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第二節
濃霧(9)
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注文して、料理が届くのを待っている。
「ちょっとトイレ」
私はそう言うと、席を立ち、お手洗いへ向かう。
お手洗いに着いた。
三つの個室便所があり、その手前に手洗い場がある。
その手洗い場には、鏡が設けてあり、顔を映す。
私はお手洗いを済ませて、手洗い場で手を洗う。
おっと。
身に付けている腕時計に水がはねる。
濡れた手で、腕時計を外して、手洗い場の縁に置く。
そして、手を洗い終えると、腕時計を再び身に付けた。
この腕時計は妻から頂いた大切な物だ。
私の誕生日のお祝いで頂いた。
文字盤に私の名前が彫られている。
オーダーメイドのようで、大層高価だったそうだ。
結婚してから十回目の誕生日のお祝いで奮発したとの事だった。
その腕時計は止まる事なく、時を刻んでいる。
私は妻に愛されている事を実感して、一つ微笑むと席へ戻った。
私達のもとへ料理が届く。
店員が机に料理を並べていく。
じゅーじゅーと脂が細かく跳ねる。
自然と頬が緩む。
唾液が滲み出し、口の中が潤う。
ふと、店員の顔を見た。
店員は綿素材のマスクを付けていた。
顔が小さいのか、顎下から下まぶたまですっぽりと隠れている。
化粧で目元の輪郭がくっきりしている。
「ごゆっくりどうぞ」
店員は言う。
その口の動きに合わせて、マスクが僅かに顎側へずれる。
店員の頬が見えた。
そこには、青黒く滲んだ痣があった。
私の瞳孔に緊張が入り、思わず、痣に集中する。
その痣は、左の下まぶたから頬に広がっている。
しかし、マスクにより、その痣の全貌がわからない。
暴力傷にも見える。
夫から暴力を振るわれているのか?
それとも、病? 怪我?
生まれつきの可能性もある。
疲労?
くまが、できているだけかもしれない。
私の脳内で様々な思考が現れては消える。
店員は私達の席から離れる。
気が付けば、私はその店員の背を憐れむような眼差しで見ていた。
食事をいただき始める。
次第に老婆の異様な出来事は記憶から薄れていった。
美味しいご馳走を私達は顔を見合わせて分かち合う。
私はぺろりと平らげ、妻と娘の食事を眺める。
妻の咀嚼する時の頬が膨よかに動く。
その隣で娘も咀嚼する。
娘の咀嚼する頬の動きが、妻に似ていることに気が付いた。
私はくすりと笑った。
妻は、きょとんとした疑問の表情を浮かべて、私を見る。
「いや、二人とも似ているなと思ってな」
私は答える。
「まあね、私達親子なので」
妻はもぐもぐと咀嚼しながら言う。
ふと、娘の食事を見ると、食器に人参が残っている。
「人参が残っているな」
私が言う。
娘が咀嚼しながら、上目遣いで私の顔色を窺う。
「食べないと元気な大人になれないぞ」
私は柔らかな口調で諭す。
「一つは食べなさい」
妻が言う。
「うーん」
娘は人参をフォークで刺して、口元へ近づける。
人参が近づくにつれて、娘の眉間にしわが寄っていく。
ぎこちなく、口が開く。
口の中に小さな舌が見える。
舌の全体が薄桃色で舌先は丸い。
きめの細かい舌の表面は舌苔もなく、潤沢な唾液に帯びている。
その小さな舌は口の中で左右に振り、暴れている。
口の中に人参を入れた。
娘は目をぎゅっと閉じて、顔の中央に向けてしわを寄せる。
渋い表情を浮かべながら、咀嚼する。
ごくん。
娘の喉から飲み込む音が聞こえる。
娘が、うわーっと口を開けて、苦い表情で訴える。
娘はすかさず、フォークを持ち、残りの人参を取る。
私と妻は娘の意欲に驚く。
しかし、驚きもすぐに笑いへ変わった。
娘は、その人参を妻のお皿へ、そろりそろりと持っていく。
そして、人参を妻のお皿にそっと置いた。
娘は妻の顔色をちらりと窺う。
人参を置いたフォークを素早く元に戻す。
再び人参を持つと、ゆっくりと妻のお皿に連れていく。
その人参も妻のお皿にごろんと置くと、素早く元に戻った。
私の眼差しに気が付いた娘はぎょっとする。
「今日はお出掛けだし、いいんじゃない?」
妻が微笑みながら言う。
「そうだな。全く、可愛いことするね」
私も笑みを溢して言う。
私と妻の笑顔を見た娘は明るくなった。
私達は食事を終えて、席で寛いでいる。
「これ、できるか?」
私は水が半分位入ったコップの縁を人差し指でなぞる。
高音がふわんとなる。
その光景に娘は目を丸くした。
「やりたい、やりたい!」
娘は椅子に座ったまま、臀部で跳ねて言う。
妻は、また始まったと言わんばかりに私を見る。
私は自慢げにグラスの縁を指でなぞり、音を出す。
娘は私に真似をしてグラスの縁を指でなぞる。
しかし、音が鳴らない。
私は、スプーンでコップの中の水を掬う。
「この水を指につけてからすると鳴るよ」
娘はスプーンで掬った水をちょんと指につける。
再び娘はグラスの縁をなぞると、高音が鳴った。
「おお、凄いね」
私はそう言いながら、グラスの縁をなぞり、音を出す。
「お父さんと音が違うの、なんで?」
娘も音を出しながら聞く。
「コップの中の水の量が違うからだよ」
私は答える。
私と娘の高音の響き合いが続く。
その音も、愉快な話し声が広がる店内では目立ってうるさくない。
「もう、うるさい!」
妻が目を細めて言う。
私と娘はぴくんと体を固めて、奏でるのを止めた。
「ちょっとトイレ」
私はそう言うと、席を立ち、お手洗いへ向かう。
お手洗いに着いた。
三つの個室便所があり、その手前に手洗い場がある。
その手洗い場には、鏡が設けてあり、顔を映す。
私はお手洗いを済ませて、手洗い場で手を洗う。
おっと。
身に付けている腕時計に水がはねる。
濡れた手で、腕時計を外して、手洗い場の縁に置く。
そして、手を洗い終えると、腕時計を再び身に付けた。
この腕時計は妻から頂いた大切な物だ。
私の誕生日のお祝いで頂いた。
文字盤に私の名前が彫られている。
オーダーメイドのようで、大層高価だったそうだ。
結婚してから十回目の誕生日のお祝いで奮発したとの事だった。
その腕時計は止まる事なく、時を刻んでいる。
私は妻に愛されている事を実感して、一つ微笑むと席へ戻った。
私達のもとへ料理が届く。
店員が机に料理を並べていく。
じゅーじゅーと脂が細かく跳ねる。
自然と頬が緩む。
唾液が滲み出し、口の中が潤う。
ふと、店員の顔を見た。
店員は綿素材のマスクを付けていた。
顔が小さいのか、顎下から下まぶたまですっぽりと隠れている。
化粧で目元の輪郭がくっきりしている。
「ごゆっくりどうぞ」
店員は言う。
その口の動きに合わせて、マスクが僅かに顎側へずれる。
店員の頬が見えた。
そこには、青黒く滲んだ痣があった。
私の瞳孔に緊張が入り、思わず、痣に集中する。
その痣は、左の下まぶたから頬に広がっている。
しかし、マスクにより、その痣の全貌がわからない。
暴力傷にも見える。
夫から暴力を振るわれているのか?
それとも、病? 怪我?
生まれつきの可能性もある。
疲労?
くまが、できているだけかもしれない。
私の脳内で様々な思考が現れては消える。
店員は私達の席から離れる。
気が付けば、私はその店員の背を憐れむような眼差しで見ていた。
食事をいただき始める。
次第に老婆の異様な出来事は記憶から薄れていった。
美味しいご馳走を私達は顔を見合わせて分かち合う。
私はぺろりと平らげ、妻と娘の食事を眺める。
妻の咀嚼する時の頬が膨よかに動く。
その隣で娘も咀嚼する。
娘の咀嚼する頬の動きが、妻に似ていることに気が付いた。
私はくすりと笑った。
妻は、きょとんとした疑問の表情を浮かべて、私を見る。
「いや、二人とも似ているなと思ってな」
私は答える。
「まあね、私達親子なので」
妻はもぐもぐと咀嚼しながら言う。
ふと、娘の食事を見ると、食器に人参が残っている。
「人参が残っているな」
私が言う。
娘が咀嚼しながら、上目遣いで私の顔色を窺う。
「食べないと元気な大人になれないぞ」
私は柔らかな口調で諭す。
「一つは食べなさい」
妻が言う。
「うーん」
娘は人参をフォークで刺して、口元へ近づける。
人参が近づくにつれて、娘の眉間にしわが寄っていく。
ぎこちなく、口が開く。
口の中に小さな舌が見える。
舌の全体が薄桃色で舌先は丸い。
きめの細かい舌の表面は舌苔もなく、潤沢な唾液に帯びている。
その小さな舌は口の中で左右に振り、暴れている。
口の中に人参を入れた。
娘は目をぎゅっと閉じて、顔の中央に向けてしわを寄せる。
渋い表情を浮かべながら、咀嚼する。
ごくん。
娘の喉から飲み込む音が聞こえる。
娘が、うわーっと口を開けて、苦い表情で訴える。
娘はすかさず、フォークを持ち、残りの人参を取る。
私と妻は娘の意欲に驚く。
しかし、驚きもすぐに笑いへ変わった。
娘は、その人参を妻のお皿へ、そろりそろりと持っていく。
そして、人参を妻のお皿にそっと置いた。
娘は妻の顔色をちらりと窺う。
人参を置いたフォークを素早く元に戻す。
再び人参を持つと、ゆっくりと妻のお皿に連れていく。
その人参も妻のお皿にごろんと置くと、素早く元に戻った。
私の眼差しに気が付いた娘はぎょっとする。
「今日はお出掛けだし、いいんじゃない?」
妻が微笑みながら言う。
「そうだな。全く、可愛いことするね」
私も笑みを溢して言う。
私と妻の笑顔を見た娘は明るくなった。
私達は食事を終えて、席で寛いでいる。
「これ、できるか?」
私は水が半分位入ったコップの縁を人差し指でなぞる。
高音がふわんとなる。
その光景に娘は目を丸くした。
「やりたい、やりたい!」
娘は椅子に座ったまま、臀部で跳ねて言う。
妻は、また始まったと言わんばかりに私を見る。
私は自慢げにグラスの縁を指でなぞり、音を出す。
娘は私に真似をしてグラスの縁を指でなぞる。
しかし、音が鳴らない。
私は、スプーンでコップの中の水を掬う。
「この水を指につけてからすると鳴るよ」
娘はスプーンで掬った水をちょんと指につける。
再び娘はグラスの縁をなぞると、高音が鳴った。
「おお、凄いね」
私はそう言いながら、グラスの縁をなぞり、音を出す。
「お父さんと音が違うの、なんで?」
娘も音を出しながら聞く。
「コップの中の水の量が違うからだよ」
私は答える。
私と娘の高音の響き合いが続く。
その音も、愉快な話し声が広がる店内では目立ってうるさくない。
「もう、うるさい!」
妻が目を細めて言う。
私と娘はぴくんと体を固めて、奏でるのを止めた。
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