死んだはずのお師匠様は、総愛に啼く

墨尽(ぼくじん)

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1巻

1-3

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 夜中に自慰をしているのをお師匠様に見つかって叱られ、その後優しく自慰を手伝ってもらう、といった都合のいい妄想が盛り込まれた創作本は、瞬く間に弟子たちの間に広まった。弟子一同、その本の作者に頭を下げ、何度も増刷されたのを思い出す。
 お師匠様を、そして弟子だった頃のことを想うと、自然と頬が緩む。
 そんなサガラの様子を見てか、舞っていた娼婦が近付いてきた。

「だんな、今日はご機嫌ですね。泊まっていきますか?」
「……うるせぇよ」

 サガラは眉を寄せて娼婦を睨み付けた。
 せっかくいい思い出に浸っていたのに、台なしだ。娼婦の髪飾りを引っ張ると、サガラは耳元で噛みつくように言い放つ。

「お前は嫌だ。男娼を呼べ」

 男娼は人気の上、数も少ない。しばらく待つことになるだろうとサガラは酒を呷った。また思い出に浸ろうと目を閉じたところで、扉が控えめに叩かれる。
 この娼館の男娼を全員把握しているわけではないが大抵顔見知りだ。誰が来るのだろうと思いながら、サガラは口端を吊り上げた。

「入れ」

 声を掛けるとすぐさま扉が開く。
 跪いて頭を下げる男は、面布で顔の下半分を隠している。その頭から流れる水色の髪を見てサガラは目を見開いた。
 お師匠様は限りなく白に近い水色の髪だった。腰まで届く髪をまっすぐに垂らし、颯爽と歩く姿はどんな時も美しかった。一方、目の前の男娼は髪を高めに結っており、色も濃い水色をしている。あの美しさには遠く及ばない。
 とはいえ、お師匠様と重なる髪色にサガラの心臓はバクバクと荒突き始めた。固まっていた喉をゴクリと鳴らす。

「顔を上げて、こちらへ来い。……見ない顔だな」

 男娼が顔を上げると一際心臓が高鳴る。
 浅葱あさぎ色の瞳。柳眉の下にある瞳の形もどこか似ている。

「お……お師匠様……?」
「翡燕と申します」

 サガラが零した言葉は、翡燕の声に打ち消された。
 思ったよりも若い声に、サガラは自嘲気味に笑う。

(ちょっと飲みすぎたな。お師匠様はこんなに小さくない)

 本当に馬鹿だ、と自分に毒づくものの、翡燕と名乗る男娼は相当な美しさだった。
 お師匠様が消えて丸三万年が経ち、最近は感傷的になっていたところだ。お師匠様に似た青年の登場はその渇きを癒してくれるかもしれない。

「こちらに来て、酌を」
「はい」

 サガラは近寄ってきた翡燕の腰を引き寄せて抱き込んだ。その腰の細さに驚きつつも、情欲が頭をもたげていく。

「隊長様、酒をどうぞ」
「ああ」

 がっつきたい衝動を抑えながらサガラは酒を呷った。上から翡燕の顔を見下ろすと、面布の隙間から覗く鼻梁の先に薄桃色の唇が見える。

「どうして面布などつけている」
「……醜いので、恥ずかしいのです」
「嘘をつけ」

 翡燕の顎を掴み、浅葱あさぎ色の双眸に視線を絡ませる。すると翡燕の瞳が優しげに細められた。慈愛に満ちたその表情を見て、サガラの胸の奥から懐かしさが溢れ出す。涙まで出てきそうになり、サガラは慌てて頭を振った。

(だけどあの瞳は……お師匠様そのものじゃないか? 俺たちに向ける、愛情の籠った……)

 ぐるぐると思考を巡らせていると、目の前に盃を差し出された。翡燕はあいかわらずの瞳でサガラを見つめ、面布の下で微笑んでいる。

「何か辛いことがある時は、飲んで忘れるのが一番ですよ」
「……っ! アンタは誰だ!?」
「男娼の翡燕です」
「……っくそ!」

 サガラは激情に任せてその細い肩を掴んだ。押すと、何の抵抗もなく翡燕は床の上に倒れ込む。
 翡燕の上に跨り、サガラは瞳を揺らす。押し倒されているというのに、目の前の翡燕は至極冷静な態度だ。しかしその瞳からは先ほどの慈愛が立ち消え、挑発的な鋭さが灯る。

「……聞きますが、あなたのお師匠様はこんなに簡単に男の下になるような男でしたか?」
「っ! 違う!」
「……昼から娼館で遊び呆けるなんて、あなたのお師匠様は育て方を……」
「っ!」

 サガラは激情のまま、翡燕の頬を平手で叩いた。面布が剥がれ、その顔が露わになる。
 面布が取れるとなお一層、お師匠様の面影が濃くなった。別人であるはずなのに、どうしても重ねてしまう。
 薄桃色の唇の端に痛々しく血がにじんでいく。サガラがそれを言葉なく見つめれば、翡燕は顔が怒りに歪む。

「暴力は、いけません」
「……お、師匠様……」
「いいえ、違います」
「確かに違う。別人だ。しかし……」

 体つきは大きく違っている。声も若い。
 しかし弟子を見つめる優しい目も、戒める瞳も、口調も全てが合致する。

「サガラ隊長、お聞きしたい。国は荒れ、街の治安も悪い。人攫いが横行し、浮浪者も多い。こんな場所で何をしているんですか? あなたの職務は、街と国民を守ることでしょう?」
「……もう……もう、何もかも、嫌になったんだ」
「どうして」
「それは……」
(あなたのせいだ)

 そう思うと猛然と怒りが湧いてきた。
 失って、欲して、焦がれて、やっと会えたのに、認めてくれないのか。こうして目の前にいるのに、またお師匠様として帰ってきてくれないなんて酷すぎる。
 まるで子供のような駄々が湧き出してくる。同時に、秘められていた情欲も。
 サガラは酒を呷る。それを口に含んだまま、翡燕の唇に噛みついた。翡燕の口端から移された酒が零れる。それを舌で舐め取った後、翡燕の傷ついた口端に歯を立てる。

「んっ……」

 小さな唇から漏れた声に心を滅茶苦茶にかき乱される。激情が体中を這いまわり、もはや抑えが利かない。目の前の男は心が焼きつくほど欲した相手なのだ。決してこの腕に納まることのないと思っていた愛しい人が、目の前にいる。しかも自分の手の中に。
 サガラはその手を翡燕の服へと伸ばす。その時、異変に気が付いた。
 翡燕は顔を真っ赤に上気させ、焦点はゆらゆらと定まらない。口付けで蕩ける姿は可愛いが、それほど濃厚なものではなかったはずだ。

「……お、お師匠様? もしや、酔ったのですか?」
「……んん、おかしい、な……あたま、くらくら、する」

 目の下を真っ赤に染めながら翡燕は涙目でいやいやと頭を振る。悩ましげに寄せられた眉根は扇情的な要素しかないが、むずがるような様子は庇護欲を掻き立てられる。
 戦司帝だった頃は大酒飲みだったはずだ。酔ったところなど見たこともない。しかし酔った先の想像は腐るほどしてきた。
 サガラは煽りに煽られ、翡燕の華奢な身体を掻き抱く。

「お師匠様!」
「だから、ちがう……」
「違わない! お師匠様だ!」

 耐えていた涙が溢れ、ボロボロと零れ出した。そんなサガラの頭を、翡燕はよしよしと撫でる。酔いのせいか呂律の回らない口調で、翡燕は戒めるように口を開く。

「ちがう、翡燕だ。さがら、ちゃんと、仕事……」
「……! サガラって言いましたね! 言いましたよね!?」

 サガラの声が響いたのか、翡燕は頭を押さえて唸り声を漏らす。しかし身体は脱力しており、抱きしめられていても抵抗しない。耳は首筋まで赤くなり、まるで熟れた桃のようだった。思わず吸いつくと、翡燕の身体がびくりと跳ねる。

「ひゃっ……!」

 果実を食らうかのように、首筋を舐め上げて甘噛みすると、翡燕は縋るように身を寄せた。
 サガラの理性の糸がプツリと切れた、その瞬間。
 突然の咆哮が響いた後、部屋の窓が弾け飛ぶ。そこから姿を現したのは、たっぷりと獣毛を生やした半獣姿の獅子王だった。
 獅子王はサガラの首根っこを掴み、部屋の向こうへぶん投げる。サガラは受け身を取りながら転がり、少し後退して身を低く保った。
 獅子王は翡燕を抱き込んで、ぐるる、と威嚇するようにサガラを見遣る。
 あっという間に翡燕を連れ去るその姿を見て、サガラは思わず吹き出した。脱力して、自分でも頬が緩むのが分かる。

「ほら、やっぱそうじゃん。……お師匠様だ」

 獅子王はお師匠様の獣徒だ。彼はほかの誰にも従うことはない。唯一無二、戦司帝が主従を結んだ獣人だ。
 涙が頬を伝う。サガラは三万年ぶりに、歓喜という感情を味わった。


 楓楼から連れ帰った翡燕の額を、獅子王はするりと撫でる。
 ひやりとしている。発熱はないはずだ。しかし目の前の翡燕の顔は真っ赤に染まっていた。
 わずかに酒の匂いを感じるが、獣人でなければ気付かないほどだ。飲んでいたとしても意識を失うほどの酒量ではない。

(……口の端が、切れてる)

 血がにじんだ唇は、ぽってりと赤く腫れている。首筋に残る鬱血痕を見て獅子王は低く唸った。

「どうして呼んでくださらなかったのですか? それに……お酒に酔うことなんて、なかったでしょう?」

 問うても、ぐっすりと眠っている翡燕から返答はない。
 大きな寝台に預けている身体は信じられないほどに華奢だ。かつてこの寝台で眠っていた戦司帝の姿と重ねると、その儚さに胸が締め付けられる。
 力の大半を失って身体が若返ったと翡燕は言う。しかし獅子王には、それだけではないような気がしていた。翡燕の今の状態は、若者が持つ瑞々しい生命力がないような気がするのだ。

「せっかく帰ってきたのですから、ゆっくり過ごせばよろしいのに……」

 昔のような無茶をすると、壊れてしまいそうで怖かった。



   第二章


 一夜明け、サガラはある屋敷を訪れていた。
 臙脂色の瓦のその建物は、当時とまったく変わらず朽ちた様子もないためか、荒れた街の中では一際目立つ。聞けば、定期的に皇家が補修をしているようだ。皇宮の扱いと同じように戦司帝の私邸は大事にされてきた。
 建物の前に立つサガラは嬉しそうに顔を綻ばせる。門を叩くが、反応がない。押すと開いたのでサガラは躊躇なく中へ入った。門をくぐると大きな中庭が広がる。中庭を囲むように居室が並び、お師匠様の部屋は一番奥だ。
 中庭は稽古場としても使われていて、サガラもかつてここで兄弟子たちと鍛錬をしたものだ。真ん中には莉珀りはくの木が植わっていて、その陰がちょうどよく日陰を作ってくれる。変わらず健在のようで、サガラは大きくなった幹を労わるようにするりと撫でた。

「懐かしいな……」
「何してる」
「おお、おはようさん」

 いつの間にか側まで来ていた獅子王に、サガラは朗らかに挨拶をする。明らかな不快感を示す獅子王に構うことなく、屋敷をぐるりと見渡した。

「お師匠様は?」
「戦司帝様は、お帰りになっていない」
「あ、そ」

 軽く返事をし、サガラは居室の方へ足を向ける。慌てた獅子王はサガラを追いかけた。

「どこへ行く? 何をして……」
「何って、俺の部屋に行くんだよ。今は誰も使っていないんだろ?」

 降ろしていた荷物を担ぎ、中庭を突っ切る。
 屋敷の間取りも以前と変わらない。全ての居室は中庭に面しているのでかつての自室もすぐに見つけられた。屋敷の中はしんとしていて、獅子王の憤る声だけが響く。

「なんだその荷物は! まさか、サガラさん……」
「使用人や近侍は? いないの?」
「ここを守るだけなら、おれだけで十分だ」
「お師匠様が、帰ってきたのに?」
「……っ! だから!」

 自室だった居室へと入ると、懐かしい木の香りが鼻へと届く。
 寝具の敷かれていない二つの寝台。並べて置かれている文机。同室のトツカと肩を並べて勉学に励んだことを思い出す。サガラは部屋を見回し、寝台に荷物を置いた。そして入口に佇む獅子王を振り返る。

「弟子たちの居室も綺麗に保ってあるんだな。ありがとう、まる」
「まるって言うな。獅子王と呼べ」
「ぷっ。俺の中でお前は、ずっと小獅子のままだよ」
「っ! いつの話をしてるんだ!」

 獣人なのになかなか人型になれない獅子王を戦司帝は拾って大事に育てていた。弟子たちにとって獅子王は弟のようなものなのだ。

「まさかこんなに立派な獣人になるとはなぁ」
「……おれも、サガラさんがこんなに自堕落になるとは思わなかったよ」
「何だよ、喧嘩売ってんの? 今戦ったら、互角かな?」
「……サガラさん。……昨日、あるじに何をした?」
「おいおい、まる! あるじって言っちゃってるし!」
「あ……」

 腹を抱えて笑うサガラを獅子王は腹いっぱい睨み付ける。
 サガラはその目にまったく動じないまま、目元を拭って声を上げた。

「俺、今日からここ住むわ」
「は!? まさかと思ってたけど……!」
「あれぇ? 獅子丸、だれと話してるの?」

 サガラが振り返ると寝起きであろう翡燕が立っていた。腰まである髪は結っておらず、寝間着がはだけ肩まで下がっている。

「あるじ、いや、翡燕! またそんな格好で!」
「ああ、そうか、ごめ、すみません」

 慌てて取り繕う二人にサガラは苦笑いを零す。そして小さくなってしまった恩師の姿を、まじまじと見つめた。
 三万年前の戦司帝はまさに大人の色気を持つ男だった。男女関係なく彼に惹かれるものの、その存在のあまりの大きさに、誰もが手が届かないと諦めた。
 そんな彼が、抱きしめれば折れそうな身体で目の前に立っている。美しい髪も優しい表情も昔と変わらないが、今すぐ攫って手の内に納めることができるような儚さだ。

「ったく、今更取り繕っても、無駄でしょ。バレバレなんですよ」

 サガラは翡燕の前に立つと非の打ち所のない所作で跪いた。拳を地面に当て、小さくなったお師匠様の足先を見据える。

「お帰りをお待ちしておりました、お師匠様。四番弟子、サガラ。以前と同じよう、お師匠様に御師事をいただきたく存じます」
「それは無理だねぇ。僕にはもう、弟子を教えるような力はない」

 ぴしゃりと断られたが、お師匠様は身分を隠すことをすっかり忘れている。
 そういう少し抜けたところも変わらない。獅子王が狼狽うろたえているのも目に入っていないようだ。

「ではこの屋敷に住まわせてください。娼館通いで、家賃も払えなくなってしまって……。もう二度と行きませんから、住まわせてくれませんか?」
「ああ、そういうことか。いいよ」

 美麗な顔に子供のような笑みを浮かべ、翡燕は手を伸ばす。
 サガラがその手を取ると、獅子王が更に狼狽うろたえた。

「あ、あるじ! いいのですか!?」
「いいも何も、ここは彼らの部屋だからね」

 ふわぁ、と欠伸あくびを噛み殺して翡燕は「寝直そうかな」と呟く。獅子王が慌てて翡燕の寝間着を整えた。

あるじ、朝餉を食べてください。昨日の晩から何も召し上がっていないでしょう?」
「ああ、そうだったね」

 眠そうに目を擦りながら翡燕が言うと、サガラが笑顔を弾けさせた。

「おお、ちょうど良かった。俺もご一緒していいですか?」
「何でおれが、サガラさんの分も準備しないといけないんだよっ!?」
「どうせ出来合いもんだろ? お師匠様、お茶を入れますよ」

 この屋敷の居間には大きな卓がある。弟子たち皆で食事を食べられるように、戦司帝が特別に注文したものだ。
 その卓の端っこに二人分の茶碗が用意されていた。サガラは厨房から茶碗を調達し、獅子王と共に食事を準備する。その間に、これまでの経緯を獅子王から聞く。

「お師匠様……はっきり言いますけど、今のままじゃ正体ばれますよ、確実に。それに、その身体も気になります。ちゃんと診てもらうべきですって」

 サガラは粥を口に運びつつ、翡燕へ提言する。酔ったサガラですら見抜いたのだ。身分を隠すのが下手すぎる。しかし対する翡燕はサガラの声には反応せず、何やらレンゲを熱心に見つめていた。

「レンゲってこんなに大きかったか? 口の端が切れそうだ」
「……俺の話、聞いてます?」

 獅子王が小さめの匙を翡燕に渡すと、彼は素直にそれを使って食べ始めた。
 よっぽど腹が減っていたのだろう。粥に息を吹きかけている翡燕は「それで?」と一言発した後、また忙しなく粥を口に運ぶ。

「水色の髪はそう特別じゃないけど、あなたのその独特な雰囲気は隠せないんですよ。浅葱あさぎ色の瞳はまぁまぁ珍しいし。特徴を列挙するだけでも、お師匠様だとすぐ分かっちゃいますよ?」
「……そうか。じゃあ、髪を剃るか」
「駄目でしょ」
「では、これはどうだ?」

 翡燕は口端を吊り上げて、サガラを挑戦的に睨み付けた。その双眸がみるみる黒く染まっていく。

「……っ!? どうやったんですか、それ?」
「瞳の色くらいは変化できる。髪となると半日はもたんだろう」
「じゃあ、何で今までそうしなかったんですか?」
「……バレないと思っていたからね」

 サガラは小さく舌打ちを零しながら翡燕ではなく獅子王を睨んだ。睨まれた獅子王は狼狽うろたえながらも、眉をひそめて首を横に振る。「止められませんて」とでも言いたげだ。
 サガラは箸を置いて、翡燕に向けて背筋を正した。先ほどから話を聞いていたが、サガラとしてはやはり、戦司帝として国に帰ってきてほしい。

「お師匠様。荒れたこの国を立て直すおつもりなら、中枢にお立ちください。皆さま、お師匠様のお帰りを待っております」

 聞いているのか聞いていないのか、翡燕は焼き魚に手を伸ばしている。なかなかほぐせないのか身をつついているのを見て、サガラが代わりに身をほぐす。
 試しに、とほぐし身を翡燕の唇へ近付けてみると、彼はサガラの箸へパクリと食いついた。

(……おいおい、馬鹿かわいいだろ……)

 自分でやっておきながらサガラは顔を赤くし、ヒクヒクと顔を引き攣らせる。しかし翡燕の方は表情を曇らせ、口の中のほぐし身をこくりと飲み込んだ。

「……サガラ……僕は戻るつもりはないよ。中枢に戻って国を動かす力なんて、全然残っていない。ここにいて、できることをやるだけだ」
「……ほかの弟子にも、伝えないつもりですか?」
「バレない限りはね。とはいえ、弟子たちは寝食を共にした仲だ。四天王より気付きやすいかもしれないな」

 そこまで言うと、翡燕はサガラににっこりと微笑みかける。その笑みには見覚えがあった。弟子を叱る時の、鋭さを含み持った笑みだ。

「それよりお前は仕事をしなさい。お前の頑張りを認めたら、舞を見せてあげるよ」
「……! まじっすか!」

 喜ぶサガラを見て、翡燕は何かを思い出したかのように口元に手をやる。そのまま人差し指を立て、翡燕の居室の方を指さした。

「そうそう、すっかり忘れていた。今朝早くに僕の寝室に侵入した賊も、お前の職場へ連れていっておくれ。二人とも獣人だから、人攫いだろう」
「は?」

 これには獅子王も驚いたようで、身を硬くした後、翡燕の居室へと走る。
 少し後、獅子王が引き摺ってきたのは完全に伸びあがった二人の獣人だった。

「お、お師匠様、お一人でこれを?」
「なんだ? おかしいことでもあるまい」

 今朝早くということは、寝込みを襲われたのだ。獣人は力も強く、動きも素早い。二対一だと、サガラでも苦戦するほどだ。寝込みを襲われ撃退するなど、普通の人間なら不可能だ。
 伸びている獣人を見ながら、サガラはまたひくひくと頬を痙攣けいれんさせる。

「お、お師匠様? 問題なく中枢に戻れるのでは?」
「……いいや。問題だらけだよ」

 翡燕は欠伸あくびをし、少しの寂寥せきりょう感を含んだ笑みを浮かべた。

「疲れてしまったから、もう一度寝る。サガラはきちんと仕事をしなさい」

 水色の髪を揺らしながら翡燕は居室に引っ込んでいく。後ろ手で振った手の指は、驚くほど細かった。


 それから数日間は、驚くほど穏やかに過ぎた。
 サガラは屋敷に越してきたが、ほとんど帰ってきていない。
 翡燕は何をすることもなく、獅子王とのんびり過ごしていた。
 獅子王が翡燕の髪に櫛を通しながら、都の近況を話し始める。

「皇都巡衛軍が本当に頑張っているみたいですね。奴隷市場を潰し回っているそうです」
「っはは、そうなのか。いきなり動き始めて、皆びっくりしているんじゃないか?」
「民衆は驚きつつも、喜んでますよ。治安も良くなってきているみたいです」

 サガラにははっぱをかけたものの、長く腐ってきた組織はそう簡単に変わらないだろう、翡燕はそう思っていた。
 しかしサガラ率いる皇都巡衛軍は、翡燕の予想以上にその機能を取り戻し始めている。

「サガラさんが別人のように仕事し始めて、部下はひぃひぃ言ってると聞きますよ」
「あいつ、本当に仕事してなかったんだな」
「サガラさんが娼館に入り浸っていたから、部下たちは詰所で賭博していたらしいです。よく急に動けるもんだって、皆言っているようですよ」
「……まったく。サガラは真面目だったのに、どうしてそんなに腑抜けたかな」

 自分がいなかった時期、サガラがどういう状況だったのかは分からない。ただ、自慢の弟子が堕落のみちを辿っている時に側にいられなかったことが心底悔やまれた。
 しゅる、と髪紐が解かれる音が耳に届く。同時に優しい獅子王の声が降ってきた。

「街の人が『サガラ隊長は流石、戦司帝様の弟子だ』って言ってましたよ。……国民の中で、まだまだ戦司帝は健在のようです」
「偉いのはサガラだろう。僕じゃない。……ところで奴隷市場は一掃できそうなのか?」
「獣人たちの間で、人間は人気ですからね。取り締まりがなかっただけに、やりたい放題でしたから。簡単にはいかないみたいです」

 ユウラ国と獣人の国であるフォルト国は、翡燕が戦司帝だった時代から同盟を結んでいる。当時は良好な関係を築いていて、獣人がユウラで蛮行することもなかった。
 しかし今では違う。同盟はあくまで表面的なもので、真の結びつきは脆弱になっているのだという。

「どうして取り締まらなかったんだ?」
「ユウラが亜獣に対抗するには獣人国の力が必要ですからね。……獣人が好き放題やっても、黙認していたというわけです」
「なんだそれは。民を人質にしているようなものじゃないか」

 憤りながら獅子王を振り返ると、彼は沈痛な面持ちをしながら翡燕の視線を受け入れる。
 翡燕は慌てて獅子王の手を掴んだ。

「ごめん、獅子丸。お前を責めているわけじゃない」
「……分かっています。すみません……」
「だから謝るなって」

 人型の獅子王にはもう慣れたが、時折見せる表情にどきりとしてしまう。獣の姿だった時にも薄々感じていたが、彼は感受性がとても強いようだ。そのお陰で人との共生が上手くできているのだろうが、それにしても獅子王は優しすぎる。人の心に寄り添いすぎて、自分のことのように傷ついてしまう。

「よし、獅子丸! 僕はいいことを思いついた!」

 満面の笑みでそう告げれば、獅子王は先ほどの表情から一転、困惑を顔に張り付けた。

「……そ、それ……絶対に『いいこと』ではないですよね?」

 髪を結う手を止め、獅子王はあわあわと口を動かした。翡燕の『いいこと』が往々にして危険なものであることを知っている彼は、何とかして止めようと言葉を探す。
 そんな獅子王を手で制し、翡燕は自信満々に言い放った。

「僕は人攫いに狙われやすい。僕を囮にして、人攫いを駆逐するのはどうだろうか?」
「……っ本当に、あなたという人は……」


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