霧の中に悪魔がいる

full moon

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第三節

ミコトバの乳(6)

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 「その分厚い本に書いてあるのか?」
老父は訊ねる。

老婆は話を返さない。

「また無視か」

老父は、呆れた表情を見せる。

店内に沈黙した重苦しい空気が漂う。

篠生はギターケースを撫でている。

私は篠生に話しかけた。

「昼間、川瀬で演奏していませんでしたか?」

篠生は体をびくつかせて、私を見る。

「あ、驚かせてすみません」

私は明るく接する。

「あ、あ、い、いえ。全然大丈夫です。見られていたんですね」

篠生は、おどおどとして吃りが強い。

「ええ。たまたま通りかかって、心地良い曲でしたので家族で聞き入っていました」

「いや、そんな。恥ずかしいな」

篠生は頭を掻いて困惑している。

篠生の額には汗が滲む。

「ギターのプロの方ですか?」

「いえ、そんな。ただの趣味ですよ」

「趣味で、あんなに綺麗な曲を弾けるんですね」

篠生の頬が仄かに赤らむ。

篠生は徐にギターケースを開け、ギターを取り出した。

ギターは年季がある。

ボディーのコーティングが剥げて、模様もあせていた。

篠生はギターを太ももにのせる。

「私ではなく、このギターが良い音色を奏でてくれるんですよ」

篠生はギターのボディを優しく撫でる。

その表情は我が子を愛でているように温かい。

「もし出来るなら、演奏していただけませんか?」

私は切実な思いだった。

あの演奏を聞けば、皆の気分が明るくなるのではないかと思った。

「いや、聞かせる程ではないですよ。だって…」

篠生は言いかけて、言葉を詰まらせる。

「ほんの少しだけでいいんだ。どうかお願いします」

私は頭を下げる。

「わ、わ、わ、かりました。ちょっとだけ」

ぽんと弦を指で弾いた。

その音は、この沈黙の空気感に光が射したように染み渡る。

皆の視線が集まる。

老婆は怪訝そうな眼差しを送る。

篠生は体を萎縮させて、手を止める。

「や、やっぱり、やめませんか? 皆、怒っていますし」

篠生はおどおどとして言う。

「大丈夫。皆もあの曲を聞けば、気持ちが明るくなるはずだから」

「うう」

篠生は苦い顔で言葉を濁す。

ちらりちらりと客の皆の視線を気にしながら、チューニングをしていく。

チューニングを終えると、篠生は一呼吸置いた。

そして、左の手の指の腹で弦を押さえ、右手の指で弦を弾いた。

演奏は店内へ一気に広がり、重苦しい空気感を払拭させた。

川瀬で演奏していた曲だ。

篠生の体が小さく左右に揺れる。

旋律に心体を委ねているようだった。

演奏する前の自信の無い様子は全く見られない。

演奏の上手い下手は私には分からない。

ただ、ふんわりとした幸福感が体に染み渡るのを覚えた。

皆も、その旋律に聞き入っている。

疲労感や恐怖心に塞ぎ込んだ表情がほぐれていく。

妻は眉を下げて、どうする事も出来ない状況に悲しみを浮かべている。

涙袋にじんわりと涙が滲む。

集まった涙は涙袋の土手を超えると、ほろりと頬を伝う。

再び、涙が涙袋に少しずつ少しずつ集まっていく。

そして、また一つ、ほろりと涙が滴る。

老婆は篠生を睨み付け、口が何やらもごもごと動く。

その口の中から、カチッカチッと金属的な音が鳴る。

入れ歯を定位置に戻そうとしているように見える。
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