアは助けに来てくれる。
あの時は医者を探すのに忙しくて、それで僕達に気がつかなくて、今頃は店に戻っていてどこにもいない僕達を疑問に思って探していて……。
……………………。)

堂々巡りになる、考えがぐるぐる回る。
それは違うと強く願う自分と、見捨てられたのではと思い込む自分がいる。
相反する理性と感情のぶつかり合いが脳の奥で巻き起こり、やがて激しい頭痛と眩暈という障害として己の肉体に現れた。
……ドクドクと脈打つ心臓に合わせ、息が荒くなる。
つぅんと鈍く伸びる耳鳴り、ピリピリと痺れ始めた指先、そして腹の奥を強く殴られたような感覚。
あぁ、嫌だなぁ、とレイズは喉の奥で呟いた。
この感覚には覚えがある。
筋肉が強張る程の強い緊張と、底まで落ち込んだ負の感情が全身を覆い、骨の髄まで染め上げる、あの嫌な感覚。
不安、嫌悪、絶望、恐怖、恐怖恐怖恐怖恐怖。
駄目、駄目だ、この思いを、早く落ち着かせなければ。
そうして縋るように手を伸ばしたのは鉄格子の外……ではなく、己の懐に仕舞い込んだ銀製の箱であった。
その外装に触れ、形を確かめる。
……丁寧に彫られた装飾をなぞる度に、その中に入った物を思い出す。
同時に思い出すのは、ある穏やかな思い出。


ーー吹く風は冷たく、頬を撫でる度に鳥肌立つのが分かる
でも握られた手の温かさは、心に染み渡るようで
その隣には、いつも微笑んでくれる母の姿がーー


「……早くウェルツェインに行かないと……。」

そう呟くその声は、強い意志を感じさせた。

「……ん。」

そんなレイズのすぐ側では、身じろぐ音と共にリンの吐息が聞こえた。
見ると、薄目を開けて天井を見つめる彼女の姿がある、どうやら目を覚ましたようだ。

「リンさん……!目が覚めたんだね。」
「……レイズ、さん?
あれ、私……何でこんな所に……?」
「兵士達に捕まったんだよ、覚えてない?」
「兵士……そうだ、私……店に押し入られて、それで……。」

目を覚ましたばかりか、彼女の声には力がない。
気力を欠いたまま一言一言を連ねていく最中、突如ハッとした顔をして起き上がった。

「おじさんは!?ガルダニエおじさんは!?」
「……居ない。
連れて来られたのは僕達だけみたいだ。」
「そんな……じゃあおじさんはお店に取り残されてるの!?」
「多分、そうだと思う……。」

レイズがそう言った途端、リンは急に立ち上がり鉄格子へと向かう。
だが長く気を失っていたせいか、まだ肉体に力が入りきっていないようだ。
彼女が左右へ不規則によろけるのを見て、慌ててレイズが駆け寄る。

「危ない!急に動かないで……!」
「でも!あんな怪我で放置してたら死んじゃう!」
「落ち着いて、僕達は捕まってるんだ。
今ガルダニエさんの所に行くことはできないよ。」
「関係ない!」

半狂乱に叫ぶと、リンはレイズを押し除けて鉄格子を掴む。
しかし鍵のかけられた扉は開くことはなく、ガアァンと鉄同士のぶつかる甲高い金属音が地下にこだまする。
それでもリンは何度も鉄格子を揺さぶり、この牢獄から脱出しようと図る。
だが出れない、扉は開かない。

「開かない……開かない!
何これ、どうしてこんなものが……!」
「り、リンさん、落ち着いて……。」
「何でこんな所にいるの!?
どうして閉じ込められているの!?
早く戻らないと!!」
「リンさん……。」

レイズの言葉はリンの耳には届かない。
彼女は今、身を走る焦燥と脳を満たす恐怖に支配されていたからだ。
耳を塞ぎたくなるような金属音と蝶番の軋む音がこの地下牢を何度も何度も反響し、レイズの弱々しい声を掻き消してしまう。
対して鉄格子は一切壊れる様子を見せず、外の世界と自分達を妨げるただ一つの障害としてそこに鎮座し続けた。
……彼女達は出られない、出ることは出来なかった。
まだ、今は。

「喧しい!何を騒いでいるのだ!」

けたたましく鳴り響く鉄格子の音を打ち消すように男の叫び声が聞こえた。
途端、リンは手を止め、確かに近づくその声の正体へと視線を向ける。
それはレイズも同じで、リンの視線を追うように顔を向けるのだった。
……コツ、コツ、と、靴の音が微かに響く。
それも一つではない、幾つもの足音が地下牢にこだまする。
誰かが、こちらに向かって歩いて来ていた。

「全く、なんと育ちの悪い……これだから学のない輩は嫌いなのだ。
同じ人間とは思えん。」

そう嫌悪と侮蔑を混じらせて言葉が吐き出される。
その声には、聞き覚えがあった。

「イリナメ様……!」

リンが名を呼ぶ。
その通り、彼女達の前に現れた人物。
横に伸びた体積と贅肉のついた顎。
そして血のような赤い眼を向けるこの男は、正門近くでガルダニエを鞭打つよう命じたあのイリナメであった。

「ふん、下民が……気安く私の名を呼ぶな。」

顔を顰め、まるで汚物でも見るかのような視線を向けながらイリナメは舌打ちをする。
だがそれも一瞬のこと、すぐに彼の興味はレイズへと移っていった。

「……間違いない、王城で会った小僧だ。
しかし何故こんな所に……?」
「……僕を知ってるの?」

まさか、といった様子で驚く。
というのもレイズがイリナメと会ったのは過去にただ一度きり。
青年がまだ貴族として生きていた頃の話だ。
その際に言葉を交わした訳でもなく、ただお互い遠くから姿を見ただけ。
なのでまさか自分の事を覚えているとは想像もしていなかったようである。
……まぁ、レイズも同じ条件でイリナメの事を覚えていた訳だから逆もあり得るのだが、どうやらその考えには至らなかったようだ。
しかし、当のイリナメはレイズの問いかけに答える様子はなく、背後に控える兵士に向かって目配せをした。
それを合図に「はっ!」と短く返事をすると、兵士達が鉄格子へと近づいてくる。
そして手に持っていた鍵の束から一つ選び、鍵穴に差し込み回すと、カチャン、という小さな音と共に牢の扉がゆっくりと開かれるのだった。
(あれ程リンがこじ開けようとしたのに、呆気ないものだ。)
同時に牢屋の中に数人の兵士が入ってくる。
そんな彼らに飛びつくようにリンが駆け寄った。

「ど、どうして私達こんな所に!?
ガルダニエおじさんは……!」
「黙れ!」

そう矢継ぎ早に尋ねるリンへ、兵士の一人が蠅を払うように腕を振るった。
それが運悪くリンの肩に当たり、体勢を崩したのか突き飛ばされるような形で後ろによろける。

「きゃっ……!」
「リンさん!」

心配したレイズが咄嗟に駆け寄ろうとする、も。
その行いは伸びてきた兵士の腕に捕まれ、阻止されてしまう。

「やめっ……離して……!」
「お前はこっちだ!来い!」

半ば引っ張られるようにしてレイズは牢屋から連れ出される。
抵抗しようにもレイズの腕力と体格では兵士に逆らうこともできず、そのままイリナメの前へと引き摺り出されてしまうのだった。

「っ……!」

レイズは改めてイリナメと相対する。
間近で見た彼の印象は、第一印象と然程変わらない。
自分よりも上背があり、横に伸びた貫禄のある肉体。
だのに姿勢だけは正している為、より彼を大きく感じる要因となっていた。
そして神経質そうに釣り上がった目元、不機嫌そうに閉じられた口元。
相手を睨むその表情も相まって、妙な威圧感を感じてしまう。
己の中にある様々な言葉を使い彼を表そうと考えるも、最後に行き着くのはやはり【傲慢そうな男】という結論であった。
……ただ、こうして眺めていると一つ気になる所を見つけた。
その眼、血のような赤色の眼だ。
彼は、イリナメは、このような眼の色をしていただろうか?

(……あれ?
前に城で見た時、目の色は緑色だったような……。
こんな赤い色をしていたっけ?)

そう疑問に持つも、彼と会ったのはただの一度きり。
自分の記憶間違いなのだろう、と大してレイズは気にする事はなかった。
……赤色の眼、それを見ているとルビアの事を思い出す。
彼女もまた、同じ赤色の眼をしていたと。
まるで体内の血がそのまま固まったような濃い鮮やかな色合い。
茶色や緑、青色の眼の色はよくあるものの、赤色というのは滅多に見ず、非常に珍しい。
レイズも、ルビアと出会うまで赤色の眼を持つ人は出会った事がなかった。
だが、何故だろう。
同じ色の眼をしているというのに、よりイリナメの方が濁って見えるのは。
ここが地下牢で薄暗いのも理由の一つかもしれないな、と、そんな事を一人考えていたレイズだったが、イリナメが溢した「マリアステル、か。」という言葉に反応し、思考を止めるのだった。

「……相変わらず女と見間違う程の美貌だな。
美しいものは私も好きだが、ここまで来ると言いようのない不気味さを感じるぞ。
全く、マリアステル家の奴らと好き物が多いという事だな。」
「………………。」
「ふん、言い返す事もしないのか。
度胸のない男だ……もしくは噂が本当か。
まぁ良い、そのような事は些事である。
私が知りたいのはただ一つ……。
小僧、神魔石を持っているな?」
「……!?」

レイズは己の耳を疑った。
先程投げられた心のない言葉など頭から吹き飛ぶくらいの衝撃が全身を駆け巡る。
神魔石、確かに彼はそう言った。
そして、それを自分が持っているとも。

「……なん、で。」

震えた唇から溢れた言葉は、たった一言であった。
だがそれだけでレイズの内心で荒れる驚愕と焦燥の嵐をありありと感じ取れてしまう。
対してイリナメは「ふん!」と鼻を鳴らすと、見下すようにレイズを睨みつけた。

「ふん!この私が知らぬとでも思ったか。
さる方からの命によりお前の身柄と神魔石を押さえるようお達しがあったのだ。
まさか王国の秘宝を盗むとはな……大方隣国へ渡って高く売り飛ばそうと考えたのだろうが、そうはさせぬ!
さぁ!今すぐ返せ!」
「っ!」

イリナメはそう詰め寄ると、レイズの細腕を握り締めた。
体格に似合う腕力を持つようで、まるで万力に挟まれたような痛みだ。
レイズは顔を歪め、痛みを訴える。

「離して……っ!」
「黙れ罪人めが!
神魔石はどこにある!?早く白状せよ!
さもなくば死よりも辛い目に合わせるぞ!」
「……っ!い、嫌だ、渡さない……!
あれは元々僕のものだ、僕の母さんの唯一の形見なんだ……!」
「貴様……私に逆らうつもりか!」

そう激昂し、イリナメは怒鳴りつけた。
今や彼は目だけではなく、顔も怒りで赤く染まっている。
幾重に寄せた眉間の皺と釣り上がった目尻、縮んだ瞳孔、その全てを合わせて見れば、まるで獲物を食い殺す寸前の獣のようだ。
そして、狙われた哀れな獲物は小さく震えるレイズ自身。
だが、それでも青年は退く様子を見せず、頑なに神魔石を渡そうとはしなかった。
その態度が癪に触ったのか、イリナメは力任せに腕を振り抜き、レイズを鉄格子へとぶつけるのだった。

「っ……!!」

錆びた鉄格子が揺れて甲高い金属音を鳴らした。
狭い地下では音の逃げ場はなく、遠く遠く走り抜けるようにして幾重も反響していく。
だが、その耳障りな音色はレイズには届かない。
それより肉体を圧迫するような衝撃を突如喰らい、僅かに意識が飛びかけていたからだ。
肺に溜めた空気が急速に吐き出される、と同時に痺れるような激痛が全身に襲いくる。
上手く呼吸ができない、喉を空気が通っていかない。

「っ……か、は……。」
「何処だ!何処に神魔石はあるのだ!
お前が隠しているのか!?」
「やめ、て……ごめん、なさい……。」

掠れた声のまま弱々しく懇願する。
だが、その声はイリナメには届かなかったようだ。
大股でレイズへと近づき、再び手を伸ばす。

「……っ!お、おやめください領主様!
乱暴はよしてください!」

耐えられずリンが飛び出し、庇うようにレイズの前に立つ。
だが、その行いはイリナメの逆鱗に触れたようだ。
ギロリと彼女を睨みつけ、大きく腕を振りかぶると……。

「黙れ!」

叫声をあげ、眼前へと勢いよく振り下ろした!
この拳が空を裂き、空気の流動を促す程度で済むならばどれ程良かっただろうか。
しかし現実ではそのような事にはならず、むしろ最悪に近い結果として巻き起こるのだった。
ゴス、というくぐもった音が聞こえる。
明らかな何か詰まったモノを殴りつけたが故に発生した音だ、とレイズが直感的に理解するのに然程時間はかからなかった。
ある意味、よく聞き慣れた音であり、それだけで根底に沈めた忌まわしき記憶を目覚めさせるに値する、唾棄すべき音色であった。

「っう……!」

小さな悲鳴を上げると、リンはバランスを崩してその場に倒れる。
一瞬だけ己が身を庇うように地面へと手を伸ばすも間に合わず、彼女の細い体は冷たい床へと叩きつけられるのだった。
殴られた、イリナメに。
それもよりによって顔をだ。
女性の顔を殴るなど、あらゆる蛮行にも劣る下劣な行いである。
しかしイリナメにとっては目障りな虫を叩き潰した程度の行いなのだろう。
感情のまま振るった暴力により、幾分か冷静さを取り戻したのかその顔色は正常なものへ戻っていった。
ただし、今度は逆にリンの頬が赤く腫れ上がっていく。

「り、リンさん……!」

レイズが震えた声で名を呼ぶ。
そして倒れる彼女へ向けて手を伸ばそうとしたが、イリナメによってその行いは阻止される。
彼の手が、再びレイズの腕を掴んだからだ。

「っ……!」
「さぁ、言え!
神魔石はどこにある!?」
「い、や……!」

レイズも必死に抵抗する、がイリナメの力には敵わなかった。
体格も、腕力も、何一つとして敵うものはなく、更には度重なる暴力の光景にレイズの心はすっかり怯えていた。
だからだろうか、まるで縋るように……そして守るように、無意識に懐へと手を伸ばしていたのは。

「そこに隠しているのだな!?」

目敏くイリナメがレイズの手を見るや、服を掴む。

「っ……!や……!」

やめて、そう言い終わる前に聞こえてきたのは。
衣服の破られる音であった。
………………仕立てられたばかりの青年のローブは大きく裂けてしまっていた。
そして、そこから転がり出たのは一つの美しい箱。
レイズが肌身離さず持ち歩いていた、神魔石が納められた母の形見であった。
重力に従い、銀製の容れ物は下へ下へと落下していく。
そして冷たい石畳へ触れると同時に、カァーーーーンと甲高い金属音を鳴り響かせた。
その衝撃たるや、閉じられていた蓋が開く程だ。

「あ……!」
「おお!」

レイズの悲嘆が混じった声と、イリナメの興奮に満ちた声が重なる。
そのどちらも、箱の中身が露出したが故の吐露であった。
蓋の開いた箱の中から白色の秘宝が顔を覗かせている。
宇宙を封じ込めたような美しい輝き、これこそ正に。

「これが神魔石……!噂に違わぬ美しさよ!
正に国宝と呼ぶに相応しき輝き!」

初に見える至宝を前にイリナメは喜びを隠しきれなかった。
それは彼だけではなく、取り巻きである兵士達も同じである。
燦然とするその堂々たる存在感、この世に存在するありとあらゆる財宝をかき集めても、この美しさと輝きには劣る事だろう。
そう感じさせる何かが神魔石にはあった。
だからこそ、その至宝に思わず手を伸ばしてしまうのも、致し方ないとも言える。
爛々とした眼を向けながら、イリナメは神魔石を掴もうとした。
何も己のものにしようと目論んだ訳ではない、ただ無意識に手を伸ばしてしまったのだ。
その輝きに吸い込まれるように、まるで光に群がる虫のように。
興奮に僅かに震える指先が神魔石の表面へと触れる…………。



瞬間、身の毛がよだつ程の悪寒が背筋を走る。



ーー極限まで圧縮と拡張を繰り返す心臓の音が、骨の髄まで揺らすように響き渡る。
沸騰したように湧き立つ血の熱さと、反対に体温を失う五臓六腑の冷たさよ。
その相反する感覚は充分な吐き気と気色悪さを演出しているというのに、何処か心地の良さを感じているのは何故だろうか?
耳の奥ではミシリ、ミシリと何かが蠢く音がした。
何だこの音は?聞き覚えがない。
虫でもない、蛇でもない、兎でもない、鳥でもない。
犬でも猫でも蜥蜴でも魚でも蝙蝠でも馬でも鼠でもない。
…………あ、そうか。
これは、肉が潰れる音だ。
肉と肉がぶつかって、混ざって、ぐちゃぐちゃになっていく音だ。
そうイリナメが理解に及んだ瞬間、閉じていた感覚が一気に開いた。
“痛覚”という名の、その感覚が。

「あ、ああ、あああああああああああぁぁぁぁぁあああぁぁぁああああ!!!!!!」

正に絶叫がイリナメの口から飛び出す。
最早痛みなどという言葉では生ぬるい、それ程の苦痛が彼の全身に襲いかかる。
言うなれば、生きたまま引き千切られるという言葉が正解か。
細胞一片にかけて丁寧に、丁寧に裂かれるような耐えがたい感覚を味わっている事だろう。
そして何より、何より恐ろしいのは。
この言葉が比喩ではなく、現実にて起きているという事実であった。

「ひっ……!」
「い、イリナメ……様……!?」

兵士達が恐怖を発しながらイリナメの名を呼ぶ。
だがその言葉は当人には届かない。
イリナメは、直視すら憚られる化け物へと変貌を続けていたからだ。
既に丸太程に肉付いていた胴体は膨張を重ね、まるで風船が膨らむかのように肥大化していった。
対して四肢は痩せ細り、老いた枯れ木のような見た目へと変貌を遂げる。
ビィ、ビリィと音がする、恐らく彼の身につけている衣服がその変化に耐えきれず破れているのだろう。
既に布と化した衣服の隙間からは、今にも千切れそうなまでに伸び切った皮膚が見え隠れしていた。

『ごれ、ハ、ナン、だ。
わだし、のがら、ダ、ドウナっで。
痛い、苦しイ、痛い、痛イ、イタイイタイイダイイダイイイイィィ!!
誰ガ!誰カ誰カ誰ガ!
ダレ、ガ、ダズ、ゲ……!』

耳を塞ぎたくなる程の悲鳴が地下牢をこだまする。
兵士の一人は震えが止まらず、もう一人は信じ難い光景を前に涙と涎をだらだらと流し、引き攣った顔のまま座り込んでいた。
そして、傍らでその異形への変化を見ているレイズは、あまりに理解の及ばぬ出来事に歯をカチカチと鳴らしながら動けずにいたのだった。

すると、ズドン、と突然イリナメの肉体が地面へと落ちた。
……どうやら己の自重に耐えきれず、足の骨が折れて潰れたようだ。
既にその姿は人とはとても呼べず、円形にされた肉の塊としか呼称することしかできない。
丸い体をグラグラと揺らしながら、イリナメはひたすらに苦痛を訴え、悲鳴を上げ続けるしかなかったのだ。
だが、それも長くはなかった。
あぁ……アアァ……と、あれ程喧しかった声は先細り、虫の囀り程度のものとなっていく。
それに合わせて体の動きも緩慢になり、やがて声が聞こえなくなると同時に、その動きを完全に静止させたのだった。
しん、と静寂が戻った地下牢。
レイズは眼前に見えるイリナメだったものを見つめながら、呆けたように薄く息をし続ける。

「……なに、これ……。」

か細く鳴くようにレイズが呟く。
というより、そんな言葉しか出てこなかった。
目前で起きた出来事はあまりに非現実的であり、直接この目で見たにも関わらず、まるで実感が湧かなかったからだ。
これは全て夢なのだと諭されれば納得してしまいそうな、そんな落ち着かない心持ちである。
だが……鼻をつく血の匂い、肌を撫でる空気の感触。
そして周囲の人々の嗚咽と悲鳴。
その全てが、今この場こそ現実であるのだと確かに教えられるのだった。

……ふと、とある事が引っ掛かる。
それは、この異形の塊を間近で見続けていたが故か。
それとも意図せず遭遇した異常事態に対し、己自身が対処法を模索したが故か。
理由は分からない、だがそんな事はどうでもいい。
そのような事、青年の心の片隅に生まれた考えに比べれば気にするべくもないからだ。
変わり果てたイリナメの肉体、丸というより楕円に近く、奇妙に脈打つ表面を見つめながら、レイズは思った……思ってしまった。
『まるでこの形は卵のようだ。』などと。
そしてこうも思ってしまった。
『今にも中から何かが孵りそうだ。』などと。

ーーレイズから見て死角の箇所。
イリナメの肉体に一筋の線が入っていく。
その線は外側から付けられたものではなく、内側から力を加えて付けられたものであった。
まるで、雛が殻を破るように。
何かが内側から這い出るかのようにーー
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話

登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。

性別交換ノート

廣瀬純七
ファンタジー
性別を交換できるノートを手に入れた高校生の山本渚の物語

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

服を脱いで妹に食べられにいく兄

スローン
恋愛
貞操観念ってのが逆転してる世界らしいです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

処理中です...