豊家軽業夜話

黒坂 わかな

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前日の雨が嘘のように晴れ渡り、清々しい秋空のもと、内府は重陽の節句の祝いのため家臣を引き連れ陸路で大坂城に向かった。まるで竹早の夜半の襲撃などなかったかのように、一行は落ち着いた足取りで歩みを進める。

同道する家臣の数は五百人ほど。一行がもし人数をさらに増やし、かつ鎧姿でもあれば、豊家もすぐに戦支度して迎え撃つ覚悟であったが、幸いにも内府は平服で、馬ではなく籠で大坂へ向かったのであった。

一行は日暮れ前には大坂に到着し、着替えを終えた内府は大坂城本丸の広間にて、秀頼公に鷹揚に頭を下げた。

―秀頼様と淀殿に置かれましては変わらずご健勝のこと、恐悦至極にございまする。

太閤の死後、政のため五大老が大坂城に一同に会し、以降も内府は度々この城を訪れているが、いずれも他の大名との会合ばかりで、こうして秀頼公や淀殿と向き合うのは初めてのことであった。

場を和ませようと内府は世間話を始めたが、太閤の時のようにすらすらと会話は続かない。孫娘の千姫の話などをしても、秀頼公はつまらなそうに頷いて見せ、淀殿は微笑みながら相槌を打つばかりであった。

開いた間を埋めるように、内府は一人、また一人と重臣を呼び込み、話は次第に政に移っていった。淀殿はその場にいても分からぬ政の事ばかりで、飾り物のようにじっとして時が過ぎるのを待った。

秀頼公もしばらくは耐えていたが、やがてじっとしていられなくなり、淀殿に下がってもよいかと尋ねた。
淀殿は秀頼公を嗜めたが、内府はにこりと笑って、持参した節句の祝い菓子の葛籠を秀頼公に手渡して言った。

―これを家中の皆様に配ってきて下さりませぬか。

助け舟を出された秀頼公は、喜んで立ち上がった。

―兄上に差し上げて参ります。

その一言に、内府は敏く反応した。

―そういえば、秀頼様には実は兄君が居られたと、某も近頃知ったのでございます。よい機会ゆえ、兄君にも是非、お目通り願えませぬか。

秀頼公は無邪気に言った。

―無論にございます。兄上を呼んで参りましょう。


その頃竹早は、馬場にて黒鹿毛の愛馬、逆立(さかだち)に乗っていた。

豊家に入ってすぐの頃、馬だけは乗れるようにと口すっぱく言われ、松の丸殿から馬を賜ったのだった。軽業が禁じられ、顔見知りも少なかった竹早にとって、この馬は心の支えでもあった。軽業の芸に掛け、逆立と名付けたこの馬を、竹早はたいそう可愛がった。

馬上の竹早を、柵の外から大声で呼ぶ者がいる。秀頼公の小姓、長吉であった。竹早が柵に近寄ると、

―秀頼様が菓子を食べに参られよと仰せにございます。急ぎお越し下さいませ。

と急かした様子で長吉が言う。
内府に会わぬようにわざわざ城外の馬場に来ているのに、たかが菓子の一つや二つで呼びつけるとは、秀頼公は誠に間が悪い。

―後ほど参ると伝えよ。

長吉に伝えるが、長吉は困った様子で退がろうとしない。

―それが…、内府様が竹早様に会いたがっておられるのです。

竹早は思わず空を仰いだ。が、内府が秀頼公の兄に会いたがるのは当然の事とも言える。

伏見の屋敷に忍んだ折、寝所には燭台の灯りがあった。竹早が内府の顔を覚えているように、内府もまた、竹早を覚えているであろう。

―後ほど参る。

竹早は再び長吉にそう言うと、逆立の手綱をしかと摑み、鞭打って嘶かせ、城の裏の山中まで駆けに駆けた。


竹早が秀頼公の前に現れたのは、その四半刻ほど後であった。竹早の顔を見て、秀頼公は唖然とした。瞼が腫れ上がっているのだ。

―兄上、そのお顔はいかがなされたのです。

いつもの山中で、竹早は銀杏の木の下でぎんなんを拾い集めた。殻を割って中の実を取り出すと、その実を瞼に擦るように塗りつけたのである。

―山中でぎんなんを食べようとしたら、こうなったのでございます。賎しき所作を内府様に知られとうございませぬゆえ、どうかご内密に願えませぬか。

竹早は恥ずかしそうに両手を合わせた。

―まったく兄上は情けない。何をなさっておるのです。

呆れながら秀頼公は竹早に菓子の入った葛籠を見せ、そこから竹早は栗羊羹を取って口の中に入れた。秀頼公も菊花饅頭を一つ取って頬張った。竹早は目を腫らしながら、秀頼公は二つ目の菊花饅頭を頬張りながら、長吉の先導で内府の待つ広間へと向かっていった。


広間では、政の話を終えた淀殿や重臣たちが、竹早の到着を今か今かと待ち構えていた。

―内府様、兄上を連れて参りました。

秀頼公に言われて顔を少し上げた竹早は、重い瞼を見開いて内府を見た。深い隈、大きな目玉、まさにあの夜の顔がそこにあった。

―内府様にお目見えがかない、恐悦至極に存じまする。某が竹早にございます。

恭しい挨拶に皆が聞き入る。武家の所作がすっかり板についている。
内府はまばたきもせず、竹早をじっと見た。

―竹早様は城に入る前は、誓願寺で軽業をなさっておられたとか。

―は、さようでございます。

―摩訶不思議な芸をなさると聞いております。さぞかし、修練を積まれた事でしょう。

―恐れ入ります。

―ときに…、軽業では、鳩を使う事はございますかな。

鳩、と聞いて、竹早は口を閉じた。
内府はあの夜の事を疑い、確かめようとしている。
うまく誤魔化せばよい。頭ではそう思いながらも、竹早の背中からは冷や汗が流れていた。

その時、突如秀頼公が口を挟んだ。

―内府様、何をおっしゃいます。知らぬならこの秀頼が教えて差し上げましょう。鳩など軽業に使える物ではございませぬ。鳩はそこらの道をたむろし、餌を食ろうては首を動かすのみ。誠に賢いのは、鷹にございますぞ。

秀頼公の勝ち気は、内府を前にしても健在であった。

―これはこれは秀頼様、この内府の学が足りませなんだ。

二人のやりとりで途端に笑いが生まれ、いつの間にか話題は、鷹狩りの話に変わっていった。

かつて太閤の前で軽業を披露した折、秀頼公だけが昼寝中で、竹早の技を見なかった。それが幸いした。

今日ばかりは竹早は、秀頼公に感謝せずにはいられなかった。また、秀頼公の胆力の強さを改めて見せつけられ、豊家を率いるのに相応しいのはやはり秀頼公ではないかと思うのであった。


節句の祝いが終わると、内府はついに野心を露わにし始めた。
挨拶のために大坂城に来たはずの内府は、伏見に帰らずそのまま豊家の居城大坂城西の丸に居座ったのである。
西の丸は太閤の正室、北政所の居所であった。北政所が去ったのはおよそひと月前、あまりにも都合の良すぎる時期であり、内府が北政所を脅し、大坂城から追いやったのではないかと城中の者が噂した。

西の丸で内府は我が物顔で政務をこなし、今や重臣らも当たり前のように内府にお伺いを立てる。政も家中のことも、もはや内府なしでは動かなくなっていた。

内府の力を見せつけられ、かつての松の丸殿の杞憂が現実になったと、淀殿は憂いた。
このままでは大坂城ごと内府に乗っ取られてしまうのではないか。西の丸の徳川勢が本丸を囲んだら、など考え始めると震えが止まらなかった。

―どうか秀頼が無事に長じますように。

淀殿に出来る事は、祈ることだけであった。
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