私だった時間の終わりに〜あなたの愛はまだありますか?

月山 歩

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16.デート

「ビア、街に出かけよう。」

 礼拝のない穏やかな朝。
 シルビアがオルガンの演奏をしていると、扉の向こうから聞き慣れた声がした。
 振り向くと、そこに立っていたのは平民の服を着たマティアスだった。

「おはよう。」

 私は思わず彼の全身を眺めると、白いシャツにシンプルなズボン。
 それだけの質素な装いなのに、鍛えられた体の線がシャツ越しにもわずかにわかり、かえって目を引いた。
 どこからどう見ても、ただの平民には見えない。

「この格好なら、ビアと釣り合うだろ?」

「まあ、そうね…。」

 マティアスは嬉しそうに話すが、ごめんそれでも私達は釣り合わない。
 前から思っていたけれど、平民の服を着ていたって、彼はあまりにも格好良すぎる。

 むしろ貴族より平民の人数が圧倒的に多いのだから、私からしたら逆にライバルが増えているような気さえするけれど、そのことには触れないでおこう。

「じゃあ、行こうか。」

 マティアスから自然に差し出された手に、反射的に手を伸ばすと、彼は一瞬フッと笑い、指を絡めるように王都の街へ歩き出した。

「ねぇ、何が面白いの?」

「いやだって、手を繋ごうとあえて言わずに、何げなく手を伸ばした方が、ビアは昔の僕達にすんなり戻れるんじゃないかと思って。」

「確かに。
 ビアンカとして手を繋いだのは、今が初めてなのに。」

「だろ?」

 マティアスは楽しそうに頷いた。

「ビアは感覚的に生きてる人間なんだ。
 日常のことには割と無頓着だから、僕が世話をしても、気にせず受け入れる。
 音楽の才能も、きっとそこから来ているんだろうね。」

 私は少し考える。

「そういうことなのかな。
 私はビアンカの姿になって、初めて多くの人に助けられて生きているのがわかったの。

 例えば、食事は出されらそのまま食べていたし、ドレスも用意されたものを着ていたわ。
 でもその裏では料理人が材料から仕入れて、料理して、綺麗な食器に並べて、私のところに運ぶ。
 そんな動きがあったの。」

 マティアスは黙って聞いている。

「でもさらに市井に下ったら、料理人が仕入れた野菜は、民が畑で作って、一つ一つ市場で売っていたことを知って、とても驚いたわ。」

 彼は少し笑った。

「そうだろうね。
 ビアはまさに深層の令嬢だったから。」

「ええ、だからビアンカの姿になったことも、結果的には悪くなかったと思っているわ。
 知らないことをいっぱい知れたから。」

 マティアスは少しだけ視線を落とした。

「僕はね、本当はビアに世の中の嫌な部分なんて見せたくなかった。
 小さな世界の中で、いつも穏やかに笑っていて欲しかったんだ。
 曲作りの時は、さらに深く自分の中に入り込んでいたのは知っていたから。

 でも姿が変わったことにより、無理矢理外の厳しい世界に放り出されていたなんて、想像もつかなかったよ。」

「ふふ、最初は途方にくれたわ。」

「そうだろうね。
 もしその時話してくれていたら、僕はすぐに邸に連れ帰っていただろう。」

「確かに、マティアスならそうしそうね。」

「君が侍女としてつらい思いをするなんて、見ていられるはずがない。」

 そう話しながらも、マティアスは道路を行き交う馬車や人々から、自然に私を庇いながら歩いている。

「マティアスは、平民の姿でも私を守ってくれるのね。」

「当たり前だよ。
 僕は幼い頃から、ビアだけを思って生きてきたんだから。」

 彼は迷いなく言った。

「ふふ、もうマティアスがそうやっていつも甘やかすから、私は世間知らずなのよ。」

 マティアスは肩をすくめる。

「いいじゃないか、僕はビアを箱に閉じ込めて、僕をだけを見ていてほしかった。
 今、大幅にその計画は軌道修正を余儀なくされているけどね。」

「そうかしら、結局元のように戻った気がするけれど。」

 二人が王都の公園にたどり着くと、マティアスは私にそばの屋台で買ったジュースを差し出した。

「歩いて来たから、少し疲れただろう?
 モリカほどではないけれど、ビアの好きな味だと思うよ。」

「ありがとう、ちょうど喉が渇いていたの。」

 二人はベンチに腰掛け、どこまでも広がる青く澄んだ空を見上げた。
 花が咲き誇る公園は、中心に噴水があり、陽の光を受けてきらめいている。

 多くの民達の憩いの場になっているようで、あちこちから小さな子供達の笑い声が聞こえるが、とても広大なため、不思議と二人だけの静かな時間が流れていた。

「このジュースも美味しいわね。」

 濃厚な果実の味がするのに、飲んだ後にはサッパリする。

「そうだろ?
 ビアはただ甘いだけのものは好まないんだ。」

「ふふ、マティアスは私のことを本当によくわかっているわ。
 マリカの花の好きな色まで。」

 花畑で私をビアンカだと思い、好きなマリカの色を言い当てたことを伝える。

「ああ、僕は自他共に認めるビアの専門家だからね。」

 私は少し真剣な顔になった。

「そうね。
 でも、マティアスがビアンカと甘い物を食べ合っている時、あなたが私に合わせて甘いものも食べれずにいた現実を知ったの。
 マティアスは私を大切にし過ぎて、私の前で本当のあなたを見せていなかったって。」

 彼は少し慌てたように笑った。

「待って、僕が君にしてきたことはすべて僕がしたくてしてきたことさ。
 確かに君に好かれたくて、君の好みに合わせていたことは認める。
 けれど、好きな女性に良いところを見せたいのは、どんな男でも同じさ。

 不思議なんだけど、ビアンカに君にしたことを同じように続けていたら、徐々に彼女が嫌になった。
 姿形が一緒なのに、何故か僕の好きなビアではなかったんだ。

 逆に今はビアンカの姿なのに、君への好きが止まらない。
 ピアノの音色が好きなのは、確かに亡き母の影響があるだろう。
 けれど、オルガンの音色だって、ビアが弾いていると知る前から、すでに好きだったんだ。
 それに、君は好きだとしつこく言う僕に優しいよね。
 それも嬉しいんだ。」

 私は胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。

「私はマティアスの好きをしつこいと思ったことはないわ。
 むしろビアンカの姿で一人でいた時、とても寂しいと思ったくらいよ。」

 私は静かに言うと、マティアスは嬉しそうに笑った。

「やっぱり僕達はピッタリのカップルなんだ。
 ビア、一度僕の邸に来てくれないか?
 父に今の君を紹介したいんだ。」

「えっ、ナビエ侯爵様に?」

「ああ、前にも会っていると思うけれど、君と結婚するにはどうしても一度父に会ってもらう必要がある。」

 私は少しだけ不安になる。

「そうね、今の私はシルビアからマティアスを奪った平民ですものね。
 受け入れてもらえるかしら?」

 マティアスは迷わず私の手を強く握る。

「そのことで何かあったとしても、僕が乗り越えるから信じて。」

 私は微笑んだ。

「もちろんよ。
 私ももうマティアスを諦めないわ。」



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