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第十七話 縁は異なもの味なもの
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とうとう『例の荷』を運ぶ日がやってきた。以前、鶴次郎にこの話を持ち掛けられてから豊助はずっと生きた心地がしなかった。鶴次郎から渡されたその荷というのは、ちょうど片手に乗るくらいの小さな木箱だった。封がしてあるので中身は分からないが意外と軽い。
荷の運び先は大きな武家屋敷で、実際にはこの屋敷から反物の注文は受けていないが、当日約束の時刻に内情をしっている受取人が指定された場所で待っているという段取りになっていた。豊助は鶴次郎から預かったその木箱を偽の商品に紛れさせて、屋敷の受取人に渡しさえすればいい。
「ちょっと行って、これ渡したらしまいや」
豊助は自分に言い聞かせるように呟いた。いつも軽々と運んでいる反物が今日はいやに重く感じる。
「今から外回りか、豊助。なんや天気あやしいさかい気をつけてな。帰ってきたら茶でも淹れて休憩としよや」
銀次郎が声をかけてきた。豊助は銀次郎の声を聞いて少し緊張が和らいだ。銀次郎は昔から豊助のことを息子のように思ってくれている。
「ありがとう旦那さん。はよ仕事済まして帰ってきますわ」
豊助は嫌な予感を振り払うように勢いよく店から出た。外に出ると、銀次郎の言う通り空には分厚い雲が垂れ込めていた。
先に二件仕事を済ませてから、いよいよ例の木箱の運び先である屋敷の近くまでやってきた。豊助は、全身の毛が逆立ちそうなくらい緊張していた。鶴次郎の話では、松の木が三本並んでいるのが見えたら、そこから10歩ほど歩いたところに使用人用の勝手口があり、荷の受取人はその使用人用の勝手口を入った所で待っているという。屋敷をぐるっと囲んでいる白壁をつたって歩いていくと、目印である三本松があった。そこから少し離れたところに扉が見える。豊助は足早にその勝手口に近づいて引き戸を開け中に入った。
するとそこで待っていたのは、豊助と同じ年頃の若い女だった。勝手口から飛び込んできた豊助に動じる様子もなく、見下げるように豊助をじっと見ている。凛とした顔立ちの美しい女だが、全てを見透かしているような不敵な笑みは、どんな屈強な武者より恐ろしく思えた。
「あどうも、こんにちは。今日は注文頂きました反物を届けに来まして…」
「どうもご苦労さんやったなあ。その荷、私がもらい受ける。さあ渡し」
豊助は冷汗が噴き出してきた。受取人として聞かされていたのは男のはずだ。女がいるとは聞いていない。
「いや、この反物は男の使用人はんに渡せと言われとりますのやけど…」
豊助はこの女の迫力に圧倒されていた。一体この女は何者だろう。言葉の訛りももここら辺の言葉とは少し違うようだ。それに女が着ている着物は相当値の張る代物だとみえる。豊助は子どものころからあらゆる反物、着物を見てきたので、ぱっと見ただけでその着物の値がだいたい分かるようになっていた。これほどの着物を着られるということは、位の高い武家の娘なのだろうか。傍には、ひょろっとした、従者と思しき男が一人立っている。
「ああ、その使用人はおらん。私が流した嘘やさかいなあ。可哀そうにあんたは騙されたんや。まあ遊郭に入り浸ってる阿呆やしこんな事に巻き込まれるんやで。けどあんた…思ってたほどの阿保面やないな」
「お蘭様、こいつは例の人相書きの者とは違うようです。おそらくあの問屋の息子が荷の運搬を押し付けたんとちゃいますやろか」
「そうか通りで。こんなどんくさい真似するような顔やないと思たんや」
お蘭様と呼ばれた女は愉快そうな笑みを浮かべながら、品定めをするようにじっくりと豊助を眺めた。
「あんたは何者や?あの呉服問屋の放蕩息子に荷を運んでくれと頼まれたんか?その荷はなあ、盗品なんやで。ちょっと前から、知り合いの店が何件か同じような被害に合ってたんやけど今回うちの店も被害にあってしもてな。私もこう見えて商人の端くれやし、自分とこの商品盗まれたら商売人の誇り穢されるような気分になるんや。せやから自分で盗人を捕まえてやろう思て、ここのお武家さんに協力してもろたんよ」
女は話しながら、そっと豊助が持っていた例の木箱を反物の中から抜き取った。豊助は女の話に気を取られていたからか、抵抗する暇もなく気づいたときには木箱は女の手の中だった。
「あの呉服問屋の倅がやったゆうことは目星ついてたし、現物持ってくるところを捕まえたろう思てな。ここのお武家さんには『その箱の中身をえらい熱心に探してる、いくら金を出しても欲しい』ゆう偽の噂を流してもろてん。この屋敷の主人には貸しがあるし、快く協力してくれたわ。絶対に盗人捕まえるつもりやったのに、身代わりを寄越したみたいやな」
あの馬鹿息子のことだ昔から何か良からぬことはやってはいるだろうと思ってはいたが、この女の話を聞くに、どうやら今回の主犯は鶴次郎のようだ。お武家の御仁から頼まれたというのは出まかせで、どうやってこの木箱を手に入れたのかは分からないが、この屋敷のお武家に売りつけて金を得ようと思っていたらしい。
「あんたはきっとこれが盗品やとは聞かされてへんかったんやろな。運び人として使われたゆうところか。あの放蕩息子から言われてやったんやろ?他にもあの放蕩息子はいろいろと、きな臭いことやってるんや。あいつをとっ捕まえるのに協力してくれるんやったら今回あんたがこれを運んできたことについてはこれ以上聞かん。どうや?」
女は豊助の目を覗き込んだ。豊助も目を逸らさず女の瞳を見返した。真っすぐ豊助を見つめるその眼差しから女の芯の強さが伺えた。
「それ盗んだんは俺や。若旦那は関係ない。若旦那は阿呆やしそんなん盗んで、さばけるほどの頭あらへん。俺はそんな阿呆でちゃらんぽらんな若旦那の下で働いてきてずっと我慢しとったんや。せやしそれを盗んで、若旦那に濡れ衣着せたろ思たんや」
女はびっくりした顔をした。
「なんであんた、あの放蕩息子をかばうんや。私はあんたに初めて会ったけど、あんたがなんも知らんかったことは一目見たら分かる。嫌々今回の運搬役を引き受けたこともな。やからあの放蕩息子を捕まえるのを手伝ってくれたらそれでいいんや。店に知られるんが嫌やったらあんたが協力したことは黙ってやってもいい」
豊助は目をつむった。目の裏には今まで育ててくれた旦那さんや女将さんの顔が浮かんだ。
「いや、さっきも言うたけど、若旦那には盗みなんてできる能力はない。俺が一人で全部やったことやから、若旦那にも店にも全く関係のないことや。やから何とか店の名に傷がつかんように収めてもらえんやろか。俺はなんでもするさかい」
「あんた自分の言うてること矛盾してるの分かってるか?あんな放蕩息子の罪をかぶってまで何を守りたいんや」
豊助は、このお蘭に嘘は通用しないと悟った。だから正直に話すことにした。
「店の旦那さんと女将さんには息子みたいにようしてもらった恩があるんや。やから若旦那がやったことは、俺がやったことにしてくれ。それでも店の名には傷がつくかもしれん。けどただの丁稚の俺がやったんやったら、後継ぎの若旦那がやったと知れるよりはまだ傷も浅くて済む」
豊助は息子のように大事にしてくれた二人のことを、あの店を、守りたかった。
お蘭は少し考えているようだった。身代わりとして豊助を犯人にすることで納得してくれるだろうか。
「分かった。ええやろ、あんたの案に乗ったる。けどな一つ条件がある」
「なんや。俺やったらなんでもする」
「おの呉服問屋の倅がやったことは不問にしたる。その代わり、あんたは私の店に来るんや」
豊助はお蘭の提案を聞いて、すぐに言葉がでなかった。隣で従者の男もあっけにとられた顔をしている。
「ほら、あんた。そうと決まったらさっさと行くで」
お蘭は豊助の背中をぽんと叩いた。
「ちょっ、ちょっと待ってや。あんたの店で働けゆうことか?あんたが店の主人?」
「そうや。女が主人やとなんか都合が悪いか?言うとくけど、うちの商いはあんたが居てたとことは比べ物にもならんくらいの規模の大きさや。あんたもあんな辛気臭い店で一生手代や番頭として生きるより、うちの店で大きい夢追いかけるほうがええやろ」
豊助は木蘭の言葉を聞いて、胸を射抜かれた気分になった。
呉服問屋の旦那さんと女将さんは、豊助のことを奉公人としては過分なほど大事にしてくれた。だから豊助は二人に対して大きな恩を感じていたし、二人のために自分の持てる力を捧げて店のために尽くしたいと思っていた。だけど同時に、自分の運命はもうすでに全て決まってしまっているのだという閉塞感も感じてもいた。
この時代、丁稚奉公に出された男子は出世したとしてもせいぜい番頭までだ。それより上を望むなら、もっと大きな店の番頭になるか、暖簾分けしてもらって自分の店を持つかしかない。ただ、豊助が働く店は後継ぎがあの若旦那だ。店を切り盛りしていくには全く仕事のできない若旦那に代わって仕事をこなせる手代や番頭が必要だ。だから旦那さんや若旦那が豊助を手放すはずはなかった。
このお蘭という女はそんな豊助の心の内を知ってか知らずか、じっとりと心にこびりついていた閉塞感を一瞬で蹴散らした。『自分のやりたいことを自由に思いっきりやってみたい』『誰に遠慮することなく、自分の才覚をどこまで伸ばせるのか試してみたい』今まで無意識のうちに心の奥底に沈めてきた思いがとめどなく溢れてきた。
「ほんまにお蘭さんはまた突拍子もないことをしはるわあ」
従者の男がやれやれという表情でつぶやいたが、豊助にはもう何も聞こえていなかった。豊助は初めて経験するこの胸の高鳴りを一人嚙み締めていた。そして気づくと、先に勝手口から出て行ったお蘭を追いかけていた。お蘭に追いつくやいなや、ひょいとお蘭を持ち上げた。後ろで従者が何か叫んでいる。
「俺がいたら今までやってたことが何倍も早よ進んでいくで!手始めにここに来た倍の速さで、あんたの店まで連れて帰ったるわ」
お蘭は豊助の言葉を聞いて、
「やっぱり私の目に狂いはなかったな」
といって楽しそうに笑った。
荷の運び先は大きな武家屋敷で、実際にはこの屋敷から反物の注文は受けていないが、当日約束の時刻に内情をしっている受取人が指定された場所で待っているという段取りになっていた。豊助は鶴次郎から預かったその木箱を偽の商品に紛れさせて、屋敷の受取人に渡しさえすればいい。
「ちょっと行って、これ渡したらしまいや」
豊助は自分に言い聞かせるように呟いた。いつも軽々と運んでいる反物が今日はいやに重く感じる。
「今から外回りか、豊助。なんや天気あやしいさかい気をつけてな。帰ってきたら茶でも淹れて休憩としよや」
銀次郎が声をかけてきた。豊助は銀次郎の声を聞いて少し緊張が和らいだ。銀次郎は昔から豊助のことを息子のように思ってくれている。
「ありがとう旦那さん。はよ仕事済まして帰ってきますわ」
豊助は嫌な予感を振り払うように勢いよく店から出た。外に出ると、銀次郎の言う通り空には分厚い雲が垂れ込めていた。
先に二件仕事を済ませてから、いよいよ例の木箱の運び先である屋敷の近くまでやってきた。豊助は、全身の毛が逆立ちそうなくらい緊張していた。鶴次郎の話では、松の木が三本並んでいるのが見えたら、そこから10歩ほど歩いたところに使用人用の勝手口があり、荷の受取人はその使用人用の勝手口を入った所で待っているという。屋敷をぐるっと囲んでいる白壁をつたって歩いていくと、目印である三本松があった。そこから少し離れたところに扉が見える。豊助は足早にその勝手口に近づいて引き戸を開け中に入った。
するとそこで待っていたのは、豊助と同じ年頃の若い女だった。勝手口から飛び込んできた豊助に動じる様子もなく、見下げるように豊助をじっと見ている。凛とした顔立ちの美しい女だが、全てを見透かしているような不敵な笑みは、どんな屈強な武者より恐ろしく思えた。
「あどうも、こんにちは。今日は注文頂きました反物を届けに来まして…」
「どうもご苦労さんやったなあ。その荷、私がもらい受ける。さあ渡し」
豊助は冷汗が噴き出してきた。受取人として聞かされていたのは男のはずだ。女がいるとは聞いていない。
「いや、この反物は男の使用人はんに渡せと言われとりますのやけど…」
豊助はこの女の迫力に圧倒されていた。一体この女は何者だろう。言葉の訛りももここら辺の言葉とは少し違うようだ。それに女が着ている着物は相当値の張る代物だとみえる。豊助は子どものころからあらゆる反物、着物を見てきたので、ぱっと見ただけでその着物の値がだいたい分かるようになっていた。これほどの着物を着られるということは、位の高い武家の娘なのだろうか。傍には、ひょろっとした、従者と思しき男が一人立っている。
「ああ、その使用人はおらん。私が流した嘘やさかいなあ。可哀そうにあんたは騙されたんや。まあ遊郭に入り浸ってる阿呆やしこんな事に巻き込まれるんやで。けどあんた…思ってたほどの阿保面やないな」
「お蘭様、こいつは例の人相書きの者とは違うようです。おそらくあの問屋の息子が荷の運搬を押し付けたんとちゃいますやろか」
「そうか通りで。こんなどんくさい真似するような顔やないと思たんや」
お蘭様と呼ばれた女は愉快そうな笑みを浮かべながら、品定めをするようにじっくりと豊助を眺めた。
「あんたは何者や?あの呉服問屋の放蕩息子に荷を運んでくれと頼まれたんか?その荷はなあ、盗品なんやで。ちょっと前から、知り合いの店が何件か同じような被害に合ってたんやけど今回うちの店も被害にあってしもてな。私もこう見えて商人の端くれやし、自分とこの商品盗まれたら商売人の誇り穢されるような気分になるんや。せやから自分で盗人を捕まえてやろう思て、ここのお武家さんに協力してもろたんよ」
女は話しながら、そっと豊助が持っていた例の木箱を反物の中から抜き取った。豊助は女の話に気を取られていたからか、抵抗する暇もなく気づいたときには木箱は女の手の中だった。
「あの呉服問屋の倅がやったゆうことは目星ついてたし、現物持ってくるところを捕まえたろう思てな。ここのお武家さんには『その箱の中身をえらい熱心に探してる、いくら金を出しても欲しい』ゆう偽の噂を流してもろてん。この屋敷の主人には貸しがあるし、快く協力してくれたわ。絶対に盗人捕まえるつもりやったのに、身代わりを寄越したみたいやな」
あの馬鹿息子のことだ昔から何か良からぬことはやってはいるだろうと思ってはいたが、この女の話を聞くに、どうやら今回の主犯は鶴次郎のようだ。お武家の御仁から頼まれたというのは出まかせで、どうやってこの木箱を手に入れたのかは分からないが、この屋敷のお武家に売りつけて金を得ようと思っていたらしい。
「あんたはきっとこれが盗品やとは聞かされてへんかったんやろな。運び人として使われたゆうところか。あの放蕩息子から言われてやったんやろ?他にもあの放蕩息子はいろいろと、きな臭いことやってるんや。あいつをとっ捕まえるのに協力してくれるんやったら今回あんたがこれを運んできたことについてはこれ以上聞かん。どうや?」
女は豊助の目を覗き込んだ。豊助も目を逸らさず女の瞳を見返した。真っすぐ豊助を見つめるその眼差しから女の芯の強さが伺えた。
「それ盗んだんは俺や。若旦那は関係ない。若旦那は阿呆やしそんなん盗んで、さばけるほどの頭あらへん。俺はそんな阿呆でちゃらんぽらんな若旦那の下で働いてきてずっと我慢しとったんや。せやしそれを盗んで、若旦那に濡れ衣着せたろ思たんや」
女はびっくりした顔をした。
「なんであんた、あの放蕩息子をかばうんや。私はあんたに初めて会ったけど、あんたがなんも知らんかったことは一目見たら分かる。嫌々今回の運搬役を引き受けたこともな。やからあの放蕩息子を捕まえるのを手伝ってくれたらそれでいいんや。店に知られるんが嫌やったらあんたが協力したことは黙ってやってもいい」
豊助は目をつむった。目の裏には今まで育ててくれた旦那さんや女将さんの顔が浮かんだ。
「いや、さっきも言うたけど、若旦那には盗みなんてできる能力はない。俺が一人で全部やったことやから、若旦那にも店にも全く関係のないことや。やから何とか店の名に傷がつかんように収めてもらえんやろか。俺はなんでもするさかい」
「あんた自分の言うてること矛盾してるの分かってるか?あんな放蕩息子の罪をかぶってまで何を守りたいんや」
豊助は、このお蘭に嘘は通用しないと悟った。だから正直に話すことにした。
「店の旦那さんと女将さんには息子みたいにようしてもらった恩があるんや。やから若旦那がやったことは、俺がやったことにしてくれ。それでも店の名には傷がつくかもしれん。けどただの丁稚の俺がやったんやったら、後継ぎの若旦那がやったと知れるよりはまだ傷も浅くて済む」
豊助は息子のように大事にしてくれた二人のことを、あの店を、守りたかった。
お蘭は少し考えているようだった。身代わりとして豊助を犯人にすることで納得してくれるだろうか。
「分かった。ええやろ、あんたの案に乗ったる。けどな一つ条件がある」
「なんや。俺やったらなんでもする」
「おの呉服問屋の倅がやったことは不問にしたる。その代わり、あんたは私の店に来るんや」
豊助はお蘭の提案を聞いて、すぐに言葉がでなかった。隣で従者の男もあっけにとられた顔をしている。
「ほら、あんた。そうと決まったらさっさと行くで」
お蘭は豊助の背中をぽんと叩いた。
「ちょっ、ちょっと待ってや。あんたの店で働けゆうことか?あんたが店の主人?」
「そうや。女が主人やとなんか都合が悪いか?言うとくけど、うちの商いはあんたが居てたとことは比べ物にもならんくらいの規模の大きさや。あんたもあんな辛気臭い店で一生手代や番頭として生きるより、うちの店で大きい夢追いかけるほうがええやろ」
豊助は木蘭の言葉を聞いて、胸を射抜かれた気分になった。
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この時代、丁稚奉公に出された男子は出世したとしてもせいぜい番頭までだ。それより上を望むなら、もっと大きな店の番頭になるか、暖簾分けしてもらって自分の店を持つかしかない。ただ、豊助が働く店は後継ぎがあの若旦那だ。店を切り盛りしていくには全く仕事のできない若旦那に代わって仕事をこなせる手代や番頭が必要だ。だから旦那さんや若旦那が豊助を手放すはずはなかった。
このお蘭という女はそんな豊助の心の内を知ってか知らずか、じっとりと心にこびりついていた閉塞感を一瞬で蹴散らした。『自分のやりたいことを自由に思いっきりやってみたい』『誰に遠慮することなく、自分の才覚をどこまで伸ばせるのか試してみたい』今まで無意識のうちに心の奥底に沈めてきた思いがとめどなく溢れてきた。
「ほんまにお蘭さんはまた突拍子もないことをしはるわあ」
従者の男がやれやれという表情でつぶやいたが、豊助にはもう何も聞こえていなかった。豊助は初めて経験するこの胸の高鳴りを一人嚙み締めていた。そして気づくと、先に勝手口から出て行ったお蘭を追いかけていた。お蘭に追いつくやいなや、ひょいとお蘭を持ち上げた。後ろで従者が何か叫んでいる。
「俺がいたら今までやってたことが何倍も早よ進んでいくで!手始めにここに来た倍の速さで、あんたの店まで連れて帰ったるわ」
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