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十七
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その頃大津城では、未だ降伏せず持ちこたえている京極勢に業を煮やし、石川が本陣の毛利元康の元を訪れていた。一万五千の兵を持ってしても落ちぬ湖畔の孤城に、毛利元康は頭を悩ませていた。
―何ゆえ落とせぬ。
堀を埋めてもまだ落ちぬ大津城を見ながら、毛利元康は石川に問う。
一つは内府不在で西軍の士気が上がらぬこと、もう一つは大津城を死地とした京極勢の士気が想像を超えて高かったことだ、と石川は答える。
―毛利殿、籠城から既に八日、これ以上時を費やせば内府との戦に間に合いませぬ。再度使者を出し、開城を勧めてはいかがか。必要とあらば、某が淀殿に使いを出しまする。
淀殿の妹である初を説けば、必ずや降伏すると石川は踏んでいた。
元康は石川の案を受け入れたが、淀殿に頼むのには難色を示した。淀殿の側には総大将の毛利輝元がいる。輝元からは連日のように、早く落とせ落とせと、催促の書状が届いていた。援軍を寄越すわけでなく、自らが関ヶ原に向かうわけでもない。現場の状況を顧みず遠くで指図するだけの輝元に頼み事をするのは、我慢ならなかった。
―大坂までは時が掛かりすぎる。京におられる北政所に頼むが良かろう。
命を受けた石川は、即座に京の北政所のもとへ使いをやった。
北政所は仲介役を快諾し、側近の奥女中、孝蔵主を大津に遣わしたのであった。
西軍による一時休戦の呼びかけを京極勢は受け入れ、使者を迎えるため門を開けた。孝蔵主は初に出迎えられ、初を通して高次に話を付けると、ようやく京極勢は降伏したのである。
孝蔵主から一切を聞いた石川は、諸々の仕置きのため毛利に先立ち城に入ることとなった。
閂を外された大手門の中で、京極家の家老と思われる男が兜を取って待っていた。
十日近く籠城したはずなのに、家老の血色は悪くない。戦の前に兵糧を相当数運んだと聞いてはいたが、使者を出さねばどれだけ戦が続いたことかと、石川はぞっとした。
家老の案内で天守へと進むと、高次は初とともに焼けた城下の町を眺めていた。
―十日もの間、一万五千の兵を前にして一人として内通者も出さず籠城を貫いたこと、誠にお見事にござる。
石川が労いの言葉を述べると、
―かたじけのうござる。
と、高次が言葉少なに言った。
開城の仕置きの話をすぐに始めるのはなんとなく気が引けて、石川は初に話を向けた。
―初様がご無事でいらっしゃり、淀殿もさぞお喜びのことでしょう。
初は疲れた顔も見せず、凛とした様子で言った。
―先ごろ、太閤様ゆかりの、竹生島の宝厳寺に松の丸殿と共に参詣に参ったのです。何を祈念されたかと伺うと、豊家の末代までの繁栄と仰っておられました。此度は、松の丸殿の願いが叶ったということです。
城下を焼かざるを得なかった無念、城を明け渡す無念の思いが、静かな物言いの中に存分に込められていた。石川はしばし言葉を失った。
大津城の開城が終われば、高次は切腹、初は大坂城に引き渡されることになるだろう。石川が大津城の接収で動き回る間もずっと、高次と初は天守に留まり、何やら指を指しながら、琵琶湖を眺めているのであった。
大坂城からの報せが届いたのは、午後になり石川が大津城の蔵の中を検分していた時だった。
手渡された書状の日付は十二日。内府が十日に熱田に到着した模様との報せであった。
十四日である今日、内府はすぐそこまで迫っているに違いなかった。
西軍の諸将はすでに関ヶ原の砦に集まり、内府の到着を今か今かと待っている。我らも早々に開城の仕置きを終え、関ヶ原に向かわねばならない。
書状から目を離すと、待ちかねたように伝令が話し出す。
―大将の毛利元康殿が明日、大津城に入られるとの由。今日は一日兵を休ませよとの命にございます。
―間に合えば良いが。
十日に渡り気を張り詰めて戦に出た兵たちに、休息もなくすぐさま関ヶ原に行けとは流石に言い難い。石川は内府の到着が少しでも遅れるよう、天に願うのであった。
―何ゆえ落とせぬ。
堀を埋めてもまだ落ちぬ大津城を見ながら、毛利元康は石川に問う。
一つは内府不在で西軍の士気が上がらぬこと、もう一つは大津城を死地とした京極勢の士気が想像を超えて高かったことだ、と石川は答える。
―毛利殿、籠城から既に八日、これ以上時を費やせば内府との戦に間に合いませぬ。再度使者を出し、開城を勧めてはいかがか。必要とあらば、某が淀殿に使いを出しまする。
淀殿の妹である初を説けば、必ずや降伏すると石川は踏んでいた。
元康は石川の案を受け入れたが、淀殿に頼むのには難色を示した。淀殿の側には総大将の毛利輝元がいる。輝元からは連日のように、早く落とせ落とせと、催促の書状が届いていた。援軍を寄越すわけでなく、自らが関ヶ原に向かうわけでもない。現場の状況を顧みず遠くで指図するだけの輝元に頼み事をするのは、我慢ならなかった。
―大坂までは時が掛かりすぎる。京におられる北政所に頼むが良かろう。
命を受けた石川は、即座に京の北政所のもとへ使いをやった。
北政所は仲介役を快諾し、側近の奥女中、孝蔵主を大津に遣わしたのであった。
西軍による一時休戦の呼びかけを京極勢は受け入れ、使者を迎えるため門を開けた。孝蔵主は初に出迎えられ、初を通して高次に話を付けると、ようやく京極勢は降伏したのである。
孝蔵主から一切を聞いた石川は、諸々の仕置きのため毛利に先立ち城に入ることとなった。
閂を外された大手門の中で、京極家の家老と思われる男が兜を取って待っていた。
十日近く籠城したはずなのに、家老の血色は悪くない。戦の前に兵糧を相当数運んだと聞いてはいたが、使者を出さねばどれだけ戦が続いたことかと、石川はぞっとした。
家老の案内で天守へと進むと、高次は初とともに焼けた城下の町を眺めていた。
―十日もの間、一万五千の兵を前にして一人として内通者も出さず籠城を貫いたこと、誠にお見事にござる。
石川が労いの言葉を述べると、
―かたじけのうござる。
と、高次が言葉少なに言った。
開城の仕置きの話をすぐに始めるのはなんとなく気が引けて、石川は初に話を向けた。
―初様がご無事でいらっしゃり、淀殿もさぞお喜びのことでしょう。
初は疲れた顔も見せず、凛とした様子で言った。
―先ごろ、太閤様ゆかりの、竹生島の宝厳寺に松の丸殿と共に参詣に参ったのです。何を祈念されたかと伺うと、豊家の末代までの繁栄と仰っておられました。此度は、松の丸殿の願いが叶ったということです。
城下を焼かざるを得なかった無念、城を明け渡す無念の思いが、静かな物言いの中に存分に込められていた。石川はしばし言葉を失った。
大津城の開城が終われば、高次は切腹、初は大坂城に引き渡されることになるだろう。石川が大津城の接収で動き回る間もずっと、高次と初は天守に留まり、何やら指を指しながら、琵琶湖を眺めているのであった。
大坂城からの報せが届いたのは、午後になり石川が大津城の蔵の中を検分していた時だった。
手渡された書状の日付は十二日。内府が十日に熱田に到着した模様との報せであった。
十四日である今日、内府はすぐそこまで迫っているに違いなかった。
西軍の諸将はすでに関ヶ原の砦に集まり、内府の到着を今か今かと待っている。我らも早々に開城の仕置きを終え、関ヶ原に向かわねばならない。
書状から目を離すと、待ちかねたように伝令が話し出す。
―大将の毛利元康殿が明日、大津城に入られるとの由。今日は一日兵を休ませよとの命にございます。
―間に合えば良いが。
十日に渡り気を張り詰めて戦に出た兵たちに、休息もなくすぐさま関ヶ原に行けとは流石に言い難い。石川は内府の到着が少しでも遅れるよう、天に願うのであった。
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